先日、白内障手術やコロナで暫くご無沙汰していた書道のお稽古に久し振りに行ってきました。







帰りにデュッセルドルフのお花屋さんで桃の枝を購入してきました。
デュッセルドルフ在住の日本の方は「桃の節句」の頃、やはり桃の枝を購入されるご家庭が多いそうで、
この時期は桃の枝を多く揃えています。
日本の桜の枝もありましたが少し元気がなさそうでした。
お花屋さんの雰囲気がいつものように明るく感じられなかったのはウクライナのことで少し沈鬱気味になっている私の心模様のためかもしれません。


購入してきた桃の花が開き始めました。


そういえばそろそろ七十二侯の第八侯「桃始笑(ももはじめてさく)」の時期です。
「笑」という漢字を「さく(咲く)」と読ませているのは、昔は花が咲くことを「花笑み」、
そして花のように笑うことも「花笑み」と言ったと季節手帖に記されていました。
「桃が笑って、人も笑って・・・・。これが長寿の秘訣なのかもしれませんね」という文章もありましたが、
ウクライナの講和が締結されたとしても、将来心の底から笑うことはもう出来ないかも知れません。
追記
先日、下の弟の誕生日に「寅」の書を贈ったこと。
上の弟の時は「鼠」の書が難しくて挫折してしまったと記しました。
ネズミ年の字は「鼠」ではなくて「子」ではと友人から指摘されました。
確かに「子年」なのですが、敢えて「鼠」に挑戦したのは書道のお稽古の書き初めのことがあったからです。
毎年年末になると書き初めの準備をするのですが2年前は以下のお手本でした。

これは草書で、以下が楷書です。

まず楷書で「鼠」をしっかり書けるようにしてから、草書で仕上げようと一応練習したのですがねぇ。
(「鼠」の字に書き順を数字で記しています)
でもやはり上手く出来なくて挫折してしまいました。
本当は以下の友人の書のように色紙にしたためたかったのですが。

春立つや静かに鶴の一歩より(召波)
そして、桃の節句に桃を飾る風習も日本と同じようにあることにも。
お花屋さんも、ちゃんと知っていて仕入れてくれるんですね。
ウクライナのことで胸を痛めているので、なんとなく気が晴れませんね。
日本にいる私でさえこうなのですから、ドイツは近いですから
ドイツの皆さんも不安な思いをされていると思います。
早くよい方向に向かってほしいですね。
Dusseldorfで書道を習っていらっしゃるのですね。ドイツ人も習ってるのかしら?その上、桃や桜まで買えるなんて、きっとお雛様も飾った日本人がたくさんいるのでしょうね。駐在員も持っていくのかしらね?(^^;
yokoさんの書、楷書も草書も素晴らしいですね✨「鼠」も美しいですし、憧れの草書が素敵です(*^^*)
ウクライナ。。辛いニュースが続いていて、胸が痛み、涙が滲みますが、ドイツを始め、周辺の国々の温かいサポートにもまた感動してます。。
コメントありがとうございます。
デュッセルドルフには日本人が6000人以上も住んでいます。
5月には「日本デー」も開かれ(ここ2年程、コロナで中止されていますが)、
夜は日本から花火師さんを呼んで、ライン河で花火大会が開かれます。
ここのお花屋さんにも日本人のフローリストがいるので、日本の慣習にあった花材を揃えてくれるのです。
ドイツはコロナの感染者数はなかなか減少しないのですが、幸い重傷者が少なくて病院にも余裕が出てきたので、
ウクライナからは避難民と共に特に治療が必要な病気の方々を引き受けています。
先日もデュッセルドルフの近くの小児癌専門の病院にはウクライナから23人の小児癌の子供たちが搬送されてきました。
コメントをありがとうございます。
私の書道の先生はカルチャーセンターでドイツ人に書道を教えていらっしゃいます。
ドイツの方は日本の方のように従順(?)ではないので、
先生の指導することをあまりきかずに勝手に作業してしまう人がいて困ることも多いようです。
ドイツにいらしたことのあるwakoさんだったらおわかりになるかもしれないですね、あくまで「我が道を行く」みたいなドイツ人を(^○^)。
楷書も草書も先生のお手本です。
言葉が足りませんでしたね。
こんなに上手に書けていたら、上の弟の誕生日に贈ってあげられたのですが。
駐在員のご家庭で日本から家財道具を持って来られる方はほとんどいません。
特に銀行関係では過去に駐在してらした方々がドイツで購入された家具は「銀行の持ち物」ということで勝手に処分してはいけないと聞いたことがあります。ですからお雛様も日本から持って来られる方は少ないのではないでしょうか。
このところロシアの無差別攻撃が酷くなっていて、これ以上犠牲者を出さない為に、ウクライナは屈辱的な条件でも投降すべきではないかとの悲観論もきかれるようになってきました。
昔、ソ連がフィンランドに侵攻した時(1939年から40年)、フィンランドは果敢に戦ったのですが、戦死戦傷者が7万人近くになった時にこれ以上犠牲者を増やさないようにと、フィンランドの国土の10%以上(それも工業地帯)を手離すという屈辱的な講和条件を受け入れたことがあるのです。
ソ連の戦死戦傷者は40万人にも及んだはずですが自国民の犠牲者のことは全然考慮しなかったようです。
スターリンの時代ですからね。
ご返事長くなり恐縮です。