中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

水車塚(旧中山道を歩く 206)

2010年08月17日 09時42分47秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(恵那山)

(馬籠宿2)
昨日は沢山の外国人とすれ違ったが、
今日(5/14)は、高校生のハイキングが多く、
尾張一宮の商業高校生 男女約260名、
群馬県水上町の高校生 男女約240名とすれ違った。

「こんにちは!」の挨拶を80回ほどしたが、
全員から元気良く挨拶が返ってきた。
馬籠宿から妻籠宿まで歩くのだそうで、
若い彼らは元気そのもので羨ましかった。


(峠でであった高校生、空の青さが美しかった)


(沢山すれ違った高校生)

やがて右手に休憩所とWCがあり、休憩所の前面の木の根方に、
十辺舎一九の狂歌の碑が建っているのが見える。

・渋皮の むけし女は 見えねども 
                 栗のこわめし 爰(ここ)の名物   (十辺舎一九)

説明によると、
(古くから峠の名物は(栗のこわめし)であった。
江戸期の戯作者 十辺舎一九(じゅっぺんしゃいっく)は
文政二年(1819)に木曽路を旅して、
「岐蘇街道膝栗毛(きそかいどうひざくりげ)」の馬籠宿のくだりで、
このような狂歌を詠んでいる。)とある。

(狂歌の意味は、渋皮の剥けたような、チョイト良い女は、
この片田舎には居ないが、
栗おこわ(栗の入ったおこわのこと)はとても良いという意。)



(十返舎一九の歌碑)


(国道と交差する)


(左脇に清水バス停がある)

次いで清水のバス停で国道7号線を横断し、
ドライブインなのか、(お食事喫茶の家)の前をヘヤピンカーブで右折し、
石畳の急な下り坂を歩く。
沢山の高校生に挨拶を送りながら、暑い日差しの中を進む。
下り終えた右手に橋があり、その先に藤村の水車塚がある。

水車塚について、
(「山家にありて、水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に
                     藤村しるす」
明治37年(1904)七月、
水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、
一家四人が惨死した。
難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、
たまたま藤村と親交があったことから、
後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものが、
この「水車塚」である。

碑の文字を見る限り、島崎藤村は端正で、几帳面な性格に写る。

水車塚の脇に水車小屋があり水車が廻っていた。


(右側が食堂兼喫茶の家、ここでヘヤーピンカーブする)


(高校生がどんどん登って来る)


(水車塚横にある水車小屋)


(水車塚、文字は藤村の筆、几帳面な字)




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