(是より北 木曽路の碑)
(翁塚と嵩左坊)
「夜明け前」は主人公青山半蔵
(藤村の実父がモデルで馬籠宿本陣の主人)の半生を通じて、
幕末から明治維新に至る、時代の夜明けを描いた歴史小説である。
その小説の中に、次のような一節がある。
{「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。
送られつ 送りつ果(はて)は 木曾の龝(あき) 芭蕉翁
(翁塚)
「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、
それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。}
(「木曽の穐」が「木曽の蝿」に読める句碑。)
この文章にある「木曽の穐」の「穐」の字が「蝿」と読めると議論している。
勿論、芭蕉の俳句は「木曽の秋」が正しいのであるが、
俳句好きな父親の翁塚を建てるという生前の願いを、
実現させる金兵衛が塚を建てるのであるから、
まさか「木曽の蝿」と石に刻ませるはずはない。
しかし、石碑に彫られた文字は「木曽の穐」で、
これをくずし字で書くと「蝿」に見えるというのである。
確かに「禾(のぎ)」へんは、石碑を見る限り「虫」へんに見える。
この翁塚を建設供養に当って、お祝いに駆けつけた人たちについて、
「夜明け前」では次のように記している。
(翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。
あいにくと曇った日で、八(や)つ半時(はんどき)より雨も降り出した。
招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、
手土産(てみやげ)も田舎(いなか)らしく、
扇子に羊羹(ようかん)を添えて来るもの、
生椎茸(なまじいたけ)をさげて来るもの、
先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、
それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、
国も二つ、言葉の訛(なま)りもまた二つに入れまじった。
その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合(おちあい)の宗匠、
崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。)
この文の中に見られるように、
「夜明け前」の中では、崇佐坊(すさぼう)の名で出てくる美濃の宗匠とは、
嵩左坊を指している。
この翁塚を境にして、木曽(長野)と美濃(岐阜)の境であったから、
美濃の宗匠が居てもおかしくは無い。
もともと岐阜県在住の俳諧を趣味にする人は多く、
芭蕉門下で美濃派といわれるくらいである。
ボクの父は美濃の出身で、俳句をよくしたが、
俳句が盛んな地域であったのかもしれない。
(新茶屋の一里塚、手前の石碑が、信濃と美濃の境界の杭)
(美濃と信濃の国境とある)
話が飛ぶが、
「木曽路文献の旅」(北小路健著)のなかでは、
{翁塚建立の時集まった嵩左坊を含む俳句好きが巻いた歌仙の中で、
次のような句があるから、
「穐」の字は「蝿」が正しいという意見を述べている。
(その句とは、
蝿を追う迄を手向けや供養の日 峨 裳
憎まれず塚の供物に寄る蝿は 聴 古
蝿塚や木曽を忘れぬ枝折にも 霞外坊
蝿送り送り守らん恩の塚 逓 雄
と四句まで「蝿」を読み込んでおり、最後の句の如きは
「送られつ送りつ果ては木曽の蝿」と読んでこそ、
はじめて首肯できる作となっている。右の霞外坊の句にあるように、
この翁塚を蝿塚と詠んでいることからも「木曽の秋」ではなくて
「木曽の蝿」と素直に詠んだことになる。)と論じている。
しかし「夜明け前」にあるように、
俳諧好きの亡くなった親父のために作った記念碑の芭蕉句を
間違って「木曽の蝿」と刻んだとは思えない。
もし間違っていたら、造り直させたであろう。
翁塚の句会では、建立時の(蝿と読める)二人の会話を参考にして、
面白おかしく、「蝿塚」や「蝿」を入れて作句したに違いない。
また最近、古文書の読み方(初級講座)で学んだ所によれば、
「禾(のぎへん)」を崩して書くと「虫」に良く似ているのは事実である。
だから、やはり「木曽の穐」であって「木曽の蝿」であるはずは無い、
とボクが思うのは間違っているだろうか?
考えてみれば、人生は短いのだから、
こんな他愛の無いことで、
むきになって時間を費やすのはもったいない。
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