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(白壁の大沢酒造の杉玉が見える)
(間(あい)の宿 茂田井)
茂田井の造り酒屋前の若山牧水の歌碑を後に、
少し勾配のある坂道を登ると右手に大沢酒造がある。
白壁の西のはずれに高札場跡の案内がある。
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(高札場跡)
説明によれば
(江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、此処に高札を掲げた。
高札場は名主宅前に設けられることが多い。大沢家は元文二年
(1737)明治四年(1871)に至るまでも茂田井村の名主を
勤め、元治元年(1864)十一月十九日水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、
それを追ってきた小諸藩2500人の本陣となった。)
(望月町教育委員会)
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(手入れの行き届いた家並み)
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(大きな馬頭観音の碑)
大沢酒造は一部が民族資料館になっており、しなの山林美術館も
併設されている。旧中山道はせまいみちである。
しかし、道路わきの家々は手入れがよく行き届いており、町全体が裕福な印象を受ける。
大沢酒造を後に上り坂の道路を進むと、左側に高さ2mもあろうかという馬頭観世音の石碑があり、
さらに進んで坂道の頂上付近の
左側に、立科町文化財として茂田井の一里塚が残っている。
立科町教育委員会の説明によれば、
(一里塚は、信長の時代に設けられ、
徳川家康・秀忠が引き継いで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞集)
中国で道のそばに一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いで
エンジュの木を植え旅人に木陰を与えたという例に倣って
榎(えのき)が植えられたといわれている。
また、三大将軍家光が「一里塚には『余(よ)の木』を植えよ」といったことから、
老臣が榎(えのき)と聞き違えて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、
この頃一里を36町と決定され、五畿七道のこるところ無く一里塚が築かれたとされている。
天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、
榎の根本が残っていたとある。)(立科町教育委員会)
当時の一里塚には榎を植えてあった。真偽のほどはともかく、
榎を選んだ由来が記されており面白い。
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(一里塚跡の案内看板)
このたて看板がある場所に一里塚はあったようであるが、
両側ともに榎は勿論のこと土塚も見ることができない。
日本橋より46里184kmの地点である。
道路を少し登ると、広いバス通りと合流する。合流地点には
(茂田井間の宿入り口)(笠取峠まで4,4km)の案内看板がある。
まもなく芦田宿に入る。
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(茂田井宿入り口の案内)
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