中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

境の明神(芭蕉の道を歩く 34)

2014年06月02日 16時17分26秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【八】白河の関1)
遊行柳を見て、次は有名な「白河の関」を芭蕉一行は訪ねている。
ボクもその後を追って訪ねていくのだが、芭蕉のように歩くわけではない。
カミサンと同行二人だから車でその足跡を追う。

曾良の旅日記によると、
(関東の方に一社、奥州の方に一社、間二十間ばかりあり。
両方の門前に茶屋あり。小坂也。)
とあるので、
ボクは奥州街道に面して、両社向かい合って在るものと想像していた。

国道294号線(旧奥州街道)を進むと、
左側の栃木県側に「境の明神」玉津島神社があり、
道路向かい側にもう一つの「境の明神」が見当たらない。
道路はやや上り坂になっている。
曾良の言う「小坂なり」である。

(栃木県側の「境の明神」)


那須町教育委員会の説明板によると、
栃木県側の「境の明神」は、
(玉津島神社とよばれ、奥州側の住吉神社と並立している。
創立は古く、天喜元年(1053)四月十四日に、
紀州和歌の浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。-後略―)とある。

何のことはない、福島県側の「境の明神」とは並立していることが分かった。
道路の坂の上を覗くと、(福島県)の案内看板がめる。
坂の上が県境なのだ。坂を登って上を見ると、もう一つの鳥居が見える。
福島県側の「境の明神」なのだ。

(福島県側の「境の明神」)


福島県側の「境の明神」については、白河市教育委員会が、
(旧奥州街道に面して、
陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が、
二社並立している。
陸奥側の「境の明神」は、玉津島神社を祀り、
下野側の「境の明神」は住吉神社を祀っている。

-中略―

境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯籠が並び、
松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や
歌碑も多く建立されている。)とある。

つまり福島県側も栃木県側も、自分の所は玉津島神社であり、
県境を挟んで相手側を住吉神社だといっている。
話がややこしいのはここにある。

答は、白河市教育委員会の解説板にあった。

玉津島神社と住吉神社と題して、次のように記載されている。
(玉津島明神(女神、衣通姫(そとおりひめ)と
住吉明神(男神、中筒男(なかつうおのみこと)は、
国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、
男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。
このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、
反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。)としている。

道路を挟んで二社が向かい合っていると勝手に思い込んでいた自分が悪い。
福島県側の「境の明神」と栃木県側のそれとは旧奥州街道に面して、
二社並立していることが分かった。

また、双方とも玉津島神社であり、
反対側は住吉神社と呼んでいることも解かった。

そこでボクは栃木県側から来たので、栃木県側を玉津島神社、
福島県側を住吉神社と呼ぶことにした。

(福島県側の「境の明神」の門)

(福島県側の「境の明神」本殿と奉納された灯籠)

(芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」の句碑)


他に、大江丸の「能因にくさめさせたる関はここ」の句碑、
思案の「卯の花や清水のすえの里つづき」の句碑もあったので、
掲載しておきますが、写真を見て読めるでしょうか?
(大江丸の句碑)

(思案の句碑)


陸奥(福島県側)の境の明神の前の道路を挟んで向かい側に
「白河二所ノ関址」の看板がある。
白河の関はここにあったとする跡である。
陸奥と下野の二か所の明神があったところに白河の関はあったとされ、
それで「白河二所ノ関」と呼ばれたという。
(白河二所ノ関址の看板)



・若葉には 二所の境は 見当たらず   hide-san






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