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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

静嘉堂文庫と瀬田四丁目広場(旧小坂家住宅)

2015-05-17 08:02:58 | 公園・庭園めぐり

(1)静嘉堂文庫

二子玉川駅で下車し厚木街道の下を潜る。二子玉川商店街を北に向かいNTT瀬田前の交差点で左折、丸子川に沿って西に向かうと、周囲を緑道で囲まれたパークコートという名のマンションがある。ここは幽篁堂庭園という名園の跡地で、ここにマンションを建てる際に、既存樹木の移植をはかり石造物や庭石などの再利用を行い周囲に緑道を造って庭園の面影を残そうとしたという。その事が評価されて受賞もしているようだが、その一方で、著名な造園家の庭園が消滅してしまっている。庭園の宿命というべき事ではあるのだが。

下山橋で右折するのが静嘉堂文庫へのルートだが、今回は、丸子川沿いにもう少し歩く。谷戸川の合流点を過ぎる辺りから、右側には岡本静嘉堂緑地の森が続いている。生物の森、そう呼ばれている森の中には湧水地があるに違いなく、森から溢れた水が丸子川に流れ落ちている。森が途切れると草原になっている。今はバッタの原と呼ばれているが、岩崎家の敷地だった時には温室があった場所だという。生物の森が岩崎家の庭園だった頃、この森は人によって維持されていた筈だが、すでに人の手が離れて久しくなっている。このままの状態で、生物の森が永遠の杜となるのには、あと、どれほどの年月が必要になるのだろうか。

 

下山橋に戻って左へ行くと旧小坂家住宅の裏門が見えてくる。道は左に曲がっていき、すぐに静嘉堂文庫の正門となる。世田谷区岡本2-23-1。二子玉川駅から静嘉堂文庫の正門までは、歩いて20分ほどの距離にある。門を入って右側に小さな池を見ながら進むと谷戸川に出る。谷戸川は、歴史と文化の散歩道の世田谷コースの記事の中でも書いているが、砧公園の中を流れ下ってくる川である。静嘉堂は国分寺崖線に位置し、台地上に静嘉堂文庫、納骨堂、美術館、庭園が配置されている。一方、台地の両側の丸子川沿いと谷戸川沿いは岡本静嘉堂緑地になっている。谷戸川を渡ると、右側に静嘉堂文庫に至る車道と、左側の道に分かれる。左側の道は納骨堂に上がる道と生物の森を通る道に分かれるが、生物の森を通る道は立入禁止になっている。

 

車道を上がる。途中で右に下る道があり、トンボの湿地に出るが、今の季節は至って静かである。再び樹林に覆われた車道を上がるが、特段の眺めも無い。上がりきって、ようやく、静嘉堂文庫の建物が現れる。外観はイギリスの郊外住宅だというが、専門図書館の建物である事に変わりは無く、他の別荘地とは性格を異にしている。

明治41年、この土地を岩崎家が取得し、明治43年には、コンドル設計の納骨堂を建てる。当初の静嘉堂は岩崎家の霊廟としての性格が強かったと思われる。岩崎彌之助は東洋の文化財の散逸を恐れて古典籍や古美術の収集を行ったが、岩崎小彌太はこれを引き継ぐとともに、大正13年には収集した書籍を収蔵する静嘉堂文庫を建てる。これらの書籍は一般公開していないが、美術品については、平成4年に開設した美術館で一般公開されている。ただし、美術館は現在、改修工事中のため閉館中である。前に来た時は、納骨堂を経て正門に出たが、今回は、もと来た道を正門まで戻る。

 

(2)瀬田四丁目広場(旧小坂家住宅)

 

旧小坂家住宅へは静嘉堂文庫正門近くの裏門から入る方が便利かも知れない。世田谷区瀬田4-41-21。今回は表門から入るべく、静嘉堂正門の前から北に馬坂を上がる。坂の途中には庭園への入口が作られている。さらに坂を上がると瀬田四丁目広場という看板があるが、要は旧小坂家住宅の事である。旧小坂家住宅は信濃毎日新聞社長で貴族院議員を務めた小坂順三の別邸である。敷地は3000坪近いが、国分寺崖線の斜面下が半ばを占める。台地上の主屋は100坪あまり。周辺の国分寺崖線沿いに建っていた数多くの別荘が、次々と消えてしまった今となっては、この別邸は貴重な存在であるとして、世田谷区の有形文化財に指定されている。

   

現在は瀬田四丁目広場の標札になっている表門から入るが、樹林に遮られて主屋は見えない。先に進むとようやく、木の間に古民家風の建物が姿を現す。古民家風の玄関を上がって庭を眺める。この別邸は国分寺崖線の縁に建てられている。今は周囲を樹林で囲まれているが、それでも富士が見えるそうである。昔はもう少し眺めが良かったかも知れない。

  

茶の間と居間の間は、家紋に良く使われる五三の桐の透かし欄間になっている。居間には床の間と書院があり、床の間には昭和12年10月の上棟式で使われた棟札が置かれている。主屋と茶室の完成は、翌年になってからだろう。西側の書斎は洋間になっているが、和の趣も多少はあるらしい。暖炉の上には壁がんと思われる壁面のくぼみが造られているが、ここには仏像が置かれていたという。主屋の東側には台所や浴室がある。蔵を主屋に取り込んだ内倉もある。その傍らに年代ものらしい冷蔵庫が置かれているが、今でも使えるのだろうか。廊下の奥は2階建てになっている。上からの眺望はどうなのか、上がって見たい気もしたが、立ち入る事は出来ないようである。

 

中門をくぐり、国分寺崖線の斜面を下りて庭園に行く。改修が行われたらしく、見違えるほど明るくなっている。不要な草木は取り除かれたのだろう、庭園は広場へと見事に変身している。園路も歩きやすく整備されている。それでも、湧水だけは、今も健在である。

 

横山大観が滞在した茶室は、とうの昔に失われてしまったが、その周辺を取り囲んでいた筈の竹林は、今も庭園の主たる景物になっている。庭園内を巡り歩き裏門に向かうと、2基の庚申塔が置かれている。本来は信仰の対象として然るべき場所に置かれていた筈の庚申塔も、何時しか幽篁堂庭園の景物となり、そして今は、この広場を終の棲家にしている。そっと庚申塔に頭を下げ、それから裏門を出る。

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「ようこそ瀬田四丁目広場へ」

 

 


殿ケ谷戸庭園・日立中央研究所・浴恩館

2015-05-09 16:27:37 | 公園・庭園めぐり

前回に引き続いて、中央線沿線や国分寺崖線に沿って戦前に設けられた郊外型別荘庭園を取り上げてみる。今回はそのうち、国分寺市、小金井市の別荘庭園を対象とする。

 

(1)殿ケ谷戸庭園再訪

 

国指定名勝の殿ケ谷戸庭園については既に投稿しているが、今回は季節を変えての再訪となる。入口の手前の季節の野草の中にも桜草があるが、売札所前の園路では連休期間中に“さくら草展”が行われていた。

 

庭園に入って左へ行く。右手に大芝生を見ながら本館を過ぎ、秋の七草に代わるスズラン、シランを横目に、鹿威しの音に誘われて紅葉亭に急ぐ。見下ろすと次郎弁天池が、秋とは異なる爽快な姿を見せている。

 

滝の横を下って池に出る。滝は循環水を加えて必要な水量を確保しているらしい。湧水は今も健在だが、それだけで庭園の景観を維持するのは難しいのだろう。中島へは石を伝って渡れそうだが、今は島に上がる積りはない。

 

次郎弁天池を半周して竹の径に出る。孟宗竹の竹林と崖線の斜面との緑の対比が美しい。竹林の中を覗くと案の定、筍が顔を出している。

  

竹林の中には、筍から竹へと変わりつつある姿も見える。この先、放置したままなのか、それとも適当に間引くのか、どうするのだろう。探してみると、園路の右側にも筍らしきものがある。園路の両側を竹林とする事が認められなければ、やがて切られる運命にあるのだろう。

 

園路の南側の斜面にシャガの群落を見る。遠目には白だけが目立つシャガだが、よく見ると花弁は紫と黄色の模様に彩られている。斜面を上がる途中、少し変わった姿の花を見つける。シライトソウと言うらしい。場所を選べば、もう少し着目されても良い花なのだが。

  

坂を上がって藤棚に出る。フジは今が咲き始めだろうか。萩のトンネルは当然の事ながら、今は何も無い。ツツジの類も咲き始めているが、主役となるにはもう少し時間が必要である。

大芝生に沿って園路を歩く。今の時期の殿ケ谷戸庭園は緑が支配的である。この庭園のベストは紅葉の時期と思っていたが、若葉の頃の景観も悪くない。

 

(2)日立中央研究所庭園

 

国分寺市には、後に殿ケ谷戸庭園となる江口定條の別荘(大正4年)のほか、今村別荘(大正7年)、竹尾別荘(大正8年)、天野別荘(大正3年)、渡辺別荘(大正3年)、豊原別荘(大正1年)などがあった。これらの別荘の中で敷地面積が最も大きく、今も自然景観が残されている、今村別荘(後に日立中央研究所)を次に取り上げる。

 今村銀行(後の第一銀行)の頭取を務め成蹊学園の開設にも協力した今村繁三は、大正7年に国分寺花沢の土地を取得し別荘地(今村別荘)とした。別荘の建物は300坪あり、台地の上に建っていた。南側の低地は恋ヶ窪から続く水田で恋ヶ窪用水が流れ、敷地内の湧水を合わせて野川の源流になっていた。台地の上からは野川の流域方向の展望が得られていたと思われる。なお、恋ヶ窪用水は、玉川上水から分水された砂川分水から分かれ、さらに貫井村用水と国分寺用水を分けて南に流れ、姿見の池付近の湧水を入れて今村別荘の敷地内に流れ込んでいた。昭和17年、日立中央研究所が設立されると、今村別荘と周辺の土地は日立中央研究所の敷地となり、現在に至っている。

日立中央研究所は非公開だが、春と秋の年2回だけ庭園が公開されている。正門から入って先に進むと返仁橋に出るが、上から見ると割と深い谷のように見える。湧水量は少なくないと思われるが、北方にあると思われる水源への立ち入りは出来ない。この谷は、今村別荘の時代から、あまり変わっていないように思える。小平記念館の前から左に下って行くと大池(上の写真)に出る。面積1万㎡、周囲800m、池の深さは1m~1.5mという。大池は昭和33年に湧水を集めて造られた池で、今村別荘時代には無かった光景である。敷地内の樹木は、ミズキ、エゴ、ナラ、モミジ、サクラ、ケヤキなどの落葉樹と、サワラ、マツ、カシ、アオキ、ツゲ、スギ等の常緑樹、合わせて27000本。野鳥は40種ほどという。日立中央研究所では設立以来、自然環境の保全に取り組んで来たそうだが、その成果なのだろう。

 

(3)浴恩館公園

「続々小金井風土記」に紹介されている小金井市の別荘のうち、波多野邸(滄浪泉園)、前田邸(三楽の森)、小橋邸(美術の森)、岩村邸(美術の森に隣接)、富永邸(大岡昇平寄寓)については、前回の記事で取り上げている。同書では他に、小山邸、前田邸、芥川邸、渡辺邸、磯村邸、大久保邸、大賀邸、浜口邸が紹介されているが、ここでは、後に浴恩館となる渡辺邸を取り上げる。

大正末か昭和の初め、渡辺某が8000坪の土地を取得する。その後の経緯は不明だが、この地が日本青年館の土地となったらしく、昭和天皇御大典時の神官更衣所を下賜されたことに伴い、昭和5年に日本青年館の分館が開館する。昭和6年になると青年団指導者養成のため講習所が開設される。昭和8年から12年まで講習所の所長を務めた下村湖人は、講習期間中、敷地内の空林荘に寝泊まりして指導に当たったという。この講習所は、下村湖人の代表作となる「次郎物語」の舞台にもなっている。

戦後、浴恩館は小金井市の青少年センターとして使用されてきたが、老朽化に伴い平成5年に改修整備され、現在は文化財センターとして考古資料、古文書、民具などの展示保存を行っている。最寄り駅は東小金井駅で、北大通りに出て西に向かい、小金井北高の先の信号を右に入って浴恩館通りを進み、やや下って右へ折れ左に曲がって、緑小を過ぎれば間もなく浴恩館公園となる。歩いて20分ほど。文化財センターの入館は無料である。文化財センター内を一通り見たあと、公園内を見て歩く。園内には確か空林荘の建物があった筈なのだが、見当たらない。どうやら、その由緒ある建物は焼失してしまったらしい。

浴恩館公園にはツツジが多いが、昭和初年に新宿大久保のツツジ園から移植されたものという。江戸時代、大久保にあった鉄砲組の組屋敷では副業としてツツジの栽培を始め、これが評判を呼んでツツジ園が幾つも開かれる。しかし明治から大正、昭和と時代が進むにつれて衰退し、ツツジ園も姿を消してしまう。一方、大久保のツツジは館林や箱根に移植され、今では観光名所になっているが、浴恩館のツツジは、知る人ぞ知るの状態になっている。文化財センターの東側には池がある。池に流れ込む水路も造られているが、そちらの方には水が流れていない。浴恩館公園内には仙川も流れているが、こちらの方にも水は無い。雨降らば流れるという川になっているらしい。

 

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「殿ケ谷戸庭園」「日立中央研究所庭園開放(配布資料)」「続々小金井風土記」「小金井市歴史散歩」

 


滄浪泉園・三楽の森・美術の森

2015-05-01 19:28:10 | 公園・庭園めぐり

明治の終わりごろから昭和の初めにかけて、まだ農村地帯であった中央線の沿線や国分寺崖線沿いに多くの郊外型別荘が建てられた。その大半は消滅してしまったが、一部は公園や緑地などとして今に残っている。今回は、小金井市の国分寺崖線に残る旧別荘庭園、滄浪泉園、三楽の森公共緑地、美術の森緑地を訪ねてみた。

(1)滄浪泉園

  

武蔵小金井駅で下車し、連雀通りを西に15分ほどで滄浪泉園(小金井市貫井南町3-2-28)に着く。滄浪泉園は三井銀行の役員で衆議院議員をつとめた波多野承五郎が大正元年に購入した別荘地に始まる。滄浪泉園は犬養元首相の命名で入口付近の石標の文字も犬養元首相によるものという。当初の敷地は一万坪あり、北は連雀通り、南は薬師通り、東は弁車の坂、西は新小金井街道の辺りにまで及び、現在の敷地の3倍ほどあったらしい。敷地内には200坪の池があり水車もあって道も通っていたという事なので、それらを含めてまるごと買い上げたようである。この別荘地は昭和になって川島三郎の所有となり、昭和50年頃にはマンション建設の計画も持ち上がるが、地元の反対運動の結果として、昭和52年に都が買収して現在に至っている。入口で入園料を払って中に入ると、石畳の車道が森の中へと続いている。別荘だった頃には入口近くに2部屋の門番小屋があったそうだが、現存しない。

 

石畳の道をたどると、小さな広場のような場所に出る。右側には滄浪泉園の説明版があり、左側には芝生を前にして休憩所がある。この場所に建っていた別荘の主屋は残念ながら取り壊されてしまったが、日野の名主の家を移築したという70坪ほどの茅葺の建物であったらしい。その高い縁側からは池が見えたと言う話だが、当時は木の高さが低かったので、雑木林越しに富士を望むことが出来たかも知れない。現在の滄浪泉園は特別緑地保全地区に指定され、建築行為などを制限して原状を凍結するかたちで緑地の保全を図っている。周辺の樹木を手入れして、大正時代のような眺めの良い場所に変える事は出来そうにない。

 

園路を下って行くと木々の間から水面が見えて来る。池に沿って右に行き木橋を渡る。杉や赤松のような針葉樹が目立つようになるのは昭和になってからで、別荘を構えた大正の頃の池の周辺は、落葉広葉樹の斜面林と低地の桑畑からなる、今より明るい雰囲気であったかも知れない。水車があったという事からすると湧水量も多かったと思われる。まさに、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭であったのだろう。今は、この池も淀んだままの憂鬱な表情を見せることがあり、曇天で訪れる人が少ない時は、清々しい雰囲気とまでは言いにくい。

 

池に沿って進むと湧水のある場所に出る。この池の湧水地はもう一カ所、板橋の下を流れてくるのが、それである。この湧水があった事が、この地に別荘を構える事になった理由の一つであったかも知れない。滄浪泉園の湧水は、東京の名湧水の一つに選ばれているが、小金井市では、この他に、貫井神社の湧水と、美術の森の湧水が名湧水として選定されている。

 

池の周囲を歩き土橋を渡る。橋の下から続く水路を追ってみると、滄浪泉園の外に出ていくようである。確認はしていないが、野川に流れ出ていると思われる。土橋を渡った先に赤い前掛けをした、おだんご地蔵が祭られている。滄浪泉園内には鼻欠け地蔵や馬頭観音も祭られているが、薬師通りが新小金井街道に出る辺りに石塔場があり、村内の石仏が集められていたという事なので、そこから滄浪泉園内に移したものらしい。なお、現在の新小金井街道は貫井トンネルを通るようになっているが、もともとは貫井大坂という曲がりくねった急坂で、府中から所沢方面に出る幹線ルートだったという。

池から石段を上がって休憩所に戻る。その裏手に三宅島友好都市記念碑が置かれているが、緑地保全地区に指定される前に設置されたのだろう。近くには水琴窟があるが、別荘だった頃からあったのだろうか。滄浪泉園には石仏のほかに燈籠や井筒が置かれ日本庭園風の造作もされているが、全体としては自然のままの庭になっている。波多野承五郎はその随筆の中で、日本の庭園を、実景を縮写した縮図式の庭と、京都桂御所のような天然にあり得る形の等身式の庭に分け、等身式の庭が最近の流行と記すとともに、庭は建築の延長であると書いている。また、表門と玄関の間を庭園風に造る事については批判的で、瓢亭のように表を粗に裏を美にするのが良いとも記している。滄浪泉園は、このような考えのもとに、等身式で茅葺の主屋に調和する庭として造られたのだろう。

 

(2)三楽の森

滄浪泉園を出て連雀通りを西に向かい、小金井四小の手前を左に入る。左に三楽公園を見て、その先の三楽集会所の横を入ると庭門が見えてくる(小金井市貫井南町3-6-18)。庭門から先が三楽公共緑地で、NECの設立発起人の一人であった前田武四郎の、三楽荘という名の別荘の跡である。

  

庭門を入ると、今は周辺を雑木林で囲まれた芝地だけがあり、別荘時代の建物らしきものは見当たらない。入園は無料だが昼間のみ開放、火曜は休園になっている。ここは、国分寺崖線上にあり、貴重な自然環境を保存するため、芝地以外への立ち入りは禁止されており、昆虫や小動物のための仕掛けも設けられている。

前田武四郎は大正8年にこの地を入手したが、郷里新潟の醤油醸造の旧家を買い取って、巨大な梁を使った別荘を建てたのは大正13年になってからである。当時の敷地は1万坪あり、北は連雀通り、南は斜面の途中まで、西は三楽坂辺りまでが敷地の範囲であったという。主屋は東向きで台地上の西側にあり、連雀通りの表門から針葉樹の中を車道が弧を描くように主屋の玄関に通じていたようである。南側は斜面まで芝生でおおわれた明るい庭で、東南には築山が設けられ四阿が建てられていた。ここから南を望むと、多磨霊園西側の浅間山が見えることになるが、四阿のある築山を浅間山の標高80mに合わせようとしたらしい。眺望に優れていること。それが、この地を別荘地に選んだ理由だったかも知れない。

 

(3)美術の森

 

はけの道を東に進むと、小金井二中の先に中村研一記念はけの森美術館(小金井市中町1-11-3)がある。武蔵小金井駅からは15分ほどで着く。美術館の東側に“美術の森緑地”の入口がある。東京の名湧水の一つでもある美術の森緑地の湧水の流れは、道路の下を潜って南に続いていて、水路沿いに径がある事を示す“はけの小路”の石標が、道路の向こう側に置かれているが、今回は割愛して美術の森緑地に入る。

 

美術の森緑地は美術館の東側から裏手にかけての緑地で、入園は無料、開園は昼間だけで、年末年始と月曜は閉園となる。美術の森緑地は国分寺崖線の斜面と湧水地からなり、武官であった小橋寿が明治42年に別荘地とした事に始まる。戦後は画家の中村研一がこの地に移住してアトリエを構える。門を入って間もなく左側に見えてくるのが旧中村研一邸である。

 

先に進むと小さな池があり、石舛からは水が湧き出ているように見える。この緑地の水源は竹林の中にあるそうだが、立ち入る事は出来ない。池の向こうの旧中村邸は、現在、オーブン・ミトンというカフェになっている。

 

竹林の中を上がると北側の門に出る。門の外側の“おお坂”を右に上がると連雀通りで、この通りを西に行き前原坂上の交差点を右に行けば武蔵小金井駅に出る。なお、美術の森緑地の東側は、岩村海軍中将が大正3年に別荘地とした場所で、1500坪の敷地内には池もあったという。その東側のムジナ坂沿いには、昭和23年に大岡昇平が寄寓していた富永邸があるが、富永邸自体は大正時代からあったようである。大岡昇平の「武蔵野夫人」は小金井から国分寺にかけての国分寺崖線が舞台になっているという。

 

<参考資料>「緑と水のひろば71」「滄浪泉園リーフレット」「続々小金井風土記」「古渓随筆」「東京の公園と原地形」「明治大正期の別邸敷地選定にみる国分寺崖線の風景文化論的研究」「多摩文学紀行」


都立庭園の桜

2015-04-14 18:09:56 | 公園・庭園めぐり

(1)旧古河庭園から六義園へ

旧古河庭園はバラで有名だが桜もある。まず、西門近くの桜を見に行き、それから、売店の近くにあるシダレザクラのところに行く。ここからは、桜の下から洋館を仰ぎ見るような、そんな感じである。バラにはまだ早いので、下の日本庭園を一周してから外に出る。

正門を出て左に行く。多少足を伸ばせば飛鳥山だが、今日は旧古河庭園の西側に沿って道を下り、坂の下を右に入って、六阿弥陀の無量寺に行く。ここにも桜があるが、知る人は少ないかも知れない。

無量寺から南に進み、商店街を右に行き、スーパーのある四つ角を左に入って染井坂を上がる。駒込小の辺りまで来ると桜が見られるようになる。その先、左手は門と蔵のある広場で丹羽家の門と蔵が残され、広場には桜がある。

先に進むと染井通りに突き当る。右に行けば染井霊園で桜も多いが、今日は左に行く。JRを染井橋で越せば、間もなく六義園の染井門の前。通常は閉鎖されているが花見時は開いている。園内の北側の道を通り、吹上茶屋の辺りで池をチラ見してから、吟花亭跡に行き、孤高の桜に挨拶してから先に進む。

千鳥橋を渡ると、人が大勢集まっている。何かのイベントが行われているらしいが、今回はパスして先に進み、とりあえず人気のシダレザクラの様子を見に行く。この桜、やはりライトアップされている姿がベストで、昼間の姿は観光名所でしかない。帰りは染井門から出て駒込駅に向かう。今は、桜と言えば大抵はソメイヨシノになってしまったが、その原点がこの地にある事を記念して、駅の北側は染井吉野記念公園になっている。

 

(2)小石川後楽園

桜が散り始めていることに気付き、小石川後楽園に桜の様子を見に行く。中に入ると正面に東京ドームを背景とした枝垂桜。花はまだ残っている。

大泉水を左に見て先へ進む。池の向こう、桜の間に、修復中の橋が見えている。工事はまだ続いているらしい。

白糸滝の修復工事も継続中らしく、仮設の通路が池の中に見えている。仮橋はやや目障りとは言え、今しか眺められない光景でもある。

一見したところ、内庭に桜らしき姿は見当たらない。すでに散り終えてしまったのだろうか。池の向こう、色鮮やかなヤマブキが、桜に代わって内庭に彩を添えている。

九八屋の裏手にはカイドウザクラ。正しくハナカイドウ。サクラの名は付いているが、リンゴ属でサクラ属ではない。それでも、今はサクラの仲間に入れたい気分。

稲田の雰囲気を残している菖蒲田を前にして、桜が一本、満開の風情で立っている。菖蒲の季節になればその存在感を失ってしまう桜の、今だけの晴れ姿。

梅林を抜けるとシャガの群落が続く。菖蒲田沿いの水路には桜流し。そして、大地には、春を言祝ぐように花びらが散り敷いている。


清澄庭園

2015-02-13 19:14:17 | 公園・庭園めぐり

本所深川絵図を見ると、現在の清澄庭園の地は久世大和守の屋敷と小屋敷、清澄公園の地は伊奈家などの武家地で、仙台堀沿いは伊勢崎町になっていた。明治になると、武家地の所有者は次々とかわり、土地も荒廃していったらしい。明治11年、岩崎家が現在の清澄庭園と清澄公園を含む3万坪の土地を買い上げて造園し、接待と社員親睦を目的とした深川親睦園を開設するが、完成までには時間を要したようである。深川親睦園の正門は清澄公園の南西側に位置し、北西側にはコンドル設計の西洋館があり、清澄庭園の大正記念館付近には日本館が建っていた。池は仙台堀から水を引いた潮入りの池で清澄公園と清澄庭園にまたがり、現在の倍ほどの広さがあったらしい。しかし関東大震災で被害を蒙った為、岩崎家では深川親睦園の西側を震災復興のために利用し、東側を東京市に寄付することにした。東京市は寄付された土地を整備したうえで昭和7年に清澄庭園として開園し、現在に至っている。一方、西側は昭和52年に清澄公園として開園しているが、往時の面影を留めてはいない。清澄庭園は明治を代表する回遊式林泉庭園であり、東京都の名勝に指定されている。

 

庭園に入ってすぐの辺りは日本館の坪庭だったらしく、当時の手水鉢が置かれている。その先は大正記念館で、大正天皇の葬場殿を移築したのが始まりだというが、この庭園に違和感もなく収まっている。大正記念館の南側は明るい芝生地で、飛び石を伝って歩く。日本館があった頃は、東側に大広間、西側に茶屋があったらしいが、一面の芝生の方が、気分がいい。

 

今の季節、庭園内に彩があまり見られないが、形の面白い霜除けが彩の代行を務めているようである。大泉水は潮入りの池ではなくなっているが、水の出入りが無い割には汚れていない。池には島が四カ所、干満により眺めがどう変わっていたのかは分からない。池の対岸には涼亭が見える。この建物が無かったら、池の景観は間延びしたものになっていただろう。

 

大磯渡りを歩く。近くの石の上にはユリカモメ。その向こうは松島で、雪見灯籠が置かれている。橋を渡ると無名の島に出る。島の北側の池には長瀞峡という名が付いている。池を峡谷に見立てたのだろう。それに続く水面は、深川親睦園だった頃には、清澄公園側の池と繋がっていたらしい。先に進むと傘亭に出る。しかし、傘の形の屋根は失われてしまっている。

池に沿って進み涼亭を過ぎて富士山の麓に出る。ここに枯滝の石組がある。この枯滝は日本館から眺める事を想定して組んだらしいが、今では大正記念館前の芝生から、この枯滝を眺める人は居ないだろう。富士山という名の築山の背後には樹林が茂っていて、頂上が目立たなくなっている。昔の写真を見ると樹林は無く、この築山が目立つ存在であった事が分かる。せめて上からの眺めだけでもと思うのだが、現在は上がる事も出来ない。中の島に渡る橋は工事中のため先に進むと、程なく大正記念館の前で、これにて、庭園散歩は終わりとなる。

今回は園内の名石を素通りしてしまったが、清澄庭園は各地から名石を集めて造った庭園なので、次回は石にも関心を持って歩きたいと思っている。この庭園は探鳥スポットの一つでもあり、毎月第三土曜の午後には探鳥会も開かれている。季節にもよるが、20種ぐらいの野鳥は観察できるようである。清澄庭園には、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡という言い伝えが定着している。明治時代ならいざ知らず、江戸時代に幾ら金を積んだところで、広い屋敷を構える事が出来るとは思えず、また、元禄時代の古地図に紀文の屋敷が書かれているわけでも無いが、話としては面白いので、いつか、取り上げてみたいと思っている。

<参考資料>「清澄庭園」ほか。


旧浜離宮恩賜庭園

2015-01-30 20:32:38 | 公園・庭園めぐり

この庭園は、四代将軍家綱から弟の綱重に与えられた海中の土地を埋め立て、寛文9年に完成した浜屋敷に始まる。宝永元年、綱重の子の綱豊が五代将軍綱吉の養嗣子となり家宣と改名するに及んで、浜屋敷は将軍家別邸・浜御殿となる。その後、何度か改修が行われるが、明治になって皇室の所有となり浜離宮となる。昭和20年、浜離宮は東京都に下賜され都立庭園となり、その後、潮入りの回遊式築山泉水庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定され、現在に至っている。

 

旧浜離宮恩賜庭園の入口は大手門口、中の御門口、水上バス発着所の3カ所だが、今回は汐留駅から標識をたよりに中の御門口に行ってみる。ここは平成18年に、中の御門橋が復元された事から開かれた入口のようだが、江戸時代には通用門として使用された中の御門があった場所である。この門は城門に良く見られる枡形門であったが、今は失われて、方形の広場と左側の門が雰囲気を伝えているだけである。

 

中の御門口を入り東に向かう。左側一帯は明治初期に迎賓館として使われていた延遼館の敷地跡である。先に進むと芳梅亭がある。八代将軍吉宗の時代にベトナムから輸入した象が飼育されていたのは、この裏手辺りだろうか。ここを右に行き、土手の間を抜けると潮入りの池が見えて来るが、今回は船溜まりに架かる橋を渡って、鴨場に行く。

  

鴨場は、囮の家鴨を使って鴨を引堀に引き込み、網や鷹で捕獲するための場所である。歴代の将軍の中で最も多く浜御殿を利用したのは11代家斉で300回近くに及んでいるが、その7割近くが鴨場での鷹狩が目的だったという。現在の新銭座鴨場は立ち入り禁止になっていて、鴨たちにとっては安全な場所の筈なのだが、上から覗いて見た限りでは鳥の姿は見当たらない。水鳥にとっては潮入りの池の方が、居心地が良いらしい。

 

新銭座鴨場から移動して富士見山に登り潮入りの池を眺める。潮の干満による景観の変化を楽しむのが潮入りの池の目的だが、実際には魚釣りの楽しみの方が優っていたようである。浜離宮内の建物や橋は戦災で焼失しており、池の中にある中島の茶屋も戦後の復元である。中島の茶屋は庭園内の中心となる施設であり、公家など賓客の接待に利用されていた。アメリカ大統領を辞したあと世界周遊の旅に出ていたグラント将軍は、明治12年に日本を訪れ、国賓待遇で迎えられるが、この時、明治天皇がグラント将軍と会見し、国の内外の課題について対話したのも中島の茶屋であった。

 

潮入りの池の北側では燕の茶屋の復元工事が進行中であり、近いうちに茶屋の元の姿が見られそうである。松の茶屋の方は復元されて少しは時間が経っているが、まだ新しい姿のままである。鷹の茶屋は今のところ跡のみが残る状態だが、そのうち、復元が行われるのだろうか。

 

庚申堂鴨場が造られたのは新銭座鴨場より古いようだが、当初は田を間に挟んだ二つの池から成っていたらしい。以前の庚申堂鴨場はカワウのコロニーとなり、白いフンで汚され放題になっていた。住む場所の無いカワウの為に目をつぶろうという声もあったが、文化財の保護に問題ありとして追い出し作戦が実行され、今はカワウの姿は見られなくなった。

 

庚申堂鴨場から海手伝い橋を渡ると海に出る。海手茶屋が建てられていたのはこの辺りだが、今は跡のみが残っている。安政2年、中島の茶屋から海手茶屋まで電線を引き、献上された電信機により実演を行って13代将軍家定の上覧に供するという事があった。この時は、前年にペリーが献上した電信機が不調だったため、オランダから献上された電信機を使用したという。なお、この実演の担当者の一人が後の勝海舟であった。

  

潮入りの池への海水の出入りを調節している水門を過ぎると、将軍が上陸する際の上がり場がある。ただ、この付近は水深が浅いため大型船が接岸できず、小船に乗り換えての上陸になっていた。最後の将軍となる慶喜は、鳥羽伏見の戦いに大敗したあと、海路で江戸に帰還し、この場所で上陸したという。

 

先に進むと、江戸時代に幕府の船蔵があった場所が水上バスの発着所になっている。梅林を通り過ぎ、籾蔵跡の花畑も通過して、籾などを舟で運んだ筈の内堀を渡ると、三百年の松の前に出る。六代将軍家宣の浜御殿改修を記念して植えた黒松という。「浜御殿御指図」によれば、表座敷や老中下部屋や能舞台のほか、御座の間など将軍の居住空間があり、広敷や台所も備えていた御殿があった事になるが、早い時期に焼失してしまったらしい。

 

宝永4年に設けられた大手門は、高麗門と渡櫓を方形の広場を挟んで直角に配置した枡形門になっている。大手門の警備は、非役の上級旗本が担当し、羽織袴の番士3人が詰めていた。浜御殿は将軍家の静養や遊楽のほか接待の場として使われていたが、8代将軍吉宗の時はより実用的な目的で利用されていたようである。現在の旧浜離宮恩賜庭園は、潮入りの池を中心とする庭園部分と鴨場が文化財としての性格を持つのに対して、他の場所は公園として利用されているように思える。ただ、延遼館の復元が行われれば、多少イメージが変わるかも知れない。

 <参考資料>「浜離宮庭園」「将軍の庭」「図解江戸城をよむ」ほか。

 


旧芝離宮恩賜庭園

2015-01-13 19:23:06 | 公園・庭園めぐり

旧芝離宮恩賜庭園は、江戸時代の初期に、老中・大久保忠朝が芝の下屋敷に造った楽寿園という名の庭園に始まる。この屋敷は後に大久保家の上屋敷となり、堀田家、清水家、紀州徳川家、有栖川宮家へと引き継がれ、そのあと芝離宮となり、大正時代に下賜され旧芝離宮恩賜庭園として公開されて現在に至っている。旧芝離宮恩賜庭園は、潮の干満による景観の変化を取り入れた潮入回遊式泉水庭園の先駆けであったが、現在は残念ながら海水を入れていない。なお、この庭園は江戸時代の大名庭園の作庭技法を伝える優秀な庭園として、国の名勝に指定されている。

  

浜松町駅の北口から東へ直ぐ、旧芝離宮恩賜庭園の入口がある。入園料は一般150円。入口の近くに藤棚がある。位置的には池の正面に当たるだろうか。藩主が居住する殿舎を建てるには相応しい場所である。ビルの借景がいささか無粋ながら、池(大泉水)と島の眺めは中々のものである。今は花の少ない季節とは言え、スイセンや冬ボタンも園路に彩りを添えている。

  

芝離宮であった頃、ここは海外の貴賓の接待場所として利用され、洋館や和館が建てられていた。それらの建物も関東大震災で焼失してしまったが、洋館に使われていた大理石の一部や和館の手水鉢が、当時の姿を僅かに伝えている。

  

入口から右へ池に沿って進むと、玉石を並べた州浜があり、雪見灯篭が置かれている。ここは、干満による水位の変化を生かした造りになっているようだが、今は、その効果は見られない。池に沿って進むと直線的な砂浜となり、築山も見えてくる。大久保家の上屋敷だった頃は、池の西側一帯に家臣の長屋など建物が並んでいたのだが、紀州徳川家の屋敷になると長屋などを設ける必要が無くなり、一帯は鷹場に変わり、池が掘られ、築山が造られる。

    

池から離れて右手の築山の裾を歩く。大山という、園内で最も高い築山というので登ってみる。さすがに眺めは良く園内全体を見渡せる。ただし、この築山は大久保家の屋敷だった頃には無かったものである。元の道に下り、十月桜やスイセンの花を眺めつつ、大山の南側の裾を進むと馬場跡に出る。

   

馬場跡を北に向かうと、池に近い場所に四本の石柱が建っている。この石柱は、後北条の老臣・松田憲秀の屋敷の表門の柱だったが、将軍綱吉の御成りに備えて、小田原から運び込んで富士見茶屋の柱として使ったという事らしい。松田憲秀は小田原城が落城した際に不忠の咎で切腹を命じられた人物だが、綱吉も関心があったのだろうか。富士見茶屋には珊瑚珠の簾が掛かっていたという。また、ビードロ茶屋とも呼ばれていたので、障子にガラスを使っていたとも考えられるが、寒天を薄く延ばして板状にした寒天紙を硝子紙とかビードロ紙とか呼ぶので、寒天紙が当時あったとすれば、寒天紙を使用していたのかも知れない。石柱や富士見茶屋については、謎がまだ残っていそうである。

  

石柱の西側に、大山の山腹を割って造られた渓谷風の石組がある。ここは通り抜ける事が出来て池の畔に出られるのだが、池の方から枯滝の石組を見るのが正しいようである。渓谷風の石組の途中には臥龍橋という橋が架かっていたらしいが、下を通り抜ける事などは想定していなかっただろう。なお、大久保家の屋敷だった頃には、大山も無く、枯滝も無かったことになる。ついでに言うと、旧芝離宮恩賜庭園の地下には鉄道のトンネルが通っていて、その工事の際に枯滝の付近が陥没するという事もあったらしい。

  

枯滝から池に沿って歩き、西湖を模した堤の道で中島に渡り、蓬莱山の石組を見る。中島から浮島には、干潮の時に飛び石で渡れたようだが、今は渡れなくなっている。中島から八つ橋で渡ると四阿がある。ここは池に沿って右に行く。

  

少し先で橋を渡り大島に出る。島を横切った先で、鯛の形をした鯛橋という石橋を渡る。大久保家の屋敷だった頃には大島は存在していないので、鯛橋も後世に架けた橋という事になる。石は園内の何処からか転用したのだろうか。鯛橋を渡ると根府川山がある。こちらの石は、大久保家の屋敷だった頃に小田原から運び入れたものなのだろう。

  

根府川山から池に沿って戻る。幕末、庭園の東南端に砲台が置かれていた筈なのだが、その痕跡は見当たらない。先に進むと唐津山がある。大久保忠朝が唐津藩主だった事に因んだものだろうが、当初からあった築山ではなさそうである。先に進むと九尺台がある。ここから明治天皇が漁の様子を眺めたという事だが、今は園内の池を眺めるだけになっている。

  

池に沿って進むと取水口がある。今は海水ではなく淡水を入れているという。藤棚に戻れば、庭園を一周した事になるので、改めて池を眺める。手前の小池は紀州徳川家の屋敷だった頃に掘られたものという。その先が大泉水で、昔は潮入りであった池である。大泉水の岸近くの水中に小さな灯篭が見える。大久保家の屋敷だった頃に存在していた浮灯篭を再現したものらしい。大泉水の中に雪つりのある島が見えるが、浮島である。その左手奥が中島となる。浮島には灯篭が置かれていたが、地下に鉄道トンネルを掘る工事の際に池の中に崩れ落ち行方不明になったという事があり、再建したという。この庭園のパンフレットの写真に写っているのが再建した灯篭だが、東日本大震災の時に倒壊してしまったらしく、現在は無い。

以上で、旧芝離宮恩賜庭園めぐりは、ひとまず終わりという事になるが、季節を変えて、また訪ねてみたいと思っている。参考までに、この庭園の変遷を以下にまとめておいた。

唐津藩主であった大久保忠朝は延宝5年(1677)に老中となり、その翌年には佐倉藩に国替えとなるとともに、海を埋め立てて造成した芝の屋敷を拝領する。延宝8年(1680)の「江戸方角安見図」には、桜田門の内に大久保加賀守(忠朝)の上屋敷が記され、ほかに麻布の屋敷(中屋敷)と芝の屋敷(下屋敷)が記されている。また、元禄6年(1693)の「江戸宝鑑図大全」にも、大久保加賀守(忠朝)の上屋敷(上の図)のほか、麻布の中屋敷と芝の下屋敷が記されている。芝の下屋敷には、楽寿園と呼ばれる庭園が造られたが、これが芝離宮庭園のもとになっている。楽寿園の成立は、「楽寿園記」が書かれた日付から、貞享3年(1686)3月以前という事になる。「楽寿園記」によると、芝の屋敷には陸道が斜めに通じ、二重の門があり、屋敷の周囲を垣と長屋で囲んでいた。庭には潮入りの池があって、中島には西湖を模した堤が造られていた。東側には馬場があり、北には弓場があった。庭園の北側には観日荘があり、東南には月波の扁額を掲げた楼閣があったという。月波の楼が池に写る名月を眺める楼だとすると、その位置は東南の角ではなかったかも知れない。

将軍綱吉は大久保忠朝の屋敷に元禄7年(1694)と8年に訪れているが(御成り、臨駕)、その何れかは芝の下屋敷であったと思われる。作庭に当たっては小田原から庭師を呼び寄せたと伝えられているが、忠朝が小田原藩主となった貞享3年1月以降に呼び寄せたとすると、楽寿園が一先ず完成を見た後も、将軍の御成りに備えて小田原から根府川石を運び入れるなどして楽寿園の改修を進めていたと思われる。富士見茶屋も、この時期に建てられたのではなかろうか。忠朝の後、大久保家は忠増、忠方、忠興、忠由、忠顕が跡を継いで小田原藩主となるが、幕府の要職に就かない時期もあり屋敷は変更されている。忠顕が藩主であった頃は、安永8年(1779)の「安永手書江戸大絵図」にも記されている芝の屋敷(上の図)が上屋敷になっていた。「大久保加賀守芝金杉上屋敷之図」によると、藩主及び家族が居住する殿舎が北側にあり、西側には家臣が居住する長屋が立ち並んでいた。文政元年(1718)になると、芝の屋敷は堀田家の屋敷となるが、文政4年(1721)には返上されている。当ブログの“江戸近郊の小さな旅”(嘉陵紀行)の中で「六地蔵もうでの記」と題した文政4年8月11日の紀行文の付記に、芝の御屋敷の潮入りに魚釣りに出かけたという記事があるので、この時期には、嘉陵が仕えていた御三卿・清水家の屋敷になっていたと思われる。天保14年(1843)の天保大絵図では、芝の屋敷には清水殿と記されており、大久保家の屋敷は西側に移されている。弘化3年(1846)になると、芝の屋敷は紀州徳川家の屋敷となる。万延2年(1861)の尾張屋版の切絵図・愛宕下之図でも、芝の屋敷は紀伊殿と記されている。下屋敷であれば、藩主の殿舎や家臣の長屋は必要ないため、その場所に築山が築かれ池が掘られ、庭園は変容する。さらに、幕末になると蔵屋敷へと変貌する。やがて明治。有栖川宮邸を経て芝離宮となり洋館や和館が建てられる。庭園の改修も多少はあったかも知れない。その後、都立庭園として現在に至るが、都内の大名庭園の多くが消滅する中で、この庭園が残ったのは幸いというべきだろう。

 

<参考資料>「旧芝離宮庭園」「大名庭園・江戸の饗宴」ほか。


明治神宮御苑

2014-12-27 20:03:39 | 公園・庭園めぐり

明治神宮の敷地は70ヘクタール。江戸時代の初めは加藤家の屋敷地であったが、後に井伊家の下屋敷となり、明治時代に代々木御料地(南豊島御料地)となる。大正時代になって、この地が明治神宮の建設地に定められるが、当時は敷地の大半が農地か草地で、林地は全体の五分の一程度だったため、まず、神宮の森を造成することから始めなければならなかった。森の造成を担当した学者たちは、永遠の杜とするためには、この土地に適合する常緑広葉樹の森にする必要があると考え、杉の植樹を主張していた総理大臣大隈重信をも説得したという。神宮の森の造成にあたっては、50年後、100年後、150年後の林相の遷移を想定し、全国から集められた10万本の献木を計画的に植樹したが、90年余を経過して今や自然林と見紛うばかりの森になっている。

 

神宮橋を渡り、明治神宮内苑の地図を確認してから、第一鳥居を潜って南参道を下る。大正時代に植樹されたシイ、カシ、クスノキの常緑広葉樹は頭上高くそびえ、玉砂利を踏む音だけが辺りに響いている。

南参道を下り終えて神橋を渡る。橋の左側からは、御苑の南池から下ってくる流れが見える。ここは、カエデなどを植樹して風致林とし、筑波石を配して庭園風に見せている。橋の右側に行ってみると、わずかに水面が見えている。その向こうはJRの線路で、水路は暗渠となって下を潜り、竹下通りの方向に流れていくらしい。

神橋から少し上ると左側に御苑の東門がある。今は閉鎖されているが、門から谷沿いに左に行く道が見える。文化館を過ぎて南参道を先に進み、左に折れて大鳥居をくぐり、正参道を進むと左側に御苑北門がある。御苑内の地図を確認し、入口で500円支払って中に入る。

入口から南に進み、戦後に再建された隔雲亭の横を過ぎる。その南側は芝生の斜面になっている。御苑の中では一番の日溜りの場所だろうか。日向ぼっこを楽しみたい気分だが、そうもいかない。斜面の下には南池が横たわり、濃密な樹林が外界の騒音を遮断しているせいか、静寂が辺りを支配している。

南池に沿って右に行き、十字路を左に折れて池の畔に出る。現在の池の形は南豊島御料地だった頃の形とほとんど変わっていない。恐らくは、井伊家の下屋敷だった頃の池の姿を、今もそのまま留めているのではなかろうか。明治神宮の造営の際に、御苑はあまり変えていないので、落葉広葉樹による林の風景も当時のままなのだろう。

池から北は菖蒲田になっている。菖蒲の頃に比べれば、今の季節の彩は地味ではあるが、その代わりに、湧水によって形作られた谷戸の昔ながらの姿を見て取ることが出来る。菖蒲田に沿って進むと四阿がある。しばし休んで谷戸を見渡し、それから、谷戸の水源となる清正井を求めて谷戸の右側をたどる。道はすぐに下りとなって崖下の井戸へと導かれる。

以前は井戸の近くに柄杓が置かれていたので、この水は飲めた筈なのだが、今は飲用禁止になっている。この井戸は横井戸と言われているが、社殿の西側から流れて来る水脈が井戸枠の横から湧き出している事のようである。井戸は古代からパワースポットとして認識されていたが、それでも、この井戸は特別な存在として評判が立ち、今では訪れる人が絶えない。加藤清正が掘ったという伝説も、それに拍車をかけているのだろうか。

清正井から南池に戻り御釣台に向かう。池の畔にカメラマンが何人か。野鳥を撮りにきているのだろう。神宮御苑は野鳥の楽園のようなところで、手乗りのヤマガラは今も健在である。御釣台に出て池を眺めながら、鳥の声に耳を澄ます。

小さな水路を二度渡ると、四阿のある場所に出る。ここは四方を水面に囲まれているので島ということになるが、東門近くの谷からの流れが二つに分かれて南池に注いでいるため、島のような地形になっているとしか見えない。南池には、この水路と清正井を水源とする水路のほか、代々木公園を水源とする水路が流入している筈だが、ここからは様子が分からない。

御苑を出て正参道を左に行き社殿へと向かう。初詣の時は大混雑となるが、今は比較的すいていて、ゆっくり参拝ができる。明治神宮は大正9年の創建で、建築様式については種々議論があったようだが、結局、一般的な流造りが採用されている。なお、大正時代の社殿は戦災で焼失したため、現在の社殿は昭和33年の再建である。

東門を出て先に進むと参道に出る。突き当りの垣の向こうは窪地になっている。ここには東池がある筈だが、参道からは良く見えないので、多くの人は東池の存在に気付かないかも知れない。垣に沿って東に向かうと、垣の間から東池が見えて来る。東池から先の水路は暗渠となり、JRの下を潜って南に流れているらしい。

北参道を北に向かい北口の広場に出る。ここを左に宝物殿への道を辿ると北池に出る。池の水源は西側にあるらしく池から水路が伸びているが、今は水が流れていない。北池から流れ出る先の水路は見えないが、暗渠となって渋谷川に通じているのだろう。宝物殿の前は起伏のある芝生になっている。芝生の下は北池、その向こうには神宮の森が続いている。

明治神宮の森について、平成23年から25年にかけて行われた総合調査によると、40数年前に比べて目通り周30cm以上の樹木では針葉樹がかなり減少している一方、常緑広葉樹は微増している。ただ、目通り周30cm未満の幹の細い樹木は全体として大幅に減少しており、将来的には後継樹不足の可能性があるという。哺乳類ではタヌキ、ハクビシン、ドブネズミの生息が確認されている。池ではカエル、カメ、魚類の調査が行われたが、絶滅危惧種のミナミメダカが見つかっている。昆虫では都内で初めて見つかった種が幾つかあったという。明治神宮では毎月探鳥会が開催されており、ヤマガラのほか、オオタカ、カワセミ、モズ、エゾビタキ、キビタキなどが記録されている。

明治神宮の森が自然林に近い森として存続できたのは、第一に100年後、150年後を見据えた計画的な植樹であり、第二はこの土地に適した樹木を選んでの植樹であり、そして第三に人間と森の領域を区分し、必要な場合以外は林地に立ち入らないようにした事である。今後も明治神宮の森を散策する機会はあると思うが、林地には立ち入らないようにしたい。

<参考資料>「大都会に造られた森・明治神宮の森に学ぶ」「グリーン・エージ 2014.7」「東京の公園と原地形」ほか。


殿ケ谷戸庭園

2014-12-04 20:50:48 | 公園・庭園めぐり

都立殿ケ谷戸庭園は、三菱合資会社の営業部長だった江口定條が大正2年から4年にかけて、この地に別荘を構え、赤坂の庭師・仙石荘太郎に依頼して庭園を造り随宜園と名付けたことに始まる。後に三菱合資会社の副社長となる岩崎彦彌太は昭和4年にこの別荘を買い上げ、昭和9年に和洋折衷2階建ての邸宅に建て替えるとともに紅葉亭を設け、庭園の改修を行って回遊式庭園として完成させた。昭和40年代、駅周辺の開発計画が持ち上がり庭園の存続が怪しくなるが、住民運動の結果、昭和49年に東京都が買い上げ、園内を整備した上で開園し現在に至る。この庭園は、武蔵野の別荘庭園の中でも当時の風致景観を最もよく残しており、芸術上の価値も高いとして、平成23年に国の名勝に指定されている。

国分寺駅の南口から道路を渡り左に折れると殿ケ谷戸庭園の入口がある。アプロ-チを進んでいくと、この庭園の概要と園内地図を記した案内板が正面に見えて来る。別荘だった頃は現在とは異なり北東側の低地に入口があって、表門から玄関まで馬車道が上がってきていた。案内板の左側から来る道がその道である。当時の国分寺駅には南口が無かったという事情もあるが、玄関までのアプローチを長く取る意図があったのかも知れない。案内板の右側は正門(中門)で、傍らには季節の草花を置く台が設けられている。

案内板で庭園の地図を確認して門を入ると、左側に売札所がある。岩崎家別荘の本館の玄関をリフォームしたものという。売札所の前は前庭に相当するが、中ほどに野草や樹木が植え込まれているので今は広さを感じない。入口からここまで常緑樹のモッコクが多く見られるが、この庭園には300本ほどのモッコクが植えられているそうである。モッコクは地味ではあるが丈夫で形がまとまり易いため、庭木として植えられる事の多い樹木である。 

前庭を抜けると明るい大芝生の庭に出る。道は左右に分かれるが、ここでは右に進む。振り返ると岩崎家別荘の本館が芝生の向こうに見えている。江口家別荘の時代の建物は現存しないが、岩崎家別荘の建物のうち、本館の一部や紅葉亭、それと敷地北西に倉庫が残されている。この別荘地は台地と斜面と低地から成り、台地は建物と広い芝生が特徴的な明るい洋風庭園、低地は池を中心とした日本庭園、そして斜面は武蔵野の景観を残す林になっている。

先に進んで、都立庭園として整備された時に作られた萩のトンネルを抜けると、別荘の時代からあった藤棚に出る。今はあまり眺めが良くないが、戦前の地図によると、もう少し南側の斜面も敷地の内だったので、雑木林の間から野川の先の方まで眺められたかも知れない。藤棚の近くに国分寺崖線とハケについての説明版がある。国分寺崖線とは、武蔵野段丘と立川段丘の間の崖(斜面)の連なりを言うようだが、崖は直線的に続いているわけではなく、後方に引っ込んだり前方に出たり凹凸がある。そのうえ、雨水や湧水などによる浸食で開析谷と呼ばれる多数の谷が段丘に入り込んで複雑な地形になっている。

藤棚から花木園に沿って歩き、モウソウチクと紅葉との対比を眺めながら斜面を下っていく。殿ケ谷戸庭園の東側は殿ケ谷戸と呼ばれる谷間になっている。開析谷のうち湧水により湿地が出来ている場所は谷戸と呼ばれることがあるが、殿ケ谷戸もそのような場所であり、戦前の地図を見ると、田圃もあったようである。谷戸も時には崖を形成する。ただ、谷戸の出口近くになると国分寺崖線と谷戸の崖との境目は不明瞭になる。殿ケ谷戸庭園の斜面が、国分寺崖線に該当するか、谷戸の崖に該当するかは、決めの問題なのだろう。

斜面を下りて竹林に沿った竹の小径を歩く。仰げば、斜面が影と光でまだらになっている。竹の小径は踏み分け道ということだが、富士の溶岩で斜面を土留めしており、日本庭園に相応しい園路に仕上がっている。別荘だった頃には、武蔵野の林の中を散策する趣向の、踏み分け道のようなものが存在したのだろうか。

先に進むと次郎弁天の池に出る。池の上の木々の梢はまだ光の内にあるが、池はすべて影の内に沈み水面は黒みを帯びている。人の姿が画面に入り込まぬようカメラを構えるが、中々うまくいかず、結局、池の全体像が分からぬ写真を1枚撮って諦める。池には島が一つ。飛び石で渡れるようになっている。池の名の由来となった次郎弁天の所在は不明だが、島には祠を置けるスペースぐらいはありそうである。

池に沿って左へ行くと、斜面を上がって行く道がある。ともかく上がってみると、大芝生の端で行き止まりになり、小休止できそうな場所が設けられている。その近くに、馬頭観音の石碑が置かれている。馬頭観音とは馬の頭をした観音菩薩のことで、江戸時代には馬の守護神として民衆の信仰を集めていたという。この石碑は、飼っていた馬が死んだ時に百万遍の念仏を唱えて供養した石碑と思われるが、国分寺村にあったものを移したものとされている。石碑は、別荘地の一部に馬捨て場があったという話と何か関係があるのかも知れない。

池まで下りて先に進むと、湧水のある場所に出る。このような湧水のある場所や湧水による窪地の事をこの辺りではハケと呼ぶらしい。関東から東北にかけて、崖をハケまたはそれに似た言葉で呼ぶことがある。特に丘陵の端の崖をハケと呼ぶことが多いので、国分寺崖線をハケと呼んでも間違いではなさそうである。ただ、国分寺崖線については湧水との関わりで捉えている為か、湧水や窪地を特に区別してハケと呼んでいるようである。狭義のハケと広義のハケがあるわけだが、ハケという言葉は通称なので、厳密に考える必要はないのだろう。

湧水の場所から先に進むと、四段の滝がある。江口家の別荘だった頃からあった滝らしいが、この滝の水源には井戸が使われていた。現在は井戸水をポンプで鹿おどしの場所まで送り、小さな池を経て流し、その先で滝として池に落としている。ただ、水量が不足するためか、池の水を還流して加えているらしい。

池の辺りからイロハモミジに囲まれた紅葉亭を見上げ、それから急な道を一気に上がる。紅葉亭の南側は休憩所のようになっている。裏手には座敷があり、借りる事もできるようだ。紅葉亭からの秋の眺めは素晴らしい。次郎弁天の池の暗い空間とイロハモミジの輝くばかりの色彩とが見事なコントラストをなしている。昔は、この場所から殿ケ谷戸の先の野川の辺りも眺められたのかも知れないが、今の眺めは庭園の内だけに留まっている。

紅葉亭の西側に鹿おどしが設えられている。ここに、井戸の水がポンプで送られて来て、鹿おどしの竹が石を打つ音を間欠的に響かせ、流れ出た水は池となり、さらに小さな流れとなって、滝として池に落ちる。鹿おどしは農作物を荒らす鹿などを脅かすための仕掛けだが、その音が風流だとして庭園にも設けられるようになった。ただ、雨の時は深夜であっても音が鳴り続けてしまう。今は風鈴の音ばかりか幼稚園の音すら騒音になってしまう時代である。住宅地では鹿おどしの音も騒音扱いされかねない。

紅葉亭から先に進み、七草を植えている場所を過ぎて大芝生に出る。この辺りから眺めると芝生の庭園もどこか日本庭園の趣がある。岩崎邸の本館の一部は展示室として公開されているので入ってみる。展示品を見ながら各部屋を見て回るが、思いのほか質素な部屋である。旧岩崎邸庭園を見た後だからかも知れない。ここ迄で、殿ケ谷戸庭園を一周した事になるが、今回は樹木や草花については立ち止まって見る事はしなかった。次回は、そのへんに留意しながら、この庭園を回ってみたいと思っている。

<参考資料>「殿ヶ谷庭園」「東京の公園と原地形」ほか。


公園・庭園めぐり

2014-11-20 19:05:36 | 公園・庭園めぐり

我が家の花暦、今回はコムラサキ(ムラサキシキブ)。その紫色の実も残り少なくなり、葉も枯れかかって、冬を待ち受けるばかりになっている。

当ブログも8年目に入ったが、これを機に、新たな企画として公園・庭園めぐりを取り上げることにした。折から、都内9庭園の紅葉巡りスタンプラリーが開催中で、5カ所を回ればカレンダーを貰えるという事だったので、とりあえず回ってみた。

小石川後楽園は水戸徳川家の屋敷内に造られた庭園で特別名勝に指定されている。現在は白糸の滝や大泉水石橋の修復工事中で、仮橋が設けられていたため、何時もとは違った視点で大泉水を眺める事が出来た。

六義園は、柳沢吉保が屋敷内に造り上げた庭園で特別名勝に指定されている。訪れた時は津軽三味線の演奏会があり、その余韻に浸りつつ園内を見て回った。

旧古河庭園は、丘の上の洋館及び洋風庭園と低地の日本庭園から成っている。洋風庭園ではバラ、そして日本庭園では紅葉が始まっていた。

旧岩崎邸庭園は岩崎家の本邸だったところで、洋館、和館、撞球室が残っている。隣接する国立現代建築資料館では菊竹清訓展を開催中で、期間内は旧岩崎庭園から入場できるので見に行ったが、この建築家の事をもう少し知りたい気がした。

向島百花園は江戸の文人墨客の協力を得て造られた民営の庭園で、園内では、古菊の展示が行われていた。

ここまで5庭園を回りスタンプを集めたところで来年のカレンダーを入手することは出来た。しかし、ざっと見て回っただけでは少々物足りない気もした。そこで、9庭園以外の公園、庭園、植物園なども含めて、時間を掛けて見て回った上で、その都度、投稿することにした。