中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

脅迫と強請(ゆすり)藤村の「夜明け前」より(旧中山道番外記 13)

2008年11月13日 08時32分17秒 | 中山道番外記

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(高山陣屋)

(脅迫と強請「夜明け前」と「ならかわの民話」から)

街道には脅迫と強請(ゆすり)が横行していた。

山中に山賊は言うに及ばず、
権威ある宿泊者の威を借りた従者たちが、
ちょっとした事に因縁をつけ強請(ゆす)る。
それを表ざたにしないからといってご祝儀、
ご酒肴代をせしめるのが常であった。

ならかわ村には、
「家康の命日4月17日に、
朝廷より日光へ幣帛をお供えすることが慣わしであった。
この使いをする人を日光例弊使と言い、贄川宿を常宿と決めていた。
天皇の使いを良いことに、無銭飲食、無銭宿泊や献金、
献品を強要する厄介者であった。
この例弊使は権威ばかりで、
「やれ、泥をはねた」「やれ、触れた」とか
難癖をつけて、その都度迷惑料を巻き上げた。
村人はそれを知っていて、例弊使が来ると、
宿場の人は戸障子、雨戸を閉めて居留守を使ったと言う。
触らぬ神にたたりなし、と言うことか・・・」
(ならかわの民話より)
いずれも木曽路の馬篭宿と贄川宿の話として残っている。
木曽路だけが強請りやすかったわけでもあるまいに・・・

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(馬篭にある鉤の手の水車)

日光例弊使は日光までを中山道を使い、
帰りは京都まで、東海道を使ったと言うから、
東海道にも同じような話が残っているに違いない。

「夜明け前」では、
『そこで「実懇(じっこん)」という言葉が生まれた。
「実懇になろう」とは「心やすくなろう」という意味であって、
その言葉を武士から掛けられると、
旅館の亭主はご祝儀をねだられるのが常であった。
街道の人足が駕籠をかついで行く途中で、
「実懇になろうか」と武士風の客から声をかけられると、
心づけ1分(=一両の25%)とか1分2朱(=一両の37.5%)とか
ねだられることを覚悟しなければならなかった。
貧しい武家や公家衆の質(たち)の悪いのになると、
京から江戸との間で一往復して、
少なくとも千両の金を強請し、それで2~3年は寝食ができるといわれた。

一方で賄賂の公然と行われていたのも不思議は無い。
「将軍のお召し馬は焼酎を一升も飲む」といって口取りの別当が凄んだ。』
程である。(宿場の苦労:「夜明け前」より)

昔も現代もお金について、人間の心根は変わらないのであろうか?
「夜明け前」の時代では、徳川将軍の権威も地に落ち、
参勤交代の制度を廃止すると、
江戸にとってあった人質の大名の女房も、
それぞれ国許に帰り、地方の大名が力をつけ将軍の命に背くものも出てくる。

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(白川村の合掌造り)

政治は天皇を中心に進める尊皇派と
徳川幕府の将軍を中心に政治を行う佐幕派(幕府を佐(たす)ける)に
大名たちは分かれていく。
薩摩、長州の尊皇派、徳川幕府擁立の水戸、会津藩などの佐幕派。

両派とも主張を一歩も譲らず、生死をかけて自分の主張を通そうとする。
日本は二つに分かれて、戦争になる。

260年の長きにわたって君臨してきた徳川将軍派と、
将軍を任命する側の天皇を有する朝廷派が激突する。

そこで浮上したのが、苦肉の策の公武合体。
つまり、天皇家と徳川家に縁戚関係を持たせようと言う策――
天皇の妹を徳川将軍に嫁がせる策――を取った。

ご存知、皇女和宮の降嫁である。
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(白川村2)




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