(英泉画く浮世絵「木曽街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」蕨宿にあったタイル)
(塩尻宿)
歌川広重、渓斉英泉画く浮世絵集「木曽海道六拾九次之内」の
「塩尻嶺諏訪湖水眺望」解説には、
(季節は厳冬、下諏訪を出て塩尻峠を登り行くと、
眼下には諏訪湖、はるかに富士山を望むことが出来た。
左は八ヶ岳連邦、湖に向かって立つ城は高島城。
馬上の旅人も馬子も、足を止めてすばらしい景色に見とれているようだ。
湖面に見えるひびは「御神渡り(おみわたり)」であろう。)とある。
(ボクの撮った写真には残念ながら富士山は見えない)
塩尻峠を越えれば、もう塩尻宿に入ったようなもの。
登りと対照的に急な下りの坂道を、転げるように下る。
下って行くとすぐ左に山の中にしては立派な家がある。
案内書では、茶屋本陣であったというが、
山中で営業しているのか人が住んでいるのかさえ分からない。
(親子の地蔵?)
急ぎ足で通り過ぎると右手に二基の地蔵様が並んでおり、
左側の地蔵様が少し小さい。
両方とも赤いエプロンを書け、どう見てもこれは親子に見える。
地蔵様の後ろにはせせらぎが音を立てて流れ、
喉を潤せそうな清らかな澄んだ水のようだ。
この地蔵様の横に白い標柱が建っており、
伝説「夜通道」とかかれ、その伝説の内容が簡単に書かれている。
(「よとうみち」標柱)
「夜通道」なんてどんな辞書を引いても掲載されていないし、
まして「よとうみち」とはとても読めない。
伝説「夜通道」の標柱が塩尻峠を下る途中の林の中にある。
(いつの頃か、片丘(地名)あたりの美しい娘が岡谷の男と親しくなり、
男に会うために毎夜この道を通ったので「夜通道」という。)とある。
(昼間は緑も美しい山道)
周りの林は昼間明るくて、
緑が美しいが毎夜娘が通うには淋しい場所に思われる。
もっとも淋しくも恐ろしくても好きな男を慕う乙女には、
恋は盲目の喩え通り、
周りも見えず怖いと思う余裕さえなかったかもしれない。
夜通し歩いた乙女の心を思うと、せつない。
「夜通道」の先は開け、すぐに先に「東山一里塚」がある。
日本橋から57番目の一里塚で南側だけが残っている。
(一里塚57番目のはずが52番目と書かれている)
(一里塚横の案内板、書かれた歌:
「大名行列も 皇女降嫁も 野仏は
黙し(もだし)迎へむ 中山道に」が面白い)
説明によれば、
(東山一里塚は古図には道を挟んで二基描かれているが南側のみが現存する。
元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、
中山道は牛首峠経由(諏訪―三沢峠-小野―牛首峠―桜沢口)から
塩尻峠経由(下諏訪―塩尻―洗馬―本山)に変更され、
この一里塚もそのころ作られたと推定される。
市内には、東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五箇所に一里塚は築かれたが、
現在は東山と平出の一里塚が形を残しているだけである。)(塩尻市教育委員会)
ぐんぐん坂を下ると国道20号線にぶつかる。
国道は左に大きくカーブしている。
国道に沿って300mも進むと右に入る小道があるので右折する。
(地下道の先の杉並木、防風林であろうか?)
今度は国道を地下道で向こう側に抜けると、右側に杉並木が続く。
杉並木の向こう側は、放牧場のようで広い牧草地のようである。
杉並木が切れると長野自動車道があり、
今度は橋を渡って高速道路を渡る。
右手は丸い形の山があり、すぐに柿沢集落の中に入っていく。
(首塚)
(胴塚)
まもなく左の家の壁か塀に(首塚・胴塚左)の看板があるので案内に沿って道路を左折する。
すぐに畑の中にさらに左折の案内があるので左に入ると、
あぜ道のような道の上に首塚があり、その奥に胴塚が見える。
武田信玄と松本の小笠原長時が塩尻合戦の戦死者の墓で、
両軍で千人あまりが死んだといわれる。
戦死者の首は掻き取られて、手柄の証拠とされたのであろう。
そのため首は首だけ、胴は胴だけが埋められたと言うことになる。
周りで畑を耕す農家のご夫婦に聞くところによると、
最近この塚を見に来る人が増えたらしい。
ボクが両塚を写真に収めている間に
二人もこの塚を見学に来たくらいである。
月曜日というのに。
塚を後に中山道を下ると「スズメオドシ」と呼ばれる
奇妙な形の鬼瓦に変わる飾りを屋根につけた家が目に付く。
庭の手入れも良く、家の手入れも良いと思われる美しい家に魅せられ、
臆面も無く門から中に入り、この屋根の写真を撮っていたら、
この屋の奥様がお出かけになるらしく、
家の奥から車で出てこられた。
邪魔とは知りつつ、帽子を取り挨拶をして、
屋根の上にある飾りは何というのかお尋ねすると、
エンジンを止め、サイドブレーキをかけて車から降り、
わざわざ裏の畑で耕運機を操縦されていたご主人に
「私は出かけなければならないので、その説明をしてやってほしい」と伝えてくださる。
ご主人は耕運機のエンジンを止めてにこにこして、
屋根の飾りは「スズメオドシ」といい、
信州の代表的な建物で、間口十間、奥行き十間ある農家の建物だと言う。
「現在何人でおすまいですか?」と尋ねると、
夫婦二人らしい。
(屋根に「スズメオドシ」のある旧家)
この農家の一階の建坪は100坪、その四分の一の我が家は、
たかだか24坪で毎日の生活で持て余しているのに、
この家を管理するのは並大抵ではなかろうと思った。
それにしても玄関の窓ガラスのほこりも見えないが、
この手入れを一体どのようにしておられるのか、
今度ゆっくりお聞きしたいものである。
帰りがけに玄関口までお送りいただき、
その玄関先にある木の柵について何の役目をするものかとお聞きすると、
それは皇女和宮が徳川家に降嫁されたとき、
お触れが在ってこの柵を作らされ、
ここから外に人を出してはならないと厳命があったという。
(右奥に見える柵)
(柵の向こうは式台で昔は玄関だったという)
自分を戒める柵を自分が作るなんてことは、
現代ではとても考えられず、
柵外に出てはならぬと命令するなら、
命令する側が柵を作るか、費用を出すとかあってしかるべきと、
今なら言い出し兼ねない。
武家社会と現代社会の差がよくわかる。
懇切丁寧な説明に、頭を深々と下げ、お礼を言って分かれた。
(高札の跡?)
門前の道路の向こう側に古びた高札場があるが、
これは当時のものかどうかわからない。
帰宅後信州出身の友人に「スズメオドシ」の話をすると、
この様式の建物は、松本平を中心に庄屋、
名主など身分の高い人の家であるという。
お訪ねした家のご主人は信州の農家の典型的な建物といっていた。
また、家は500年続く旧家で、現在の建物は170年経っていることが、
数年前に建物と土台石がずれたのを修正したとき、
棟木に建築年代が墨書してあった事から解ったと言う。
周りに二軒ほど同じ「スズメオドシ」をつけた屋根を持った家があるが、
交代で名主を勤めたのであろうか?
高札跡があるくらいであるから名主の家であったように思われる。
先に進めばいずれ解かるかも知れない。
後日譚:あまりにも親切に、説明いただき本当にうれしかったので、
後日手土産を持参してお礼に立ち寄った。二ヶ月ほど後のことである。
首塚、胴塚・・・・・怖ーい(>д<)