ほよほよさんぽみちNEW

いつでも君のこと好きだったよ

少し先の時間

2014-07-13 21:35:46 | 日記

 綿の葉が元気に育っています。アサガオの調子がよくなくて、がっかりの夏ですが、その分、綿ががんばってくれていて励まされます。このあいだの台風のときも綿の鉢を玄関に並べ、玄関に入らない鉢はガレージの奥の風と雨の当たらないところへ移動しました。2日ほどその状態だったのですが、玄関とガレージですくすく育ち、きょう綿の花のつぼみをいくつか見つけました。あの美しい花が咲くのはもうすぐです。

 

 さて、きょうは塩嵜緑さんの詩集『魚がきている』のひとつをご紹介します。塩嵜さんは塔の会員の方で、詩も作っておられることを少し前に知ったのですが、5月にふらんす堂から出たばかりの詩集を東京の帰りに少しずつ読みながら帰ってきました。心に深く染み透る作品がいくつもありましたが、中でもいちばん深く残ったのは「非在」という詩です。

 

 非在       塩嵜緑

 

 たとえば

 ちちははが生きていたとしよう

 

 自転車を漕ぎ

 五分もすれば我が家だ

 

 五分間

 

 父は新聞を広げ煙草をくゆらしている

 

 母が二階のベランダでシーツを干している

 父が姉妹の名を順番に呼ぶ

 

 母なら

 この先の 家の手前の角を曲がれば

 姉妹のどちらが帰ってきたのかを察するはずだ

 

 慣れた道だ

 スピードを緩めずに角を曲がりきる

 庭石を大跨ぎして

 玄関扉を勢いよく手前に開く

 

 扉の向こうの

 家いっぱいのがらんどう

 

 

 短歌も詩も、そこにいろんな時間が込められています。一瞬の、悠久の。遠い過去、少し前のこと、今、少し先のこと、遠い未来のこと。誰かが書いた時間を、自分のことにあてはめて、そういうことを思ったことがあるとか、私もそんなふうに考えたことがあるとか、重ねて読むこともあります。でも、行ったことがない場所に立ったり、経験したことのない思いを知ることができるということも、とても大切で意味のあることだと思うのです。

 

 そういう意味で、この詩は私の少し先の時間を暗示しているようで、心細くて寂しくなります。あの賑やかだった私の家に父も母もいなくなるとき。花がたくさん咲いている庭。白い椅子。いまはまだ、そこへいけば会える両親や家のことをいまのうちに大切にしておきたいと思います。

 

 この詩を読んで、堺に帰りたくなりました。

 

 

コメント
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