中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

平宗盛 斬首の地① (「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」より

2012年03月22日 11時00分40秒 | 中山道番外記

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(義経元服の池の碑)
0115
(元服の池の説明板)

(武佐宿)
旧中山道を行くと武佐宿の鏡の里に、「源義経元服の池」がある。
その正面に「かがみの里」という道の駅があり、
旧中山道はこの先で左折する。
旧街道らしい雰囲気の道が少し続く。

左手にガソリンスタンドを見て、旧道は国道8号線に合流するが、
合流する手前に左へ入る山道があり、
「平宗盛胴塚跡」の看板があり、左方向を指している。
左へ入る狭い山道がそれである。
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(平宗盛胴塚の案内)
0127
(胴塚への山道)

山道を少し入ると、薄暗い森の中に大小二基の石塔が建っている。
「平宗盛・清宗父子」の胴塚である。
平宗盛・清宗父子の最後については、
「平家物語」に詳しく記されているというので、
「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」を、
図書館で読みましたので紹介したいと思います。

なお、現代語訳は筆者の独断、気ままな訳です、
読み難いでしょうが、どうぞお許しを願います。

平家物語の大臣殿被斬(おおいどのきらる)にある、
大臣殿(おおいどの)は、
平清盛を父に持ち内大臣であった宗盛を指しています。
巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)は、
平宗盛が斬首された場面です。

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(胴塚)

それでは現代文訳をどうぞ!

「平家物語 巻十一 平宗盛斬首される。①」
鎌倉殿(頼朝)は、平宗盛に対面するに当たり、
自分の居場所から中庭を挟んだ向かい側の棟に、
宗盛の座所を設け、そこに控えさせた。
頼朝は自分の場所から簾越しに宗盛を見て、
比企藤四郎義員(ひきのとうしろうよしかず)を通じて言うには、

「平家の人々には、特別な恨みがあるわけでは、決してありません。
清盛殿の継母で尼になっておられた方が、
私、頼朝助命の嘆願に どんなに力を尽されようとも、
故清盛入道殿のお許しがなければ、
この頼朝が許されることはなかったのに、
流罪に軽減されて、命は助かったのです。
なんと言っても清盛殿のお陰であって、このご恩は忘れません。
そうこうして二十余年過ぎましたが、平氏は朝敵となり、
天子の院宣により追討するよう命じられた頼朝には、
天子が治める時代に生まれた身で、
むやみに命令に背くことが出来ません。
自分の力が及ばず、このようにお目見えすることは、
はなはだ不本意でありますが、
止むを得ないことに存じます。」と申された。

このことを伝えるために、義員(よしかず)が平宗盛の前へ参ると、
宗盛は居ずまいをただし、かしこまった態度をとられた。
今は、いかに囚われの身とは言え、
もとはと言えば内大臣であられたお方が、
哀れで、このようなしぐさをされるのを、
とても情けなく見てはいられない。

周りには、各国の諸大名が並みいる中には、京都の者も居り、
中には平家の家人であった者もいたが、
すべての人が知らん顔で言うには、
「居ずまいをただし、恐れ多いと畏まりさえすれば、
お命が助かると思っておられるのだろうか?
西国の壇ノ浦で最期を遂げるのが筋なのに、
生きて捕らえられ、
ここ鎌倉まで下ってこられたのだから仕方がないことだ。」という。

中には涙を流す人もいて、そんな中の人が言うには、
「(猛虎が深山にあるときは、百獣振るえ恐れおののき、
折の中に入れられると、尾を振って餌を欲しがる。)と故事にあるように、
いかに猛けき大将軍と言われようとも、
このように囚われの身と成っては、
気持ちも改まって、内大臣であったことも忘れ、
宗盛様でさえもこうせざるを得ないのでしょう。」という人もあるとか。

このような中、九郎判官義経はさまざまに釈明なさったが、
梶原景時の讒言により、
鎌倉殿(頼朝)からのはっきりした返事もなく、
「急ぎ京へ上るように」と言われたので、
平宗盛父子をお連れして、京の都へ帰って行かれた。

内大臣、平宗盛は鎌倉で処刑されると思っていたのに、
京へ帰れとの仰せで、少し命の日数が延びたことを、
うれしく思われた。

道中も、処刑されるのは、この国で処刑されるだろうか、
いやこちらの国であろうといろいろ思案されたが、
何事もなく国々を通過し、宿場などをも通り抜けていく。

尾張の国(今の愛知県)内海(うつみ)というところに差し掛かる。
ここは故左馬頭(さまのかみ)義朝が殺された所であるから、
ここで処刑されるかもしれないと思われたようだが、
そこも何事もなく過ぎたので、
内大臣平宗盛どのは、心の内で少し安心されて、
「さては命が助かるかもしれない」と仰るなど、
いかにも虚しく哀れなことでございました。

宗盛の息子 右衛門督 清宗(えもんのかみ きよむね)は、
「どうして命が助かることがあろうか、
このように暑い時季であるから、
斬首した首が痛まないよう、
京に近くなってから斬ろうとしていることが、
父上はお分かりにならないのだろうか」と思われたけれど、
父上の内大臣殿が、
ずいぶん心細く思っているようにみえたので、
気の毒に思い話はされませんでした。
そしてただただ念仏だけを唱えられた。

日数が経ち、京の都が近づいて、
近江の国篠原の宿に一行は近づいた。

判官義経は情け深い人であったので、
京までの道のりで、あと三日という所に来て人を遣わし、
囚われ人に仏法の解脱を得させんために、
大原の本性房湛豪(ほんしょうぼう たんごう)
という高僧を招いていた。

昨日までは、親子一所においででした宗盛父子を、
今朝より別々の場所に引き離されました。
「そうか、今日が最後になるかもしれない」と
内大臣宗盛殿はずいぶん心細く感じられたようです。

宗盛殿は涙をはらはらと流されて、
「そもそも右衛門督(えもんのかみ)清宗はどこにいるのか。
たとえ首を刎ねられても、息子清宗とは手と手を取り合ってでも、
遺体は一つのところに埋めてもらいたいと思っているのに、
生きながら別れ別れになるのは大変悲しい。
十七年の間、一日一時も離れたことがなかった。
海底に沈まず死ななかったことで、
悪い評判を西海の波に流したのも、
あの清宗を案じてのことだったのです。」
と言って涙を流されると、
京より来た高僧も哀れに思われたが、
自分がこんな時に気が弱くては、
自分の務めが出来ないと思い、
涙をぬぐい、素知らぬ顔をして宗盛をもてなした。
               (つづく)
0128
(首洗い池)




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4 コメント

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平宗盛は兄の重盛と比較されて損をしているような (鉄ちゃん爺や  黒田)
2012-03-25 11:56:53
平宗盛は兄の重盛と比較されて損をしているような
文章が多いですかな。

清盛の正室時子の初めての子供だけに
おぼっちゃんで育てられたようですね。

重盛は配慮深く早死にしたので歴史では
良いように持ち上げられていますかな。

平家物語など小説では壇ノ浦で入水しなかった
宗盛を悪く書いているような気もしまけど。

返信する
鉄ちゃん爺や さん (hide-san)
2012-03-25 15:08:17
鉄ちゃん爺や さん

コメント有難うございます。
仰るとおりで、歴史は勝者から見た歴史になるため、ある意味ではしかたないことでしょう。

人間、弱り目に祟り目といいますが、悪い時にはどんなに足掻いても悪くなり、
良い時にはどんなことをしても良くなる。
不思議なものです。
返信する
平家物語を古文で読まれたのですか。 (salasala)
2012-03-26 13:15:08
平家物語を古文で読まれたのですか。
私は現代文でさえなかなか読まないのに、すごい!
返信する
salasala さん (hide-san)
2012-03-26 13:55:28
salasala さん

コメント有難うございます。
ボクは父母が明治の人ですから、東京へ独り赴任してきて、父母との手紙が候文でしたから、
古典を読むのにそれほど抵抗がありません。
枕草子とか更級日記とか徒然草とか・・・
勿論辞書は横においてですが・・・
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