![dsc000552](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/10/f18f15f11e5ba06370f970afc5f10d45.jpg)
(志村の一里塚、左右一対の一里塚①番目)
(左右一対の一里塚)
徳川幕府は、五街道を制定すると、その街道の一里ごとに塚を造らせた。
街道の両側に造った一里塚は、中山道69次の中でも、
現在(2012.4.24.)一対で残っているのは、僅かに15個しかない。
全部で135個在ったうちの15個である。
左右の開きでは、地形の関係で道幅が異なり千差万別であるが、
左右で前後にずれているもので、16mもずれているものがある。
国の指定史跡になっているのは、中山道上では二つあるが、
一つは板橋区の志村の一里塚であり、もう一つは垂井の一里塚である。
しかし、道路左右に残っているのは「志村の一里塚」で、
ほぼ原形をとどめており、頂上に榎が植えられている。
当初一里塚が造られた時、「植える木は余の木にせよ」、
あるいは「ええ木にせよ」と、名古屋弁で「良い木にせよ」と家康が言ったらしいが、
良く聞こえなくて、聞きなおすのもはばかられ、
榎の木ということにした。
榎も初代のものでは無さそうであるが、現在残っている木は、
しだれ桜、松、ケヤキだったりする。
明治になって伝馬制度がなくなり、参勤交代もなくなり、
鉄道が敷かれてからは、まさに無用になった。
(平出の一里塚、松の木が植えられている)
勿論、本陣も脇本陣も無用になり、
不要になった大きな建物は、郵便局や警察署、学校に当てられた。
もともと本業で酒造業であった所はそのまま酒造を続けたが、
旅館業に変ったものもある。
ボクの記憶に新しいのが、新宿にあった「ホテル本陣」。
もう50年も昔の話で、今はどうなったか知らない。
木曾の「細久手宿」では、今でも旅館業を営んでいる。
もっとも本来の本陣でなく、尾張藩領指定の本陣であったらしいが。
尾張藩領と言えば、木曾福島も尾張藩であったらしいが、
尾張徳川家が中山道の長い道のり(名古屋から木曾福島にいたる)を、
管理していたのは、徳川家康が敵の攻撃を事前に察知するためであったに違いない。
碓氷峠の関所も信用できる家来に守らせている。
(馬籠本陣跡の門、藤村記念館になっている)
(「夜明け前」に出てくる馬籠本陣裏手の土蔵の隠居所)
本陣を紹介した本が島崎藤村の小説にある。
「夜明け前」である。
ここで本陣の条件なるものが述べられていたが、
その中でボクにとって衝撃的であったのは、
緊急の場合逃げ延びる事ができる裏口が必須条件であったことだ。
本陣とは、武士たちにとっては戦場の中の本部であり、
敵に襲われた場合に、逃げ出す事が出来る街道につながる裏口が
必要条件である事だ。
このときすぐに思い出したのが、桶狭間の合戦である。
信長は、休憩中の今川義元の本陣へ攻撃をかけ、
見事これを討ち取るが、
このときとっさに逃れる事が出来る裏口があったら、
今川義元は逃げおおせたに相違ない。
すると歴史は変わってくる。
これは偽らぬボクの気持ちだ。そうすると秀吉もなく、
家康もなかったかもしれない。
家康が無ければ、中山道もなく、
ボクのこの一文も無かったであろうに・・・。
と考えると、歴史はとても面白い。
(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)
学生時代に読みました
彼の複雑な家族関係
お父さんへの思い?
当時、おぼこい私には衝撃でした~
コメント有難うございます。
難しい作品と思っていた「夜明け前」は、思いのほか優しい小説でした。
妻籠宿の本陣家へ養子に入った兄も苗字は島崎で、馬籠本陣家も島崎でした。
馬籠本陣の隣家は大黒屋でここの娘が、「初恋」の詩に出てくる「おゆうさん」の実家。今ではうどん蕎麦を食べさせるお店になっています。
近くには藤村のお父さんのお墓のあるお寺もありました。
hideさんの「中山道ひとり歩る記」の関係、なるほど~と(^-^)。
コメント有難うございます。
徳川幕府が出来なければ、五街道もなく、中山道もなく一里塚もなかったでしょうね。
一里塚。まわりがこんな風景になるとは思ってもみなかったでしょうね。
コメント有難うございます。
一里塚もそうですが、文明開化の夜明け前に、
本陣の方たちも、自分たちの身の回りも変わっていく様子にあわてた事でしょうね。
ボクの祖父は明治維新を体験し、昭和の戦争体験、戦後の苦しいくらしも体験して、大変だったと思いますね。
望むと望まないにかかわらず、来るし世の中を生きざるを得なかった時代です。
3年前に飛鳥山公園から歩いて眺めただけなので自信はないんだけど。
志村の一里塚はOYCと呼ぶ酵母会社へ仕事で訪問する際に車から眺めながら通過していましたよ。
歴史的な史蹟だとは知らなかったので車を降りて詳しく見ないで帰阪してしまいましたけど。
今ならデジカメで写すんでしょうが当時はまだ携帯も写真付きじゃなかったような気もしますね。
機会を見つけて次回は都営地下鉄で立ち寄りたいと考えてます。
そこから終点まで乗って笹目橋を渡ったら昔の単身赴任地ですから。
コメント有難うございます。
国の指定史跡になっている一里塚は全国にたくさんあるようです。
東京都内には、二箇所あって、一つは「志村の一里塚」、もう一つは「西が丘の一里塚」です。志村の一里塚は中山道にあり、西が丘の一里塚は日光御成り道(現在の本郷通り)にあります。
双方とも街道に面して両側に一対であります。
西が丘の一里塚は両側の塚が昔のまま動いていない都内唯一の一里塚と思われていました。
道路の拡幅により志村の一里塚は、左右のどちらかが移動していると思われていましたが、
最近になって志村の一里塚も左右とも移動していないらしい事が判ってきました。
ひでさんがいないと困るので、誰もが大事な存在で、自分もこうして生きていられることにありがとうの気持ちです。
興味深いコメントを有難うございました。
誰もがこの世の中で歴史の歯車の一つになっているとは、
考えるだけで楽しいですね。