CLARK TERRY
「師匠」という言葉がある。先生や先輩よりも響きがいい言葉だ。
一般的な教養や知識は本、いや、今ではインターネットで簡単に身につけることができる。
しかし、音楽を含めて芸術や技術は体に覚えこませなければ、なかなか一人前にはなれない。その為には才能があることが前提にはなるが、それに加えて良き指導者と、その元で切磋琢磨して練習に励む努力が必要である。実際に手とり足取り「技」を授けてくれるのが「師匠」だ。
誰でも自分の人生の中で、何かのテーマで誰か「師匠」というものが存在し、その人に対しては一生尊敬と感謝の気持ちが続くものだ。
特に、技を極めれば極めるほど、「師匠」の教えがよく分かる。
自分も小学生時代、水泳の指導を受けて初めて泳げるようになった時の師範を忘れることができなかった。自分にとっての泳ぎの「師匠」だ。
その後、学校の先輩であったその人の消息を知る事も無かったが。十数年して会社勤めを始めた時、その会社にその先輩がいることが分かった。
そして、それからまた十数年して、同じ職場で働くことになった。
ちょうど職場にコンピューターが導入され始めた時であった。
自分はその推進役。反対にその先輩は部門で一番の機械音痴。アシスタントの女性もいささか面倒を見るのに手を焼いた厄介者だった。
何度教えても覚えない、分からないとすぐに聞きに来る、人一倍手が掛かる一人であった。
とにかく手の掛かる先輩ではあったが、自分にとって師匠はいつまで経っても師匠だし、反対に、遠慮せずに何でも聞いてくれるのが嬉しかった。
自分は、その先輩からの質問にどんな些細な事でも対応していた。というよりは、せざるを得なかった。昔の恩返しが少しでのできればという気持ちで。
いつのまにか、その先輩は例外処理や裏技にも長けた部門一番のシステムの使い手になってしまった。マニュアルにも出ていない現場発想の使い方を駆使して。
そのうち、システムでの処理の仕方が分からなくなると、誰もが対応方法をその先輩に聞くようになった。
システムの開発に携わっていた自分としては、コンピューター音痴の先輩が、こんなようなユーザーの鏡のように育ってくれて(失礼な言い方だが)嬉しくてならなかった。
先輩がシステムをマスターできたのは、きっと自分が先輩にとって「師匠」の役割を果たすことができたからであろう。
クインシージョーンズの音楽生活の最初はトランペットとの付き合い。
その「師匠」が実はクラークテリー。
まだ10代の前半、クインシーはすでにプロとしてプレーしていたクラークテリーの元に、教えを請うために日参した。クインシーは、夜の遅い仕事を終え数時間の睡眠の後、学校へ行く前のクインシーに、唇の上手な使い方から手取り足取り早朝レッスンをしたそうだ。
テリーも、何の義理も無い「シアトルのクソ我鬼」クインシーにそこまでしたのは、その時クインシーに「何かを感じた」と回想している。
クインシーにとって、クラークテリーは一生忘れられない「師匠」であり、その後、彼の人生にとっての恩人にもなる。
ハンプトンのバンドを辞めてニューヨークに戻ってきた新婚早々のクインシーにとって、手っ取り早く収入を得る手段はアレンジだった。
実際に、この頃、色々なバンド、そしてセッションにアレンジを提供している。
名盤、クリフォードブラウンとメリルのアルバムもその一枚である。
ほぼ同じ時期に、トランペットの「師匠」であったクラークテリーのアルバムにも、作編曲を提供している。メリルのアルバムの録音から1週間ほど経った、1955年の年明けすぐの録音だ。
初めてトランペットの手ほどきを受けてから、まだ10年足らずしかたっていない。
クラークテリーにとっては2枚目のリーダーアルバム。
1920年生まれなので、35歳の時。脂ののりきった時。
50年代は、デュークエリントンオーケストラのメインプレーヤーとして活躍している真っ最中。
ハードバップ創世記の有名なプレーヤーを集めて、クインシーのアレンジでの演奏だ。
テリーのトランペットは、トランペットをストレートに輝かしくプレーする反面、なんとなくユーモアを感じさせる吹き方をする両面の特徴を兼ね備えているが、ここでも素晴らしいプレーが続く。お得意の歌は登場していないが。
テリーだけでなく、他のメンバーもバップから次の新しい時代を感じさせるサウンドを求めて、思う存分伸び伸びとプレーしている。
3管の大きな編成の手綱を締めているのがクインシーだ。
中でも、このセッションの特徴はオスカー・ぺティフォードのセロ。随所でソロを聞かせている。セロのソロとは珍しい。
他にも、数年後にはそれぞれのメンバーが大活躍する兆しをふつふつと感じさせる名演が続く。
テリーにとっても、こんなに早く自分がトランペットを教えた弟子から恩返しを受けるとは思いもしなかったであろう。
そして4年後、2人の間は、テリーがQuincyの自己のBIG BAND編成の夢の実現のために、エリントンオーケストラの花形スターの座を捨てて協力する関係に深まっていく。
Double Play
Slow Boat
Swahili
Co-Op
The Countess
Chuckles
Tuma
Kitten
Clark Terry (tp)
Jimmy Cleveland (tb)
Cecil Payne (bars)
Horace Silver (p)
Wendell Marshall (b)
Oscar Pettiford (b, cello)
Art Blakey (d)
Quincy Jones (arr)
Fine Sound Studios, NYC, January 3 & 4, 1955
「師匠」という言葉がある。先生や先輩よりも響きがいい言葉だ。
一般的な教養や知識は本、いや、今ではインターネットで簡単に身につけることができる。
しかし、音楽を含めて芸術や技術は体に覚えこませなければ、なかなか一人前にはなれない。その為には才能があることが前提にはなるが、それに加えて良き指導者と、その元で切磋琢磨して練習に励む努力が必要である。実際に手とり足取り「技」を授けてくれるのが「師匠」だ。
誰でも自分の人生の中で、何かのテーマで誰か「師匠」というものが存在し、その人に対しては一生尊敬と感謝の気持ちが続くものだ。
特に、技を極めれば極めるほど、「師匠」の教えがよく分かる。
自分も小学生時代、水泳の指導を受けて初めて泳げるようになった時の師範を忘れることができなかった。自分にとっての泳ぎの「師匠」だ。
その後、学校の先輩であったその人の消息を知る事も無かったが。十数年して会社勤めを始めた時、その会社にその先輩がいることが分かった。
そして、それからまた十数年して、同じ職場で働くことになった。
ちょうど職場にコンピューターが導入され始めた時であった。
自分はその推進役。反対にその先輩は部門で一番の機械音痴。アシスタントの女性もいささか面倒を見るのに手を焼いた厄介者だった。
何度教えても覚えない、分からないとすぐに聞きに来る、人一倍手が掛かる一人であった。
とにかく手の掛かる先輩ではあったが、自分にとって師匠はいつまで経っても師匠だし、反対に、遠慮せずに何でも聞いてくれるのが嬉しかった。
自分は、その先輩からの質問にどんな些細な事でも対応していた。というよりは、せざるを得なかった。昔の恩返しが少しでのできればという気持ちで。
いつのまにか、その先輩は例外処理や裏技にも長けた部門一番のシステムの使い手になってしまった。マニュアルにも出ていない現場発想の使い方を駆使して。
そのうち、システムでの処理の仕方が分からなくなると、誰もが対応方法をその先輩に聞くようになった。
システムの開発に携わっていた自分としては、コンピューター音痴の先輩が、こんなようなユーザーの鏡のように育ってくれて(失礼な言い方だが)嬉しくてならなかった。
先輩がシステムをマスターできたのは、きっと自分が先輩にとって「師匠」の役割を果たすことができたからであろう。
クインシージョーンズの音楽生活の最初はトランペットとの付き合い。
その「師匠」が実はクラークテリー。
まだ10代の前半、クインシーはすでにプロとしてプレーしていたクラークテリーの元に、教えを請うために日参した。クインシーは、夜の遅い仕事を終え数時間の睡眠の後、学校へ行く前のクインシーに、唇の上手な使い方から手取り足取り早朝レッスンをしたそうだ。
テリーも、何の義理も無い「シアトルのクソ我鬼」クインシーにそこまでしたのは、その時クインシーに「何かを感じた」と回想している。
クインシーにとって、クラークテリーは一生忘れられない「師匠」であり、その後、彼の人生にとっての恩人にもなる。
ハンプトンのバンドを辞めてニューヨークに戻ってきた新婚早々のクインシーにとって、手っ取り早く収入を得る手段はアレンジだった。
実際に、この頃、色々なバンド、そしてセッションにアレンジを提供している。
名盤、クリフォードブラウンとメリルのアルバムもその一枚である。
ほぼ同じ時期に、トランペットの「師匠」であったクラークテリーのアルバムにも、作編曲を提供している。メリルのアルバムの録音から1週間ほど経った、1955年の年明けすぐの録音だ。
初めてトランペットの手ほどきを受けてから、まだ10年足らずしかたっていない。
クラークテリーにとっては2枚目のリーダーアルバム。
1920年生まれなので、35歳の時。脂ののりきった時。
50年代は、デュークエリントンオーケストラのメインプレーヤーとして活躍している真っ最中。
ハードバップ創世記の有名なプレーヤーを集めて、クインシーのアレンジでの演奏だ。
テリーのトランペットは、トランペットをストレートに輝かしくプレーする反面、なんとなくユーモアを感じさせる吹き方をする両面の特徴を兼ね備えているが、ここでも素晴らしいプレーが続く。お得意の歌は登場していないが。
テリーだけでなく、他のメンバーもバップから次の新しい時代を感じさせるサウンドを求めて、思う存分伸び伸びとプレーしている。
3管の大きな編成の手綱を締めているのがクインシーだ。
中でも、このセッションの特徴はオスカー・ぺティフォードのセロ。随所でソロを聞かせている。セロのソロとは珍しい。
他にも、数年後にはそれぞれのメンバーが大活躍する兆しをふつふつと感じさせる名演が続く。
テリーにとっても、こんなに早く自分がトランペットを教えた弟子から恩返しを受けるとは思いもしなかったであろう。
そして4年後、2人の間は、テリーがQuincyの自己のBIG BAND編成の夢の実現のために、エリントンオーケストラの花形スターの座を捨てて協力する関係に深まっていく。
Double Play
Slow Boat
Swahili
Co-Op
The Countess
Chuckles
Tuma
Kitten
Clark Terry (tp)
Jimmy Cleveland (tb)
Cecil Payne (bars)
Horace Silver (p)
Wendell Marshall (b)
Oscar Pettiford (b, cello)
Art Blakey (d)
Quincy Jones (arr)
Fine Sound Studios, NYC, January 3 & 4, 1955