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きょう、藤井貞和という詩人の詩を読んだ。
何が書いてあるのかさっぱり解らなかった。おかげですっかり落胆してしまった。もう詩を読む気力はもちろんのこと、詩を書く自信もなくしてしまったのだった。
だが、そのまま投げ出してしまうのは悔しい。れっきとした活字になった詩集だし、たくさんの人が読んでいるにちがいない。もちろん、解るひとも解らないひともいるだろう。
けれども、ぼくも一応は詩を書いたりする人間のはしくれだ。このまま投げ出してしまうわけにはいかない。詩なんか書くひとでなければよかった、詩なんか読むひとでなければよかった、と後悔してももう遅い。たとえヘボ詩でも、書きたい欲求がある以上、誌というものの周辺から逃げ出すわけにはいかない。
再び手にとって読み始める。
でも、やっぱり解らない(というか情感が反応しない)。
そこで、巻末の解説を読むことにした。高橋源一郎の『藤井貞和の作品を解説する』である。
普段から高橋源一郎の書くものは好きだし、彼は詩と小説の両方に軸足のある作家だから、詩の方へも解りやすく誘導してくれるだろうと期待したのだった。
高橋源一郎による詩の世界の把握の仕方、というか世界把握の仕方は、次の3つに分けられていた。(あくまでも解説された詩に関してだが)。
日常的な論理が支配する世界
小説的論理の世界
芸術の論理が支配する世界
の3つ。
日常的云々の世界とは、普段の生活を営んでいる状態であり、芸術云々の世界とは、たとえば詩を書いている(あるいは読んでいる)状態だという。そして中間にある小説的云々の世界とは、前のふたつの世界を媒介する浸透膜のようなものだという。
日常生活を昼間とし、芸術的生活を闇とした場合、「昼間の論理を保持したまま芸術的闇の論理の世界へ入りこんでゆく」のが、中間にある浸透膜の部分、小説の世界なのであり、たいていの読者は、昼間の論理の中に半身を埋めたままの、半身通俗的で半身芸術的な読者だという。
これを、昼でもなく闇でもない状態に宙吊りになった、「半バカ状態」と彼はいう。
「それは燦燦と陽が降り注ぐ表から映画館の暗闇に入った時の感じではあるまいか。目が暗闇に慣れない。それから少しずつ慣れてく。いや、おれはいつだっていきなり詩集を読みはじめても大丈夫という人がいたら、それはたぶん年中暗闇の中にいるからじゃないかしら」と。
まったく同感。いつも日常生活に手足を捉えられている身としては、この例えは分りすぎて可笑しい。
もっとも、ここで解説されている詩は、『「『清貧譚』試論」改補』という詩だが、このあと、ぼくも早速その詩を読んでみて、自分が少しばかり半バカになれたことを確認できた。この詩はよく解った。
けれども、その前にぼくが読んでいた詩は、『地名は地面ヘ帰れ』という詩集だったのだ。タイトルからして、解るようで解らない。
そこで再び、その詩集を読み返してみたが、やはり、ぼくは半バカになれてなかった。あいかわらず、ちんぷんかんぷんだった。
この詩を理解するには、生半可な半バカでは駄目なようだった。
では完全なバカになるか、あるいは、うんと利口になってバカの壁を跳び越えてしまうか。う~ん、それができれば悩むことはなかったと思う。
何が書いてあるのかさっぱり解らなかった。おかげですっかり落胆してしまった。もう詩を読む気力はもちろんのこと、詩を書く自信もなくしてしまったのだった。
だが、そのまま投げ出してしまうのは悔しい。れっきとした活字になった詩集だし、たくさんの人が読んでいるにちがいない。もちろん、解るひとも解らないひともいるだろう。
けれども、ぼくも一応は詩を書いたりする人間のはしくれだ。このまま投げ出してしまうわけにはいかない。詩なんか書くひとでなければよかった、詩なんか読むひとでなければよかった、と後悔してももう遅い。たとえヘボ詩でも、書きたい欲求がある以上、誌というものの周辺から逃げ出すわけにはいかない。
再び手にとって読み始める。
でも、やっぱり解らない(というか情感が反応しない)。
そこで、巻末の解説を読むことにした。高橋源一郎の『藤井貞和の作品を解説する』である。
普段から高橋源一郎の書くものは好きだし、彼は詩と小説の両方に軸足のある作家だから、詩の方へも解りやすく誘導してくれるだろうと期待したのだった。
高橋源一郎による詩の世界の把握の仕方、というか世界把握の仕方は、次の3つに分けられていた。(あくまでも解説された詩に関してだが)。
日常的な論理が支配する世界
小説的論理の世界
芸術の論理が支配する世界
の3つ。
日常的云々の世界とは、普段の生活を営んでいる状態であり、芸術云々の世界とは、たとえば詩を書いている(あるいは読んでいる)状態だという。そして中間にある小説的云々の世界とは、前のふたつの世界を媒介する浸透膜のようなものだという。
日常生活を昼間とし、芸術的生活を闇とした場合、「昼間の論理を保持したまま芸術的闇の論理の世界へ入りこんでゆく」のが、中間にある浸透膜の部分、小説の世界なのであり、たいていの読者は、昼間の論理の中に半身を埋めたままの、半身通俗的で半身芸術的な読者だという。
これを、昼でもなく闇でもない状態に宙吊りになった、「半バカ状態」と彼はいう。
「それは燦燦と陽が降り注ぐ表から映画館の暗闇に入った時の感じではあるまいか。目が暗闇に慣れない。それから少しずつ慣れてく。いや、おれはいつだっていきなり詩集を読みはじめても大丈夫という人がいたら、それはたぶん年中暗闇の中にいるからじゃないかしら」と。
まったく同感。いつも日常生活に手足を捉えられている身としては、この例えは分りすぎて可笑しい。
もっとも、ここで解説されている詩は、『「『清貧譚』試論」改補』という詩だが、このあと、ぼくも早速その詩を読んでみて、自分が少しばかり半バカになれたことを確認できた。この詩はよく解った。
けれども、その前にぼくが読んでいた詩は、『地名は地面ヘ帰れ』という詩集だったのだ。タイトルからして、解るようで解らない。
そこで再び、その詩集を読み返してみたが、やはり、ぼくは半バカになれてなかった。あいかわらず、ちんぷんかんぷんだった。
この詩を理解するには、生半可な半バカでは駄目なようだった。
では完全なバカになるか、あるいは、うんと利口になってバカの壁を跳び越えてしまうか。う~ん、それができれば悩むことはなかったと思う。
言葉から解放されたい。外からやってくる言葉ではなく、自分の内から湧き出してくる言葉が欲しい。まだ言葉になりきれていない言葉、曖昧な形のものを言葉に変えていく。
この素敵な紹介文に魅かれました。
共感します。
己が納得する言葉探しの旅。応援しま^す^
コメントありがとうございます。
力強い応援メッセージをいただき、とても
励まされます。
のしてんてんさんの龍を描いた絵など
ぼくの言葉など到底およばない境地のものです。