中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

芦田宿(旧中山道を歩く 128)

2007年11月28日 08時33分36秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(芦田宿入り口の常夜灯の看板)

(芦田宿)
間の宿 茂田井を出てバス通りと合流する地点から、
少し登って道路がくだりに入る地点に(中居)の信号があり、
信号手前の左側に中山道芦田宿を示す常夜灯の看板がある。
右側には(笠取峠3,7km)の標柱が建っている。

(中居の信号)

(笠取峠への案内標柱)

信号を渡ると道路はくだり坂になり、芦田宿の町並みが一望できる。
芦田宿の文字を上に乗せた街路灯が芦田宿を通り過ぎるまで道路の左右に点在する。
他に自慢するものが無いと思われるくらい、旧中山道の案内が懇切丁寧に表示してあるのには恐縮する。

(町を一望できる坂道)

(芦田宿が終わるまで点在する「芦田宿」の看板を乗せた街路灯)

道路は上り下りが連続し町の中に進んでいく。
やがて左側に神社かお寺の参道を思わせる、
よく整備された広い道路が見えてくる。
道路の左右には中山道芦田宿の新しい常夜灯があり、
正面奥には神社ならぬ立派なビルが建っている。
田舎町に不似合いなビルは立科町役場である。
今、地方自治体は財政難に四苦八苦しているはずであるが、
この町は潤沢に潤っているように見える役場の建造物である。
役場には用が無いので少し立ち止まって、
どこから税金が入ってくるのであろうかと考えたが思い当たるものが無い。

(立派な立科町役場)

(参道でもあるまいに役場まで道路の両側に並ぶ芦田宿の常夜灯)

(脇本陣跡の標柱、山浦家はこの家の後ろ側にある)

(芦田宿もう一つの脇本陣跡山浦家、今は蕎麦やお土産を売っている)

その少し先左側のやや奥まった家の前に(芦田宿脇本陣)の標柱がある。
当の山浦家はこの家の裏手にあるようだ。
さらに進むと(芦田中央)の信号があり、信号手前の右側に
本陣跡土屋家があり、信号の先左側にもう一つの脇本陣山浦家がある。

(土屋家本陣跡の門構え)

(門の中の立派な庭)

(本陣客殿前の石柱、旧中仙道芦田宿本陣跡とある)

本陣の説明には、
(本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、
イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、
明治維新まで大名・公家の宿泊や休憩に使用され、
往時をそのまま伝える建物は中山道唯一といわれている。

客殿は間口5間、奥行き11間の切妻造り、妻入り、
桟瓦葺で屋根の前後に鯱(シャチ)を、玄関には懸魚(けぎょ)、
蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)など構築され、
江戸後期の様式をよくあらわしている。――後半省略。)とある。(立科町・長野県教育委員会)
建築用語が多くてよく理解できないが、本陣客殿前に建築用語説明図があり大いに理解できた。

(屋根に鯱と懸魚が見える)

(客殿の蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)が見える)

(建築用語の解説図)

(屋根の上の立派な鯱)

(外側から見た本陣客殿と鯱)

信号の先左側に、旅籠、金丸土屋旅館があり今も営業を続けている。
二階が出梁り形式になっており、二階軒下から「土屋」の看板がぶら下がっている。
その斜め前に歴史のありそうな「酢屋茂」味噌醤油醸造所がある。
いずれも連子格子の建物は古きよき時代の様子を伝えている。

(旅籠 土屋旅館)

(土屋の看板も旧い)

(酢屋茂)

少し先の左側にある正明寺が芦田宿のはずれである。
町を出たところに「中山道芦田宿入り口」の標柱があり、
京都側から来た旅人を迎えている。

(正明寺入り口)

(本堂と南無阿弥陀仏の石碑とお地蔵様)

(境内にあった見事な枝振りの松、紫雲の松)

(芦田宿入り口の標柱、京都側の入り口)

その先で国道142号線に出て、これを横断すると道路正面に254号線右の案内があるが、
右には行かず、一方通行出口の道路へ入って行く。
道路正面を見ると道は中央分離帯のようになっており、
「笠取峠の松並木」の石碑がある。

(右254号線を行かない)

(道路中央に分離帯がある道路、車進入禁止の標識があるほうへ入る)

(中央にある松並木の石標)

(二人の男女が寄り添う微笑ましい道祖神)

このあたり左側にもう松並木が始まっているのに気が付く。
松並木の手前に旅姿の若い男女が寄り添う双体道祖神がある。
今までに見た最もかわいらしい道祖神である。
中央分離帯のある道路を進むと松並木は本格的になってきて、
旧中山道の往時の姿を髣髴(ほうふつ)とさせてくれる景観である。

(松並木)

今まで旧中山道で並木のあったところは、安中原市の杉並木
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/05/post_5636.html旧中山道を歩く97参照)があるが、
これは周りが人家に囲まれているので、並木の感触が伝わらないが、
笠取峠の松並木は周りを山に囲まれているので、
往時の街道を連想させるに十分な景観となっている。
今まで旧中山道を歩いてきて、この松並木をしのぐ景観はなかった。
時まさに紅葉の時期に入っており、松並木の景観はすばらしい。

(紅葉が美しい)

(それでも昔と比べると松ノ木は当初数百本あったものが、
大正十三年(1924)には二百二十九本となり、
現在は百本程度を立科町が笠取峠の旧街道と松並木の保護に努め
往時の姿をとどめている。)(立科町教育委員会)

(蕨宿にある芦田宿の浮世絵タイル)

(蓼科山の北側を進むこのあたりは、峠が連続する。
広重描く浮世絵、木曽海道「あし田」は芦田宿を出て、長久保宿への間にある笠取峠を描いている。
峠からは浅間山の眺めがよく、茶屋が設けられていたと言うが、
この絵にも、荷物を置いて一休みする旅人とともに小さく茶屋が描かれている。
人物を小さく描くことによって大自然の雄大さを強調しているように思える。)
(中山道広重美術館「木曽海道六拾九次之内」より)

(広重描く、木曽海道69次之内 あし田)


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