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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

水元公園に菖蒲を見に行く

2016-06-15 18:57:02 | 公園・庭園めぐり

葛飾菖蒲まつりの会場は堀切菖蒲園と水元公園という事なので、水元公園の菖蒲も見に行く事にした。水元公園でバスを下り内溜に沿って歩く。内溜はもともと小合溜とつながっていたようだが、今は土手で仕切られて、大きな釣り堀のようになっている。

水元公園に入り右へ、水元大橋を渡る。菖蒲田の向こうに屋台が並んでいるのが見えるが、そこが菖蒲まつりの会場で、ステージでは歌謡ショウやフラダンス等が行われていた。

菖蒲田の北側には小合溜の水面が広がっている。小合溜は東京都と埼玉県の境界になっていて、向こう岸は埼玉県側の、みさと公園になっている。

菖蒲田では菖蒲の花摘みが行われていた。水元公園の菖蒲は100種14,000株。堀切菖蒲園に比べると、ゆったりと植えられている感じである。

花菖蒲を見て回り、水元大橋に戻る。よく見ると、逆光の中にアオサギが居る。今回は水元公園の内のほんの一部だけを見たたけだが、次回は公園内を隈なく見て回りたい。その時は、時間をかけて、野鳥の様子も観察してみようと思っている。


堀切菖蒲園に菖蒲を見に行く

2016-06-13 19:10:32 | 公園・庭園めぐり

6月に入り、そろそろ菖蒲も見ごろという事で、久しぶりに堀切菖蒲園に行ってみた。堀切菖蒲園駅の南側の出口から、右側の川の手通りに出て南に向かう。菖蒲園へは少し分かりにくい道なのだが、案内表示があちこちに出ているので迷う事は無い。菖蒲の時期には菖蒲園に行く人も多いので、その後についていけば容易に目的地に着く。堀切菖蒲園の入口には菖蒲まつりのゲートが作られている。開催期間は6月1日から20日までという。食事処でもある静観亭を横目に、人の流れに乗って入場無料の園内へと入り込む。

まずは、園内全景を眺めるべく、四阿のある築山に上がる。一面の花菖蒲の向こうには静観亭。そのうしろには、園内を見下ろす位置にマンションが建っている。菖蒲園の東側と南側には高い建物はなさそうだが、西側には高層道路が空間を横切っている。現代の借景と思えば良いのだろうが、煩わしいので見ないことにし、園内を気の向くままに歩き回る。堀切菖蒲園はそれほど広くはないが、菖蒲を見て回るには、程よい広さである。

菖蒲園はもともと菖蒲田ではあるのだが、見物客が来るようになると、日本庭園風の趣も必要になるのだろう。園内には築山を築き、東屋と手水場を設け、垣をめぐらせ、石灯篭や庭石を置き、石橋を架け、松も植え、藤棚を造ったりしている。

現在の堀切菖蒲園には200種6000株の花菖蒲が植えられているという。園内の花菖蒲には種類を示す札が立てられているが、とても覚えきれない。堀切菖蒲園は菖蒲の他にも季節ごとの花を植えているので、他の季節も楽しめるということらしい。

帰りは、堀切菖蒲園を出て北に少し先、角を右に入る。この道は西井堀の跡で、水路跡らしい曲がりくねった道には紫陽花が植えられている。そのまま進むと道幅は広くなり右へと曲がっていく。横断歩道を渡ると菖蒲七福神の像が並んでいる場所に出る。新編武蔵風土記稿の堀切村の項にも記されている毛無池を大正時代に埋め立てた時、天祖神社の摂社として弁天社を祀ったが、平成になってから弁天社に七福神を建立したということのようである。横断歩道を進み信号を渡って先に行くと、ほどなく堀切菖蒲園駅に出る。

ここで、西井堀について少しふれておく。「葛西筋御場絵図」によると、利根川から取水している葛西用水は亀有付近で東井堀、中井堀、西井堀に分割されるが、そのうち西井堀は、西に流れたのち南に流れ、毛無池を経て堀切村を通り、古綾瀬川(現在は、荒川と並んで綾瀬川として流れている)に合流していた。なお、小合溜の水を引いた用水も東井堀、中井堀、西井堀と呼ばれているが、それとは別である。

 

堀切の菖蒲の歴史について簡単にまとめておく。江戸時代、堀切のある葛西の地は江戸近郊の農村地帯で五穀蔬菜の生産地であったが、「江戸名所図会」の挿絵によると草花の栽培も行われていたらしい。小高伊左衛門が記した「小高園由来」によると、草花の培養に関心のあった先祖の伊左衛門が、享和・文化の頃(1801~1817)、花菖蒲を園に植えたことが堀切村四方堀の菖蒲の始まりとしている。四方堀は後の小高園である。伊左衛門は花菖蒲愛好家の旗本・菖翁から乞い受けた品種を増やしたとされる。天保14年(1843)の「絵本江戸土産」の“堀切の里花菖蒲”には、数万株の花菖蒲の眺望が類なく遠近を厭わず人が集まるという盛況ぶりが書かれているが、あまりの過熱ぶりに、弘化3年(1846)には代官から自粛するよう申し渡されている。しかし嘉永2年(1849)の「続武江年表」には“近年花菖蒲を賞する人多く葛飾郡堀切村わけて多し”とあり、安政3年(1856)の「隅田川向嶋絵図」に、位置的には少し疑問もあるが、“堀切村百姓伊右衛門花菖蒲之名所ナリ”と記され、また、広重の「名所江戸百景」にも“堀切の花菖蒲”が取り上げられている事からすると、花菖蒲の名所としての地位は確立していたと思われる。

明治も中頃になると、堀切は都内から程よい距離の恰好な行楽地として人気になる。菖蒲園としては眺望の良い丘のある小高園と、池を囲む多くの小亭がある武蔵園が、互いに元祖と称して競いあっていた。大町桂月は「東京遊行記」(明治39年)に堀切の菖蒲を取り上げ、吾妻橋から蒸気船に乗って鐘ヶ淵まで行き、そこから2km足らずで菖蒲園に達したとし、小高園と武蔵園の両方に入ったあと、ほろ酔い機嫌で帰途についている。田山花袋は、大正12年の関東大震災の直前に出版した「東京近郊一日の行楽」の中で堀切を取り上げ、吾妻橋から汽船で鐘ヶ淵に出るルートとは別に、京成電車(現在の押上線)で行く方法や、東武線の汽車を利用する方法を記している。当時すでに荒川放水路の開削が進行中であったが、通水は行われていなかったので、今とはかなり違う風景の中を歩いていたと思われる。

明治以降、小高園や武蔵園のほかにも、堀切園、観花園、堀切茶寮、菖蒲園、四つ木園が開園するが、関東大震災後に客足が遠のいた事もあり、次々と閉園に追い込まれている。小高園は存続し、昭和8年には名勝に指定されたが、次第に維持困難となって公園化も検討されたものの、終戦を待たずに閉園になっている。唯一残ったのは堀切園で、一時は水田となったが、終戦後に再開している。しかし、経営が難しくなった事から都が買収し、昭和35年に開園。さらに、昭和50年に葛飾区に移管されて現在に至っている。

 

<参考資料>「堀切菖蒲園」「葛飾区史跡散歩」「広重の大江戸名所百景散歩」「絵本江戸土産第7編」「東京遊行記」「東京近郊一日の行楽」「葛西筋御場絵図」「今昔マップ」

 


浅草寺伝法院の庭園

2016-05-26 19:44:43 | 公園・庭園めぐり

浅草寺の本坊にあたる伝法院の庭園は江戸時代初期の庭園であり、景観が優秀で芸術的価値が高いとして国の名勝に指定されている。この庭園は、通常は非公開だが、寺宝展の開催期間中には庭園の特別拝観が出来る。それ以外の時も鎮護堂から柵越しに覗く事は出来る。

伝法院の庭園は二つの池からなり、北側の池から南西側の池に流れるようになっている。北側の池のある区画は東西に長い矩形、南西側の池のある区画は南北に長い矩形になっている。この様式は鎌倉末期から室町時代にかけての庭園様式とする説がある。

大絵馬寺宝展を観覧したあと庭園に出ると、左側に五重塔とスカイツリーが並んで見える。五重塔は本堂の東南側にあったが戦災で焼失し、西南側に位置を変えて昭和48年(1973)に再建されている。なお、スカイツリーは2012年の竣工である。 

北の池のほぼ半分を占めているのが経ケ島で、説明によると、一字一石の写経が埋められた聖域であり、浅草寺中興の忠豪上人の墓塔や板碑壁もあるという。立入は禁止されている。

北側の池には湧水が何カ所かあったそうである。現在も湧水があるかどうか分からないが、池の水位を維持できる程の湧水量は無いと思われる。伝法院の庭園は回遊式庭園であったようだが、現在の北側の池は回遊が出来ない。

北側の池から西南の池の間は渓流のようになっている。その上を渡ると、大書院前の明るい芝生に出る。芝生を下って行くと州浜があり、その先に雪見灯篭が置かれている。

右側の芝生の向こうに、筒形の塔身の上に一重の笠(屋根)を乗せた石造宝塔があり、相輪が折れたためか宝珠を乗せている。塔身には鳥居の浮き彫りがあるが、宝塔に鳥居を彫る例は他にもあるようだ。この宝塔には寛永3年の銘があるそうだが、もし墓塔だとしたら、ここに置かれた理由は何だろう。灯篭として使っていたのだろうか。

大書院の隣の新書院の前に、古墳時代の石棺という石造物が置かれていた。説明によると、明治初年に本堂裏手にあった熊谷稲荷の塚を崩した際に出土したという。浅草寺一帯は遺跡地になっており、種々の出土品もあるようなので、専門家の話を聞いてみたい気もする。

小堀遠州の孫にあたる小堀政延が延宝3年(1675)に奉納した灯篭があった。説明によると、この灯篭は初め本堂前にあり、その後は念仏堂に移り、さらに現在地に移設されたという。小堀遠州(1579-1647)は大名で伏見奉行などを務め、駿府城、二条城、大阪城、江戸城西の丸や、御所などの建築や作庭に携わった。また、遠州流の茶道の祖でもある。伝法院庭園は小堀遠州の作庭と伝えられているが、この点については、確かな記録が無い事と作風の点から否定的な説がある。

池に沿って南に行くと鎮護堂との境に出る。鎮護堂は明治時代に伝法院の守護として祀ったものだが、現在は一般に公開されるようになり柵が設けられた。境に沿って進み流れを渡る。奥の滝から池への流れのようにも見えるが、本来は池からの排水路の跡かも知れない。

沢渡りで中島に渡ると置灯篭があった。自然石の上に火袋を置き、上に八角の笠を乗せているが、わらび手を欠き、宝珠も仮のものである。年代不詳ながら園内随一の古灯篭という。中島から石橋を渡れば、岬のように池に突き出した大出島に出る。

池越しに大書院と戦後に再建された五重塔を眺める。元の五重塔は位置も少し離れており、塔高も低いので、伝法院庭園からは眺められなかったかも知れない。

小さな流れを渡り池の岸に出て、大書院とスカイツリーを眺める。大書院の前は明るい芝生地になっているが、大書院からの眺めに支障をきたすことから植木の伐採や移植を行ったという。何年か前に来た時には、確かに、木がもう少し茂っていた。

池にはカルガモが来ていた。子連れのカルガモが見られるのも間もなくだろう。ところで、後で気づいた事だが、この庭園の見所になっている枯滝の石組みは、この近くにあるらしい。今回は残念ながら見落としという結果になった。

昔は富士が見えたという望嶽台を、それと気づかずに通り過ぎる。池を見ると、黄菖蒲が今を盛りと咲いている。それにしても静かである。浅草の喧騒はどこへ行ったのだろう。

明和8年の三社船祭礼再興碑を見て先に進むと、天祐庵があった。説明によると、千利休により造られたという不審庵を摸して名古屋の茶人が建てたものを、移築したという。

天祐庵から出口へと向かう途中、囲いの中にあった灯篭のうち左側の一基が、宝篋印塔のようでもあり、そうでもないような妙な形をしている事に気が付いた。説明によると、応永32年(1425)の造立で製作者は不明、特異な形態だという。この宝塔に窓を穿って石灯籠に転用したという事らしい。

帰りがけにもう一度、北の池を見に行く。この池の護岸に寛永8年に焼失した本堂の礎石が使われていたとし、作庭の時期を寛永年間とする説がある。元禄6年(1693)の絵図に描かれている池の図と明治17年の浅草公園の五千分の一測量原図の池とが類似している事から、伝法院庭園の作庭の時期は少なくとも元禄以前と考えられる。なお、現在の北の池は、東南側が削られているので、明治17年当時の池とは形が異なっている。元禄6年の絵図には東岸から大出島に渡る橋が記され、その途中に水上舞台のようなものが記されている。文化年中(1804-1817)の園池図にも、この橋と舞台は描かれているが、現存していない。長い年月の間には、この庭園も何度か改修があったと思われる。伝法院庭園は昭和6年に東京市によって改修され後に一般公開されていた時期もあったが、その後は非公開となり、現在は期日をきめての公開になっている。

 

<参考資料>「探訪日本の庭・関東東北」「浅草寺史談抄」「国指定文化財等データベース・伝法院庭園・詳細解説」

 

 


池上本門寺・松濤園

2016-05-17 19:44:43 | 公園・庭園めぐり

池上本門寺の旧本坊奥庭であった松濤園が、今年は5月の連休中に特別公開されていたので行ってみた。今回は解説も聞かずに急ぎ足で回ったこともあり、分からない点も幾つかあったのだが、それはまたの機会にという事にして、忘れないうちに投稿する事にした。

松濤園の入口となる朗峰会館の最寄り駅は池上駅か西馬込駅だが、今回は西馬込駅から朗峰会館に行き、帰りは池上駅に出た。ただ、西馬込駅からのルートは、少し分かりにくく、上り下りもあるので、池上駅から行った方が良さそうである。池上駅からの場合、商店街を抜けて呑川を渡り、総門を入って此経難持坂の石段を上がり、仁王門をくぐって大堂に出る。大堂に向かって右へ行き、五重塔の前に出て北に下ると紅葉坂の先に朗峰会館への入口がある。なお、池上会館の屋上から五重塔に出る方法もある。

朗峰会館の建物に入って、受付で庭園の案内図を受け取る。庭に出ると、そこは、池を見下ろす展望台のようになっている。池は南と西と北の三方を台地に囲まれた谷底にある。この谷は東側の本門寺公園弁天池の上流部に当たるが、庭園の東側に土手を設け湧水を溜めて池にしたように見える。明治36年の「日蓮宗各本山名所図会」に、貫主の居間から蓮池が眺められて季節を問わず飽きないとあり、庭園の名はまだ無いと書かれているが、この庭園が松濤園の前身となる本門寺の奥庭という事になるだろうか。現在の松濤園は平成3年に改修されているので、元の奥庭とは違いがあるかも知れない。

松濤園は池泉回遊式庭園ということだが、高低差を利用して庭が作られており、樹木も茂っていて見通しがきかないので、園内を歩き回らないと庭園の全体像を知る事が出来ない。足元に注意しながら池に下り、雪見灯篭のある州浜から池を眺める。向こう側に、つるべ井戸のようなものがあり、水が勢いよく池に流れ込んでいる。この池も昔は湧水を溜めていたのだろうが、都内の湧水の多くが枯渇しているか水量が激減している状況からすると、この池も地下水を汲み上げて池の水位を維持しているのではないかと思われる。池の中に釣瓶井戸の形を設けたのは、茶室のある庭園ゆえの趣向だろうか。この井戸は織部井戸と呼ばれているそうだが、その名の由来を知りたい気もする。

池の中には亀島という島がある。亀と言えば鶴。亀島と向き合っている石がそうなのだろうか。鶴石と言わればそうかと思い、舟石と言わればそうかとも思う程度の知識しか無いので、この奇妙な形の石の正体は、残念ながら分からない。

池から離れて先に進み、小高い場所にある松月亭に行く。年代は分からないが、戦後に建てられたものらしい。近くに石を敷き詰めた流れのようなものがあるが、水は流れていない。

谷に下りて、沢渡りを渡る。今は水が流れていないが、もともとは流れていたのだろう。周辺は木が茂っているので、この渓流を眺めるには園内を歩いて見るしかない。

沢渡りの上流にある松濤之滝を見に行く。今は枯れてしまったが、本来は湧水による滝があったのではないかと思う。昔は池を満たすだけの湧水量があったのかも知れない。

平成4年に完成した浄庵を見に行く。入口には、奇妙な燈籠がある。手を洗う仕掛けにも見えるが、何なのだろう。今回は触らぬことにし、ついでに茶室に入るのも割愛して次に行く。

浄庵の近くに西郷隆盛と勝海舟の会見地を表す石碑が置かれている。海舟日記によると、慶応4年3月13日と14日に勝は西郷と会見しているが、その場所は記されていない。後に勝は田町の薩摩屋敷で会ったと語っており(氷川清話)、西郷から勝に宛てた書簡にも田町とあり、この事の裏付けになっている。この会談を受けて西郷は江戸総攻撃を中止し、京都に向かっている。4月1日からは征東先鋒の旅館に本門寺が充てられている事から(池上長栄山本門寺誌)、この頃には西郷も本門寺に来ていたと思われる。海舟日記によると、4月4日には勅使2名と西郷を含む参謀5名は江戸城に入っているが、なお評議する事項があったのか、4月9日と10日に勝は若年寄の大久保一翁とともに池上に来ており、参謀の海江田、木梨と談判している。しかし西郷については記載が無い。この時の談判の模様については「解難録」にも記載されているが西郷の名は出てこない。なお、翌11日に江戸城及び武器の引き渡しが行われ西郷も式に出席したが、勝は出ていない。

浄庵を下から眺める。大きな石が石垣のように組まれていて、上に位置する茶室を格式高く見せている。この石組みは、改修以前からあったのだろうか。

松濤之滝の下流には、擬宝珠のある反り橋が架かっている。この日は、橋の下に水が無かったが、池の水位が高ければ橋の下にも水があるのかも知れない。

松濤園の根庵と鈍庵は、陶芸家で茶人でもあった大野鈍阿の住まいと茶室を平成になって移設したものという。今回は時間の都合で入るのは取りやめ。法話を聞いてから外に出て、大堂にお参りしたあと、池上駅に向かう。この日、途中の呑川には鯉のぼりが泳いでいた。

松濤園には小堀遠州の作庭という伝承があるので、少し調べてみた。小堀遠州(政一。1579~1647)は、備中松山藩主のちに近江小室藩主で、河内、近江、伏見の奉行をつとめる。官位が遠江守であったため遠州と称した。茶道は古田織部に師事し、遠州流の茶道の祖となる。作事(建築など)や作庭の才能もあり、駿府城、名古屋城天守、二条城、大阪城、御所などの作事奉行を務める。江戸では、将軍の意向もあって、江戸城西の丸、品川御殿、東海寺の作事を小堀遠州が務めている。遠州の作庭と伝わる庭園は少なくないが、遠州の作と確認されているのは、その一部であるらしい。遠州は公儀またはそれに準ずる作事を行っており、また多忙でもあったので、個々の依頼に対応する事は難しかったと思われる。たとえば、桂離宮は遠州の作庭と伝えられているが、直接携わった可能性は低いと考えられている。遠州が作った庭には、切石や花壇や芝生を利用した整形的庭園や、借景を利用した自然風景庭園、亀島や鶴島のある御成の庭園があり、また露地に廃物の石造物を設けた庭があったという。現在の庭園の姿だけから遠州の作庭かどうか判断するのは難しそうである。

 

<参考資料>「池上本門寺名園松濤園案内之図」「東京人2007.6」「海舟日記(3)(勝海舟関係資料)」「氷川清話」「人物叢書・小堀遠州」「日蓮宗各本山名所図会」「池上長栄山本門寺誌」


昭和記念公園

2016-05-06 15:58:08 | 公園・庭園めぐり

みどりの日は昭和の日と関わりがある。それならいっそ、予定を変えて昭和記念公園に行こう。まだ、フラワーフェスティバルをやっている筈だ。花なら何かしら咲いているだろう。

青梅特快を西立川駅でおりると、公園は目の前にある。天気晴朗にして、丹沢から秩父に続く山並みが見えているが、富士の姿は確認できない。西立川口から園内に、左へ進む。今の時期、混雑すると思っていたが、今日はそれほどでもない。

橋を渡ると右側の丘の上に花の群落が見えてくる。説明によると橙色はカリフォルニアポピー、そして青色のネモフィラと赤紫のリナリアが混じり合って咲いている。

渓流広場に行く。色彩を競っている筈のチューリップはほぼ終り。みんなの原っぱに行ってみるが西側の花壇には花がちらほら。辺り一面、緑が溢れているだけ。

こどもの森へ行く。ガウディ風の広場を抜け、地底の泉に沿って半周する。この泉、明らかに、まいまいず井戸の再現だが規模は大きい。古代の人々は、地下水位の上下に伴い変化する池泉に、地の神の姿を見ていたかも知れない。

森の家を通り過ぎ、太陽のピラミッドに登る。眺めは期待していた程ではないが、星のピラミッドの並びが気になる。惑星直列の表現だとしたら、何か異常な事が起きるのでは。

日本庭園に行く。南の門から入り西の流れを渡る。質素に見えて手の込んだ造りの清池軒が、池に面して建てられている。周囲はみどり、夏立つ日の風情である。

池に沿って歩く。池の維持管理に必要なのだろう、舟着場には舟が一そう繋がれている。舟遊びに使われる舟のようにも見えて、この庭園にとって何の違和感も無い。

舟着場の近くに昌陽という名の四阿があった。橋を渡る人と池の様子を眺めながら小半時を過ごしたい気もするが、先の予定もあることゆえ諦めて先に行く。

何れがアヤメ、カキツバタというが、池の東側の水際に、いま咲いているのはカキツバタという事にして、東の門から外に出る。

こもれびの里に行く。田植えはまだ先の事だが、麦の収穫はもうそろそろだろうか。この公園の中に武蔵野の農村をそのまま再現出来たのは、ボランティアの力が大きかったようだ。

原っぱに沿って南に行き、橋を渡ると水鳥の池が見えて来る。今は水鳥の代わりにボートが池を埋めている。水鳥の池も周辺の森も空も、今日は初夏そのものになっている。

ふれあい橋を渡り、カナール(水路)の大噴水を回り込む。みどり橋から昭和記念公園の背景をなす山並みをしばし眺めてから、帰途に就く。季節が変わったら、また来よう。 


新宿御苑に桜を見に行く

2016-04-19 19:14:14 | 公園・庭園めぐり

新宿御苑の桜を見に行くことにした。調べてみると、御苑には約65種1300本以上の桜があるという。花の時期も早春から晩春にわたり様々で、秋に咲く桜もあるらしい。そこで、とりあえず、3月下旬から4月中旬の間に咲いている桜を対象に急ぎ足で見て回ったが、見逃した桜も少なからずあったと思われる。なお、桜の品種の識別は素人には難しいので、樹木に付けられている品種の表示を頼りにした。

 

(1)早春の桜

3月下旬。早咲きの修善寺寒桜はあらかた散ってしまい、秋から咲き続けていた子福桜はあと数輪を残すのみとなる。今は、その後を継ぐ桜が、盛りを迎えようとしている。

サービスセンターの近くに桜のルーツであるヒマラヤの名を冠したヒマラヤヒザクラという桜があった。濃紅色の釣鐘状の花が咲く高木で、中国南部からネパールにかけて分布する。ヒマラヤザクラという桜とは別の品種で、日本では珍しい品種という。

高遠小彼岸(タカトオコヒガン)という桜は、高遠城址の桜で長野県の天然記念物になっているが、新宿御苑が高遠藩内藤家の下屋敷跡に当たる縁から、御苑の玉藻池に植えられたという。

御苑南側の芝生広場に小彼岸(コヒガン)という桜があった。もともと、彼岸桜というのは、この小彼岸(コヒガン)の事を言っていたらしい。小彼岸という呼称ではあるが、今は高木である。

紅色の大輪一重の花を咲かせている陽光(ヨウコウ)という桜は、御苑の各所にある。この桜の盛りは3月の中頃からで、やや遅れて満開となる大島桜の白との対比が鮮やかである。

東海桜(トウカイザクラ)という小さな桜の樹があった。この桜は挿し木による栽培が容易らしく、関西を中心に広まっているという。この桜には啓翁桜、岳南桜という別名もあるらしい。

横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)という小さな桜の樹もあった。この桜は陽光より遅く咲き始めるが、大輪一重の花で、その紅色は陽光より濃い。

桜園地に大寒桜(オオカンザクラ)という桜がある。寒桜より大木で、花は寒桜と同じ淡紅色中輪一重だが、寒桜より遅れて咲く。安行から広まったため安行寒桜ともいうらしい。

 

(2)盛春の桜

染井吉野が咲き始めると新宿御苑にも花見に訪れる人が増えるようになる。新宿御苑内への酒類の持ち込みは従来から禁止だったのだが、守らない人がいるせいか、手荷物検査のための行列まで出来ている。

花見と言えば何といっても染井吉野(ソメイヨシノ)。新宿御苑にも染井吉野が400本ほどあるという。ただ、桜園地にある染井吉野は他とは少し違っていて、花見の雰囲気はあまり無い。

染井吉野の母体となった大島桜(オオシマザクラ)だが、染井吉野より少し早く咲き、花も白色大輪一重で違いはある。分布地は伊豆。写真は丸花壇近くにあった枝ぶりの面白い大島桜。

この時期の下の池は、枝垂桜(シダレザクラ)を撮る人で混雑している。この品種の桜は古くからあり、風に揺れる風情が美しいが、上手に撮るのは難しそうな気もする。

八重紅枝垂(ヤエベニシダレ)は江戸時代中期からあった品種で、花は紅色小輪八重。枝垂桜より遅れて咲く。この桜は御苑内の各所にあるが、選ぶとすれば茶室・楽羽亭の桜樹だろうか。

山桜(ヤマザクラ)は野生の桜で、染井吉野が普及する以前は花見の主役だったという。花は白色中輪一重、花と葉が同時に開く。山桜は御苑内各所にあるが、写真は中の池の山桜である。

一葉(イチヨウ)は江戸末期から関東中心に広まった品種で、花は淡紅色大輪一重である。呼称は葉のような形の雌しべからという。御苑には150本もあり、中には大木もある。

日本では絶滅したと思われていた桜をイギリスから逆輸入した時に、太白(タイハク)の名が付けられたという。花は白色大輪一重である。

明治時代、荒川堤の改修に際して多くの品種の桜が植えられたが、白妙(シロタエ)もその一つであったらしい。花は純白大輪八重である。

白雪(シラユキ)は荒川堤にあった品種で、関東中心に広まった栽培種という。花は白色大輪一重。翁や狩衣と呼ばれる桜も同じ品種のようだ。

アメリカに送った染井吉野の種から生まれ、ポトマック川沿いに植えられている曙という桜が日本に里帰りし、アメリカという呼称となる。

桜園地に松前早咲(マツマエハヤザキ)という表記の桜があるが、実は紅豊(ベニユタカ)という名の桜らしい。松前早咲と別の桜を交配して作られた比較的新しい品種という。

嵐山(アラシヤマ)は明治時代の荒川堤に植えられていた品種の一つで、花の名所の京都嵐山の名を付けたもの。花は淡紅色大輪一重である。

 

(3)晩春の桜

染井吉野は散ってしまったが、新宿御苑にはまだ見ごろを迎える桜が少なくない。むしろ、これからが、御苑の桜を見る適期かも知れない。

関山(カンザン)は明治時代の荒川堤にあった品種で、花は紅色八重で見栄え良く、寒さや病害虫に強いので、今では八重桜の代表格のようになっており、御苑内にも100本以上ある。写真は新宿門を入ってすぐのところの関山である。

普賢象(フゲンゾウ)の名は淡紅色大輪八重の花を普賢菩薩が乗る象に見立てた事から。京都千本閻魔堂の桜として室町時代から知られるが、現在の品種は江戸時代からのものらしい。

福禄寿(フクロクジュ)は明治時代の荒川堤から関東に広まった品種で、花は淡紅紫色大輪八重である。イギリス式庭園の脇にある福禄寿は形が良く、晩春では一番目立つ桜と言える。

鬱金(ウコン)は江戸時代中期に京都で栽培されていた品種で、その名は香辛料のウコンに由来する。花は黄色大輪の八重だが、散り際には赤みを帯びるようになる。

御衣黄(ギョイコウ)は江戸時代中期に京都で栽培されていた品種で、花は緑黄色中輪の八重だが、鬱金と同様に色が変わり赤みを帯びる。

駿河台匂(スルガダイニオイ)は明治時代の荒川堤に植えられていた品種で、呼称は駿河台の屋敷にあった事に由来する。花は白色中輪一重で、芳香があるというが、匂いには気づかなかった。

妹背(イモセ)は、京都平野神社に原木があり、花は淡紅色大輪八重である。二つの実が並んで付く事から名が付いたという。

霞桜(カスミザクラ)は山間地に多い野生の桜で、高木である。花は白色か淡紅色で中輪一重、遠くから見ると霞のように見えるのが名の由来という。

琴平(コトヒラ)は、四国の金刀比羅宮の参道に原木があり、京都の造園家により広められたという。花は白色中輪八重である。

大枝が横に広がって白色中輪八重の花が枝に群がる。京都の市原にあった桜で、枝全体が虎の尾に見えることが名の由来である。

 

参考資料:「新宿御苑のみどころ・春(パンフレット)」「新宿御苑の桜」

 

 


戸山公園に桜を見に行く

2016-04-07 22:10:29 | 公園・庭園めぐり

戸山公園は、大久保地区と箱根山地区に分かれているが、そのうちの大久保地区は、江戸時代には鉄砲玉薬同心の給地になっていた。明治に入ると一帯は陸軍用地となり、北側に射撃場が設けられ、その南側には競馬場が設けられる。射撃場の西側には弾丸除けの土塁が築かれたが、この土塁は戦後も残っていて電車の中からも良く見えた。三角山と呼ばれたその土塁は、線路沿いに社宅が建てられた時期に崩されたのか、今はスケッチ(「戸山が原・今はむかし・・」)にその姿を留めるだけになっている。その社宅も今は無く、その跡地は大久保三丁目西地区開発計画による新宿スカイフォレストに取って代わられている。

高田馬場口から戸山公園の大久保地区に入ると、左手の芝生広場が花見の場所になっている。その南側の建物はスポーツセンターで、この建物の東端を南から北に流れていた筈の秣川の跡を探しに行くが、川の跡は見当たらない。

やくどう広場に沿って南に進む。その先の右側に子供の広場がある。小さな丘や橋も造られていて子供の遊び場のようになっているが、ここは花見の場所でもある。明治12年、国賓として来日した前アメリカ大統領のグラント将軍は明治天皇とともに、この地に造られた競馬場で競馬を観戦している。その後、競馬場は取り壊され、昭和の初めにはコンクリート製の射撃場が造られるが、今は跡形も無くなっている。

いこいの広場に出て左へサービスセンターの横を通り、道を渡って東に向かって進む。明治通りを渡って下っていくと、戸山公園の箱根山西口に出る。戸山公園箱根山地区は尾張徳川家の下屋敷の跡である。戸山荘と呼ばれた屋敷は13万坪余の広さがあったが、明治になると陸軍用地となり、戦後は戸山ハイツが建てられて様変わりし、今も、往時の姿を伝えているのは箱根山だけになっている。

ともかく、箱根山に上がる。今の時期、山頂付近は桜に覆われている。箱根山は明治以降の呼称で、江戸時代には玉円峰などと呼ばれていた。標高は44.6m。山手線内では最高峰となっている。登り口は幾つかあるが、東側には箱根山の碑のほか、寛政年間の庭園図が描かれた戸山尾州邸園池全図や説明版が置かれている。

上の写真は「戸山尾州邸園池全図」で、「戸山御屋敷絵図」をもとにしていると思われる。上の写真の図では左側が北に当たる。玉円峰は図の中ほどにあり、その左側には大きな池(泉水)が描かれている。図の右側(南)から池に流れ込む水路に濯纓川と書かれているが、今の歌舞伎町付近に発し、太宗寺付近の流れを入れて北に流れていた蟹川(金川)である。この川は池に水を供給するとともに、池の東に沿って流れる水路となっていた。

箱根山の頂上からは木の間越しに新宿から池袋にかけて眺める事が出来るが、期待したほどの展望ではない。箱根山の南側にあるのは戸山教会で、進駐軍の命により陸軍戸山学校の将校集会所の跡に建てられたという。

箱根山頂上に花見の場所を確保する事は禁止されているが、麓では問題がなく、既に何組かが花見を始めている。箱根山地区では、このほか、花の広場の付近や、せせらぎの辺りが花見の場所になっているようである。なお、箱根山に登った事を戸山公園大久保地区にあるサービスセンターに自己申告すると登山証明書を発行してくれ、「尾張戸山荘今昔めぐり」というリーフッレトも貰えるが、以前貰った事があるので今回はパスし、箱根山地区をあちこち散策してから帰途に就く。

 

付記・尾張徳川家下屋敷戸山荘について

「尾張戸山荘今昔めぐり」というリーフレットには、寛政の頃の「戸山御庭之図」をもとにした図や「尾州外山御屋敷御庭之絵図」が載っているので、戸山荘の頃を想像しながら戸山公園を散策するのには結構役に立つ。戸山荘の敷地は、南は大久保通り、北は諏訪通り、西は明治通り近くまで広がっており、東は少々分かりにくいが、箱根山通りの東側も含まれている。箱根山から見て西から北にかけての低地は御泉水と呼ばれる広い池で、池の中ほど、箱根山から見て北側に琥珀橋(中橋)が架かっていた。また、北東側には池の水と濯纓川の水路の水を合わせて落とす龍門の滝(滝の跡が早稲田大学構内で発見されている)があり、箱根山から見て西側の低地には宿場を写した御町屋があった。「戸山御屋敷絵図」によると、玉円峰(箱根山)の南東側に御殿があり、表御門は現在の大久保通りに面していた。この御殿の西側には廊下でつながる余慶堂という書院があった。また、箱根山からみて南西側には称徳場と呼ぶ馬場があった。

 

尾張徳川家の下屋敷(戸山荘)は、寛文8年(1668)に屋敷地を得た事に始まる。屋敷地は延宝年間(1673~1681)にかけて次第に拡張され13万坪を越えるに至る。表御殿と内庭は寛文9年(1669)に造られているが、庭園全体の造成は寛文11年(1671)以降、池が掘られ麿呂カ嶽(玉円峰)が築かれてからとみられる。寛文12年には既に御町屋が建てられているが、その後も、寺社や茶屋、数寄屋や在郷家などが建てられ、元禄時代には五重塔も建てられている。これらの建物は火災や風害による被害もあり、元禄時代の大地震などの影響もあって、一時は荒廃したこともあったという。庭園はその後も変遷があったようで、宝暦の頃の「宝暦比戸山御屋敷絵図」では池が二つあるのに対し、寛政の頃の「戸山御庭之図」では池は一つだけになっている。

 

第11代将軍の家斉が寛政5年3月に戸山荘に来訪した時、随行した旗本の佐野義行の記録により、当時の戸山荘観覧の様子を見てみよう。一行は非公式の訪問で、現在の諏訪通り側にあった神明車力門から入っている。入ってすぐ、川越街道と鎌倉街道の古道分岐があり、さらに進むと、六社、釈迦堂、稲荷があり、その先の山里の数奇屋に出る。吟涼橋を渡ると行者堂があり、源義経に従って衣川で果てた鈴木三郎重家の笈と法螺貝(徳川美術館所蔵)が置かれていたという。王子権現、廬山寺、文殊堂を経て竜門の滝の下を渡り、久米の宮を経て臨遥亭に至って遥かに目白の台を望み、それから、修仙堂に奥深き谷をたずね、錦明山に登り、天満宮、水神宮、元在郷家(田舎家)を過ぎて両臨堂に至る。地蔵堂、窯跡を経て坂下門から黒木茶屋と桜茶屋が並ぶ道を通り、古社の和田戸明神と神主の家、茶屋を過ぎて坂を上がり、玉園峰(箱根山)によじ登る(寛政の頃は老樹が聳えて眺めは良くなかったらしい)。それから、毬の庭跡を過ぎ石壇の門を入って余慶堂に至る。ここは、松の枝を切って富士山が見えるようにしていたが、この日は見えなかったという。余慶堂の前には尾張の海から引き上げられた鐘(実は弥生末期の大型の銅鐸。九州国立博物館所蔵の銅鐸か?)が架かっていた。ここから、彩雲塘、弁天島を経て田のあぜ道を進み、称徳場という馬場に出る。川を渡り門屋を経て、あぜ道を進み、山を上がって招隠堂に至る。さらに御町屋の通りを抜け、宿場入口の制札の文言に興味をいだいて書き写す。臥龍渓を渡り、三岳権現、薬師堂、養老泉、鶴亀島、四阿、琥珀橋、阿弥陀堂を経て望野亭に上がり、拾翠台にて高田馬場や諏訪明神を望み、大原に出て番神堂、五重塔、稲荷、世外寺跡に至り、釈迦堂、鐘楼、八幡社、虚空蔵、観音堂を見て、大久保通り側にあった西南車門から帰途についている。

 

将軍を迎えるにあたって、尾張徳川家では名古屋からも数々の美術工芸品を運び込んだと思われる。また、戸山荘内の寺社や茶屋、田舎家は念入りに飾り付けを行い、飲食など接待の準備を整え、町屋には応接のために人を配し、また作業の様子を見せるため刀工を呼び寄せたりしたようである。戸山荘には現実の宿場などが写されているが、実際にはあり得ない文言を書いた制札からしても、そこには現実からの遊離がある。戸山荘は庭園の域を越えて、今でいうテーマパークのようなものであったのだろう。

 

<参考資料>

「尾張藩江戸下屋敷の謎」「東京市史稿遊園編2」「別冊太陽・大名庭園」「大名庭園・江戸のワンダーランド」「東京の公園と原地形」「尾張戸山荘今昔めぐり」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合」「歴史よもやま話(新宿法人会)」「尾張家外山御庭絵巻物」 

 


甘泉園公園

2016-03-30 19:24:46 | 公園・庭園めぐり

甘泉園公園は、回遊式の日本庭園と庭球場及び児童コーナーからなる新宿区立の公園で、日本の歴史公園100選にも選ばれている。宝永7年(1710)、下戸塚村の田畑の内7千坪が尾張徳川家に与えられ、後に大草内記の屋敷となり、安永3年(1774)には清水家の下屋敷となる。その後、清水家では北側の土地を抱屋敷として取得し、神田川近くまで屋敷地とする。幕末には田安家の屋敷となるが、明治になってから清水家の本邸となる。明治34年、彦根藩士の出で後に専修大学初代学長となる相馬永胤がこの屋敷を買い上げるが、昭和12年には早稲田大学に譲渡する。昭和36年、早稲田大学の敷地内にあった高田富士と水稲荷が移設され、庭園部分は東京都に譲渡されて改修が行われた後、区立公園となる。

現在の池は上下二段になっており、高低差を利用した滝があって、その下を飛び石で歩けるようになっている。明治19年の地図では池は一つだけで、島も見当たらないが、相馬邸になってからは9年かけて邸宅を建て造園を行ったとされ、明治44年の地図では、池は三カ所になり中島も造られている。現在の庭園に近い形になっていたと思われる。

 

日本庭園の冬の風物詩といえば雪吊りだが、甘泉園公園では区職員の手作りで雪吊りが行われているという。上の池には州浜の先に岬灯篭として小型の置灯篭が据えられている。下の池からは岬灯篭が目線の高さになるので、灯をともして見てみたい気もする。

 

飛び石で滝からの流れを渡り、それから滝を眺める。滝の落ちる姿は流量により多少変わる事があるらしく、前に来た時は4筋に分かれて落ちていた。甘泉というからには湧水があった筈だが、今は汲み上げか水道水だろうか。湧水が豊富だった頃は滝の形も異なっていたと思われる。湧水の場所にあった甘泉銘並序の碑は、今は水稲荷の社務所近くに置かれているが、文化8年(1811)という事なので清水家下屋敷時代のものである。

 

移設された高田富士は期間を限って公開されるが、甘泉園公園からも見る事は出来る。公園を出て水稲荷の敷地に出ると、左側に堀部安兵衛の碑がある。碑の前の東西の道は流鏑馬が行われていた場所だが、今は戸山公園に場所を変えて行われている。

 

右へ進み水稲荷の社殿に行く。その途中に清水家の茶室であった聴松亭がある。聴松亭は戦前に取り壊されたという話もあるので、建物は再建されたものかも知れない。水稲荷の裏手に祀られている三島神社は清水家の守護神という事だが、源頼朝が勧請したという言い伝えがある古い社で、清水家の屋敷の西側にあった三島山に祠があったという。

 

流鏑馬が行われていた道の西側の端を左に行き、その先を右にすぐ左に進む。突き当りの道は江戸時代に茶屋が並んでいた茶屋町通りで、南側は高田馬場の跡地である。ここを右に行き、突き当りの一つ手前の角を右に入る。ここからは旧鎌倉街道中道の東回りルートという説がある道をたどる。近くの早稲田大学の敷地内で中世の豪族の城館が発掘されているので、この辺りは交通の要衝であったと考えられている。道は次第に下りとなり亮朝院の前に出る。七面大明神堂の入口はその先にある。先に進むと都電が走る新目白通りに出る。この通りを渡って神田川を面影橋で渡る。先に進むと宿坂となるが、坂の上から先の鎌倉街道の道は定かではなくなる。

 

現在はオリジン電気の移転に伴う工事のため少々見えにくくなっているが、面影橋を渡ってすぐの豊島区側に山吹の里の碑が置かれている。山吹の里については別稿で取り上げる。

 

<参考資料>

「江戸東京の庭園散歩」「地図で見る新宿区の移り変わり・戸塚落合」「下戸塚」「東京名所図会・西郊之部」「旧鎌倉街道探索の旅・中道編」「歴史よもやま話(新宿法人会)」「街歩き庭めぐり(草樹舎)」

 

 


赤塚の公園を歩く

2016-03-06 15:44:51 | 公園・庭園めぐり

地下鉄赤塚駅の1番出口を出て直ぐ左側の、地元で鎌倉古道と呼んでいる道をたどる。旧鎌倉街道は一般に上道、中道、下道に分けられるが、その支道という扱いになるだろうか。踏切を渡ると道は右へと曲がっていき、赤塚中央通りに出る。ここを左に行き、その先の角を左に入る。道は右に曲がっていき、福祉園の辺りからは下り坂となるが、ふれあい公園の先で突き当りとなり、古道は途切れてしまう。ここを右に次の角を左に行くと、暗渠になった前谷津川の上の遊歩道に出る。ここを横切って進み、突き当りを左に行けば古道の続きに出られるが、その前に右へ折れて大堂を見に行く。

大堂は兵火にかかって衰退してしまったが、梵鐘の銘に歴応3年(1340)とあるように古い寺であり、南北朝の頃には七堂伽藍を備える大寺であったと伝えられる。遊歴雑記には下練馬村街道から北に真っすぐ10町余、西角の小高い処に大堂があると書かれているが、江戸名所図会の挿絵に描かれている、大堂の東側を回り込んで松月院の門前に出る道を通ったと思われる。現在の道で言えば赤塚中央通りを通ったという事になるだろか。

大堂の前の道を戻り、泉福寺の先を右に折れて坂を上がる。ここからが古道の続きとなる。松月院通りを渡って先に進むと、庚申のお堂のある三叉路に出るが、昔の松月院の境内はこの辺りまであったらしい。今は道も変わってしまったが、そのまま進めば東京大仏通りに出る。左側すぐの東京大仏前の信号を右に入るのが古道のルートで、諏訪神社の西側を北に進み崖線を下って早瀬の渡しに出ていたと言うが、今は道をたどるのが難しくなっている。

 

古道とはここで別れ、坂を下っていくと左側に乗蓮寺の入口が見えて来る。そのまま坂を下って、不動の滝を右に見て進めば赤塚溜池に出られるが、ここでは左の道に入り、乗蓮寺は後で入る事にして先に区立赤塚植物園に行く。梅に誘われるように先に進み、日本庭園の見本園に入って、中を見て回る。

 

植物園内を散策するが、春まだ浅いせいか、咲いている花は少ない。芝生広場に上がって小休止し、それから、道一つ隔てた万葉薬用園の中を一巡りしたあと、正面入口に戻る。植物園を出たあと、乗蓮寺の塀に沿って坂を上がる。

坂の上に乗蓮寺の入口があり、東京大仏が姿を現す。もともと、乗蓮寺は板橋宿にあって鷹狩の際の御膳所(休息所)でもあったが、昭和52年にはこの地に移り東京大仏を建立している。中に入り、大仏と本堂に頭を下げ、それから暫し寺の池を眺める。乗蓮寺の場所は赤塚城の二の丸(あるいは出丸)跡とも言われているが、それらしい遺構は見当たらない。

 

乗蓮寺を出て塀に沿って寺の裏手に回ると、右側に公園のような区画があるが、ここは都立赤塚公園城址地区の一部になっている。ここから左に坂を下り、右に折り返すように下っていくと、坂の途中に左前方に上がる坂がある。この坂を上がって行くと梅林に出る。この梅林の場所に赤塚城の二の郭があったという説もある。

梅林を抜けると広場に出るが、ここが千葉自胤の居城であった赤塚城の本丸跡と言われている。赤塚城は谷が深く切り込んで三方が崖のようになっており、北方は徳丸が原の湿地帯で、守るには向いていた城と思われる。江戸名所図会には空堀の跡がそのままに残り、迂城(出丸)や内城(本丸)と思われる場所には濠の形があり水を湛えているとあるが、現在は空堀の跡らしき場所があるだけである。

 

赤塚城址の広場を下りると溜池があり、その傍らに区立郷土資料館がある。入場無料という事なので展示を見て回る。屋外展示に行くと左側に納屋があり、正面の民家では雛人形を展示していた。

 

釣り人の居る溜池の周囲を歩く。その南側は梅林になっていて、梅まつりが開催される予定になっている。水の無いトンボ池を横目に先に行くと区立美術館がある。溜池とその周り、区立郷土資料館や区立美術館を含むエリアは板橋区の赤塚溜池公園になっているが、都立赤塚公園の城址地区とは一体の公園のように見える。

 

区立美術館の横を通って南に向かい、美術館入口の交差点で左に折れて坂を上がる。新大宮バイパスの上を渡って竹の子公園に向かうが、鎌倉古道はこの辺りを南北に通っていたと思われる。竹の子公園の隣は諏訪神社で、ここから先は下り坂となる。坂の下、左側の崖線下の公園は、都立赤塚公園の大門地区になっている。高島大門の交差点を渡って北に進めば新高島平駅に出るが、今回は東側の赤塚公園沖山地区を歩く。

 

赤塚公園沖山地区は緑が多い散歩道ではあるが、車の騒音だけは煩わしい。次の信号から先、赤塚公園は番場地区、徳丸が丘緑地地区と続くが、またの機会にという事にして左に折れ、赤塚公園の中央地区に沿って歩く。この地区にはスポーツ施設やバーベキュー広場があり、赤塚公園では中心的な区画になっている。北に進み高島平緑地公園を左に少し歩いて歩道橋を渡れば、新高島平駅である。

 

<参考資料>「いたばしの古道」「赤塚植物園リーフレット」「日本城郭大系」「遊歴雑記」「江戸名所図会」「今昔マップ」ほか各種地図。

 

 


寒のあとさき・目白庭園

2016-02-19 19:09:27 | 公園・庭園めぐり

(1)12月の目白庭園

12月。いまだ紅葉の季節。それを見に、目白庭園に出かける。

紅葉のみち。池に向かって、ゆっくりと下りてゆく。

飛び石を渡り、滝見台に上がる。流れ落ちる水は、まだ、秋の音。

芝生広場。フジのツルによる、生け花のオブジェ。三日月の写像。

池の北側に、十三重石塔。ストゥパに彩りを添えて。

六角浮き見堂から庭を見ている。美しき季節の、移ろいゆく姿。

 

 

(2)1月の目白庭園

長屋門をくぐる。赤鳥庵の径に、雪はまだ残っている。

池の眺め。雪吊り。石組の間に、白いものが見える。

芝生広場は、寒の姿。あの三日月が、ここにあれば。

一面の雪と、一面の緑と。大気は、まだまだ、冷たい。

 

 

(3)2月の目白庭園

長屋門をくぐる。出迎えてくれる梅の、満面の笑み。

カルガモが2羽。つがいだろうか。いまは、春の夢のうち。

池を眺める。まだ雪吊りはあるが、どことなく春の気配。

池に沿って歩く。梅はいまが盛り。ほかの花も、後に続くだろう。

芝生広場。微かな春の匂い。庵の近くに満開の梅の花を見る。

十三重石塔。そして、雪吊りと満開の梅と。季節の移ろいを感じつつ、暫し池を眺める。