富岡製糸場世界遺産伝道師協会「平成25年度総会・第一回研修会」を盛会に開催
平成25年5月11日(土)9時半より、前橋問屋センター会館二階龍の間を会場に「平成25年度総会と第一回研修会」が88名という多数の皆様の出席を得て開催されました。
開会挨拶で近藤会長は、「来年の今頃審査される日程が確実になった。今年考えなくてはいけないのは登録後の活動をどうしていくか。また協会の10年間の活動の足跡を残したい」と挨拶されました。
来賓祝辞で、松浦利隆世界遺産推進課課長は「富士山・鎌倉の勧告は意外だった。来年の審査は予定通りと思う。現地調査はかなり厳しく行われる。OUVも富岡は中心の製糸場があって3つの構成資産もきちっと残っている。自信を持って活動いただきたい」。
今井幹夫富岡製糸場研究センター長は「マスコミ報道はOUVと市民の取り組みが話題だった。コメンテーターが群馬の取り組みを紹介していた。近藤会長から登録後の話があったが継続を願っている」。
小坂裕一郎高山社を考える会会長は、ららん藤岡での協力へのお礼を述べ「地域の皆さんに理解して頂くことが我々の仕事。登録されたあとが大切。地域の人が豊かになることが目的と考えている」。
上毛新聞藤井浩論説委員長は「来年の今頃に朗報が聞かれるかと思うと非常に感慨深い。群馬の運動は民間の力、来年の審査でも登録への大きな力になる。これからも一緒になって登録に繋げていきたい」。
と各氏からの祝辞をいただきました。
来賓の石原征明先生、村田敬一先生、吉田恭一様、栗原知彦様の紹介後総会に移り、中嶋弘副会長を議長に選任し、第一号議案「平成24年度事業報告、収支決算及び監査結果報告」について質疑無く拍手で承認された。
第二号議案「平成25年度事業計画(案)」の質疑で、原田会員(高崎)の質問「養成講座開催時期を早めたらどうか」、近藤会長が回答「いろいろあって秋になる。登録後もやることはある」。高橋会員(高崎)の質問「富岡なかまち交流館で待ちの時間が多い。街なかの案内はできないか」、近藤会長が回答「街なかを散策できるパンフレットを作ったので活用いただきたい」。芝原会員(東京)の質問「工女ぐんまちゃんの傷みが激しいので直してほしい」、高橋補佐が回答「今年度あたらしいものが配属になる」。次に「平成25年収支予算(案)」の質疑で、斉藤信会員(高崎)の質問「支部予算が前年実績を踏襲との説明であったが」、近藤会長が回答「いろいろな要因があり、内規を踏まえながら役員会で支部長とも相談し組ませていただいた」。その他前掲原田会員から(財)大日本蚕糸会についての質疑の後、原案通り拍手を持って承認された。
進行を司会に戻し次の議題、その他「伝道師協会の今後のあり方(案)」について町田企画部長と日下部中北毛支部長が説明を行い、11時15分予定時間を超え総会は終了。
休憩をはさみ11時25分から、「横浜への絹の道」と題し小泉勝夫横浜シルク博物館前部長の講演となった。要旨は、井伊大老の決断で横浜が開港すると絹の道による往来が開始、だが各地の急峻な峠や橋の耐久性の問題で多くは船を使った。横浜に進出した生糸売込商で、上州出身の中居屋重兵衛、吉田幸兵衛、茂木惣兵衛と原三渓について足跡を紹介。
生糸輸出の始まりは開港当初欧州で微粒子病が蔓延、中国はアヘン戦争や太平天国の乱で貿易を停止しており幸運だった。生糸は開港当初輸出の80%以上を越える年もあった。絹の道を使い生糸・蚕種・お茶などが横浜に、また横浜から輸入品の砂糖・綿などが各地に送られた。開港頃の主要生糸産地は奥州・羽州・上州・武蔵・信州・甲州だった。養蚕農家からの道という道は全て絹の道といえる。水運は江戸時代から発達し大量の生糸が運ばれた。利根川水系の倉賀野河岸や平塚河岸から大量の生糸を積み出した。陸路・水路を使った絹の道は鉄道の発達により機能を失っていった。生糸輸出先はスエズ運河の開通前は喜望峰を経由しイギリスが一番だったが、1869年の開通後はフランスが取って代わり、1884年頃から50%以上がアメリカとなった。アメリカへはシアトルへ、パナマ運河が開通するとニューヨークへ、昭和2年~5年の生糸輸出の92%以上がアメリカだった。開港当初の繰糸法は胴繰り、丑首、座繰りだった。粗製乱造生糸の輸出問題もあり優良生糸の生産の為器械製糸の導入となり、明治27年生産量で器械製糸が座繰りを上回る。座繰り製糸場数は明治38年以降に激減した。生糸の束装(ソクショウ)は産地により様々で、最も多かったのが群馬・長野・山梨などの提げ糸造りだった。猪口造りの束装は富岡製糸所が行っていたのを改良し明治10年頃から全国に普及。明治期・大正期・昭和初期には経済不況による生糸価格の暴落があった。特に大正3年、9年、昭和4年は大暴落した。絹物類の輸出で貨客船が使われた。山下公園の氷川丸も生糸を運んだ。羽二重の産地は群馬であったが福井の職人が技術を学び明治25年福井が群馬を抜き、石川、福島に広がった。スカーフは横浜では横浜が発祥地といっているがハンカチーフ製造の始まりは桐生で発祥地は群馬といえる。横浜に入ってきた西洋文化が絹の道を通って各地に伝わった。居留地に30の地方の名称を付けた通りがあり前橋町もあった。
(予定時間を過ぎ講演は終了したが、昼食会後に以下の講演の続きをしていただいた)
高山社と神奈川の繋がりは、高山社蚕業学校の卒業証書1枚が現存し横浜シルク博物館で今展示している。神奈川は高山社に大変お世話になった。「おきぬ様」信仰は相模原市の皇武神社から伝わり、群馬・埼玉などで信仰されたが神奈川には残っていない。横浜と群馬は深いつながりがある。世界遺産登録に向け伝道師の皆様の役割は大変重要でこれからも知識を深めていっていただきたいと結ばれた。
近藤会長の謝辞をもって平成25年第一回研修会は終了。
12時40分から、会場を一階スワンに移し懇親会(昼食会)を開催。来賓の石原征明先生、村田敬一先生、島村蚕種の会栗原事務局長の挨拶に続き、近藤会長が挨拶し会食となる。65名という予想を超える参加者でした。総会も昼食会もこれ迄にない多数の会員が参加し、今後の活動への期待と共に来年の世界遺産登録に向け大いに意識の結集ができたと感じました。 (文責:日下部 邦彦)