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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

天然のスイーツ

2025年02月27日 | 「2025 風のファミリー」



山裾の一角の、岩肌が露わになったなんでもない場所が、とつぜん夢の中で浮かび上がってくることがある。ふだんは思い出すこともないが、子供の頃のある時期には、とてもだいじな場所だったようなところ。そんな場所だ。
そこはいつも、山の清水が滴り落ちている。寒い冬の朝、雫が凍って氷柱(つらら)になっている。手を伸ばして氷柱を折る。細く尖った先の方から口に入れてガリリっと噛み砕く。氷が溶けて、口の中に草のような土のような匂いと味がひろがる。冷たくて麻痺した舌に、岩肌を伝ってきた岩苔の味もかすかにのこる。

それは夢の情景だが、目覚めてみると、子供の頃の記憶の情景と鮮明に繋がっている。北国の冬ではないから、いつも氷柱が出来るとはかぎらない。とくに寒い朝だけ、その一角に珍しく貴重な氷の柱が現れる。
氷柱には大小のさまざまな形があった。子供にとって、その不思議な形と輝きは、とても自然の造形とは思えないものだった。
氷だから、手に持っているとすぐに溶けてしまう。ポケットに仕舞うわけにもいかない。大切なもののようだけど、どうしていいかわからない。とりあえず口に頬張ってしまう。噛み砕いてみる。とくに美味しいものでもなかったと思う。

秋の山ぶどうやアケビは、甘かったり酸っぱかったりするものだった。葛の根や甘根草の根はすこし苦かった。春先のツバナの白い穂は無味だった。
食べられると教えられたものは、なんでも口にしてみる。野山にあるものに接すること、それが田舎の子供たちの遊びであり習性でもあった。まず咀嚼してそれぞれの味を確かめてみようとする。そうやって、しらずしらずに自然の味が、小さな体にしみ込んでいったのかもしれない。

タイムカプセルを開けるように、夢はときどき古い箱を開いてみせる。
記憶の氷柱をガリリっと齧っているのは、子供なのか大人なのか夢の中ではわからない。美味しくも不味くもない、曖昧な味がする。
細い氷の柱。小さな体が記憶した天然の味。たまたま寒い朝に恵まれた物。定められた場所に、有れば歓喜し無ければ落胆した。いまでも夢の雫となって滲み出してくるほど、私にとっては忘れられない、とても美味な冬のスイーツだったようだ。

 

 

「2025 風のファミリー」




 


瞑想する椅子

2025年02月18日 | 「2025 風のファミリー」



近くの公園に、丸い形をした石の椅子がある。椅子は数個あり、それぞれの座面にいろいろなわらべ唄がプリントされている。そのひとつに座って、私は瞑想もどきをすることがある。今朝の椅子には、次のような唄があった。

おさらじゃないよ はっぱだよ
はっぱじゃないよ かえるだよ
かえるじゃないよ あひるだよ
あひるじゃないよ かっぱだよ

解るようで解らない唄だ。ややこしい椅子に座ってしまった。私の雑念が始まる。
椅子は一所不動。それ自体が常に瞑想状態にあるといえる。その椅子に腰掛けて瞑想しようとする私は、言葉が迷走する椅子と対峙し、すぐさま雑念に捉われることになる。 
瞑想が極まれば木の葉が地面に落ちる音が聞こえるそうだが、私の耳に入ってくるのは「はっぱじゃないよ」という雑音ばかりだ。はっぱでなければ何なんだ。おさらだよ、という声が聞こえる。そして、すぐさまそれを否定する声が聞こえてくる。かえるだよ、あひるだよ、いや、かっぱだよ。あひるもかっぱも迷走する。

視乎冥冥 聴乎無声とは荘子の言葉だったかな。見えないものを見、声なき声を聞けと言われても、見えるものは、目の前の雑草と子ども達が書きなぐった地面の落書き。
ネットで瞑想という言葉を検索したら、私のパソコンでは、まず「迷走」と出てくるのが皮肉だ。これまでどれだけ多くの「迷走」を打ち込んだものやら。そのあとに「目を閉じて静かに考えること。眼前の世界を離れてひたすら思いにふけること」と変換される。だがはっぱの世界は脳裏を離れず、重たい冬空がずっと眼前を塞ぎつづける。

私の尻の下で静かに瞑想するのは、私ではなく冷たく固い不動の椅子だ。その椅子が捨てていく、おさらやはっぱの雑念が、私の想念をつぎつぎに浸食してくる。瞑想しているのは椅子なのか、私なのか分らない。頑として動かない石の椅子には叶わない。ついにはタイムアップ。私は雑念そのものの塊となって立ち上がる。
この雑念を背負って、きょう一日が始まることになる。おさらやはっぱごときを、今日一日の活力にできるのだろうか。

雑念は濁った水のようなもので、私の体の中を駆けめぐる。朝から昼へ、昼から夜へ、すこしずつ濾過され蒸留されて、一滴の澄んだ水が残るときもある、残らないときもある。今日という日を記憶に残せるときもある、残せないときもある。
おさらであったり、はっぱであったり、あるいはかっぱであったりしながら、日々は雑念の中で雑念と闘いながら過ぎてゆく。

 

 

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泳ぐことや飛ぶことや

2025年02月10日 | 「2025 風のファミリー」



鳥になって空を飛んだり、魚になって水中を泳いだりする、そんな夢をみることは、たぶん誰でも経験することだと思う。かつてアメーバだったころの古い記憶が、ひとの深層にある眠りの回路を伝って、原始の海から泳ぎだしてくるのだろうか。あるいはまた、かつてコウノトリに運ばれた未生の感覚が、意識の底から夢の中へと舞い戻ってくるのだろうか。
近くにある公園の池に水鳥が飛来している。毎年、こんな小さな池を忘れずにやってくる渡り鳥たちも、何か抗いがたい自然の力に支配されているのかもしれない。

彼らにエサを与えるのを日課にしている人もいるのを心得ていて、鳥たちは人の気配を感じると橋の下に集まってくる。三角の尾をピンと立て、さかんに鳴き騒ぎながら、次第に興奮状態になっていく。人の手が欄干の上に伸びると、鳥たちは水面を十センチほど飛び上がってエサを取り合うのだが、うまくキャッチできずに、結局は水面に落ちたエサを追って水球選手のように慌しく泳ぎまわって争っている。

この池は、大昔に作られた農業用ため池なのだが、いまや公園の景観に欠かせないものになっている。最近発行された地域の広報誌によると、この池の水はすべて雨水だという。雨の少ないこの地域で、池にたまった水は貴重なものだったに違いない。いまでも一部農業用水として管理されており、毎年秋口になると池の水を完全に干してしまう。それでも満水になると、いつの間にか小さな魚が泳いでいる。魚の放流は一切していないということだが、春から夏にかけては、フナやブラックバスが泳ぎまわっている。まさか魚が天から降ってくるわけでもあるまいし、いったいどこから湧いてくるのか不思議だった。

ところが池の魚を運んでくるのは、鳥だという。
広報誌の記事によると、魚の卵が水鳥たちの水かきにくっついて運ばれてくるのではないかとのこと。そんなことを初めて知って、私は納得するよりもびっくりした。
山深い源流の小さな水たまりに、ハヤなどが泳いでいるのを見かけることがあるが、あれも鳥たちに運ばれた命だろうか。まるで蜂などの昆虫が花粉を運ぶようなものではないか。さまざまな生物がさまざまな方法で命をつないでいく、小さな生命が循環する姿をおもうと神秘でもある。

やがて春がきて、池の水が温かくなるころ、水鳥たちはまた何処かへと去っていく。そのあとで魚たちの卵は孵り始めるのだから、魚たちは鳥のことを知らず、鳥たちは魚のことを知らない。この池の魚は魚族でありながら、いちどは空を飛んだことがあったのだ。
池や空の、水と大気の境界が曖昧になる薄暮のころ、魚たちが跳ねているのを見かけることがある。水面近くのエサの虫を狙っているのだろうが、魚たちは、小さな虫たちの飛翔に憧れる、ということはないだろうか。
泳ぐことや飛ぶことが、四季折々の変遷の中で夢幻の交錯をしながら、こうして池の風景もまた、命があるもののように再生しつづけている。

 

 

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恋する水鳥たち

2025年02月04日 | 「2025 風のファミリー」



近くの池で、水鳥がひときわ変わった泳ぎをしている。
2羽で追いかけっこをしている。それも、どちらが追いかけて、どちらが追いかけられているのか判らない。ぐるぐるとコマが回っているような円を描いている。その動きは激しくて、池のその部分だけが沸騰しているようにみえる。

水鳥が恋をしているのだと思った。雄と雌2羽は相思相愛の仲。追いかけているのか追われているのか、その動きが証明している。片思いであれば、どちらかが追いかけ、どちらかが逃げる。その動きは直線になるはずだ。だが、この2羽はひたすら円を描きつづける。もう何も見えないといった激しさで渦巻きつづける。恋というものを目に見える形にすると、このような絵になるのかもしれないと思った。

また、あるときは20羽くらいが集団で渦巻いている。こちらも激しい動きで熱気がある。さしずめ合コンといったところだろうか。
渦巻きは1羽2羽と他の水鳥も巻きこんで、次第に大きくなっていく。これはまたスポーツに近い恋といえるかもしれない。かつて祭りの夜に若い男女が集まって、踊ったり歌ったりして恋が生まれたような、おおらかで原始的な恋のロンドをみるようだ。

もちろん水鳥が恋をしているなどとは、水鳥の生態を知らない私の勝手な想像だ。
立春が過ぎ、いちだんと寒くなった朝に、そこに春の気配をみている能天気な人間は、たぶん私だけかもしれない。鳥たちの水掻きでかき混ぜられた春の渦潮が、私の頭の中でうずまいているようだ。
やがて水鳥たちは、この池に春を残して何処へか飛びたっていく。

 

 

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星の世界をゆく

2025年01月30日 | 「2025 風のファミリー」



いままでに見た、いちばん心に残った夜空の星は、標高1800メートルの山頂で見た星空だった。
美しいとか素晴らしいというよりも、圧倒されたと言った方がいいかもしれない。星が幾重にも重なって輝いている透明な壁のようだった。手を伸ばせば触れることができそうで、それでいて無限に深く澄み渡っているのだった。星ではない何か、空を覆いつくしているもの、空そのもの。昼でもない夜でもない、もうひとつの、はじめて見る空の形だった。

夜に向かって山に登るな、という山登りの鉄則は知っていた。だが、目当てにしていた麓の山小屋が雪崩をうけて潰れていた。もはや引き返すこともできない。そのまま山を越えることにしたのだった。
すでに陽も沈み、登るほどに夕闇が追いかけてきた。山頂に着いたときは、すっかり夜の幕が下りていた。冷たい風が吹き抜けていくなかで、無数の鈴を鳴らすような澄んだ響きが辺りに満ちていた。凍った草の葉先が触れ合ってガラスのような音を発しているのだった。まるで満天の星と共鳴する天上の音楽だった。

体が急激に冷えたので、コンクリートでできた無人の非難小屋に入って風を避けた。中は何もなく暗闇だ。四角いがらんどうの窓に、ぎっしり詰め込まれたように光っている星。充満しているのに空洞のような、異界の景色を見ているようだった。
懐中電灯で5万分の1の地図を照らし、目指す谷あいの山小屋の位置を確かめた。どこも一面の雪だから、道があるかどうかもわからない。自家発電が止まってしまわないうちに、山小屋にたどり着かなければならなかった。

斜面を下りはじめたら風もなくなった。明るすぎるほどの星空に比べて、足元はあやふやな闇の底だった。懐中電灯で照らされた所だけ積雪が白く浮き上がる。わずかに平らな部分を道だと推測しながら足を下ろす。確かなものがない心もとない歩行だった。
積雪の表面に張った薄氷が靴の下で細かく砕ける。その感触だけが歩いているという実感だった。立ち止まると砕けた雪氷の細かい欠片が、闇の斜面をすべり落ちていく。そのせせらぎのような音はしばらく鳴り止まない。吸い込まれていく音の先には深い谷があるようだ。足を滑らせたら、どこまで落ちていくかわからなかった。

星空が美しすぎて恐かった。山の鉄則を犯した自分は、すでに異界の宇宙を歩いているのかもしれないと思った。無数の星が饒舌に瞬いている。しかし音を発するものはひとつもない。豊穣なのに静寂、ひしめき合っているのに言葉はない。
星々の異常なまでの明るい輝きと地上の闇。それは、ぼくがそれまで生きてきた世界ではなかった。生の世界から死の世界へと入っていくのは、容易なことかもしれないと思った。気付かないうちに、その一歩を踏み出していて、ふと居眠りをする、その程度のことが起きようとしているのかもしれなかった。

どのくらい歩いただろうか。妄想か現実かわからない中で歩行を続けていたら、とつぜん暗闇のずっと先に光っているものが見えた。宇宙から落ちた星がひとつだけ光っているようだった。いままで自分は宇宙を歩いていたのか。感覚がすこし狂っていた。
この地上にも光は存在し、光を発するものがあるということを認識するのに間があった。それは温かくて柔らかい色をしていた。そこには人が居て生きていると思える色だった。体じゅうが熱くなった。深い雪に足をとられながら、その光る地上の星を目指してまっすぐに歩いていった。

 

 

「2025 風のファミリー」