<日本の旅・神奈川を歩く> 鎌倉を行く3 2008.11 名月院 円覚寺/総門 三門 仏殿 舎利殿
建長寺から鎌倉街道を北西に下っていくと、およそ15分で円覚寺に着くが、昼食時を過ぎているので先に昼食をとることにした。古都にふさわしい食事処の一つが名月院がの傍にあるらしいので、先に名月院に向かう。
1160年永暦元年、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩提供養として名月庵が創建された。その後、北条時頼がここに最明寺を建立し、時頼の子の時宗が禅興寺を建て、その後に塔頭として名月院が建てられた。
現在は名月院だけが残っているが、四季折々の植栽で庭園が作られていて、なかでも総門手前から始まり本堂にかけて植えられたアジサイが際だっていることから(上写真)、別名アジサイ寺として知られている。いまは秋だからアジサイは見られないが、パンフレットのアジサイや花菖蒲はみごとである。
名月院本堂の庭は枯山水の庭園である(中写真)。玉砂利、石組み、緑のうねりから遠大な自然を思うか、あるいは歴史の劇的な場面を想像するか、枯山水から発想を自由に飛ばす。
枯山水も見応えがあるが、開け放たれた本堂の奥の丸窓を額縁とした庭園は、目を釘付けにする(下写真)。
こうした美の作り方は外国人もお気に召したようで、訪れた外国人グループがオーワンダフルなどと言いながら盛んに写真を撮っていた。京都に負けない美意識が鎌倉・室町時代に根付いたことをうかがわせる。
名月院そばの食事処で遅めの昼食を取ったあと、円覚寺に向かう。
鎌倉時代の1274年、1281年、中国の覇者となった元が日本に侵攻してきた。元寇である。鎌倉幕府8代執権北条時宗は、1282年、元寇の戦没者を弔うとともに禅道を広めたいと考え、中国僧の無学祖元(後の仏光国師)を招いて円覚寺を創建した。
円覚寺の名は、建立のとき大乗経典の円覚経が出土したことに由来する。正式名は瑞鹿山円覚興聖禅寺である。瑞鹿山は、仏殿開堂落慶のとき、無学祖元の法話を聞こうと山中から白鹿が集まってきたとの逸話に由来する。歴史のある寺社仏閣は逸話、伝承が少なくない。
現在は臨済宗円覚寺派の大本山で、鎌倉五山では1位の建長寺に次いで2位になる・・3位寿福寺、4位浄智寺、5位浄妙寺・・。
円覚寺も総門-山門-仏殿-(法堂)-方丈が、建長寺と同じように南西-北東の直線上に配置された典型的な禅宗様伽藍配置である。しかし、建長寺に比べ山あいが広く、上り斜面に伽藍が配置され、樹林が豊かなうえ、法堂は失われたままなので、禅宗様伽藍配置は建長寺の方が視覚的に明快である(伽藍配置web転載)。
円覚寺の参道は鎌倉街道から始まる(次頁写真web転載)。緩い上りの石敷きの参道は、白鷺池に架かった石橋に続いてJR横須賀線の踏切を渡る。横須賀線の開通は1888年だそうだ。北鎌倉駅まで徒歩数分だから参拝者には便利になった反面、鎌倉街道から参道を歩くときは踏切で電車通過を待たねばならない。一長あれば一短ありである。
踏切の先は急な石段で、その上に1860年に修復された総門が構えている(写真web転載)。単層の切妻屋根をのせた四脚門で、簡素である。扁額に瑞鹿山と記されている。
総門で一礼する。木立に囲まれた石段の上の三門=山門が見える。三門は建長寺の学習を再録すると、三解脱門の略で涅槃=悟りを開くための三つの関門「空、無想、無作」を解脱することを意味する。
石段下から見上げると居丈高に感じたが、石段を上りきると階高の高い2層の屋根が大きくせり出していて、さらに居丈高に感じる(写真)。禅寺は、覚悟して来られよといった感じが強いようだ。
1783年の再建で、間口3間、奥行き2間、1層目は建長寺と同じく仁王はなく白木の吹き放しである。楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢が安置されているらしいが、非公開である。
扁額が掛けられているが、建長寺のような唐破風は設けられていない。入母屋屋根を支える二重垂木、斗栱は建長寺三門と同じように力強い(次頁写真)。建長寺三門は1775年の再建、円覚寺三門の再建はその8年後、時期はあまり変わらないから同じような技術で作られたようだ。
一礼し三門を抜けると、堂々たる構えの仏殿が見える。遠目には木造と思えたが、関東大震災で倒壊し1964年に鉄筋コンクリート造で再建された(写真web転載)。
webには73年の仏殿指図に基づいて建てられたとある。現仏殿の斗供は、三門のような荒々しいが力強い表現と異なり、行儀よく並んだ整った表現に感じる。1573年は京都室町に幕府を移していた足利氏が織田信長に追われた年でありそうした混乱が指図に影響したのか、あるいは鉄筋コンクリート造で再建するときに現代的な表現が施されたのだろうか。
堂内は平土間で、宝冠を被った本尊釈迦如来坐像、脇侍の梵天立像、帝釈天像が安置されている(写真web転載)。天井には前田青邨監修による白龍が描かれている。堂内がクリーム色を基調としているため、白龍は建長寺法堂の黒を基調とした雲龍のような激しは抑えられているように感じる。
釈迦如来像に合掌し、表に出る。
仏殿の先の石畳を上る。右に大方丈を眺め、左の夢窓疎石作といわれる妙香池を過ぎて左に上ると、山林を背にして国宝の舎利殿が建つ(写真)。源実朝が宋の能仁寺から請来したと伝えられる仏牙舎利(釈迦の歯)を安置していることから舎利殿と呼ばれている建物で、15世紀前半ごろの建立と推定されている。
禅宗様を代表する建造物として国宝に指定されていて、教科書で学習し、日本建築史でも禅宗様の典型として取り上げられている。その舎利殿を実感できると勢い込んだが、なんと非公開で門が閉じられていた。
背を伸ばし遠望すると(前掲写真)、柿葺きの入母屋屋根が見える。資料によれば、裳階が付けられていて、屋根を支える斗栱をすき間を空けずに並べられ=詰組、垂木は扇状であり、柱には粽が施され、花頭窓、桟唐戸が用いられるなど、典型的な禅宗様が採用されているそうだ。
その実際を見られないのは極めて残念である。国宝なのだから、外観だけでも近くから見られるように工夫して欲しいね。
妙香池の横を下り、大方丈の先を左=南東に曲がって崖のあいだの急階段を上ると切妻屋根の簡素な、どちらかといえば粗末な、鐘楼がある(写真web転載)。この鐘が洪鐘(おおがね)と呼ばれ、建長寺梵鐘とともに国宝に指定されている。鐘を突く橦木(しゅもく)は痛んでいるから整備が滞っているようだ。鐘楼も橦木も梵鐘と一体で意味をなす。橦木が国宝なら鐘楼も橦木も一体に整備した方がいい。梵鐘に疎いとはいえがっかりさせられた。
鎌倉・室町時代の禅宗様を代表する寺院として建長寺とともに円覚寺を習い、国宝の舎利殿も記憶に残っている。しかし、門越しにしか舎利殿を見られなかったし、仏殿が鉄筋コンクリート造だったし、法堂は空地のままだったし、鐘楼が粗末だったし、などなどで物足りなさを感てしまった。
寺は悟りを開くため、無心になり経典を修める場なのだから、形あるもに気を取られ物足りなく感じるのは、まだまだ凡人の域を出ていない証である。反省しながら急階段を下り、総門に出て一礼し、円覚寺を後にする。北鎌倉駅はすぐそこである。 (2008.11+2022.1)