1817年、フレデリック7才のとき、ショパン一家はワルシャワのカジミエシュ宮殿Kazimierzowski Palaceの一画に転居する。後述のワルシャワ大学の東側に位置し、宮殿の東隣がカジミエジョフスキ公園、北に少し歩くと後述のラジヴィウ宮殿がある。有力貴族が住む地区のようだ。
フレデリックの才能に気づいた両親が本格的な音楽の指導を受けさせようと考えての転居だろうが、宮殿の一角に住めるのはフレデリックの評判がワルシャワの貴族にも届いていただろうし、スカルベック伯爵の口利きもあったのではないだろうか。
ただし、今回のツアーではカジミエシュ宮殿には立ち寄らなかった。
フレデリックは、引っ越ししてさっそく最初の作品になる「ポロネーズ ト短調」を作曲する。牧歌的なジェラゾヴァ・ヴォラ村から華やかな大都会ワルシャワに移ったことが刺激になり、泉の如く才能があふれ出したようだ。
8才のときにはワルシャワの貴族であるラジヴィウの宮殿でピアノ協奏曲を演奏し、喝采を浴びるなど才能を遺憾なく発揮する。
ラジヴィウは自らも楽器を弾き作曲もするほど音楽に造詣が深く、ホールを開放して演奏会を開いていたそうだ。音楽にうるさい聴衆を8才の少年が感心させたのだから、フレデリックの力量が想像できよう。
ラジヴィウ宮殿はよほど格式が高かったのか、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したとき司令部としたため破壊を免れ、現在は大統領官邸として使われている(写真)。堂々たる風格を見せる宮殿で臆せずピアノを弾き聴衆をうならせたというのだから、フレデリックのピアノの才能もさることながら、心臓の強さにも驚かされる。
1823年、13才のとき高等学校に入学、高校を卒業した1826年、ワルシャワ音楽院に入学する。「手塚治虫マンガ音楽館」(book489参照)の「虹のプレリュード」に難関のワルシャワ音楽院が登場していた。
日本ではワルシャワ音楽院、ショパン音楽院と呼ばれるが、1810年に設立された国立演劇学校が前身の音楽アカデミーで、1821年にワルシャワ大学音楽学部に組み込まれた。
フレデリック・ショパンが入学したのはワルシャワ大学音楽学部になる。1829年に卒業し、ウィーンでの演奏会に出かける。
「虹のプレリュード」にはこのころのワルシャワの状況が描かれている。
ポーランドは1795年にオーストリア、プロイセン、ロシアによる3度目の分割で消滅してしまう。ワルシャワはプロイセン支配だったが、1807年、ナポレオンの侵攻後、ワルシャワ公国が成立する。1815年、ナポレオンがロシアに敗退し、ワルシャワ公国はロシアに併合され、ロシア支配のポーランド立憲王国となった。
ロシアの圧政に対し、1830年、11月蜂起が起きる・・フレデリック・ショパンはその直前、ウィーンに旅立っていた・・。11月蜂起を制圧したロシアは、1831年、ワルシャワ大学を閉鎖し、音楽アカデミーも消滅する。
1861年に音楽アカデミーが復活するが、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツはワルシャワ音楽学校に名前を改めた。1979年になってフレデリック・ショパン音楽アカデミーに改称され、現在に至っている(写真)。
右手の門はバロックを基調にし、アールヌーヴォのおしゃれさもデザインされ、左手の校舎?は古典も取り入れたルネサンスのデザインのようだ。通りから眺めただけだから判然としないが、音楽アカデミーにフレデリック・ショパンを冠しているから、フレデリックが通ったころの面影が残っているかも知れない。
フレデリック・ショパンは、ワルシャワ大学音楽学部在学中に好きな女性ができ、彼女に捧げる「ワルツ」を作曲している。
ガイドによれば、その女性と住むつもりだった住まいが、ショパン音楽アカデミーの真向かいに建っている(写真)。2階真ん中の窓の左の銘板には「フレデリック・ショパン 1830」と刻まれていた。ショパンが実際にここに住んだのかも知れない。
ショパンの住まい?の前に「ショパン」と刻まれたベンチが置かれていた(写真)。ショパンゆかりの場所の案内図になっているようだ。
ベンチから「子犬のワルツ」が流れていた記憶がある。「子犬のワルツ」はショパンが30代後半、パリで亡命していたポーランドのデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人のために作曲されたそうだから、ワルシャワ大学音楽学部在学中の作曲ではない。
好きな女性に捧げたワルツの方がつじつまは合うと思うが、ワルツの軽快な感じは似ているのであろう。「子犬のワルツ」をあとにする。
少し先に、ショパンがワルシャワ大学音楽学部在学中、毎日曜のミサでパイプオルガンを演奏したウィジトキ教会がある(写真)。このミサで初恋の女性と出会ったそうだ。その女性が「ワルツ」を捧げられた女性だろうか、さらにはいっしょに住もうと思った女性だろうか、手元の資料には言及されていない。
教会は18世紀に建てられたバロック様式で、戦禍にあわなかったためショパンが弾いたパイプオルガンも残されている(次頁写真)。
フレデリック・ショパンがウィーンに着いて間もなく11月蜂起が起きる。ショパンの演奏会は開かれたが、ポーランド人への監視が厳しくなったため、パリに向う。
その途中、11月蜂起がロシアに制圧された知らせを聞く。ポーランドへの思いを込めて練習曲「革命のエチュード」を作曲し、精力的に作曲、演奏を続ける。のちに作曲された「英雄ポロネーズ」もポーランドへの思いが込められている。
パリでは、ピアノ製造業プレイエル氏の夫人に「ノクターン」を献呈、寄宿舎時代の学友の妹マリアと再開し「ワルツ」を贈呈・・のちに結婚を申し込むが、健康を心配した両親に反対され別れたため「別れのワルツ」と呼ばれる・・、ジョルジュ・サンドとマヨルカ島にいたとき「24の前奏曲」を作曲・・その一つが「雨だれ」・・などなど数々の名曲をつくるが、結核、インフルエンザを患い健康がむしばまれていった。
それでも1846年に「舟歌」・・ショパンの家の庭園の池あたりは「舟歌」と名付けられていた・・、「幻想ポロネーズ」などを作曲し、ヴィクトリア女王臨席の演奏会を始め、演奏旅行をこなした。
その後、病が進行し、重篤になったショパンは姉ルドヴィカの来訪を希望、ルドヴィカ、ポトツカ伯爵夫人に看取られ、1849年10月17日、39才の若さで息を引き取る。
パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、ルドヴィカはショパンの希望でショパンの心臓をワルシャワに運び、ショパン一家が通っていた聖十字架教会に安置した(上写真、右手双塔の教会)。
祭壇左手前の石柱の下に心臓が埋葬されていて、柱にはショパンの少し愁いを帯びたような頭部が浮き彫りされている(次頁写真)。
銘板の「フレデリック ショパン」の下には国民の意味のRODACYが刻まれている。1829年、19才でワルシャワを出て以降、ショパンは祖国ポーランドを失い、パリを本拠に作曲、演奏を続けながらいつか祖国ポーランドに帰りたいと願うものの、39才で病に倒れてしまう。祖国ポーランドへの願いが、RODACYに込められているようだ。
実際のツアーでは、聖ロフ教会、ショパンの家見学後にワルシャワに戻り、昼食前にワジェンキ公園に寄り、昼食後にショパンゆかりの建物を見学し、その後にショパンコンサートを聴く行程である。
ワジェンキ公園では夏のあいだの日曜、12:00~、16:00~の2回、無料でショパンコンサートが開かれる(写真)。広々とした芝生広場は足の踏み場もないほどの聴衆で埋まっていた。
広場の中ほどに円形の池があり、池に面したテラスに松の木陰で身をそらしたショパン像が置かれていて、その横の仮設テントでピアノが演奏される(写真)。ショパン像はかなり大きく、ピアノ演奏者を見守るようなポーズである。
演奏は1時間ぐらいらしい。この日は日射しがかなり強かったが、みんなショパンの音色に耳を傾けていた。
ワジェンキ公園にはワジェンキ宮殿もあるらしいが、私たちは1曲分の演奏を聴き、昼食レストランに向かった。
昼食後、ショパンゆかりの建物を見学、旧市街を散策してから、ショパンコンサートを聴いた。コンサートホールの一隅に席を取ったのかと思っていたら、ガイドはポーランド国立図書館の分館?別館?のホールの貸し切りだという。
セミナー室ほどの広さで、私たちが着席すると、さっそく演奏が始まった。演奏はChudak-Morzuchowski氏で、汗を流しながらの熱演だった(写真)。
およそ1時間、ポロネーズ、エチュード、ノクターン、マズルカなどを楽しんだ。目の前でピアノを聴く機会は少ないので、たっぷりとショパンに没頭できた。演奏後、サイン入りのCDを購入したので、帰国後、ときどきショパンを思い出している。
祖国に戻れない悲しみ、健康を損なった苦しみ、実らない愛のつらさがショパンの原動力だろうか。希望に向かう力強さとともに、重々しさ、悲しみがメロディに漂っているように感じる。(2019.8)