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(新茶屋の一里塚、江戸から来て左側の塚)
(馬籠宿 5)
小公園を過ぎて、田や畑の道を少し進むと、新茶屋の一里塚に出る。
その先は落合の石畳が連なり、十曲峠が始まる場所である。
「夜明け前」の中では、芭蕉句碑を据え付ける場面で、
その会話が楽しく聞こえてくる。
芭蕉の句は
「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 芭蕉翁」と
石碑に刻まれていることから、翁塚と呼ぶが、
この最後の「穐(あき)」の文字が「蠅」に読めると言う会話である。
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(芭蕉翁の句碑)
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(「蝿」と読める翁塚)
「夜明け前」のその部分を抜粋しよう。
(「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。
送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき) はせお
「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。)(夜明け前)より。
のどかな場面であるが、物語はその後、
難しい時代を生き抜いた人たちの苦悩を鮮明に描いていく。
最近になって、古文書を読む講習会に参加した。
確かに「禾」へんは古文書を見ると「虫」のように見える。
藤村は面白いところに気づいて書いたのか、
あるいは事実をかいたのか・・・
(また、芭蕉俳句集に寄れば、
・送られつ 送りつ果ては 木曽の秋
とあるから「穐」は「秋」を指し、決して「蝿」では無い。)などと
ボクみたいに、むきになって反論してくる輩もいることを狙って、
内心面白がって藤村は書いたのかもしれない。
この芭蕉句碑と並ぶようにして、
「是より北 木曽路」の石碑が設置されているが、
藤村自身が揮毫したものと言う。
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(「是より北 木曽路」の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/b5/47ddee6ef360fdabd12011cc5a07493d.jpg)
(贄川宿桜沢にある「是より南 木曽路」の碑)
木曽十一宿の南はここから始まり、北は贄川宿の桜沢までで、
桜沢には対照的に「是より南 木曽路」の石碑が建っている。
句碑と木曽路の碑が立っている先に、一里塚がある。
山の中のこともあり、中山道の左右に一里塚は残っていて、
新茶屋の一里塚という。
江戸より83番目の一里塚である。
左右一対の一里塚としては七番目である。
この先に落合の石畳があり、十曲峠に入る。
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(江戸方面から右手に見える「新茶屋の一里塚」)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/1c/e2e45871783feb16084267c51c66aec6.jpg)
(一里塚脇の「信濃・美濃」国境の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/96/575cbe06df044ea23da2a3d911a64145.jpg)
(一里塚先から始まる「落合の石畳」)
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