中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鬼婆と黒塚(芭蕉の道を歩く 41)

2014年06月30日 11時09分21秒 | 芭蕉の道を歩く
(天台宗 真弓山 観世寺)


(奥の細道【十一】黒塚)
安積山公園を後にして、福島県二本松市庁舎に向かう。
鬼婆のいたという「黒塚」を訪ねるためだ。
黒塚は真弓山観世寺にあるという。
市庁舎で地図をいただき、
「駐車場は黒塚前の(ふるさと村)に置くと良い」と教わる。
(安達が原黒塚のあるお寺)

(真弓山観世寺本堂、右手に見える白い建物が宝物館)


謡曲史跡保存会によれば、
(謡曲で名高い「安達ケ原」の鬼女縁起説は、
平安時代の平兼盛の歌、
陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に
       鬼こもれりと聞くはまことか

の詠歌を基として、その名は世に著(あら)われた。)と言う。
(平兼盛の歌碑)

(白真弓如意輪観音堂)


鬼婆の由縁について、そのあらすじを載せておく。
(ここの「鬼婆」はその名を「岩手」といい、
京都のある公卿屋敷の乳母であった。
永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、
「妊婦の生き胆を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、
遠くみちのくに旅立ち、たどり着いた場所が、
この安達ケ原での岩屋であった。

木枯らし吹く晩秋の夕暮れ時、
伊駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名乗る若夫婦が一夜の宿をこうたが、
その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、
伊駒之助は薬を求めに出ていった。
老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、
出刃包丁をふるって、
くるしむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、
苦しい息の下から
「私たちは小さい時、京都で別れた母を捜し歩いているのです。」
と語った恋衣の言葉を思い出し、恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。
これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることが分かり、
気が狂い鬼と化してしまった。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、
いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われるようになり、
全国にその名が知れ渡った。
(宝物館にある鬼婆の什器)


数年後、奥州安達ケ原で行き暮れた那智の山伏 東光坊祐慶の一行が
一つ家の燈火をしるべに宿を求めると、
女あるじは一旦は断るが、たってのの願いに山伏たちを家に入れ、
糸繰り車を回しながら定めなき身の上をかこち、
渡世の苦しさを嘆くが、
夜寒のもてなしに裏山に薪を拾いに出かける。
その時、自分の寝間をのぞくなと念を押す。
その言葉に疑いを持った能力は、
祐慶の目をぬすんでのぞき見をし、
おびただしい死骸に驚く。
能力の報告に驚いた山伏たちが逃げ出すと、
女は鬼女の本体を現わして襲い掛かる。
祐慶は背にする笈の如意輪観世音菩薩を念じ、
数珠をもんで一心に祈ると、
尊像は虚空はるかに舞い上がって、
一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。

その後、東光坊の威光は後世に伝わり、
このあらたかな白真弓如意輪観音の功徳甚深なる利生霊験は、
奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、
1260年に及ぶ今日までその名を遺したのであります。)とある。
(黒塚と言われる岩屋)

(黒塚と言われる岩屋2)

(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである)


恐ろしい伝説の所で、しかも秋の夜の話であるから、
芭蕉は「おくのほそ道」に
「日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、
黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」と簡単に書いている。
曽良の旅日記では、長々と道のりから阿武隈川の舟渡しの状況から、
黒塚の場所、鬼をウズメシ所、観音堂まで、
書き込んでいる。
伝説とは言え、各所にいろんな話が残っているものである。

お寺の入口で拝観料をお支払いし、右手に宝物館に、
鬼婆のゆかりの品物が陳列されている。
1260年前の鬼婆が使用した遺品が保存されている。
左手に白真弓如意輪観音堂があり、
手前に鬼婆の岩屋がある。
ただ岩屋と書いたが、岩の大きさ、
屋根となる笠岩の半端でない大きさ、
阿武隈川岸にどのような自然現象で、
このような岩屋が出来たのであろうか。
伝説より、この岩屋がここにあること自体不思議でならない。
誰かが持ち運んだにしては、岩が大きすぎる。
伝説が生まれてもおかしくない岩屋である。
(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである2)





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