暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

何か細かい霧のような鬱陶しい土曜だから、、、

2011年02月13日 21時42分33秒 | 日常

2011年 2月 12日 (土)

昨日も今のように細かい霧のような雨が大気中に漂っていて買い物に行くのを厭った家人は冷蔵庫やそのあたりにあるもので夕食にしたのだがその翌日の今日になっても同じこと、食事当番の自分としては買い物にいかねば我々の腹に何も入らない道理で、それでは仕方なくポンチョを頭の上から被り外に出た。

寒くはない。 空気中の湿気の感じがたまらないけれどポンチョは特別しっとりと濡れる感じはない。 それでも300mも自転車を走らせるといくら野球帽を目深に被っていても眼鏡はこまかな霧吹きの膜で蔽われ、これは普通に雨が降る中を走るよりタチが悪い。 ペダルを漕ぎながら土曜の鉛色の空の下の「青空」市場のまばらな人を想い鬱陶しさが増す。 けれど自転車が町の中心に近づくにつれて予想以上に人が出ていて、ほとんど日頃と変わらぬ賑わいを見せている。 感傷や天気に煩わされない忙しい日常でそれぞれは毎週の家事は何があっても続けられなければならない、ということなのだろうか。

人が出ているのにいきあうと少々気分が高揚しないでもない。 これは謂わば、冬の鬱陶しいときに誕生日などのパーティーが景気付けになり、そんな憂鬱も一時は忘れ、知人、友人、それにそれらが連れてきた見知らぬ人々と社交の時をすごして春を待つ、というようなものかもしれない。 「青空市場」とスーパーマーケットの違いはそんな社交の空間がある、ということかもしれない。 もちろん、スーパーの中でも知り合いと立ち話をすることはあるが、それは「青空」市場での雰囲気とは全く違うものだ。 それにここでは知り合いがいるかいないかは問題にならない。 年齢や人種が雑多な男女が市を行き交いし、子供がそこを走り回り若いカップルがフードをつけた幼児用バギーを押すというなんとも普通の景色なのだがそういうものを見ると、夏の開放的なうきうきする様なものには比べられないけれどそれでも少々は慰められるというものだ。

必要なものを買い物かごに放り込んで家路についたのだが先日の陽が射す青空の下のように港の帆船をみる、という気にもならず、日記にはそのときに船を撮ったカメラ位置から右に120度ほど回転して撮った、昔、町を外敵から守るために築かれた堀の東通用門の写真を載せようと思った。 今、そこには行く気もないし、行ったとしても憂鬱になるだけだ。 そのときの写真は今の時期、そんなまれな天気の観光客用の写真みたいなものだが、地元の住民にはこういう鬱陶しい天気のときには必要だ。