中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

茂田井の造り酒屋(旧中山道を歩く 127)

2007年11月23日 08時50分17秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(白壁の大沢酒造の杉玉が見える)

(間(あい)の宿 茂田井)
茂田井の造り酒屋前の若山牧水の歌碑を後に、
少し勾配のある坂道を登ると右手に大沢酒造がある。
白壁の西のはずれに高札場跡の案内がある。


(高札場跡)

説明によれば
(江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、此処に高札を掲げた。
高札場は名主宅前に設けられることが多い。大沢家は元文二年
(1737)明治四年(1871)に至るまでも茂田井村の名主を
勤め、元治元年(1864)十一月十九日水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、
それを追ってきた小諸藩2500人の本陣となった。)
(望月町教育委員会)


(手入れの行き届いた家並み)


(大きな馬頭観音の碑)

大沢酒造は一部が民族資料館になっており、しなの山林美術館も
併設されている。旧中山道はせまいみちである。
しかし、道路わきの家々は手入れがよく行き届いており、町全体が裕福な印象を受ける。
大沢酒造を後に上り坂の道路を進むと、左側に高さ2mもあろうかという馬頭観世音の石碑があり、
さらに進んで坂道の頂上付近の
左側に、立科町文化財として茂田井の一里塚が残っている。

立科町教育委員会の説明によれば、
(一里塚は、信長の時代に設けられ、
徳川家康・秀忠が引き継いで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞集)
中国で道のそばに一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いで
エンジュの木を植え旅人に木陰を与えたという例に倣って
榎(えのき)が植えられたといわれている。

また、三大将軍家光が「一里塚には『余(よ)の木』を植えよ」といったことから、
老臣が榎(えのき)と聞き違えて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、
この頃一里を36町と決定され、五畿七道のこるところ無く一里塚が築かれたとされている。

天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、
榎の根本が残っていたとある。)(立科町教育委員会)
当時の一里塚には榎を植えてあった。真偽のほどはともかく、
榎を選んだ由来が記されており面白い。


(一里塚跡の案内看板)

このたて看板がある場所に一里塚はあったようであるが、
両側ともに榎は勿論のこと土塚も見ることができない。
日本橋より46里184kmの地点である。

道路を少し登ると、広いバス通りと合流する。合流地点には
(茂田井間の宿入り口)(笠取峠まで4,4km)の案内看板がある。

まもなく芦田宿に入る。

(茂田井宿入り口の案内)




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