大木昌の雑記帳

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オウムを生んだ日本の闇(2)―「物語の喪失」と「自分の限界を超えたい願望」―

2018-08-05 06:21:58 | 社会
オウムを生んだ日本の闇(2)―「物語の喪失」と「自分の限界を超えたい願望」―

2018年8月6日と26日にオウムの幹部13人が死刑執行されたことによって、少なくとも彼ら幹部が、本当
のところ何を感じ、何を考えて行動していたのかは、非常に分かりにくくなってしまいました。

もちろん、主要な事件(主として殺人やテロ)に関しては、「誰が、誰を、どんな理由で、そのように殺した
か」、あるいはテロ行為を行ったか、といった外形的な事実は裁判を通じておおよそ解明されています。

しかし、オウムに関しては夥しい量の文書や映像が世に送り出されてきたにもかかわらず、一体、幹部や一般の
信者は、オウムの創始者である麻原彰晃個人の何に惹かれ、オウム真理教というカルト的宗教になぜ入信し、中
には全財産を教団に捧げるほどにのめり込んでしまったのか、これらはまだ明らかにされてはいません。

オウムは他ならぬ日本社会から生れ出た「鬼っ子」ですから、それは間違いなく「オウムを生んだ日本社会の闇」
をあぶり出したとも言えます。

彼らは宗教の名において、さまざまなテロや殺人を引き起こしてきました。これ自体がすでに日本の闇ですが、
私たちが今考えなければならないのはむしろ、そうした行動に走らせた、麻原を始め幹部や信者の心の内、のこ
とです。

とりわけ、高学歴の社会的エリートまでもが、やすやすと、いかにも怪しげな麻原の「空中浮遊」などを信じ、
麻原へ盲目的に帰依し服従していったのはなぜか、彼らはほとんど語ってくれません。

しかも、オウムは、最盛期には1万1000人以上の信者を抱えるまでに成長しましたが、なぜ、そこまで信者
を獲得できたのでしょうか?

また、静岡の教団施設で行われた「水中クンバカ大会」で、通常では考えられない長い時間(オウムの発表では
14分)、水中で息を止めていることができた、と感動した信者もいました。実際には、事前に大量の酸素で肺
を満たしていただけなのに。

これらの疑問にすべてを答えることは難しいし、実際、さまざまな要因が関係していて、単純な因果関係でオウ
ムの発生、信者の増加、過激なテロ活動を説明することはできません。

それは、個人個人は異なる環境や状況のもとに置かれ、その動機や心情は個々、それぞれ別だからです。

さらに、個人の問題だけでなく当時の社会環境・社会事情もまた、オウムと大きく関わっていたはずです。

それでも、私たちが、こうした数々の疑問にたいして何らかの納得のゆく説明なり原因を探し出さないと、これだ
け多くの犠牲(その中には、当然、信者も含まれる)を出したにもかかわらず、社会的になんの教訓も得られなか
ったとしら、負の遺産だけを引き受けることになります。そして、私たちは再び、おぞましいカルト的集団を生み
出してしまうかもしれません。

もちろん、これらの疑問を全て解消してくれる解答を私が持ち合わせているわけではありません。

ただ、問題の奥にある何かをつかみだす手掛かりくらいは提示しておきたいと思います。
その手掛かりとは、「物語の喪失」と「自分の限界を超えたい願望」という二つのキーワードです。

「物語の喪失」という概念は、私が2005年に出版した『関係性喪失の時代―壊れてゆく日本と世界』(勉誠出
版)の中で、現代の社会病理を解明するために使った三つの鍵概念(「物語の喪失」、「想像力の喪失」、「共感
力の喪失」)の一つで、13年後の今でも有効だと思っています。

人は生きてゆくためには、衣食住が満たされるだけでは十分ではありません。こうした物理的な要件の他に、自分
がどのような人生を歩むのかという肯定的な「物語」が必要なのです。

「物語の喪失」あるいは「物語の崩壊」は、人生の羅針盤を失うことですから、そうなると場当たり的に生きるか、
それが受け入れられなければ何か新しい「物語」を求めることになります。

もう一つの「自分の限界を超えたい願望」とは、なぜ人はファッションに興味を持つのか、というファッションの
起源からヒントを得ています。これは私たち人間の本質的な願望かも知れません。

この願望は、最近では、インスタグラムその他のSNSの世界で、“いいね”を欲しがる気持とも共通していて、
一般に「承認欲求」とも言われます。

「自分の限界を超えたい願望」も、オウムの神秘主義やオカルト的修行に魅力を感じる底流となっていると思われ
ます。

言うまでもなく、これら二つのキーワードで全てを解明し理解できるわけではありません。キーワードは、いわば
「仮説」にすぎません。

ここで「仮説」とは、正しいか間違っているか、というより、このように考えると彼らの心の内や行動を理解しや
すい、という意味です。

しかも、人によっては、「物語の喪失」の方が「自分の限界を超えたい願望」より強い場合も、逆の場合も、さら
に両方とも心に抱えていた場合ももちろんあります。

まず、オウムの創始者、麻原彰晃の場合から見てみましょう。彼は、1955年、熊本県八代市で9人兄弟の第七子と
して生まれました。過程は貧困でおまけに生来目が不自由でした。彼は盲学校卒業後に上京し、予備校に在学中に
結婚し、鍼灸師として生計を立てていました。

しかし、鍼灸師として一生を過ごすという「物語」は彼にとって到底受け入れることができない屈辱的な「物語」
だったのでしょう。

まもなく彼は超能力開発塾「鳳凰慶林館」(後にヨガ道場「オウムの会」)を主宰し(1984)、オカルオ雑誌など
に自分の「空中浮揚」写真(実はトリック写真なのですが)などを掲載したり、著作を著わすなど、巧みな宣伝活
動で信者を獲得してゆきます。

「空中浮揚」というのは、もっとも典型的な超能力の証(あかし)で、「自分の限界を超える」象徴的な行為です。
この写真は、超能力にあこがれる多くの人びとを惹きつけました。

彼は地味な鍼灸師から超能力者としての新たな「物語」の構築に乗り出します。1986年、彼はインドへの旅で「最終
解脱」を果たした「グル」を自称し、「オウム神仙の会」を立ち上げ、教団内で絶対的な地位を確立します。その翌
年、87年には宗教法人「オウム真理教」へと発展してゆきます。

ここまでの略歴をみても、まず、「目の不自由な鍼灸師」からヨガ道場の主催者、超能力を売り物にした宗教団体の
設立、と、「彼は自分の限界を超える新たな物語」に突き進んでゆきます。

麻原は、それまので自分の限界をさらに大きく超えるべく、一教団の主催者に留まらず、日本を転覆させ「日本の王」
になる、あるいは地球の最終戦争(ハルマゲドン)を予言し、人類の滅亡から「救済する」という壮大な「物語」を
掲げ信者に説いてゆきます。

異常は、麻原個人の「物語」と「自分の限界を超える願望」ですが、それではオウムに入信していった幹部や一般の
信者は、どのような心境からオウムにのめり込んでいったのでしょうか?(注1)

たとえば、豊田亨死刑囚(50)は、東大大学院で素粒子理論を研究していたが、死後の世界に関心をもち、大学一年
の時、麻原の著書『超能力秘密の開発法』や『生死を超える』などを読んで入信しました。彼はサリンをまいた心境
について「(麻原の)指示を実行することは解脱に至る修行であり、救済であると信じていた」と述べています。

彼にとって麻原の指示は「自分の限界を超える、大きな物語」だったのです。

林郁夫死刑囚(ただし執行はされていない 71)の場合、医師の父親と薬剤師の母の間に生まれ、慶応大学医学部卒
業後、アメリカに留学。帰国後、病院で働いていたが、「手術はできても人の心は救えない」と感じていた。彼は、
一旦は描いた通常の医師の「物語」に疑問を感じ、新たな「物語」を探していたのです。そんな時、麻原の超能力や
神秘体験に関する本を読んで感動し、病院を退職して妻子とともに出家しました。

広瀬健一死刑囚(54)は早稲田大学理工学部で「超電導」び、トップの成績で大学院に進学しました。彼は手記の中
で、麻原と出会い、神秘体験からオウムの教義を真実と錯覚した、と記しています。

彼も、教団での神秘体験が麻原に呪縛された最大の原因でした。しかし、その神秘体験なるものは、「脳内神経伝達
物質の活性化によって起きた幻覚体験だった」こと(つまり覚醒剤などの薬物による幻覚)に過ぎなかたことを後で
気づくのですが、当時は幻覚体験によって「どのようにも意味づけられるので、荒唐無稽な教義が現実として感じら
れた」とも振り返っています。

こうした事例は引用すればキリがありませんが、要するに、どれほど専門知識があるエリートであっても、現状の人
生の「物語」に疑問や不満をもち、あるいは「自分の限界を超えたい願望」に強く惹かれることは十分あり得ます。

そんな時、超能力や神秘体験に出合うと、たちまちその世界の虜になっていったことが分ります。一旦、虜なってし
まえば、麻原から、今まで想像もしなかった、新たな「物語」、しかもますます「大きな物語」が示されると、たと
えそれが重大な犯罪であっても、「救済」行為として受け入れてしまったのです。

ここで大きな役割を果たしたのが、さまざまな薬物(覚せい剤や催眠剤)で、特にLSD、メスカリン、イソミター
ル、チオペタンなどです。これらの薬物は教団施設内で、一般の信者にも非常に広く使用され、多くの信者が幻覚に
よる神秘体験を通して錯覚とマインドコントロールの罠にはまっていったのです。

一般の信者について具体的な事情は分かりませんが、やはり将来に対する明確な「物語」を求め、しかも卑小な存在
である自分の限界を乗り超えたい願望を抱いていた人たちにとって、オウムは両方を満たしてくれる存在として映っ
たのではないでしょうか?

人は、自分の生きる「物語」を常に模索し続けます。そして、「自分の限界を超えたい」という願望は、人間の向上
心の表れでもあります。

しかし、自分で自分の「物語」を真剣に模索する努力や苦労をせず、誰か他の人が描いた「物語」に安易に身を任せ
てしまうことは、自分の人生を他人にあずけてしまうことです。

また、「自分の限界を超える」ために現実にはあり得ない超能力や神秘体験にそれを求めるのは一種の現実逃避であ
り大きな危険があります。

そうは言っても、自分自身で「物語」を描けず、誰かが示してくれることを求めたり、超能力や神秘体験にたいする
幻想をもつ傾向は全くないわけではありません。

だからこそ、形を変えた「オウム」的なるものが、現在まで続いているのです。これについては次回に検討してみた
いと思います。


(注1)死刑を執行されたオウムの幹部13人の略歴やごく簡単な説明は『東京新聞』2018年7月7日、27日でみることができる。

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