暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

息子のリゾット

2011年02月28日 02時39分22秒 | 日常


2011年 2月 24日 (木)

木曜日は自分の食事の当番で家人と二人だけの分を作ればいいのだが、この日は息子が下宿に我々を招待して晩飯を食わしてくれるというから街中のその建物に7時前に出かけた。 家人はまだメールを送ってしまわなければならないから先に行ってとPCのモニターを眺めながら言うので、しょぼしょぼ降る薄暗い通りを自転車で10分ほどぼちぼち漕いで男女17,8人が住む200年以上も経とうかという古い石造りの邸宅に着いた。 その建物の斜め前には江戸時代後期に日本のサムライがこの町で近代システムを学ぶべく勉学に励んでいた折に下宿していたといわれる小さなうちがあり、そこは今では小さな散髪屋になっているのだけれどそんなことには誰も気にかけないしそこにはただ、入り口の壁に市の記念建築というような小さな標識が張り付いているだけだ。 

息子の下宿のある通りは名前が「藁運河」といわれているように昔は郊外からこのまちに穀物やその他のものを運ぶための運河だったのだが幕末にはすでに埋め立てられて道路になっていたようだ。 馬車が通り、自動車というものが発明され、100年以上そういうことが続いた後、それもあと何年かでここを市内電車が走るようになるのだが、それも何年も市会でもめにもめてその挙句がレファレンダムまでやっての住民投票の結果で町の環状交通網整理のための選択肢の一つとしてここが悪い籤を引いたということだ。 それでなくても今でも片側一車線づつの狭い道路が市電が通ると今以上に混雑することが予想されている。 だからここに来るときは車を使わない。 駐車スペースを捜すのにあたりをぐるぐる周ることとなり、結局駐車できてもそこから長く歩くことになるからだ。 どこの町でも大体こうだからこの歳になると他の町には田舎以外、必要以外は車では行きたくはない。 

それはさておき、この建物の重いドアをノックしてだれかに開けてもらうのだが、そうするとドアのそばの部屋から年頃の見知らぬ娘が出てきて開けてくれる。 その部屋が開いているので中を覗いてみると女の子らしく片付いており、息子が居たときの豚小屋同然とは大違いだというと、ああ、T君のお父さん? と笑いかけ握手、まだ親しくなってはいないので両頬へのキスはない。 その部屋は天井まで5mぐらいあるものだから息子が材木を買ってきてダブルベッドと棚のスペースだけの二階を作り梯子をかけて使われていない上半分の半分に階を造りつけ文句のないゆったり住める部屋となっていたのだが、住人やそれぞれの友人達、様々な男女が出入りするときに大抵ここは駄弁るのに格好の場所となり、ここの住人は門番、守衛ともニックネームをつけられるようなところだから何かするのに集中が困難になるとしてその翌年今の上階に移ったのだった。

階段を上っていくと自宅と比べて長いのに気付くがそれは当然のことだ。 昔の天井の高い邸宅の3階は今の住宅地でいうと4階から5階にあたるのだろう。 召使が2人ほど、家族5,6人の貧しくはない層の邸宅だったのだから上に行くまでには息がきれる。 小さな部屋が5つほどある3階にくると息子は自分の部屋で野菜を刻んでいた。 ステーキを焼くつもりだったが気が変わり、リゾットを作るといい、それじゃそれに使う白ワインがあるなら飲みたいというと、あ、ワインを買うのを忘れたというので仕方なくまた階段を降り、重いドアを開けて道を渡って目の前のスーパーに入る。 安物の料理用白ワインと南アフリカのシャドネー白、ミカンの入った袋を下げてスーパーの表に出ると丁度家人がそこに到着して、娘はどこかで友人達と食事をしてからここに来るという。 部屋の隣のキッチンで米を炒め始めそろそろとブイヨンを注いでかき回し始めた息子にワインを渡し、自分はどこかに転がっていたワイングラスを洗って部屋でベッドに腰掛けてワインを飲みながらテレビで可哀想なスピーチをがなりたてるカダフィ(元)大佐のニュースを見ていたら隣の住人がパイプ椅子を持ってきてくれた。 大抵このうちでは留守のときと邪魔されたくない場合を除いてはどこのドアも開いている。

それは、この建物は息子が属する学生団の持ち物で、団員である住民が持ち回り、割り当てでみな何らかの分担をもつというような仕組みになっていてかなりの信頼関係にあるからなのだろう。 簡単な補修、月々の支払いなどにもかかわる家事経営にも役割が振られる自主管理であるから互いの結びつきが強い、ということにもなっているのだろうし、これは個人が住む普通の学生アパートとの家賃を払うだけで隣人とはあまりかかわりあわないようなところとも趣が少々違う。 このような学生団は欧米の大学では普通だが日本には見られないように思う。 強いて言えば戦前の寮がいくぶんかこれに似ていたかも知れない。 戦前、帝国大学などのあちこちにあった寮は当時のドイツの仕組みにならっていた風もあるのではないかと想像する。 現在2000人弱ほどのこの団にしても、もう100年以上続いていることから卒業生たちは何世代に亘っても社会の彼方此方に何千人と散らばっていて、政治、経済分野でも人脈が豊かで中には大臣経験者も何人もいるということだ。 そういう団の形態というのは欧米社会には様々に見られ、ただ趣味やスポーツだけの部活動とはかなり違うようにおもう。 西欧個人主義を認めてなおこのような団に属すということはそれでバランスをとるメカニズムがどこかで働くのだろうか。 帰属と排除、周りを巻き込みまた巻きこまれるというようなアソシエーション原理で大人の世界を渡る訓練にもなるのかもしれない。

初めてリゾットを作るという息子をワイングラスを手に眺めていた家人が見かねたのかそれとも自分の「秘伝」を見せたいのかキッチンで場所を占拠しているところに女子学生が来なかったのが救いだ。 そんな息子はマザコンだと馬鹿にされるし家人も女同士のインスティンクトから嫌われるに決まっている。 

いそいそと食事を済ませると娘がやってきてさて、でかけようか、という。 そこから4,5軒離れた並びの同様のほかの学生団の建物でオランダで人気のバンドSPINVIS のプライベート・ミニ・コンサートがあるのだという。 名前だけは聞いたことがあるけれど若向きの音楽には興味がないから家でテレビでも見るからと一緒に50mほど歩いて今は雨も止んだところを家にもどりテレビの深夜映画を観た。


後でネットでみると、SPINVIS というのは Erik de Jong という今年50歳になる男のワンマンバンドで、それをみていると1970年代初頭の「はっぴいえんど」が今のオランダに住んでいれば多分このようなものになるのではないかというようなテキストやヴィデオクリップ映像を制作している。 

YouTubeにおける Spinvis ファーストシングル Smalfilm (2002)
http://www.youtube.com/watch?v=9toCufcJAAI&feature=list_related&playnext=1&list=MLGxdCwVVULXdsb-Zo4SjwytfW265p24_k

日記を書きながらYouTubeから勝手に流れる関連のポップを聞いていたら Portishead - glory box が流れてきて、なるほどこれにも繋がるような雰囲気をもっているなと YouTube のアソシエーションプログラムがくっ付ける音楽的傾向の方にも納得のいくものだった。 それにこれが90年代のブリストルサウンドに繋がるならその当時バカンスの長距離ドライブの折に幾夏もカーステレオで聞いていて今はいつの間にか子供達にもっていかれたCDアルバムのいくつかのなかにあった Fila Brazillia 「A Touch of Cloth (1999)」 や Morcheeba 「 Big Calm (1998)」とも距離はあまり遠くないような気がするが多分今の若者はこれには賛同しないだろう。

ウィキペディア(蘭) Spinvis の項
http://nl.wikipedia.org/wiki/Spinvis#Albums

最新の画像もっと見る

コメントを投稿