2019.5 ポーランドの旅 13 ショパン/聖ロフ教会・生家
教科書で習ったポーランドの偉人といえば、キュリー夫人、コペルニクス、ショパン(1810-1849)があげられる。
日本の偉人といわれればとても3人に絞れないから、ポーランドでも大勢の偉人がいるはずだが、ポーランド初心者にはこの3人ぐらいしか浮かばない。
なかでもショパンはコンサートでも聴くし、テレビの音楽番組でも取り上げられるから、身近である。今回のツアーでは、5日目にショパンの生家訪問やショパンピアノコンサートが組まれていた。
ショパンの父はフランス人のミコワイ・ショパンである。
ミコワイは16才のときにポーランドに来て、スカルベック伯爵の家庭教師などの職を得る。そのころ、貴族社会ではフランス語が流行していたというのをどこかで読んだことがある。ポーランドでも貴族はたしなみとしてフランス語を学んでいて、フランス人ミコワイがフランス語教師を兼ねた使用人として雇われたのではないだろうか。
1806年、ミコワイはスカルベック家で小間使いをしていたスカルベック家の遠縁のクシジャノフスカと結婚する。
結婚が許されるくらいだから、ミコワイの働きぶりや人柄が評価されたのであろう。二人は屋敷の一角に住み、1807年に姉ルドヴィカ、1810年にフレデリック・ショパン、1811年に妹イザベラ、1813年に妹エミリアが生まれる。
洗礼を受けた聖ロフ教会
ミコワイとクシジャノフスカの結婚式はこの地区の教区教会である聖ロフ教会で行われた。 ポーランド5日目、日曜、朝9時過ぎにワルシャワから車で1時間ほどの聖ロフ教会を訪ねた(写真)。
16世紀の建造だそうだが、聖堂も、正面側2本、祭壇側1本の塔もレンガ積み、周りにもレンガ積みの塀を回した堅固なつくりである。
塀には銃眼の穴が設けられていて、塔の最上階には大砲が据えられていた。ガイドは、教会には寄付が多く狙われやすいので堅固なつくりになった、と説明していた。いざ戦闘となれば、村人はこの教会に立てこもり、戦ったのではないだろうか。激動の歴史を感じる。
堂内はバシリカ式の素朴なプランだが、ヴォールト天井やアーチの縁取りをタイルで仕上げ、身廊の壁の白漆喰に対し祭壇の壁をサーモンピンクにするなど華ぎも感じる(写真)。
祭壇奥はイエスの昇天図、壁には黒い聖母子像図と巡礼姿の聖ロフ図が飾られている。黒いマリア信仰が根強いらしい。聖ロフは巡礼者の身なりで、ひょうたんを下げた杖を持ち、足元にパンを加えた犬が控えている。聖ロフは、巡礼者の守護神だそうだ。
正面脇の洗礼盤のブロンズの蓋には、ショパン 23.Ⅳ.1810と刻まれている(写真)。壁にも洗礼を受けた記録が展示されていた記憶がある。
夏の日曜午後にはショパンコンサートが開かれるらしい。ショパンの名曲を聴きながら、洗礼姿のショパンを思い浮かべるのも一興であろう。
教会の裏側には池があり、池に写った聖ロフ教会の写真が記念になるらしいが、異常気象の大雨で池が濁り、写真映えはしなかった。
ショパンの生まれた家
聖ロフ教会から10kmほどのジェラソヴァ・ボラZelazowa Wola村にショパンの生まれた家が再現されている(写真)。
父ショパンはアマチュアながらヴァイオリンを弾き、母もピアノと声楽が得意だったそうだ。両親の音楽を楽しむ環境で、ショパンも4才のころにはピアノを親しむようになった。
6才のころに、ジブニーのもとでピアノの指導を受け、頭角を現していったらしい。
ショパン一家はフレデリックが7才のときワルシャワに移るので、ショパンの生まれた家には7才までしか住んでいない。
スカルベック伯爵はこの地方の領主だったらしく、屋敷も広大だったに違いない。ポーランドの激動の歴史のなかで、かつてのスカルベック家の屋敷もショパンが生まれた生家も焼け落ちてしまったようだ。
早くからショパンの生家再建が構想され、着手されたが、戦争や資金難などで延び延びになり、1949年、ショパン没後100年を記念して再建された生家がショパン博物館として公開された。周辺は、スカルベック家の屋敷跡だろうか?、公園Rozspiewany Parkとして整備された(図は子ども向けのパンフレット、入口は左下)。
入口右手にミュージアムショップを併設した展示ホール・・ショパンのデスマスクが展示されていた・・、左手に映像室を併設したカフェがある。
この日はこどもの日(ポーランドの子どもの日は6月1日)のイベントがあり、子どもたちが大勢来ていた。イベントの一つに、野外ステージのピアノ演奏があった。子どもたちが次々にピアノの腕前を披露し(写真)、家族、友人と一緒に見学者も演奏した子どもに温かい拍手を送っていた。ショパンの生家だからピアノ演奏があっていいし、子どもの日だから子どものピアノ演奏があっていい。小さいころからショパン、ピアノ、音楽に親しめる環境がうらやましい。
ショパン生家は前掲図の中央に位置する。平屋建てで、入口ホールから順に主人の部屋、ショパンの生まれた部屋、リビングルーム、音楽室などを見ていく。ショパンが8才で作曲したポロネーズの楽譜やショパンの日記、生家再建の取り組みなども展示されている。
ショパンの時代のフランス・エラール製のピアノも置かれていた(写真)。音楽室では、庭園側のテラス戸を全開にし、庭園側の聴衆に向けて定期的にピアノ演奏会が開かれるそうだ。
この日は子どもの日のイベントがあり、ピアノ演奏会は開かれていなかった。演奏会の雰囲気を想像しながら、庭園を歩く。
前掲図右側の小さな小川に架かっている橋はマズルカ橋、ポロネーズ橋と名付けられ、池のあたりには舟歌と呼ばれている。庭園全体がショパンを感じられる造園になっているようだ。
11時過ぎ、ショパンの生家を後にして、ワルシャワに戻る。(2019.8)