暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

オランダも風が吹いている

2011年02月05日 22時02分27秒 | 日常


2011年 2月 5日 (土)

先日、帰省中の大阪と戻ってからのオランダの気候を比べて書いたのだが、そのなかで今の時期は寒いけれど風は吹かない、と書いたとたんに大西洋上から吹き上げてきた温かい風が吹き荒れている。 買い物にでかける自転車に真正面から突風が当たり7段変速の一番遅いのにしなければ進まないようで、普通の自転車に乗っているものは降りて押している。 それとは逆の方向に走る連中はほとんど漕がなくとも楽に進むようで見ているとそれを楽しんでいるようだ。

2,3日ほど前はいつも零下だったことを考えると今は夜中でも6,7度あるような早春のような気候であるのだが、オランダ各地はこの突風に悩まされているとニュースで報道されている。 大阪では風が吹いたときには冷たいと感じ、手袋をつけようかというようなことを思いながらもポケットに手を突っ込んであるいていたものの、今は温かい風が吹く中ではそういうことも思わないほどだ。

久しぶりの母校なのだが、、、

2011年02月05日 03時01分56秒 | 日常

2011年 1月 5日 水曜日

師走28日に帰省して温度差に戸惑ったのか晦日から元旦にかけて寝込み、そのあと3日から久しぶりの故郷を一日15kmほど歩いた。 晴れて気持ちのいいのが一つとオランダから戻って気持ちの切り替えをすること、それにただ単にゆっくり歩きたいということもあった。 それに加えて幾つもすることもあり気が急いてもいた。 生まれ育った町や村なのでどこに何があるかは分かる。 この30年間の変化は大きいものの地球の上下はまだ変わっていない。 車も自転車もないので歩く。 バスはこのあたりは既に10年ほど前には実質上廃止になっているし、ここに住んでいれば皆車やバイクを使うからバスの出番がない。 国道、府道があちこちで交差しバスが交通の邪魔にさえなるのではと見違える田舎の変わり方でもある。 4年前の帰省の時には家族と慌しくあちこち回ったり熊野古道を歩いたりしたから地元を一人でゆっくり歩く機会がなかったのだろう。 山に向かって2kmほど歩くと高校の同級生が院長の病院がある。 そこまで行かずに右に折れ1kmほど歩くと子供の頃今の時期には水を抜いて鯉や鮒、鰻などを攫い蓮根を収穫した池が二つあるのだがそういうことは既に何十年も前に終えていて今は水を溜めてあるだけだ。 50年前には周りは2,3軒の農家と牧場があるだけのところが今は池だけが建物に囲まれている。

池の間の坂を上ると遠い親戚が設立した精神科の病院がありそこは親戚筋の竹薮の土地を開いたところでその竹薮に続いて墓地があり、そこは50年前子供の頃にはここに来るのが恐ろしいくらいの崩れかけた焼き場がある忌むべき暗い森だったのだ。 村の青年団の肝試しにしてもここは選ばなかった。 その藪からは時期になると自宅の土間に早朝掘られた筍が泥や粘土がついたまま届けられていてその後は大鍋に風呂場の灰を入れて灰汁抜きをし若布を加えて柔らかく煮られたものだ。 けれどその森も木が間引かれ墓地には日が射し霊気が消えた。 それに森も小さくなりそのあたり一体は新興住宅地、地元ゼネコン、大葬儀センターが並び、スーパーなどの大型量販店が昔の山があったところに連なっている。 そこを折れて戦没者を奉った、淡路島が遠く望める墓地公園を抜け坂を反対側にダラダラと下り市役所に行った。 もし、70年代前半の職員採用凍結がなければ今頃はそこで定年の日々を数えて過ごし、先ほど歩いてきた祖父の土地があったところに家を建ててそこから役所に歩いて通うはずだったのだが、どこでどう歯車が外れたのかそれから30年間オランダで暮らしている。 そして、妙なことにその市役所の長は中学から知る高校の同級生だ。 もう何年も前に彼が市長になったときに母親は、N君はなぜわざわざ破産した町の頭になりたいのかねえ、賢くないわねえ、と笑いながらいったことを思い出す。

役所で老人介護医療とその施設等の情報をもらい、必要書類に書き込みもし、これから3週間でしなければならないことのプランを立てるべくそこを出て駅まで歩いた。 そこから一つ目の自宅近くの駅で降りようかと思ったけれどそのまま通り越して通った高校のある駅で降りた。 この何年かで知られるようになった「だんじり祭り」のある城下町のその城が母校の敷地内にある、と在校生のころ教えられたのだが、学校の隣にあるその城の神社にこの町のいくつもの地車(だんじり)が宮参りにくる。 在学中に何かの具合で試験曳きかなにかでいくつかの地車が来た折には皆授業を放り出して高校と神社の境と飛び越えて祭りに走ったものだ。 友人の町の大工町や紙屋町の地車を引いて周ったこともあるが60年代後半には今ほど大きくはなく、まだ他から来て曳ける余裕があったようだが高度成長のあとの膨らみ具合には驚くものがある。 もともとダンジリには代々血が騒ぐ。 自分が育った村も今は当時とはまるで変わって賑わうようになっている。 それだけ人口が増えたということと地元が一体になることの少ないことも示しているのだろう。 子供の頃には試験曳きで隣村を周って来たものの日暮れて少ない人数で道にダンジリを放り出して戻ったこともあるのだから人数を制限することもあるような今からは想うべくもないことだ。 母親やその親達も夏の暑気が引き秋風がそよぐと共に練習しだす太鼓の音にはいてもたってもいられないような気持ちになると言っていたものだ。

その駅をでて駅前のアーケードに入るところにある細道を左に入り次を右に入ると路地にこの地域で唯一のジャズ喫茶がある。 35年ほど前、務めていた大阪市内の商社からの帰りに時々寄っては何枚か聴いていたところで、オランダに越して以来何年かに一度忘れた頃に訪れていた。 こちらはそこを忘れないものの向こうにとっては自分は客の一人であるから覚えていることもないのだが朧ながらどちらもそれまでに話したことを忘れている。 まだシャッターが降りた店はまるで廃屋のようであり看板は剥がれ今回見たときはああ、もう定年で止めたのかと思ったもののそのとなりの喫茶店で聞いたらまだやっている、3時に開くよ、と言う。 それまでまだ大分時間があるのでアーケードを海のほうに降りて高校生のときにときどき入ったお好み焼きやでビールを飲み自分で焼いたものを腹に入れたあと、母校の周りを散歩しようとその店を出た。 太鼓焼きの店で熱いのを一つデザート代わりに買って公衆電話の場所を聞いた。 オランダでも携帯は使わないのに今回はその必要性を認めないからそのようにして母校の途中にある緑の電話機に100円玉を何枚もいれ午後1時ならオランダは午後9時、自宅に電話を入れようとしても繋がらない。 それに国際電話の繋ぎ方を記したものが何処にも見当たらないのか探せないのか、幾通りか試みたものの嫌気が差し受話器を叩きつけ、温かく甘い太鼓焼き、もしくはドラ焼きと呼ばれるものを頬張りながら母校のグランドに来て見ればまだ冬休みでもあるにもかかわらずというか、それが普通なのかサッカー部の練習に行き会った。 

この前ここに来たのは8年ほど前で日本語が分からない中学生の息子と一緒だった。 あの時は城の掘りを一周して戻ったのだったが、冬場の体育の時間には先ほどのグランドで柔軟体操、そのあと城を3周してからグランドにもどりラグビーやサッカーなどのスポーツをしたように記憶している。 こちらから反対側の城門があるところに茶店があって冬場は何時もおでんが煮えていた。 腹を空かせた高校生達は小銭をトレパンのポケットに入れて熱いものをランニングの途中に腹に入れていたけれど当然教師はそこまで来るわけもなく堀端を見渡せるグランド近くに立っているだけだから何人かは竹輪のにおいをさせて戻ってくる。 教師が立つ下にはもう一つの茶店があり、そこは昼休みに生徒が菓子や飲み物を買うところになっていたのだが二つの茶店はとうの昔に消えており今は小さな不動の祠と小屋が年寄りの待合所になっているだけだ。 

考えてみると在校した3年間でこの城に上がったのは2、3回でしかない。 もともと天守閣は文政10(1827)に焼け戦後の昭和29年(1954)コンクリート造りで再建されたものらしく中には小さな市立図書館があった。 天守閣に上がっても前には校舎が並び海側には淡路島から神戸あたりがみえるか見えないかだけだったのではないか。 その記憶もない。 校舎の屋上からいろいろなものを城に向かって投げたけれど殆ど届かなく堀に落ちたけれど紙飛行機はかなりのところまで飛んだのではないか。 冬の暖かい昼休みには校舎下、水辺近くの岩が露出している所に何匹もの亀が甲羅を乾していて、それはこの城が千亀利城といわれる理由でもあるのだが我々はそこに石を投げて気持ちよさそうにいる動物を水に落とすというような邪悪なこともしていた。 けれど今はどういう岩も見えず果たして当時から水位が上がっているのかどうか。 そういえば、あるとき教師が、お前らのような頭の悪い奴らは殆ど浪人するのだから失敗しても堀に飛び込んで死のうとするような馬鹿なことをするなよ、そんな馬鹿がいて、そいつは底に頭を打って溺れかけたけれど足が立つから無駄だったぞ、と言った。 それが果たして本当だったかどうか知る由もなく、そこで魚を釣っていた老人に深さを聞いたら溺れるに充分なほどの長さの釣り糸がウキの下にあった。 後年、恩師の一人から我々の年は開校以来最低の成績だったと苦笑混じりに言われ、それをある種誇りにも思ったのだが、そいう1968年だったのだ。

ジャズ喫茶にもどれば店は開いていた。 ウイスキーのシングルと水を頼んでLP片面を2,3枚聴いた。 1時間半弱である。 相も変らぬひげもじゃの男とポツポツと話しているともう何年も前に聞いていた事を思い出した。 彼は一年生の時半年ほど在籍していた柔道部の顧問であり数学の、ブルドックと渾名された教師の息子だった。 自分より半年ほど年上で学校は違うものの共通の同級生も何人かありこの40年ほどの消息を聞いて今までそのようなことを話さなかったことにも互いに気付き妙なことだと笑いあった。 

そろそろ食事を作りに帰る時間にもなったので、オランダに帰るまでにもう一度寄るといいそこを出たのだがその後いろいろなことが慌しく起こり結局そのままになった。 けれど夏にはまたここに戻りそのときには胸をはだけてレーコー(冷コーヒー)かちりちりに冷えたビールを口に元気なジャズを聴くことになるはずだ。