中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

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皇女和宮の宿泊地として唯一の脇本陣(旧中山道番外記 20)

2010年09月22日 10時19分03秒 | 中山道番外記

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(下諏訪宿の本陣)
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(皇女和宮が休憩した座敷)
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(その座敷前の庭)

(脇本陣--「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)
前回、皇女和宮御通行の折の炊き出しについて、
宿場は大変な人数を狩り出しおおわらわであったことを書いた。
皇女和宮の御通行のことについて、
調べて知り得た話を綴ってみたい。

皇女和宮の降嫁に当たって、
京都から江戸に下る道筋を東海道から中山道に変えたことを、
文久元年(1861)2月5日に中山道の各宿場に伝えている。

実際に和宮様が京都を出発し、
中山道を下り始めるのは10月20日であった。
つまり、およそ一年前に決まったのである。
その通達では、宿泊は何処で、昼食は何処で、
三時と十時のお休みは何処と決まっていた。
宿泊場所は一箇所を除いて、全て本陣であった。

本陣でないその一箇所は、板橋宿の脇本陣であった。
受けとり方によっては外された本陣家は不審に思ったに違いない。
板橋宿の、時の名主 豊田市右衛門は、
蕨宿本陣岡田加兵衛が残した「和宮御下向御用日記留」によると、

板橋宿のお泊りが脇本陣宇兵衛宅に決まったことは
「まことに嘆かわしきことに存知候」と書き送ってきている。

現代でも本陣家(子孫の飯田家)の方が和宮様は、
我が家に宿泊したと主張されていると聞いたことがある。
もともと板橋宿では、本家の本陣家は新右衛門を、
分家の脇本陣家が宇兵衛を代々名乗っていたが、
何時のことか、そしてどんな理由であったのか判らないが、
本陣家の新右衛門の名を脇本陣家に譲ってしまったことから
問題がややこしくなっている。
本陣家が宇兵衛を名乗ることになり、脇本陣となった。
つまり本陣家と脇本陣家が入れ替わってしまったのである。

ただ一軒だけ脇本陣家に決まったのには、
何か理由があったに違いない。
その理由については「和宮御下向御用日記留」には書かれていないが、
ボクの勝手な推測では、次のようではなかっただろうか。

【もともと、本陣、脇本陣は高貴な方がお泊りになるから、
従業員のしつけ、言葉遣い、極秘の会話を他にもらさぬとか、
挙措振る舞いに至るまで、
厳重に教育されている教養ある者が雇われていたと思われる。
高貴な方へ直接接待する人から、まかないのおばさんまで、
それぞれ心得のある人が雇われていたに違いない。
その者達は、今で言えば、特別な専門職であり、
大変な高給取りであったと思われる。
また、調度品にいたってもそれなりに格差があったのかもしれない。

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(和田宿本陣の門構え)

蕨宿本陣の岡田加兵衛が書き残した「和宮御下向御用日記留」では、
皇女和宮が宿泊するに当っては、調度品について役人から、
アンドンからタバコ盆、火鉢に至るまで、
こまごまと指図があったことが解っている。

板橋宿は、お互いの名前を取替え、
本陣と脇本陣が入れ替わったとしても、
雇われている人間や調度品は、入れ替えなかったと思われる。
また、本陣脇本陣の立地条件も宿泊地として、
大いに選定理由の中に入ったに違いない。

島崎藤村の「夜明け前」の中で、本陣家の条件を述べているが、
その条件として、高張り提灯が有る事から、
お駕籠が横付けに出来る広い式台、上段の間など、
こまごまとしたものが必要であるが、
中でも、暴漢に襲われた時逃げ出すことが出来る裏口があることが、
大前提になっている。

尊皇派と佐幕派と入り混じって、物情騒然とした時代であったから、
裏口からの逃げ道は、重要な要件であったに違いない。
もともと、和宮の御下向が、東海道から中山道に変更になったのも、
警備の問題が主たる要因であったことからであり、
案外そんな所に、元は本陣であった脇本陣を選ぶ理由があったのかもしれない。】

今となっては知る由も無い。
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(妻籠の脇本陣)
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(一段高くなっている上段の間)




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