暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

落し物、拾い物

2011年02月21日 17時05分08秒 | 日常

少し前のことだ。 仕事場でコートのポケットに手を突っ込んでいたら何か右のほうが嵩が低いので、あれ、と思っていると手袋の片一方がない。 また落としたのか、とくさって、はて、どこで落としたのかと、そのことを思い返しても思い当たるフシはない。 このところ手袋をするほどの寒さでもなかったのだがポケットに入れたままだったからこの前ポケットに手を突っ込んだのはいつだったかと思いをそちらのほうに向けても自転車の鍵はズボンのポケットだしコートのポケットには大したものも入っていなくてそこには手は向けていない。

とにかく仕方がないのでまた買わねばないか、面倒だなあ、店に行ってまたあれやこれやと選ぶのか、とまた面倒の虫がもぞもぞと頭をもたげ首を伸ばして右左を眺めているのを無理やり抑えた。 左側の残ったほうを眺めながら、これもゴミ箱に放り込むことになるのかと考えていると、そういえばこの二重に履いていた手袋の下の薄いものは3年ほど前の真夏のバカンスの折、スイスのダボスでキャンプしたとき真夏でも雪が降って急に手先が悴んだから地元のスポーツ用品店に飛び込んでスキー用に使うのだというとても薄いハイテク繊維のこれがいいといわれて買ったのだけど、さすがこれ1枚だけでは氷河のあたりを歩くには指先の冷たさは避けられなく、バカンスが済んで帰ってきて冬が来たときにオランダのサンタクロース、シンタクラースに頼んでプレゼントにもらった普通の手袋と二枚重ねてつけていたものだった。

質に関係なく一度使い慣れたらそれが朽ち果てるまで身につける癖がある。 穴があいても汚れても、この歳になったからでもなく、若いときから見栄えにはとんちゃくしなかった。 靴などはちびたり形が変わったりして履けなくなると仕方なく捨てる。  衣類など家人が見るに見かねて捨てる。 それも私の目の前にそれをかざして死刑宣告をしてから破るなりゴミ箱に放り込む。 残酷なやりかただ。 学生のときから愛用していた放出品のカーキのコートがあったのだが、それは友人からもらったものだった。 ベトナムでアメリカの兵士が着ていたもので名前や部隊名が入っておりフードもあって重宝した。 大きなポケットがあちこちにあってなんでもかんでも入るから便利で広げて草の上にでも敷けばそこで昼飯も食えた。 さすが商社マンをしているときには仕事には着なかったが休みには着ていた。 オランダに来てからも大学の研究室にもそのままで通っていたし、そういう連中もいたから別にどうということはなかった。 けれどそれでも長い年月の間に徐々に擦り切れ穴が開き、ときには入れていた物を落とすようにもなり、あるときにそれが身元から消えた。 家人が見るに見かねて棄てたのだがそのことで大喧嘩をして3日ほど互いに口をきかなかった。 1985年のことだ。 それ以来物が時々消え、ときには死刑宣告が下され、目の前で処刑される。 しかし、この手袋が消えたのは家人の仕業でもなく誰が見てもまだまだ使えるものだ。

仕事が済んで外に出て手袋をつけるような気温でもなく、今年の夏もアルプスにいくことはないからもう次の冬まで要らないか、またシンタクラースに頼めばいいだろうと思いながら水路のそばを走らせていたら見覚えのあるものが水路の端に落ちている。 自転車を停めてそれを手に取ると紛れもなく自分の右手だ。 12時ごろここを通っているからそのとき落として5時半までそのままここにあったわけだ。 散歩の犬に小便をかけられているわけでもなく、ここを通る人にも拾われているわけでも子供達に弄ばれているわけでもなかった。 そのあいだに雨が降っていなかったようでレンガが濡れているわけでも手にとっても湿ってはいない。 それに、落としたのが今日だということもわかった。 それではどうしてちゃんとポケットに入っていたものがここで落ちたのだろうか。 無意識に何かを探ってそのときに落としたのだろう。 買い物のメモでも無意識に探っていたのだろうか。 まあ、拾い物記念にと手にとった片一方をもとのあったと場所にもどして写真を一枚撮っていると背中に視線を感じ、振り返ると老人が窓を通してこちらを胡散臭そうに眺めている。 実際に落ちていたそのままの形ではないなあと思いながらも手袋を動かすのも気が引けて後ろに視線を感じながらそこをスゴスゴと退散した。 何もこちらが悪いことをしているわけではないのに妙な気分でもある。 後でそのショットをみるとなんだかしらじらしい手つきが感じられてなんだか気分が納まらない。