「江戸文明」のその後-開国と明治維新は日本文化に何をもたらしたのか-
ここまで,渡辺氏の『逝きし世の面影』をテクストとして,「江戸文明」について3回書いてきました。
私がこれほど江戸時代と「江戸文明」にこだわるのには幾つかの理由があります。
前回の記事で書いたように,渡辺氏は,「近代日本は古い日本の制度や文物を精算し,その上に建設されたのだが,その精算が
ひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,十分に自覚されていない」(10ページ)と述べています。
この事実を鋭く自覚していたのは,むしろ同時代の異邦人たちでした。その代表的人物が,1873年(明治6年)から1905年(明治44年)
まで32年間日本に滞在した高名な日本研究者 バジル・チェンバレンでした。
チェンバレンは著書『日本事物誌』(1905)の中で「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んでしまった,そして若い日本の世の中に
なったと」(11ページ)断定しています。彼はこの本を古い日本の「墓碑銘」であると呼んだのです。
これはたんに,時代は移ったとか,日本は変わったという意味ではなく,ひとつの文明が死んだと言っているのです。
しかし渡辺氏は,当時も現代の日本人は,文明の滅亡を十分に自覚していないし,多くの日本人は,古い日本は伝統として残っている
と錯覚していることに警告を鳴らしているのです。
現代でも茶の湯・生花,羽根つき,凧が存在すしていることをもって「伝統」と呼ぶのは,なんとむなしい錯覚だろう」(16-17ページ)
とも書いています。
渡辺氏の著書は,在りし日の江戸文明を異邦人の目を通して再現し,そして,その個性のある文明が幕末・明治維新の変化によって死滅
したところで終わっています。
もしそうだとしたら,この文明の死滅をもたらした幕末・明治維新に何が起こったのか,そして,それはその後の日本の文化・文明に何を
もたらしたのでしょうか。
これらの疑問に答える前に,まず,ひとつの個性をもった「江戸文明」がどのように形成されたのか,あるいは,なぜ成立することが
できたのかという問題から考えてみます。
なお,ここで「江戸文明」とは必ずしも「江戸」という都市の文明という意味ではなく,「江戸時代の文明」という意味です。
さらに渡辺氏の「文明」の定義(前回のブログで書きました)は,私の中では「文化」に相当しますので,以後は「江戸文明」ではなく
江戸時代の文化という意味で「江戸文化」という言葉を使うことにします。
さて,江戸文化を生み出したとはどんな時代だったのでしょうか。
江戸時代は徳川家康が1603年に江戸幕府を開いた時から1868年の明治維新までの約260年間です。
しかし,この260年という時間は,それ以前の時代とは少なくとも次の3点で大きく異なります。
第一点は,江戸時代には人々の生活を混乱させる戦がなく平和が続いたことです。江戸時代前の「戦国時代」は文字通り戦に明け暮れた時代
ですし,さらにそれ以前の鎌倉時代から室町時代までの376年も争いが絶えませんでした。
第二点は,平和が続いたこととも関連して,江戸時代には都市だけでなく農村地域でも農業や商工業が発達し,武士以外の民衆の生活にもある
程度の豊かさと安定をもたらしました。これは,さまざまな民衆文化を発展させました。
第三点は,江戸時代の大部分の期間は,鎖国を維持したことです。鎖国政策によりヨーロッパの影響を最小限にとどめ,武士だけでなく民衆の
文化を育むことができました。
以上の3点のどれが欠けても,個性ある江戸文化は成立しなかったでしょう。
これらの条件を壊してしまう新たな要素を持ち込みました。
まず,幕末には開国を迫る外国の圧力が日に日に強まり,まさに「太平の眠りを覚ます蒸気船,たった四はいで夜も眠れず」という状況で
日本中はパニックに陥りました。
これを契機に,国内は開国派と幕府維持派との戦争に突入し,1868年の戊辰戦争で前者が後者を一掃して新生明治政府が成立します。
しかし,間もなく西南戦争が勃発しました。
こうして,幕末・維新の戦争は,260年以上も続いた戦のない平和の時代に終止符を打ったのです。
次に,明治政府の基本戦略は「富国強兵」「殖産興業」でした。このため,ヨーロッパの科学技術,近代的工業が「和魂洋才」の名の下に全面的に
導入されました。
近代的工業は,たとえば製鉄所から生み出される鉄を使って軍艦や大砲を作り,軍事大国のへ道をサポートしました。
これと関連して見過ごせないのは,徴兵制度が導入されたことです。
経済・軍事以外の分野でも,議会制度,政党政治,教育制度,郵便制度,鉄道など次々とヨーロッパの制度を取り入れ近代化と西欧化を急ぎました。
文化の面でも,西洋絵画や文学,音楽,そして人の命を扱う新しい医療などの領域でヨーロッパ文化が怒濤のように日本社会の隅々に押し寄せた
のです。
社会的には,それまでの「士農工商」は廃止されましたが,新たな身分としてヨーロッパの貴族制度が創設されました。ヨーロッパ風のドレスに
身を包んで踊る「鹿鳴館」での舞踏会は,日本の上流社会がヨーロッパの上流社会を真似た象徴です。
こうしたなかで,「脱亜入欧」思想のように,日本はもはや遅れたアジアの一員ではなく,進んだヨーロッパの一員になるのだ,という欧化思想
が浸透してゆきます。まさに「文明開化」の時代に入ったのです。
しかし,全てが平和の中で進行したわけではありません。植民地獲得競争に乗り出した日本は,日清・日露戦争へと突き進んでいったのです。
これらの一連の変化は,日本の文化にどんな影響をもたらしたのでしょうか?
今まで戦争とは無縁だった一般の日本人は,地方の農民も含めて突然,兵士として駆り出され見知らぬ外国で殺し合うことを強制されるように
なったのです。
一方,物作りでは,製鉄所,造船所,織物工場など,以前の手工業の時代よりはるかに大規模な工場生産が始まりました。
そこで働く人たちも,その日の具合で仕事をしていた職人から,定時に出勤する労働者に代わりました。
以上の変化全てが,日本人の「生活総体」(渡辺氏のいう「文明」)を徐々に,しかし,決して後戻りできない方向に変えていったのです。
他国との戦争,徴兵,工場労働,公教育,選挙や政党政治が浸透するにつれ,平和で,屈託なく生活し,チマチマと小さな物事に美意識を感じ,
貧しいながらも笑いに満ちていた日本人から笑みが消えてしまいました。
そして「妖精が棲むおとぎ話の国」は消滅し,厳しい生存競争にさらされた人々は,緊張の中で眉間に皺を寄せ,まなじりを決して生活するように
なったのです。
幕末・維新の時代に日本にいたヨーロッパ人は,彼らの祖国がたどってきた歴史を十分に知っていたので,開国と明治維新による西欧文化の流入が
もたらすであろう,古い日本文化の危機を敏感に感じ取っていたのです。
日本は古くから中国・朝鮮から仏教をはじめ,政治制度や絵画,詩歌,漢方医学など数え上げればきりがないほど多くの文物を輸入してきました。
しかし,それらはおおむね東洋的文明の範囲のもので,日本人にはそれほど違和感がありませんでした。
しかし,幕末・明治以降に入ってきた西洋的な科学技術,個人主義思想,合理主義などは,日本人にはなじみのない,それまでとは全く異質な文化
でした。
ところで渡辺氏は確かに,古い日本人の文化(「江戸文化」)の死滅を確認しましたが,それ以後日本の文化がどうなったのかについては語って
いません。
ただ彼は,「日本人は古い文化は明治末期には死滅したことを十分に自覚していない」,という重要なメッセージは残しています。
私たちは,安易な「伝統」の復活ではなく,新たな状況のもとで,もう一度「個性ある日本文化」の創造に向かう必要に迫られています。
そうしないと,日本人はアイデンティティを確立できないまま根無し草のように漂流することになってしまいます。これこそ渡辺氏が本当に
言いたかったことではないでしょうか。
ここまで,渡辺氏の『逝きし世の面影』をテクストとして,「江戸文明」について3回書いてきました。
私がこれほど江戸時代と「江戸文明」にこだわるのには幾つかの理由があります。
前回の記事で書いたように,渡辺氏は,「近代日本は古い日本の制度や文物を精算し,その上に建設されたのだが,その精算が
ひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,十分に自覚されていない」(10ページ)と述べています。
この事実を鋭く自覚していたのは,むしろ同時代の異邦人たちでした。その代表的人物が,1873年(明治6年)から1905年(明治44年)
まで32年間日本に滞在した高名な日本研究者 バジル・チェンバレンでした。
チェンバレンは著書『日本事物誌』(1905)の中で「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んでしまった,そして若い日本の世の中に
なったと」(11ページ)断定しています。彼はこの本を古い日本の「墓碑銘」であると呼んだのです。
これはたんに,時代は移ったとか,日本は変わったという意味ではなく,ひとつの文明が死んだと言っているのです。
しかし渡辺氏は,当時も現代の日本人は,文明の滅亡を十分に自覚していないし,多くの日本人は,古い日本は伝統として残っている
と錯覚していることに警告を鳴らしているのです。
現代でも茶の湯・生花,羽根つき,凧が存在すしていることをもって「伝統」と呼ぶのは,なんとむなしい錯覚だろう」(16-17ページ)
とも書いています。
渡辺氏の著書は,在りし日の江戸文明を異邦人の目を通して再現し,そして,その個性のある文明が幕末・明治維新の変化によって死滅
したところで終わっています。
もしそうだとしたら,この文明の死滅をもたらした幕末・明治維新に何が起こったのか,そして,それはその後の日本の文化・文明に何を
もたらしたのでしょうか。
これらの疑問に答える前に,まず,ひとつの個性をもった「江戸文明」がどのように形成されたのか,あるいは,なぜ成立することが
できたのかという問題から考えてみます。
なお,ここで「江戸文明」とは必ずしも「江戸」という都市の文明という意味ではなく,「江戸時代の文明」という意味です。
さらに渡辺氏の「文明」の定義(前回のブログで書きました)は,私の中では「文化」に相当しますので,以後は「江戸文明」ではなく
江戸時代の文化という意味で「江戸文化」という言葉を使うことにします。
さて,江戸文化を生み出したとはどんな時代だったのでしょうか。
江戸時代は徳川家康が1603年に江戸幕府を開いた時から1868年の明治維新までの約260年間です。
しかし,この260年という時間は,それ以前の時代とは少なくとも次の3点で大きく異なります。
第一点は,江戸時代には人々の生活を混乱させる戦がなく平和が続いたことです。江戸時代前の「戦国時代」は文字通り戦に明け暮れた時代
ですし,さらにそれ以前の鎌倉時代から室町時代までの376年も争いが絶えませんでした。
第二点は,平和が続いたこととも関連して,江戸時代には都市だけでなく農村地域でも農業や商工業が発達し,武士以外の民衆の生活にもある
程度の豊かさと安定をもたらしました。これは,さまざまな民衆文化を発展させました。
第三点は,江戸時代の大部分の期間は,鎖国を維持したことです。鎖国政策によりヨーロッパの影響を最小限にとどめ,武士だけでなく民衆の
文化を育むことができました。
以上の3点のどれが欠けても,個性ある江戸文化は成立しなかったでしょう。
これらの条件を壊してしまう新たな要素を持ち込みました。
まず,幕末には開国を迫る外国の圧力が日に日に強まり,まさに「太平の眠りを覚ます蒸気船,たった四はいで夜も眠れず」という状況で
日本中はパニックに陥りました。
これを契機に,国内は開国派と幕府維持派との戦争に突入し,1868年の戊辰戦争で前者が後者を一掃して新生明治政府が成立します。
しかし,間もなく西南戦争が勃発しました。
こうして,幕末・維新の戦争は,260年以上も続いた戦のない平和の時代に終止符を打ったのです。
次に,明治政府の基本戦略は「富国強兵」「殖産興業」でした。このため,ヨーロッパの科学技術,近代的工業が「和魂洋才」の名の下に全面的に
導入されました。
近代的工業は,たとえば製鉄所から生み出される鉄を使って軍艦や大砲を作り,軍事大国のへ道をサポートしました。
これと関連して見過ごせないのは,徴兵制度が導入されたことです。
経済・軍事以外の分野でも,議会制度,政党政治,教育制度,郵便制度,鉄道など次々とヨーロッパの制度を取り入れ近代化と西欧化を急ぎました。
文化の面でも,西洋絵画や文学,音楽,そして人の命を扱う新しい医療などの領域でヨーロッパ文化が怒濤のように日本社会の隅々に押し寄せた
のです。
社会的には,それまでの「士農工商」は廃止されましたが,新たな身分としてヨーロッパの貴族制度が創設されました。ヨーロッパ風のドレスに
身を包んで踊る「鹿鳴館」での舞踏会は,日本の上流社会がヨーロッパの上流社会を真似た象徴です。
こうしたなかで,「脱亜入欧」思想のように,日本はもはや遅れたアジアの一員ではなく,進んだヨーロッパの一員になるのだ,という欧化思想
が浸透してゆきます。まさに「文明開化」の時代に入ったのです。
しかし,全てが平和の中で進行したわけではありません。植民地獲得競争に乗り出した日本は,日清・日露戦争へと突き進んでいったのです。
これらの一連の変化は,日本の文化にどんな影響をもたらしたのでしょうか?
今まで戦争とは無縁だった一般の日本人は,地方の農民も含めて突然,兵士として駆り出され見知らぬ外国で殺し合うことを強制されるように
なったのです。
一方,物作りでは,製鉄所,造船所,織物工場など,以前の手工業の時代よりはるかに大規模な工場生産が始まりました。
そこで働く人たちも,その日の具合で仕事をしていた職人から,定時に出勤する労働者に代わりました。
以上の変化全てが,日本人の「生活総体」(渡辺氏のいう「文明」)を徐々に,しかし,決して後戻りできない方向に変えていったのです。
他国との戦争,徴兵,工場労働,公教育,選挙や政党政治が浸透するにつれ,平和で,屈託なく生活し,チマチマと小さな物事に美意識を感じ,
貧しいながらも笑いに満ちていた日本人から笑みが消えてしまいました。
そして「妖精が棲むおとぎ話の国」は消滅し,厳しい生存競争にさらされた人々は,緊張の中で眉間に皺を寄せ,まなじりを決して生活するように
なったのです。
幕末・維新の時代に日本にいたヨーロッパ人は,彼らの祖国がたどってきた歴史を十分に知っていたので,開国と明治維新による西欧文化の流入が
もたらすであろう,古い日本文化の危機を敏感に感じ取っていたのです。
日本は古くから中国・朝鮮から仏教をはじめ,政治制度や絵画,詩歌,漢方医学など数え上げればきりがないほど多くの文物を輸入してきました。
しかし,それらはおおむね東洋的文明の範囲のもので,日本人にはそれほど違和感がありませんでした。
しかし,幕末・明治以降に入ってきた西洋的な科学技術,個人主義思想,合理主義などは,日本人にはなじみのない,それまでとは全く異質な文化
でした。
ところで渡辺氏は確かに,古い日本人の文化(「江戸文化」)の死滅を確認しましたが,それ以後日本の文化がどうなったのかについては語って
いません。
ただ彼は,「日本人は古い文化は明治末期には死滅したことを十分に自覚していない」,という重要なメッセージは残しています。
私たちは,安易な「伝統」の復活ではなく,新たな状況のもとで,もう一度「個性ある日本文化」の創造に向かう必要に迫られています。
そうしないと,日本人はアイデンティティを確立できないまま根無し草のように漂流することになってしまいます。これこそ渡辺氏が本当に
言いたかったことではないでしょうか。