暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

冬枯れの槿(むくげ)

2011年02月14日 19時00分49秒 | 日常

三年ほど前の夏にこの花が咲いた時に写真を添え、次のように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/49168376.html

毎年夏には庭の隅に植わっている槿が美しい花を咲かせて南国にある親戚のハイビスカスに想いをよせ、その色の移り変わりを楽しんでいるのだが、夏の盛りにはあれだけ嵩が高いうえに活気があるほどの立ち木が今は見る影もない骨だけになってそこにある。 というよりあれだけの空間はどこにいった、という訝しさにも襲われる。 そして、そこには落ちずにそのままの実か花の袴のようなものがぶら下がっていて、それは結実しそびれた綿の実のようにも見えなくもない。

今日もまたこの3,4日ほど続いている鬱陶しい天気で、一日中家の中に居て、外気を吸おうかと裏庭に出た折りにこれを発見したという次第だ。 今更「発見」でもないものだ。 この植木もここにはもう何年も植わっているからいままで散々見ているはずなのだが、「心ここに在らざれば視れども見えず」ということか。 それとも、、、美しいものには目が行くが、一旦それが過ぎて衰え、周りの冬枯れのなかにあればそれには眼が行かない、ということか、そういうような諺とか詞を思い出そうとするのだが、今日の天気のような頭にはそんなものははっきりとは思い浮かばず、なるほどメディアには見た目は華やかで小さいハイビスカスかムクゲかというような娘ばかりが露出しているからなあ、と短絡的に、人はそんな時期ばかりに眼が行き、それが過ぎれば誰も目も向けないものでそれと同じか、という俗情にも納得しそうになるのだった。

古井由吉の秀作に「槿」というのがあるがあれには「あさがお」と振り仮名がついていた。 その作に魅入られたのももう30年近く前だ。

何か細かい霧のような鬱陶しい土曜だから、、、

2011年02月13日 21時42分33秒 | 日常

2011年 2月 12日 (土)

昨日も今のように細かい霧のような雨が大気中に漂っていて買い物に行くのを厭った家人は冷蔵庫やそのあたりにあるもので夕食にしたのだがその翌日の今日になっても同じこと、食事当番の自分としては買い物にいかねば我々の腹に何も入らない道理で、それでは仕方なくポンチョを頭の上から被り外に出た。

寒くはない。 空気中の湿気の感じがたまらないけれどポンチョは特別しっとりと濡れる感じはない。 それでも300mも自転車を走らせるといくら野球帽を目深に被っていても眼鏡はこまかな霧吹きの膜で蔽われ、これは普通に雨が降る中を走るよりタチが悪い。 ペダルを漕ぎながら土曜の鉛色の空の下の「青空」市場のまばらな人を想い鬱陶しさが増す。 けれど自転車が町の中心に近づくにつれて予想以上に人が出ていて、ほとんど日頃と変わらぬ賑わいを見せている。 感傷や天気に煩わされない忙しい日常でそれぞれは毎週の家事は何があっても続けられなければならない、ということなのだろうか。

人が出ているのにいきあうと少々気分が高揚しないでもない。 これは謂わば、冬の鬱陶しいときに誕生日などのパーティーが景気付けになり、そんな憂鬱も一時は忘れ、知人、友人、それにそれらが連れてきた見知らぬ人々と社交の時をすごして春を待つ、というようなものかもしれない。 「青空市場」とスーパーマーケットの違いはそんな社交の空間がある、ということかもしれない。 もちろん、スーパーの中でも知り合いと立ち話をすることはあるが、それは「青空」市場での雰囲気とは全く違うものだ。 それにここでは知り合いがいるかいないかは問題にならない。 年齢や人種が雑多な男女が市を行き交いし、子供がそこを走り回り若いカップルがフードをつけた幼児用バギーを押すというなんとも普通の景色なのだがそういうものを見ると、夏の開放的なうきうきする様なものには比べられないけれどそれでも少々は慰められるというものだ。

必要なものを買い物かごに放り込んで家路についたのだが先日の陽が射す青空の下のように港の帆船をみる、という気にもならず、日記にはそのときに船を撮ったカメラ位置から右に120度ほど回転して撮った、昔、町を外敵から守るために築かれた堀の東通用門の写真を載せようと思った。 今、そこには行く気もないし、行ったとしても憂鬱になるだけだ。 そのときの写真は今の時期、そんなまれな天気の観光客用の写真みたいなものだが、地元の住民にはこういう鬱陶しい天気のときには必要だ。

Into the West,  第一話 ; 観た映画、 Feb ’11

2011年02月12日 23時31分38秒 | 見る
INTO THE WEST  イントゥー・ザ・ウエスト  (2005)

原題; INTO THE WEST

ジャンル; ドラマ/西部劇/アドベンチャー

監督: ロバート・ドーンヘルム
第1話
サイモン・ウィンサー
第2話
セルジオ・ミミカ=ゲッザン
第3話
マイケル・W・ワトキンス
第4話
ティモシー・ヴァン・パタン
第5話
ジェレミー・ポデスワ
第6話

製作: ラリー・ラパポート
製作総指揮: スティーヴン・スピルバーグ

脚本: ウィリアム・マストロシモーネ
カーク・エリス
サイラス・ナウレステ
クレイグ・ストーパー

出演:
マシュー・セトル
ジョージ・リーチ
ジョシュ・ブローリン
トナンツィン・カルメロ
ゲイリー・ビューシイ
マイケル・スピアーズ
ザーン・マクラーノン
スキート・ウールリッチ
ウィル・パットン
ジョン・テリー
クリスチャン・ケイン
セージ・ガレーシ
レイチェル・リー・クック
ゴードン・トゥートゥーシス
タイラー・クリストファー
アラン・テュディック
ケリー・ラッセル
サイモン・R・ベイカー
ショーン・アスティン
トム・ベレンジャー
ボー・ブリッジス
ジェシカ・キャプショー
キース・キャラダイン
バルサザール・ゲティ
ジョアンナ・ゴーイング
ランス・ヘンリクセン
マシュー・モディーン
デヴィッド・ペイマー
ジャッジ・ラインホルド
クレイグ・シェイファー
グレアム・グリーン
ラッセル・ミーンズ
ジェイソン・ダグラス

本作を6週間に亘って毎週1作づつ1時間半ほど観たのはもう5年ほど前になるのか、と今日偶々土曜の午後に同じくBBCテレビにかかっていた本シリーズ第一作を観ておもった。 本作のテレビシリーズを見ようと思ったのは同じくBBCテレビにかかったこのスピルバーグの「Bnad of Brothers (2001)」のシリーズが終わって大分経ってからで、制作フォーミュラは二作とも同様に、それぞれのエピソードでは別の監督、シナリオライターが担当するものだったと記憶する。 しかし色調はノルマンディーでの戦争ではカーキ色の薄いフィルターがかかってCGのささくれのようなものも見える、それは題材に沿ったものだったが、本作では西部開拓史のなかの様々な相を美しい自然の中で映す総天然色だ。

第二次世界大戦ノルマンディー上陸以降の戦争映画、と1820年代からの西部劇、というのは「シャボン玉ホリデー」や「アンディー・ウイリアムズ ショー」とならんで我々の年代の少年がテレビ勃興期に胸を躍らせながら白黒のテレビ受像機のまえに座って観たアメリカの映像である。 戦後の対日文化政策に沿ったものでもあり、一方、それはアメリカでもおなじことであり、それから半世紀が過ぎた今、このジャンルが徐々にSFもの、サスぺンス、ファンタジーなどに取って代わられるものの何時もアメリカの歴史を示すための埋め込まれた「国策」とでもいうべきジャンルでもあるこれらは泡のように時々は表面に現れる。 西部劇マッチョの映像を自分の年齢に従いながら作り続けるイーストウッドはもうこのジャンルのものは作らないのかと思うものの、ジョン・ウェインの先例「ラスト・シューティスト (1976)」があるからイーストウッドも自己の死期が迫ったと知った時にはウェインが死期を悟ったときに自分の挽歌として作ったような西部劇を制作するのだろうか。 そのジョン・ウェインの挽歌はイーストウッドの出世作、イーストウッドの映画制作の師匠ともいうべきドン・シーゲルが撮っていたではないか。 最近メディアではクン兄弟の「True Grit」という久々に作られた本格的な西部劇にはあちこちの若い批評家たちは西部劇の再「発見」をしているようだ。 これもジョン・ウェイン主演のもののリメイクだと聞くし、予告編で見る限りは主演のジェフ・ブリッジズはウェインに敬意を払ってか片目でウェインに似せたあざとい格好をみせていた。 ここにも西部劇の系譜が流れているのをみるようだ。

本作、第一話のことを書くにあたって「Band of Brothers」のことを書いたのはその中で印象的な中尉を演じたマシュー・セトルがここで主演していることにも関係している。 ことに脇役で性格を光らせるウィル・パットンも出ていることとももう一度土曜午後のソファーに座らせる働きをしているし、劇場映画に遜色のない美しい自然を含む画面、カメラワークがみられることでソファーに暇なおやじを釘付けにするという作用もあるようだ。

ここでは先住民のインディアンとの交流が自然に描かれていること、穏やかなネイティブ言語の台詞が語られること、かなり正確に彼らの生活、狩猟の方法などが描かれるのにも興味がいくことで、その連なりとして少年少女向けのアメリカ公式近代史の映像がアメリカ的に語られるとしても大自然のなかで繰り広げられる話の魅了はだれも否定できないだろう。 けれど、それは戦争、西部開拓を生きるための避けられないもの、自分達の信じるものを守る、追求するために不可避的に起こったものと自己を肯定する体制翼賛への道にも誘い込みかねないものでもあることを心しておかねばならぬ。

「True Grit」の予告編にしてもイーストウッドの諸作はいうにおよばず画面に現れる武器には興味が尽きない。 本作の1820年代にはまだ薬莢に弾薬をつめこんだような近代的な弾薬は出来ておらずリボルバーもまだ登場しておらず、だから当然連続して発射できるライフルもみられない。 これからあと20年ほど待てば大西部開拓時代のコルト・リボルバーやウインチェスター・ライフルが活躍する時期がはじまり、フリントロックの先込め、フリントロック発火方式の単発の世界でこのシリーズが始まるからこれから代が変わるにつれて狩猟、諍いの解決方法も変わってくるというものだが、主人公がインディアンの女を巡って山男マウンティーと決闘をする場面では前回以上に興味深かった。 これと同じものを翌日射撃協会の射場で撃つことになっているからだ。 火薬を込め、弾薬を込め、火打石のついた撃鉄をおこし受け皿に細かく挽いた発火用火薬を注ぎ的を狙って引き金を引くところまでは同じだがこちらのほうは50mはなれた紙の的、本作では20歩離れた、大男の一歩を50cmとして12,3mから15mだろう。 落ち着いて狙えば必ず当たるが相手もこちらを狙っている。 なんともおそろしいことか。 まさに相手のことをかまわず落ち着いて自分の最善をつくすだけだ。 相手のほうが着実で早いとするとそれはこちらの運が悪かった、とするしか仕方のないことなのだ。 火器を使わなければ問題の解決にならないところでは日常的にこのような「運」が支配するようでそれに対する心がけをどうするか、というようなことにも本シリーズは色々な形、場面で繰り返し提示しているようにも見受けられる。 尚、本作で見られる猟銃は本作の舞台から50年ほど前のアメリカ独立戦争前後を舞台にした「ラスト・オブ・モヒカン (1992)」で用いられているものと同様のものだ。 武器の歴史からみてもまだこの時期は「牧歌的」もしくは「ロマンチック」な時期の最期にあたり、ヨーロッパでは貴族間の「決闘」で同様の「拳銃」が使われていたものだ。 ちなみに、主人公はセリにかけられたインディアンの女をめぐって競り落としたら自由にする、といい山男と諍いになるのだから、ここにも「ロマンチック」でイデオロギーに満ちた自由のための闘争というテーマが埋め込まれているのだ。

ここではインディアンのが「ロマンチック」に描かれているがここで同様の場面を思い出すのが次の映画だ。 それぞれ白人がインディアンの部族の中に入って同化するかどうか、という話ではある。 リチャード・ハリス主演「馬と呼ばれた男(1969)」、ダスティン・ホフマン主演「小さな巨人(1970)」、ジョニー・デップ主演「デッドマン(1995)」などが類似の作だろうと思う。 ケヴィン・コスナーの「ダンス・ウィズ・ウルブズ(1990)」もこれに繋がっているかもしれない。 尚、我々の地区の射撃協会で古式銃、25m短銃の部でこの何年か優勝盾を保有している男はアメリカ・インディアンの衣装で何時も射場に現れ、アメリカ先住民の生活やガジェットにくわしいインドネシア系オランダ人である。

蛇足; 本作中、インディアンのメディスンマン、「バッファローに愛された男」と名づけられた少年が無意識に自己修行をするために上る岩山を見て笑った。 それはスピルバーグの傑作、「未知との遭遇 (1977)」の中でリチャード・ドレイファスが無意識にキッチンで作り続けるマッシュポテトの、その後マザーシップ降臨の山そのものだったのだ。

今年二つ目のステーキ

2011年02月12日 14時01分17秒 | 喰う


何を喰うかその思案がつかず手短に出来るものとしてスーパーの特売でステーキ肉を見つけたのでこれなら簡単だとパッケージを二つカートに入れた。 うちの冷蔵庫にはブロッコリーとサラダ菜の新芽が各種あるから手軽だし、直径が拳骨ほどのニンジンもあり、それは先週水炊きの鍋に使った残りだ。 それを2cmほどの輪切りにすればその半分が一人分になるので茹でてブロッコリーと組み合わせればいい。

白米にしようかと思ったけどここはやはり電子レンジで蒸した小ぶりのジャガイモにすることにした。 皮を剥いて二人分で500g、電子レンジに9分少々、蒸しあがったらそれに振り掛ける、この間魚に使った香草、ディルがあるし、シャンピニオンと玉葱を厚鍋にたっぷりバターをひいて炒め、塩コショウとその後クリームシェリーを振りかけて蒸したものを添えれば出来上がりだ。

肉は牛肉のアントルコート、つまりサーロインなのだが、140gで2.5ユーロ(約280円)、普段より2割は安いだろうか。 それよりも少し高いサーロインより少し尻の肉のやわらかいところ、英語ではラウンド、オランダではKogelbiefstuk(弾丸形のステーキ)と呼ばれる部分とどちらにするか思案したのだがアントルコートは何時も口にするといかにも牛の肉、という味がするので肉を食いたいと思えばこれにする。 厚い鋳物のフライパンを熱くしてバターとオリーブオイルを敷いて片側2分づつ焼いて出来上がりだからこんな楽なものはない。

帰省中、日本では牛肉は食わなかったように思うけれどなぜだったのか考えてみても思いつかない。 寿司を多く喰ったから魚の類と野菜、後は豚肉のロースで鍋だったようだ。 いや、いちどスーパーで一番上等のステーキを母親に焼いて食わせた事を覚えている。 けれど、自分は肉を喰わず、鰤を煮たもので酒をのんだ。 そのステーキ肉は120gで1400円ぐらい払ったのを覚えているけれど日本の肉は高いものだと感心したし、高校の同級生でサンドイッチパーラーのオーナーがいてそれに叔父の孫達に食わせるのにこの近所でいい肉屋がないかと訊ねたときに紹介してもらったところで求めた焼肉用の肉が1kgで12000円払ったこともあり、日本の値段はそんなものだろうと思ったのだった。 その焼肉用の肉にしても一番高いものではなかった。 オランダ人に言わせれば日本の肉は高い、というだろう。

いづれにせよ日本では牛肉を喰わなかったといったら、帰った早々、それじゃ、ステーキにしようと3週間ほど前に家人が焼いたのが柔らかいKogelbiefstuk(弾丸形のステーキ)だったのだから、これで今年二つ目、というか二枚目のステーキになる。 

記憶の喪失、混濁

2011年02月11日 01時38分48秒 | 健康
2010年 2月 2日 (水)  

還暦の息子が八十路の半ばをあるく母親を介護付き住宅に入れる手続きをしてオランダに戻ってからもう2週間ほど経つが、今日、母親の弟である叔父と電話で話して愕然とした。

年末年始にぜひとも帰らねばと思ったのはもう5ヶ月ほど前だ。 そして帰省して実際に寝起きをともにして過ごしてみると思っていた以上に症状が進んでいるのに気がつきそれに慌てて対処した結果が予想を1年半から2年前倒しする介護つき賃貸住宅への引越しとなったのだった。

3,4年に一度日本に帰省し、もう20年以上殆ど毎週電話で半時間から一時間ほど話していた。 そのとき大抵は年寄りと話すのだから幾分かのやり取りはあるもののこちらとしては聴き手になるのが大半で、四方山話がとりとめなく話されるなかで腑に落ちないことが半年ほど前から徐々に増えてきていた。 もともと母親は記憶は良いほうで生業としては高校の家庭科で被服を教える教員から、結婚が破綻して株屋、看護婦などと職業をいくつか経験しつつ子供を育て上げたあと、曲折があり、定年後は何にも煩わされたくはないとして一人で気楽に小さな借家で住んでいたのだ。 もちろんそれは自分の生まれ育った昔の村の中のことでもあるから兄弟親戚は近くに住んでいて付かず離れずの暮らしをしていた。 村の中のことだからあれがどうだこうだというような鬱陶しいこともある、どこでも見られる愛憎相俟つところでもある。 仲がいい弟も仲の悪い妹もまだ存命だが、同じく気の合う兄や姉は10年以上前に物故していた。 看護婦であったのだから親を含む肉親、親戚の死に際しても、看護婦としてテキパキと事を運んで最期まで彼らを看取ってもいた。 

そんな係累親戚関係の中ではどこにでもある普通の生活だった。 それが、この母親はここのところ何かを忘れる風であり、そんなときそれを問いなおすとそれまでは聞かれたことは思い出して答えていたものが、このところ忘れることが頻繁になるにつれて、そのうち聞かれたこと頼まれたこと自体まで忘れるようになってきていた。 ここに至って、これはまずい、一度帰省してそれはどのような程度なのか、自分で生活するうえで支障がないのか、もし多少ともあるのだったら今のうちに準備を始め、近い将来に向けての下調べをしなければいけないな、このままならあと1年か2年のあいだだなと腹を括っていた。

趣味の会や近所の年寄りの集まり、学校の同級生達との会合にも顔を出しているようなことも聞いていたけれど徐々にその人たちも他界するにつれてそういうところに行くことにも気が進まなくなってきたとも言う。 自身のいとこやその子供たちとも2,3ヶ月に一度程度の頻度で泊りがけで温泉などの物見遊山に出かけてもいたし、その際には別段普通の年寄りとして何事もなく過ごしていたのだろうし少なくとも他人にはそのように見えていたはずだ。 もっともそこに出かける連中は徐々に高齢から来る多少の不都合がある人たちばかりだろうけれどその中にあっても何かおかしなところがあったら必ずこちらに聞こえてくるはずで、それがないとすると、、、、と思うものの、やはり気は安まらない。 親戚縁者と一緒といってもそのときには一人だけの家から出るのだからそこには気持ちの張りというものがあるだろう。 

自宅で、それも自分だけの一日単位の時間の中で時を過ごすのと人に混ざってすごすのとは態度は違うというのを今回一緒に何日も過ごして今更ながら思い知らされた。 久しぶりに一緒に暮らしてみると雰囲気が明らかに以前とは変わっていることに気付く。 互いに自分のことをする場合、こちらのことに気遣わないでも彼女は自分の時空間内で過ごせるわけで、息子がそこにいても居なくても注意を向ける必要がないと自分自身なのだ。 そのときに息子が母親を観察していると彼女は明らかに立ち止まったり、座っていたりするあいだに疎ましい風情で自分の中だけに沈殿する、というか、あるとき底に沈んだままにそこに暫し居続けるという瞬間の連なりが増えていくような気がしてならなかった。 それは、今まで通りの規則正しい日常生活の行動では立ち振る舞いには危なげがないものの、内面生活に関しては不気味な不確定要素が虫食いの穴のように出来てきて居座り、それが徐々に拡大していくような想いがする。 それは、今までそうであったものがそうでなくなり手の届きがたいものに変容するという恐れでもある。

認知症はしばしば天気に例えられる。 明るい空の彼方此方に雲が漂い始め、その曇った部分に太陽が隠れる。 けれど初めのうちはそんな雲も直ぐに消えてまた陽が射すものだが徐々にその回数が多くなり雲が居座るようになり、そのうち空全体を被うようになるけれど、しかし時には陽がが射すこともあり、それは何時で何処に現れ、どのくらい射すのかは定かでない、ということになるらしい。 今がどのような空模様なのか分かりにくく晴れ間がはっきりしているうちに何とか対応をして駆け込みの処置だった、と思ったのだ。

新居に越して新しい家具、電気製品などと共に簡素だが以前とは遜色がなくそれ以上の台所も配置されたスタジオ風の空間で三食他人が用意してくれる食事を供されて安心したのか自分で好みのものも用意する風もみせない母に対して叔父が、たまには自分でつくってみろ、というようなことを言うと、それは姉が来て作ってくれるから心配がない、と答えたらしい。

その姉は10年ほど前に長い認知症の末に彼女に看取られ彼女はそれ以来姉の婚家には足を運んでいなかったのだが、ここにきてその姉が新居に来て食事を用意してくれるから、というのにはいよいよ彼女が薄暗い深みに入り込む旅の始まりだと叔父、甥ともに覚悟したのだった。 

気持ちのいい午後に自転車で買い物

2011年02月10日 01時22分36秒 | 日常

2011年 2月 8日 (火)

今日の天気が昨日と代わっていたらどれだけ清清しく爽やかだったことか。 昨日のウォーキングも悪くはなかったけれど曇り空の下ときには風が吹くなかでは典型的なオランダの冬の空でそれはそれとしてやはり青空を望むものだ。  それに変わって今日は昼過ぎに起き出してキッチンで猫が日向ぼっこをしているのを見て「今日の天気が昨日と代わっていたらどれだけ清清しく爽やかだったことか」と思ったのだった。

夕方近くまで家の中でうろうろしていてそのあと買い物にでたときには上天気にうきうきした。 自転車で回り道をして散歩するように町を取り巻いている星型の堀に沿ってペダルを漕いでいるといつもそこにある帆船も特別に見えるから不思議だ。 夏には何人かの客を乗せて3日なり1週間北海を周遊する船なのだが冬の間は他のいくつかの船と一緒にもやってあるのだ。 どこの古い町にも町のなかや周りにこのような港があって、それは海の港というものではなくそこに船が停泊するとそこが港になりそう呼ばれる、という感じだ。

今日は食事を作る当番ではないから食材は買う必要なないけれど明日、水曜は当番なので鶏の胸肉とほうれん草を買ったのだが主な目的はトイレ掃除の液というかスプレー、浴室の洗浄液、生ゴミのコンテナーの内側に敷く人が入れるくらいの紙袋、トイレットペーパーといったものだった。 子供達が家に居たときは生活の規模が今の2倍以上だったので買い物の量も沢山で一週間に一度車で出かけ大量に買ってくるといったぐあいだったものが今は買い物には車は必要ではなく殆ど自転車で用が足りるようになり自由な時間が増えるにつれて慌てて一度に買わずとも少しづつ何回行ってもいいじゃないか、という気にもなり、自然とテンポも遅くなるようだ。 それはつまり、なぜ老人はノロノロ、そろそろ行動し急がないのか、という問いに対する答えにもなっている。

いづれにせよこの日は自転車をゆっくりノロノロあっちの小路にはいりこっちの小さな公園のそばを抜けて、それが鉛色の空の下なら通らないようなところを走っていたら気温も上がっているのか、この町を取り巻くおおきな牧草地から肥料の匂いが漂ってきて街中でもあたかも田舎にいるような気分になる。 こんなときに町というのは緑の海の中にある島のようだと感じる。 この匂いが漂ってくれば冬も峠を越して春の足音が聞こえる、いや、足が匂ってくるというものだ。 

二、三年ぶりにアムステルダムの東南を18kmほど歩いた

2011年02月09日 12時29分21秒 | 日常


2011年 2月 7日 (月)

家人と自分の予定が合ってこの日アムステルダムの東南をアムステルダムの外縁を、時計でいえば3時から6時ほどのところ、右下の4分の1ほど、約18kmを歩くことにした。 このあたりを歩くのは自分にとっては2年か3年ぶりのことだ。 この部分はまだ歩いたことはないけれど日記にも2,3年前のこの時期に近辺をあるいたことを書いている。 家人はこの半年ほど北ホランド州の海辺から始まってアムステルダム東側を迂回して東に向かいドイツとの国境のあたりまであるオランダ横断ウオーキングコースをこれから何年かかけて少しづつ歩くことに決めてすでにもう何回か一人で始めていた。 私が年末年始に日本に帰省していた3週間あまりの間にも2回は行っており、一回で15kmほどは歩いているからもう既に100km弱は歩いている勘定になるかもしれない。 二人で歩くのはもう何年もかかってオランダ縦断のコースも試みているのだが、こちらのほうは二人もしくは時には子供達も同行して1回に20kmほどで全体の8割ほどは済ませているのだがそれが済まないのに新たにオランダ横断のコースを始める気にもならず、家人が出かけるのを横目でみて放っておいたのだが、もう1ヶ月ほどまともに歩いていないので今回は一緒に出かける気になったのだ。 それに今回のコースは2,3年前に歩いたコースの続きにもなる、とのことだったことも見慣れた景色から新たな場所に移る過程で景色も変わって行くことにも興味があったことも今日家人に加わる理由の一つだし、今回は何時ものようでもなく町の周縁部ということもあり田舎の風景は遠くに見えるもののアパート群や整理された公園、大きな運河に沿ってあるくという風でもあってそれまでのように静かな田舎だけではないということにも気を引かれたのだった。

今回は車を使わず公共の交通機関を使う。 アムステルダムまで電車ででかけそこから地下鉄で出発点まで行く。 オランダでは今年の2月からバス、地下鉄、市電などの回数券が廃止されて国鉄をも含む電磁パスを使わなければならず、それをはじめて使うことにしたのだが、帰りの駅でカードが受け入れられず電車の中で車掌にカードをチェックしてもらっているときにもう一人の客がおなじようなトラブルがあった、と車掌につげ、自分のカードの不備ではなく駅の機械の故障だったということがわかり、車掌はセンターに機械が故障していることを電話連絡し我々はそのまま無料で目的地までいけることになった。 このカードを使う初めての日にこのようなトラブルがあってちょっと戸惑った。 家人がそこでカードをかざしたときには何の問題もなかったのだが妙なことだ。

町の外縁部をあるくというのは妙なものだ。 片一方には田舎が広がり片一方には住宅やアパートが立ち並ぶ、という具合なのだが初めの部分はアムステルダムからドイツ方面に向かう運河に沿ってあるくことになる。 その運河にかかる自転車、歩行者専用の橋が面白かった。 大型貨物船が行き交う運河なのでかなりの高さがなければならず、歩行者、車椅子も通ることも考慮して運河の畔からすこしづづの傾斜をつけてあり4本足が運河の上で繋がるかのような形になっている。 風が強かったので上までは漕いで上がれても運河の中ごろで自転車を降りて押して通る人もみられた。 ゆっくりとした傾斜をつけてあるから橋を渡るのには300m以上あるくことになる。

アムステルダムの南には高層住宅群がある地区があり、そこの端にある地下鉄の駅がこの日の最終到着点だった。 そこに至るまでいくつかの公園をぬけてきたのだが、人口を多く抱えた地区であるから公園もかなり大きなものにしてあり、たくさんある池や林も趣向を凝らして配置してあり、そんな公園をいくつか抜けると3,4kmにもなる。 そのあたりの住民は我々のように次から次に横切るというような歩きかたをせず一つの公園だけで周遊することで充分だろうし、ジョギングをする連中にしても一つの中だけで周回しても充分な距離がとれるつくりになっているのだ。

帰りの電車にしても帰宅してからも疲れは感じなかったものの食後風呂に入って体を横たえるとさすがに疲れが出たのかそのあと直ぐにベッドに向かい朝までゆっくり睡眠をとった。

THE CRIMSON KIMONO;観た映画、Feb. '11

2011年02月08日 12時32分57秒 | 見る
クリムゾン・キモノ  <未>  (1959)

原題;THE CRIMSON KIMONO

83分

監督: サミュエル・フラー
製作: サミュエル・フラー
脚本: サミュエル・フラー
撮影: サム・リーヴィット
音楽: ハリー・サックマン

出演:
ジェームズ繁田
グレン・コーベット
ヴィクトリア・ショウ
アンナ・リー
ポール・デュボフ
ジャクリン・グリーン

深夜のBBCテレビ第1局がグリーンペイ・パッカーズ対ピッツバーグ・スティーラーズのアメリカンフットボールを中継している夜中の2時、同じくBBC第2局で流していたのが古いモノクロの本作だ。 第二次大戦、朝鮮戦争中に分かちがたい絆に結ばれたコケイジイアン(白人)と日系二世のロスアンジェルスかサンフランシスコかの刑事が殺人事件を追うなかで目撃者の女性と恋仲になり日系二世の方は今では考えられないような人種、文化間の葛藤に悩みながらも最終的にはハッピーエンドとなる単純な話なのだがいくつか興味深い点がある。

戦後の日米の歴史のなかで本作はある種、牧歌的なパックスアメリカーナの様相を示していることがその後の時代と比較すれば明らかで、ここでは1959年がこの舞台の時代であることがその幾分かの雰囲気をはっきり現していて貿易摩擦も、文化摩擦も大きな問題ではないようだ。 自分は本作が始まった初めの10分ほどは他局でアメリカンフットボールを見ていてここでの殺人現場やその状態を見過ごし、それに緋色の着物という題名に絡む理由もそこで説明されていたのだろうがあとには出てこないから語られる言葉を探り探りしながら見ていたのだが、日系ということがここでは重要な背景にあるものの、その後70年代後半、80年代からしばしば描かれた、殺人者、犯罪者達が何か日系社会に関係があるというプロット、がここには見られないということが先に牧歌的と述べた理由にもなっている。 ここでは最終的に殺人は日系社会の責にはないのが救いである。 刑事達が捜査するなかで描かれるロスかサンフランシスコかの日系社会、日本人街の様子は自分の子供の時代に大阪の田舎で見られた男や女たち、周りにいた背広を着たおじさん、エプロンをしたオバサンたちの、その髪形も同様になつかしく、そこに見える着物や浴衣を着たこどもたちと同様、まことに微笑ましい。 それはたとえば小津や新藤兼人のそのころの作品の背景にみられる男女たちとも対応している風にも見える。 

アメリカ映画の中に登場する中国系社会や日系社会はしばしばその「文化」は奇妙な合点がいかない紹介の仕方で、犯罪組織、何とか党、とかヤクザのドラッグがらみの話になって、そこでは必ずやたらと下っ端のアジア系の手下どもたちが派手にゴミのように退治されていくのだが、ここでは多少とも様子が違う。 そこにもロバート”アンタッチャブル”スタックと李香蘭こと後の国会議員山口淑子主演の「東京暗黒街・竹の家」を本作の4年前に撮った「日本通」の監督の眼があるからだろうなのか。 それは高度成長期をすぎて日本の経済的力に脅威を持ってからの灰色や黒い、目に見えない脅威の象徴でもなったのかもしれない映画の「トーン」がここではまだその萌芽が見えないそんな時期だったのだろうか。 日本人街にある寺ではネクタイを締めた上に中国風の奇妙な法衣をまとった男が般若心経を読み、その男に日系二世刑事が非日系女性に恋愛感情をもつ「やましさ」を告白し助言を求め、その解決がつかないまま日系剣道大会で日系対コケイジアン(白人)対決の試合に望む。 この二人がとても試合のできるようなところでない狭い「道場」の中で、練習の「うちこみ」様の試合をする奇妙さ、リアリティーのなさであり、日系チームの中にも明らかに日系の血がはいっているとは思えない風貌の男達がいる驚き、追い詰めれた太った怪しい日系人の切羽詰って暴れる際に発する敬語含みの喚き、など難癖がいくつもつけられる部分があるにせよ80年代以降、日本時社会が登場するアメリカ映画とくらべると当時の日本映画を観ているような一種の安心感に包まれるのだ。 それは本作中で主人公がピアノで弾く「赤とんぼ」の調べをきくようなものかもしれない。

寒くはないがこんな鬱陶しい空模様では夏が恋しい

2011年02月07日 00時32分34秒 | 日常

2011年 2月 6日 (日)

久しぶりに家族が4人二日続けて食卓を囲んだ。 今夜は厚い昆布で出汁をとったものに、豆腐、白菜、茸、ニンジンに餅、などと豚のサーロインの薄切りの鍋を大根おろし、ポン酢で喰う水炊きで満腹し、昨日は娘の希望で焼き餃子を4人で100個以上平らげたのだった。 年に一度の誕生日であればそういうこともあるということだ。 彼らには日本は4年前の冬休み、バカンスの大阪の汚くも最高という王民王民(みんみん)の餃子と温泉場での食事の記憶でしかなかったのだから。

この何日か日本滞在中の緊張していた疲れが徐々に出てきたのか夜には眠くなり起きていられない。 だから寝床に本を持ち込んで少しは読もうとしても直ぐに眠りに入り、早朝に目が覚め、起きるには早すぎるとそこで何時間か興味の向かうまま乱読、という具合の普通人の朝のパターンに戻りかけていてちょっと奇妙な気がする。 実際、知人で世界を忙しく飛び回っていて時差の調整のことには詳しいものがいて、ああ、ここは日本との時差は8時間、だから一日に2時間ほど戻るとしてもとに戻るのは4,5,6日だなと言われ、実際そのようだったのが、それならここに来て本来の朝の6時に寝床に入って昼の12時起床という四分の一ずれたライフサイクルが普通である状態に戻っているということなのだが、、、、、今は本来のサイクルではないのだからやはり疲れているのだろうと結論付けるのだが、だからどうだ、という気もしないではない。

この4,5日といえば何もしていない。 寝床で本を読み、午後マーケットなりスーパーに出かけ食事の買い物をして戻る、ということだけだ。 気温は温暖な方の日本はいざ知らずオランダとしては今の時期にしてはぬくい風の吹く鉛色の空の下では何も見るものはないし自転車に乗って徘徊する気にもならない。 こんなときには初夏を恋しく思うものだ。 いや、冬でない季節、というべきか。 ま、こんな鬱陶しいときにはジョギングをしてもいいのだが、こんな気温では汗をかきすぎるからと勝手な理由をつけて、もっと寒いときに走るよ、とまた姑息な言い訳が頭に浮かぶのだが、そんな凍てつく夜のジョギングも少し恋しくなるのも事実だ。 凍てついたそんな夜は月夜だったり満天の星でもあるのだから気持ちがいいことは確かでこんな中途半端で鬱陶しい夜よりよっぽどましだと天邪鬼はうそぶき、さて、とエジプトの様子をみに階下のテレビの前に向かう。 日本の相撲のスキャンダルと九州の火山の噴火はすでにこちらでも報道されている。

オランダも風が吹いている

2011年02月05日 22時02分27秒 | 日常


2011年 2月 5日 (土)

先日、帰省中の大阪と戻ってからのオランダの気候を比べて書いたのだが、そのなかで今の時期は寒いけれど風は吹かない、と書いたとたんに大西洋上から吹き上げてきた温かい風が吹き荒れている。 買い物にでかける自転車に真正面から突風が当たり7段変速の一番遅いのにしなければ進まないようで、普通の自転車に乗っているものは降りて押している。 それとは逆の方向に走る連中はほとんど漕がなくとも楽に進むようで見ているとそれを楽しんでいるようだ。

2,3日ほど前はいつも零下だったことを考えると今は夜中でも6,7度あるような早春のような気候であるのだが、オランダ各地はこの突風に悩まされているとニュースで報道されている。 大阪では風が吹いたときには冷たいと感じ、手袋をつけようかというようなことを思いながらもポケットに手を突っ込んであるいていたものの、今は温かい風が吹く中ではそういうことも思わないほどだ。