中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

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平宗盛 斬首さる② (「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」より

2012年03月27日 10時11分10秒 | 中山道番外記
(平家物語 巻十一 平宗盛斬首される②)
前回のつづきで、平家物語の巻十一のボクの勝手な現代語訳です。

京より来た高僧が言うには、
「今はご子息のことをあれこれ考えてはいけません。
仮に最後の様子を清宗さまがご覧になることがあっても、
お互いの心は悲しいものでございましょう。
生まれてよりこの方、栄華を極めた人は、
昔からほんの稀(まれ)にしかいらっしゃらないのです。
ご一門の母方の親族であなた様は内大臣になられたのです。
この世での栄華は何も残る所ではありません。
今このような目に遭われることも、
前世での所業がこの世の報いとなって現れたのでございます。
この世間や他人に恨みを抱いてはなりません。
大梵天が宮殿で深い瞑想の境地に入られる楽しみも、
束の間のものでございます。
まして稲妻や朝露のように、目まぐるしい人間社会では、
生命ははかないのは当たり前の事でございます。
刀利天(とうりてん=欲界第六天中の第二の刀利天は、人間界の百年を一昼夜として、
一千年の寿命を保つと言う。)の億千年も、
ただ夢のように短いものでございます。
三十九歳になられましたが、刀利天にとっては、
その三十九年もたった一瞬のことでございます。
不老不死の薬草を誰かなめた人がいるでしょうか。
誰が、東方の父、西王の母、の命を永らえることが出来ましたでしょうか。
力を世に示した秦の始皇帝は、贅沢三昧で好きなことをしましたが、
不老不死の薬草を手に入れることはかなわず、
ついには離山の墓に葬られました。
また、漢の武帝は若くして即位し、内外に多くの治績をあげ漢帝国を
揺るぎなき確固たるものとなさいました。
そして、同じように不老不死を願い神仙思想に傾倒しましたが、
苔むす茂陵に眠っております。
生あるものは必ず滅します。
お釈迦様でさえ栴檀や沈木による火葬を避けることが出来ませんでした。
楽しみは尽きて終り、悲しみがはじまります。
天上界の天人も臨終には、五衰の日、すなわち、

衣服汚れ、
頭上の花萎れ、
身体は異臭を放ち、
腋には汗流れ、
楽しみは無くなる、

そんな日が来る。」と言われます。
そのように思いなさいませ。

そうすればお釈迦様は観普賢経の経文にある、
「我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法
(がしんじくう、ざいふくむしゅ、かんじんむしん、ほうぶじゅうほう)」
と申しまして、
善も悪も空虚なものと思いますが、
まさに仏の御心にかなうものと申されます。

どういうわけで阿弥陀如来は、
気が遠くなるような長い時間をかけて思索をめぐらし、
衆生救済と言う困難な大願を起こされたと言うのに、
我らはそのことに気づかず、億万年の長い長~い間生死をくり返し、
宝の山に入るも、何も得ることなく、
空しく宝の山を出てくるようなことをしているのです。
これ以上の恨めしいことはなく、
これ以上愚かなことは無く、
愚かな上に愚かで、こんな口惜しいことはないではありませんか。
どんなにことがあろうとも、浄土を願う思い以外に、
決して雑念を起こしてはなりません。」
と仏の定めた戒律を授けて、
お諌め申し上げ、ひたすら念仏をするようお勧めした。

内大臣宗盛は名のある聖ー仏門の導き手ーのお話と思い、
今まで生き延びることばかり考えていたが、
即座に迷いの心を翻して、西方浄土に向って手を合わせ、
声高らかに念仏をなさっている所へ、
橘右馬允公長(たちばなうまのすけ きんなが)は、大刀を引き寄せ、
宗盛の左から後ろへ立ち回り、すぐにでも斬首の用意に身構えると、
内大臣宗盛は念仏をやめて、
「息子の右衛門督ももう斬られたのか」とお聞きになったのは、
本当に哀れなことでございました。
公長が宗盛の後ろへ回り込むように見えたので、
宗盛は、往生の作法に従い、首を前に出し下を向いた。

鎌倉より呼んだ聖も涙を流された。
勇猛の武士も、この場に及べばいかにも憐れと思わずにいられない。
まして公長は平家譜代の家人であった。
新中納言 平知盛のもとで、朝晩側近く仕えた人である。
「いかに世間にこびるのが常とはいえ、ただ単に情けなしと思えるものか」
と、周りの人は心恥ずかしく思った。

その後、右衛門督 清宗にも、聖は父親 宗盛と同じように、
浄土への道への心構えを説き、
念仏なさるようお勧めした。
「父 内大臣殿は、どのようなご様子でしたか」と
お聞きになったのは、子の思いとして、いとおしいものであった。
「立派なご最期でございました。。ご安心なさいますよう」と話を聞くと、
悦んで涙を流し、
「今はもう思い残すこともありません。では、早く斬るように・・・」と申された。
今度は堀弥太郎が斬って落とした。

二人の頚を持たせて、九郎判官義経は都へ入った。
遺骸は公長が宗盛の希望で父子一つの穴に埋めた。
人の罪劫は、罪深ければ、父が子をこれほど離れがたく思うものだろうか。
その希を叶えて、一つの穴に葬った。

同じ6月の23日、
内大臣殿 父子の首が都に入る。
検非違使ども、三条河原に出てこれを受け取り、
都大路を引き回して、
西洞院の西にあった左獄の門前にある
樗(おうち=栴檀のこと)の木にかけられたのでございます。。

昔より三位以上の人の首は、都の大通りを引き回して、
獄門にかけられることは、異国ではいざ知らず、
わが国では前例を聞いたことがない。

例えば、平治の乱の首謀者 藤原信頼は、あれほど悪名高き人であったのに、
首を刎ねられたが、獄門にはかけられなかった。
獄門にかけられるのは、平家になって始めてのことでございます。
西国より都に入り六条から東へ渡され、
東国から帰っては、死んで三条の橋を西へ渡らせられた。
生きての恥、死んでの恥、いずれ劣らず憐れなことでございました。

                    (おわり)


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2 コメント

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歴史を歴史物語として読んでいるときは (g00g)
2012-03-29 18:13:26
歴史を歴史物語として読んでいるときは
たいして思いませんが
現実に過去にあったのだ!
と深く考えれば、歴史上の名のある人は
人殺しを繰り返してきたのですね
今日、死刑の執行があったと
テレビで報道がありました
死刑の難しい問題は私には語れませんが、
しょせん人間のやること
職務で関わる人の心境は
はかりしれません
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g00g さん (hide-san)
2012-03-29 21:50:07
g00g さん
コメント有難うございます。
死刑の執行は人殺しといえるでしょう。
しかし今の法律では、執行は止むを得ないと思います。
刑が決まった方たちが100人以上国民の税金で生きている、一方でその日の生活もままならず、
餓死していく人のことを考えれば、
餓死する人を助け、刑が決まった人を執行することと天秤にかければ、答えは自ずと出てくるように思えます。
他の意見もあると思いますが・・・
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