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大木昌の雑記帳

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「江戸文明」のその後-開国と明治維新は日本文化に何をもたらしたのか-

2012-08-12 20:01:47 | 思想・文化
「江戸文明」のその後-開国と明治維新は日本文化に何をもたらしたのか-


 ここまで,渡辺氏の『逝きし世の面影』をテクストとして,「江戸文明」について3回書いてきました。

私がこれほど江戸時代と「江戸文明」にこだわるのには幾つかの理由があります。

前回の記事で書いたように,渡辺氏は,「近代日本は古い日本の制度や文物を精算し,その上に建設されたのだが,その精算が
ひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,十分に自覚されていない」(10ページ)と述べています。

この事実を鋭く自覚していたのは,むしろ同時代の異邦人たちでした。その代表的人物が,1873年(明治6年)から1905年(明治44年)
まで32年間日本に滞在した高名な日本研究者 バジル・チェンバレンでした。

チェンバレンは著書『日本事物誌』(1905)の中で「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んでしまった,そして若い日本の世の中に
なったと」(11ページ)断定しています。彼はこの本を古い日本の「墓碑銘」であると呼んだのです。

これはたんに,時代は移ったとか,日本は変わったという意味ではなく,ひとつの文明が死んだと言っているのです。

しかし渡辺氏は,当時も現代の日本人は,文明の滅亡を十分に自覚していないし,多くの日本人は,古い日本は伝統として残っている
と錯覚していることに警告を鳴らしているのです。

現代でも茶の湯・生花,羽根つき,凧が存在すしていることをもって「伝統」と呼ぶのは,なんとむなしい錯覚だろう」(16-17ページ)
とも書いています。

渡辺氏の著書は,在りし日の江戸文明を異邦人の目を通して再現し,そして,その個性のある文明が幕末・明治維新の変化によって死滅
したところで終わっています。

もしそうだとしたら,この文明の死滅をもたらした幕末・明治維新に何が起こったのか,そして,それはその後の日本の文化・文明に何を
もたらしたのでしょうか。

これらの疑問に答える前に,まず,ひとつの個性をもった「江戸文明」がどのように形成されたのか,あるいは,なぜ成立することが
できたのかという問題から考えてみます。

なお,ここで「江戸文明」とは必ずしも「江戸」という都市の文明という意味ではなく,「江戸時代の文明」という意味です。

 さらに渡辺氏の「文明」の定義(前回のブログで書きました)は,私の中では「文化」に相当しますので,以後は「江戸文明」ではなく
江戸時代の文化という意味で「江戸文化」という言葉を使うことにします。

さて,江戸文化を生み出したとはどんな時代だったのでしょうか。

江戸時代は徳川家康が1603年に江戸幕府を開いた時から1868年の明治維新までの約260年間です。

しかし,この260年という時間は,それ以前の時代とは少なくとも次の3点で大きく異なります。

第一点は,江戸時代には人々の生活を混乱させる戦がなく平和が続いたことです。江戸時代前の「戦国時代」は文字通り戦に明け暮れた時代
ですし,さらにそれ以前の鎌倉時代から室町時代までの376年も争いが絶えませんでした。

第二点は,平和が続いたこととも関連して,江戸時代には都市だけでなく農村地域でも農業や商工業が発達し,武士以外の民衆の生活にもある
程度の豊かさと安定をもたらしました。これは,さまざまな民衆文化を発展させました。

第三点は,江戸時代の大部分の期間は,鎖国を維持したことです。鎖国政策によりヨーロッパの影響を最小限にとどめ,武士だけでなく民衆の
文化を育むことができました。

以上の3点のどれが欠けても,個性ある江戸文化は成立しなかったでしょう。

これらの条件を壊してしまう新たな要素を持ち込みました。

まず,幕末には開国を迫る外国の圧力が日に日に強まり,まさに「太平の眠りを覚ます蒸気船,たった四はいで夜も眠れず」という状況で
日本中はパニックに陥りました。

これを契機に,国内は開国派と幕府維持派との戦争に突入し,1868年の戊辰戦争で前者が後者を一掃して新生明治政府が成立します。

しかし,間もなく西南戦争が勃発しました。

こうして,幕末・維新の戦争は,260年以上も続いた戦のない平和の時代に終止符を打ったのです。

次に,明治政府の基本戦略は「富国強兵」「殖産興業」でした。このため,ヨーロッパの科学技術,近代的工業が「和魂洋才」の名の下に全面的に
導入されました。

近代的工業は,たとえば製鉄所から生み出される鉄を使って軍艦や大砲を作り,軍事大国のへ道をサポートしました。

これと関連して見過ごせないのは,徴兵制度が導入されたことです。

経済・軍事以外の分野でも,議会制度,政党政治,教育制度,郵便制度,鉄道など次々とヨーロッパの制度を取り入れ近代化と西欧化を急ぎました。

文化の面でも,西洋絵画や文学,音楽,そして人の命を扱う新しい医療などの領域でヨーロッパ文化が怒濤のように日本社会の隅々に押し寄せた
のです。

社会的には,それまでの「士農工商」は廃止されましたが,新たな身分としてヨーロッパの貴族制度が創設されました。ヨーロッパ風のドレスに
身を包んで踊る「鹿鳴館」での舞踏会は,日本の上流社会がヨーロッパの上流社会を真似た象徴です。

こうしたなかで,「脱亜入欧」思想のように,日本はもはや遅れたアジアの一員ではなく,進んだヨーロッパの一員になるのだ,という欧化思想
が浸透してゆきます。まさに「文明開化」の時代に入ったのです。

しかし,全てが平和の中で進行したわけではありません。植民地獲得競争に乗り出した日本は,日清・日露戦争へと突き進んでいったのです。

これらの一連の変化は,日本の文化にどんな影響をもたらしたのでしょうか?

今まで戦争とは無縁だった一般の日本人は,地方の農民も含めて突然,兵士として駆り出され見知らぬ外国で殺し合うことを強制されるように
なったのです。

一方,物作りでは,製鉄所,造船所,織物工場など,以前の手工業の時代よりはるかに大規模な工場生産が始まりました。

そこで働く人たちも,その日の具合で仕事をしていた職人から,定時に出勤する労働者に代わりました。

以上の変化全てが,日本人の「生活総体」(渡辺氏のいう「文明」)を徐々に,しかし,決して後戻りできない方向に変えていったのです。

他国との戦争,徴兵,工場労働,公教育,選挙や政党政治が浸透するにつれ,平和で,屈託なく生活し,チマチマと小さな物事に美意識を感じ,
貧しいながらも笑いに満ちていた日本人から笑みが消えてしまいました。

そして「妖精が棲むおとぎ話の国」は消滅し,厳しい生存競争にさらされた人々は,緊張の中で眉間に皺を寄せ,まなじりを決して生活するように
なったのです。

幕末・維新の時代に日本にいたヨーロッパ人は,彼らの祖国がたどってきた歴史を十分に知っていたので,開国と明治維新による西欧文化の流入が
もたらすであろう,古い日本文化の危機を敏感に感じ取っていたのです。

日本は古くから中国・朝鮮から仏教をはじめ,政治制度や絵画,詩歌,漢方医学など数え上げればきりがないほど多くの文物を輸入してきました。
しかし,それらはおおむね東洋的文明の範囲のもので,日本人にはそれほど違和感がありませんでした。

しかし,幕末・明治以降に入ってきた西洋的な科学技術,個人主義思想,合理主義などは,日本人にはなじみのない,それまでとは全く異質な文化
でした。

ところで渡辺氏は確かに,古い日本人の文化(「江戸文化」)の死滅を確認しましたが,それ以後日本の文化がどうなったのかについては語って
いません。

ただ彼は,「日本人は古い文化は明治末期には死滅したことを十分に自覚していない」,という重要なメッセージは残しています。

私たちは,安易な「伝統」の復活ではなく,新たな状況のもとで,もう一度「個性ある日本文化」の創造に向かう必要に迫られています。

そうしないと,日本人はアイデンティティを確立できないまま根無し草のように漂流することになってしまいます。これこそ渡辺氏が本当に
言いたかったことではないでしょうか。

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「江戸文明」の終焉?-外国人が見た江戸文明の残光-

2012-08-10 09:42:36 | 思想・文化
「江戸文明」の終焉?-外国人が見た江戸文明の残光- 


 江戸期に日本を訪れた外国人が書き残したさまざまな文章からみると,江戸時代の庶民は,実にゆったりと,屈託なく,笑みを浮かべて,
チマチマとした小さなこととに美意識を見いだしながら平和のうちに生きていた様子が伝わってきます。

長崎海軍伝習所の教育隊長を2年務めたオランダ人,カッティンディーケ(1816-66)が,咸臨丸の航海練習を指揮して,1856年(安政5年)に
鹿児島を訪問した際のことでした。「妙かにすき透るような薄物のあでやかな夏着に,房ふさとした黒髪を肩に垂れた」女たちを見て部下の
水兵たちはカッティンディーケに,

「こんな場面に出会わしたことはない。もう,ここへ錨をおろして,どこへも出航したくない」と耳打ちしました。(342-43)

これは,男性が日本女性の虜になった特別な事例のようにもとれますが,全体の文脈でいうと,彼らにとってまったく異質な日本という世界
に触れて,多くの外国人と同様,身も心もすっかり日本に魅せられてしまったのです。

しかしこの当時すでに,ヨーロッパの「近代文明」が持ち込まれ開国の圧力にさらされていた日本の将来に危惧を抱いていた外国人もいまいた。

下田の玉泉寺のアメリカ領事館に赴任したタウンゼント・ハリス(1804-78)は,1856年の領事館開設日の日記に「厳粛な反省-変化の前兆-疑い
もなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」と記しています。(13ページ)

この時,ハリスは日本に滞在してわずか2週間しか経っていませんでしたが,日本の根本的な変化を予感していたようです。

ただし彼はまだ,何がどう変わろうとしているのかを具体的に分かっていたわけではありませんでした。

これにたいして,ハリスの通訳として江戸で幕府と交渉していたヘンリー・ヒュースケン(1832-61)は1857年,ハリスより具体的に日本の変化
を記しています。

「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにおまえのための文明なのか。

この国の人々の質僕な習俗とともに,その飾りけのなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見,いたるところに満ちている子どもたちの愉しい
笑い声を聞き,そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は,おお,神よ,この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており,
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない。」(14ページ)

日本語を話し日本をよく知っていたヒュースケンは,ヨーロッパ世界が日本にもちこもうとしていた近代的なるも(彼の表現を使うと「悪徳」)が,
すでに日本という幸福な国に,終わりをもたらそうしていることを肌で感じていたようです。

前出のオランダ人カッティンディーケも同様に,

    私は心の中でどうか,今一度ここに来て,この美しい国をみる幸運にめぐりあいたいのだとひそかに希った。しかし同時に私はまた,
    日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが,今後はどれほど多くの災難に出会うかと思えば,恐ろしさに耐えられなかったゆえに,
    心も自然に暗くなった。

と危機感を表しました(15ページ)

彼は,自分がこれから日本にもたらそうとしている文明が,日本古来のそれよりいっそう高いものであることに確信をもっていましたが,それが,
「果たして一層多くの幸福をもたらすかどうか」自信がなかったのです。

おそらく彼は,西洋式海軍の訓練指導者として,これから日本が世界で戦争に巻き込まれたり仕掛けたりしてゆくようになると,今の幸福が消えて
しまうのではないかという不安を抱いたのでしょう。

カッティンディーケの下で医師として働いていたポンペ(1829-1908)は,別の観点から,日本の危機をさらに具体的に把握していました。

ポンペには,日本に対する開国の強要は,十分に調和のとれた政治が行われ国民も満足している国に割り込んで,「社会組織と国家組織との相互関係
を一挙に打ちこわすような」行為に見えたのです。

また,1856年(安政2年)に下田に来航したプロシャのリュードルフは,

「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。しかし,ちょうど,自分の家の礎石を一個引きとったと同じで,やがては全部の礎石が崩れ落ちることになるであろう。
そして,日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう」と日本社会が根底から崩壊してしまうのではないかと感じました。(15-16ページ)

これら外国人が「感じた」日本の将来にたいする予感は,今の時点から考えると,非常に鋭い洞察だったといえます。

ここで,ヨーロッパ人がなぜ,江戸時代の日本をこれほどまでに,微笑みの国,美しく,礼節を尊び,妖精が住む幸せな国として賞賛したのかを少しだけ
考えてみたいと思います。
  
幕末の19世紀後半といえば,ヨーロッパ世界では産業革命が浸透し,多くの人々が工場労働者として過酷な労働に従事させられ,貧困が蔓延し,労働者と
資本家との対立も激しく,社会は常に緊張に満ちていました。

このような背景を考えると,当時の日本はヨーロッパ人目には,いかにもゆったりとした幸せに満ちた国に見えたのでしょう。
 
ところで,『逝きし世の面影』の著者,渡辺氏は,政治社会的変化よりも,文化・文明の変化に注目しています。

彼によれば,幕末の日本にいた外国人が見た「江戸文明」とは,江戸盛期の文明というより,その「残光」であり,それは徐々に死に向かいはじめていた
のです。

本のタイトルの「逝きし世」とは死滅しつつある江戸文明のことであり,彼は幕末明治に見られた「美しく幸福な」日本の姿は,江戸文明の「残光」,
すなわち「面影」だったと言いたいのです。

「江戸文化」という表現は一般的ですが,江戸「文明」とはあまり言いません。ただ,渡辺氏は「文明」にたいして独特の定義をしています。

彼は「文明」を「歴史的個性としての総体のありようである。ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ,独自の社会構造と生活様式を具体化し,
それらのありかたが自然や生き物との関係にも及ぶような,そして食器から装身具にあたる特有の器具類に反映されるような,そういう生活総体」
と定義します。(10ページ)

つまり,文明とは,歴史のある時代に成立していた,精神的・物質的な生活総体ということです。この定義はむしろ「文化」と呼んだ方が適切かも知れませんが,
ここでは彼の定義にしたがって考えることにします。

これにたいして「文化」とは,知的訓練を従順に受けいれる習性,国家と君主に対する忠誠心,付和雷同を常とする集団行動,外国を模範として真似するという
国民性の根深い傾向,など,「民族的特性」と呼ぶものである,と定義されています。これは非常に変化しにくく持続する性質を持っています。

文明が歴史的な存在であることから渡辺氏は,「歴史は滅びるが,文化は滅びない,ただ変容するだけだ」と繰り返し述べています。

 さて,渡辺氏は上に定義した意味で,18世紀初頭から19世紀にかけて存続したわれわれの祖先の生活は,確かに文明の名に値した,と考えます。

 続いて彼は,「近代日本は古い日本の制度や文物を精算し,その上に建設されたのだが,その精算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは,
十分に自覚されていない」と考えています。

 さらに,「明治以降も,近代以前の文明は変貌しただけで,同じ日本が時代の装いを替えて今日も続いていると,おめでたくも錯覚しているのではあるまいか」,
とも述べています。ここは,私も含めて多くの日本人は「錯覚」している点かもしれません。

「江戸文明」は幕末には死滅に向かい,その余韻は昭和前期においてさえまだかすかに認められるにせよ,明治末期にはその滅亡がほぼ確認されたとされます。

文明というのは,個々の事象を関連させる意味の総体的な枠組なので,たとえ超高層ビルの上に稲荷が祀られようが,茶の湯・生け花が現代まで続いていようが,
それらは新たな寄せ木細工の一部として現代文明的な意味関連のうちに存在させられているにすぎない,ということになります。(16ページ)

もう少し分かり易くいえば,かつて存在した羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく,かつて江戸の空に舞い上っていた凧は今も東京の空を舞うことのある
凧とは同じではない,ということです。

江戸時代に晴れ着を着て,新年を祝うワクワクするような気持ちで子ども達が遊んだ羽根つきと現代の羽根つきとは意味合いがまったく異なります。

彼は日本人が好んで使う「伝統」という言葉にたいしても,「寄せ木細工の表す図柄が全く変化しているのだ。新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の
残存を伝統と呼ぶのは,何と虚しい錯覚だろう」,と強い口調で異議を唱えています。

それにして,もし,「江戸文明」という一つの文明が死滅した,ということを認めたとすると,これは私たちに重大な問題を突きつけることになります。

つまり,明治維新以降の日本の「文明」に何が起ったのか,という問題です。次回は,この問題を考えてみたいと思います

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妖精が棲むおとぎ話のような国-外国人の目に映った江戸期の日本

2012-08-06 11:23:15 | 思想・文化
妖精が棲むおとぎ話のような国-外国人の目に映った江戸期の日本- 


 「微笑みの国 日本」はどこへ, という前回の記事に続いて,今回は,江戸期の日本人は外国人の目にどのように映ったのかを,
渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社,平凡社ライブラリー,初版2005年)を手掛かりに考えてみたいと思います。(以下のページ数は,
この本のページを示す)

著者の渡辺氏は,江戸時代と明治初頭に日本に滞在した外国人が書き残した膨大な著作を参考にして,当時の日本人および日本人の文化の
有り様を詳しく紹介しています。

もちろん,こうした資料に基づいて当時の日本を描くことにたいする批判もあります。つまり,外国人が日本または日本人を見る場合,
エキゾチズムから表面的な美点だけを見て,政治経済的な厳しい現実をみていないという批判です。

これにたいして渡辺氏は,ある文化の内部にいる人は,自文化について客観的にみることは難しい,むしろ「よそ者」の方がその文化をより
良く見ることができる,という人類学の経験を援用して,この方法の妥当性を主張します。

渡辺氏の方法的立場は,95人もの外国人が書き残した記録(日記,滞在記,旅行記などをまとめた著作)を参照しているのでいっそう説得力
があります。

以下に外国人は江戸期の日本と日本人の姿をどのようにとらえ,表現したのかを幾つか紹介しておきましょう。

1867年(慶応3年)に日本を訪れたフランス人の21才の青年,リュドヴィック・ボーヴォワル(1846-1929)にとって,日本は妖精風の小人国だった。
少し長くなりますが,とても具体的に書いているので,その部分を引用しておきます。

    街行く「殿様」(「侍」のことか?)をみると,その腰には「あらゆる異様な小道具がぶら下がっている」。火打ち石,ほくち,
    煙管などの「喫煙用の複雑な道具」で,煙管の火皿は娘の指ぬきの半分ぐらい,「模造皮の煙草入れは,ほれぼれするような可愛い
    青銅製金具で閉じられている。
    当時西洋人が必ず案内された梅屋敷(亀戸の?)は「まさに地上における最も奇妙な庭園で,望遠鏡を逆さにして高いところから
    眺めた妖精の園」としか言いようがない。紫紅色や緑色をした一寸法師のような低木が,赤い魚のいる小さな池の上に枝をさしのべ,
    溝川には,鼠が一匹やっと通れるくらいの橋がかかり,「最後のトンネルと緑のアーチには兎が巣をつくるのがやっとだと思われた。
    (29ページ)

この青年は,見たままの姿を描き,感じたままを書き記しています。彼は「殿様」(おそらく「侍」)が腰の周りに「あらゆる異様なもの」を
じゃらじゃらとぶら下げている様子にとても興味を引かれたようです。しかし,そこには文化程度の低い日本人に対する軽蔑のような感情は
いっさいありません。

むしろ,喫煙用具は,あくまでも小さく,それでいて細かく繊細な,「ほれぼれするような」「可愛い」細工に感嘆しています。

彼は日本人の細かなも,小さな物に対する美意識に惚れ込んでさえいるのです。

渡辺氏は,「人間にとって政治経済的諸関係はたしかに,その中で生きねばならぬ切実な所与であろう。しかしそれに劣らず,いやあるいは
それ以上に,煙草入れや提灯やこまごました飾りものは,一個の人間にとって生の実質を満たす重要な現実なのだ」と述べています。

そしてそれをとおして私たちは「ある文明の肌ざわり」を再現できるのだ,とも言っています。(30ページ)

続いて梅屋敷の描写ですが,「一寸法師のような低木」とは,池の縁に植えられ,枝が池の水面に被さるようしつけられた松の木のことでしょう。
また,「鼠一匹がやっととおれる橋」とは日本庭園にはよくある丸い太鼓橋で,「トンネルと緑のアーチ」とは藤棚のようなものだと思われます。
それは「兎の巣がやっとの大きさ」だった。

これらを総合すると,このフランス人青年には,梅屋敷全体が,望遠鏡を逆さにして覗いたような,したがって全てが小さく見えるニチュアの
ように映ったようです。それはまるで,物語に出てくる小人と妖精が,ちまちまと,ままごと遊びをする箱庭のように感じたことでしょう。

江戸時代に日本を訪れた外国人の記録には,「こまごまとした」,「ちいさな」,「いとおしい」「可愛い」「妖精のような」といった表現が
随所に出てきますが,そうした言葉で現される姿が彼らの偽らざる印象であり,日本人の「現実」なのです。
 
もうひとつ,外国人が受けた衝撃は,日本人の無防備さと好奇心の強さです。とりわけ彼らは,日本の女性が裸を人前にさらすことを余り気に
しないことに,衝撃を受けました。

安政5年(1858年)に日英修好通商条約の締結のため来日したイギリス人使節団の一委員,シェラード・オズボーン(1822-75)は,江戸から川崎まで
馬の遠乗りをした夕方の帰り道に目撃した行水の様子を書き残しています。

    浴槽から踏み出し,たぶん湯気を立てて泣きわめいている赤児を前に抱いて,我々を見ようとかけ出してくるそのやりかたには,
    少々ぎょっとさせられた」とオズボーンは困惑を記しています。 (35ページ)

また,彼らが上陸した初日に,既に以下のような光景に遭遇していました。

    群衆の方は,興奮して夢中になっていた。・・肩に赤児をつるした母親たちが,その子のことなど気にかけず,走ってきて群衆に加わる。
    ・・・入浴中の男や女は,石鹸またはその日本的代用品のほかは,身にまとうものもないことを忘れて,戸口に集まっている。
    民衆は少なからず無秩序である。笑ったり,じろじろ眺めたり,また柵で止められるところまで,われわれと並んで走ってくる。(35ページ)

 
これらの記述から男も女も,外国人のような珍しいものにたいする好奇心を抑えきれず,裸のまま表に飛び出してしまった様子が,
手に取るようにわかります。そして,異人を見て,天真爛漫で無邪気にはしゃぐ民衆の雰囲気が生き生きと伝わってきます。

こうした江戸時代の身体感覚と現代の日本人の感覚と比較すると,とうてい同じ日本人とは思えないほど大きな違いがあります。

そして,いかにも屈託のない,自然児のような江戸庶民の日常の有り様は,緊張と不安人に満ちた現代の日本人のそれとは大きく異なります。

それにしても,現代と比べてはるかに貧しかったにちがいない江戸庶民が,なぜこれほど,屈託なく,無防備に生きてゆけたのでしょうか?

前回のブログ記事で,江戸末期から明治初期にかけて日本に滞在した外国人,また日本の東北を旅した外国人が,日本人はおしなべて貧しいけれど,
 どこへ行っても笑顔がみられたことを書きました。

この点は,江戸期の記録もまったく同じで,ほとんどの外国人がこのことに触れています。上に触れたオズボーンは「不機嫌でむっつりした顔には
ひとつとて出会わなかった」と言い,ボーヴォワルは「この民族は笑い上戸でこころの底まで陽気である」「日本人ほど愉快になり易い人種は殆ど
あるまい」と述べています。 (76ページ)

そして,貧困とくったくのない生活態度との関係について,明治9年に来日して大学の教員を務めたイギリス人は,東京の該当を描写した後で,
次のように述べています。

   上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。
   彼らは生活のきびしい現実にたいして,ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど
   全くみられない。・・・彼ら老若男女を見ていると,世の中には悲哀など存在しないかと思われる。(77ページ)
 
人々が苦労や心労をあまり感じていないらしいことと関連すると思われる状況も合わせて記録されています。
一つは,ヨーロッパ人が日本に来て一様に驚くのは,乞食がいないことでした。

もちろん,全くいなかったとは思いませんが,長期滞在者の記録にも乞食がいないことに触れているのです。
これは,ヨーロッパ世界との対比で日本には極端に少なかったことを反映しているのかも知れません。

もう一つは,庶民の家に鍵がかかっていないことも外国人が驚きの眼で記録しています。この理由は,庶民は盗まれるほどの財産を
もっていなかったという事情があるのかもしれません。

英国商船の船長,ヘンリー・ホームズ(生没不詳)は安政6年(1859)に長崎に上陸した際,「家は通りと中庭の方向に完全に開け放たれている。
だから通りを歩けば視線はわけなく家の内側に入り込んでしまう。・・人々は何も隠しはしない。」ことに驚いた(256-57ページ)。

つまり,生活が近隣に対して隠さず開放されている,近隣には強い親和と連帯と相互信頼が生じていたのです。

こうした共同体的なつながりの他に,庶民はおしなべて貧しかったという事情が,貧しくても何の不満もなく,その日その日を比較的気楽に,
物事に思い煩うことなく暮らすことができたもう一つの理由ではないかと思います。

渡辺氏は,人々の生活状況について「簡素とゆたかさ」というい一章を設けて,江戸時代の都市だけでなく,農漁村の人々の暮らしぶりを
丹念に検証しています。

ここで,それらを詳しく紹介はしませんが,おおよそ,次のような表現につきると思います。

1861年春,オールコックは香港からの帰りに長崎から江戸まで陸路でたびをしましたが,その時農村地帯の通り,彼が見た日本人の生活ぶりを
つぶさに観察し,

   「村は貧しく見え,農民の家(そこには家具が全然ない)はまったく快適さを欠いていた」。にもかかわらず「人びとはみな,
    雨露をしのぐ屋根ばかりか,食べる米くらいは持っているぞといいたげな顔をしていた」(107ページ)

と記しています。

人々は決して経済的にゆたかではないが,簡素で清潔で,全体として満ち足りた生活を営んでいる,というコメントがもっとも一般的です。

私たちは,江戸時代の農民や庶民は封建制の圧政と税の重圧のもとで,貧困と苦悩にあえいでいたような印象をもっていますが,必ずしも
全ての地域が常にそのような状態であったわけではないという事を知っておく必要があります。

近年,ブータンの王様が提唱した「国民総幸福量」(GNPよりGNHを)についての議論が日本では盛んですが,すくなくとも,江戸時代
の庶民の有り様をみると,物質的な豊かさ(金銭や持ち物の量の多さ)と幸福(感)とは直接には関係ないことがわかります。

このように考えると,江戸時代の人びとが,なぜいつも笑いと笑顔をたたえ,屈託のない生活を営んでいたのかが分かります。

しかし,実は,江戸の末期の開国を経て明治に時代が移ると,日本社会は次第に変化してゆきます。次回は,開国,富国強兵,産業社会化などが,
日本という社会とどのように変えたかを,渡辺氏がいう,日本の「文明が終わった」という観点からみてみます。

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スポーツとナショナリズム

2012-06-14 21:22:52 | 思想・文化
スポーツとナショナリズム


 今年はオリンピッックが開催される年なので,スポーツがマスメディアに取り上げられることが多いでしょう。

 出場をかけた予選では,ファンは会場で熱心に,しかし比較的冷静に見守り,テレビで観戦している人たちも静かに見ていました。

 しかし,予選そのものが団体戦でかつ国際試合となると,様相は一変します。最近では男子,女子のバレーボールが特に注目を
集めました。試合を放送する側も,人気タレントを動員して試合を盛り上げます。

バレーボールの予選が日本で行われたこともあって,会場では一つ一つのプレーに歓声が涌き,絶え間なく「ニッポン」コールが
起こりました。

 また,オリンピックではありませんが,6月に入って3試合も立て続けに行われた,サッカーのワールドカップのアジア最終予選は,
オリンピックの選抜試合や予選よりも注目を集めたかも知れません。

 このことは,これら3戦のテレビ視聴率が非常に高かったことからもわかります。とりわけ第二戦のヨルダン戦では,関東地区に
限って言えば,最高視聴率が37パーセントにも達しました。

 ヨルダン戦で,日本は6点も入れるという,サッッカーの試合としては異例とも言える高得点を挙げたこともあって,試合の勝ちが
はっきりして次々と得点を挙げるたびに視聴率は上がってゆきました。
 
 37パーセントという高視聴率はこのような状況の経過を背景としていたのです。試合中はサポーターのボルテ-ジは高く「ニッポン」
コールは止むことがありません。

 周囲の人に聞いてみると,普段はサッカーにあまり興味がない人でも,今回のアジア最終予選では,にわかファンとなって試合を観戦
したようです。

 一応,サッカー・ファンを自称する私も,家でテレビを見ながら,ゴールが決まった時などは,思わず大声で叫んでしまいます。
 日本人の多くが,このときばかりは,まるでナショナリストになったかのように変身します。

 もっとも,スポーツがナショナリズムを掻き立てることは,今に始まったことではありません。よく知られているように,1936年
の第6回ベルリンオリンピック大会は,ナチはナショナリズムを高揚させようと,さまざまな企画を綿密に計画し実行しました。

 国の為政者は,スポーツがナショナリズムを掻き立てることをよく知っています。実際,為政者が国際的なスポーツを「国威発揚」
の手段として利用する可能性は常にあるし,実際,そのように利用されてきた面があったことは確かです。

 国家の意図とは別に,普段はそれほどのナショナリストではないと思っている人たち,むしろナショナリズムは危険だと思っている
ひとたちも,スポーツの国際試合などでは,無意識のうちに「ガンバレ ニッポン!」を叫んでしまいます。

 どうやらスポーツに関して私たちは無意識のうちに手放しでナショナリストになってしまうようです。

 ここで「ナショナリズム」という言葉には,日本語の「国家主義」という意味と「愛国心」という意味とが含まれます。

 どちらも,政治的な「国家」を想定した言葉です。
 
 戦前の日本では政府も軍部も,あらゆる手段を使って国家主義や愛国主義を植え付けて国民を戦争に駆り立てました。

 しかし,今日のスポーツの試合での「ニッポン」コールは,広い意味のナショナリズムの発露であるといえますが,そこには政治的な
意味合いはありません。あえて言えば,我が「故郷」ニッポンというニュアンスに近いように思えます。
 
 したがって,この場合のナショナリズムは,たとえば,尖閣列島付近に中国船が現れる,といったニュースに対して,「中国はけしからん,
日本としてはもっと強く出るべきだ」といった政治的な価値判断が強く入り込んだナショナリズムとは異なります。

 
 ところで,6月12日にオーストラリアで行われた日本VSオーストラリア戦では,どう考えても日本のファウルはあり得ないという状況で,
審判はファウルを取り,オーストラリアはペナルティー・キックを得て1点を取りました。

 また,1対1の同点で,タイムアップ直前に日本はゴールを狙える位置で相手のファウルでフリーキックの権利を得ました。

試合を観戦していた日本人のほとんどは,本田のフリーキックに期待をし胸をときめかしたことでしょう。まさに,最後の見せ場がやってきたのです。

 フリーキックの名手,本田がボールを置いて,まさに蹴ろうとした瞬間,審判は試合終了の笛を吹いたのです。

 おそらく,この光景を見た人は,我が目を疑ったことでしょう。というのも,このように,ボールをセットし終えて,これから蹴ろうという動作に
入った状況では,ラストプレーとして蹴るところまではやらせるのが常識だからです。

 このときすでにアディショナル・タイムは過ぎていたので文句は言えないのですが,それなら,ボールをセットする前に笛を吹くべきだったのでは
ないか,などと,素人ながら割り切れ無さや憤懣を感じました。
 
 アウェーでの試合にはこうした予期しないことが起こりえるし,ザッケローニ監督も言っていたように,オーストラリア・チームは意図的に
「ずるがしこい」プレーを仕掛けました。

 それでも,日本が本当に強いチームになるためには,こうしたハンディを乗りこえて勝たなくてはなりません。

 そうしたことは頭では分かっていても,どうしても日本チームをひいき目に観てしまいます。
 
 今年はオリンピック年。テレビや新聞・雑誌は,出場した選手の結果について毎日報道し,テレビでは「ニッポン」コールを頻繁に聞くことになる
でしょう。

 うっかりすると,私たちは気が付かないうちに立派な愛国主義者になっているかも知れません。
そんな危惧をいだきながらも,私は今年のオリンピックが物凄く楽しみにしています。
 
 なんと言ってもスポーツは,他では味わえない感動を私たちに与えてくれる,すばらしい文化だからです。

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