江戸時代の避妊具の素材がすごい
現代より“性”に対する考えが大らかだったといわれる江戸時代。しかし、望まぬ妊娠は避けたいもの。今ならば高性能なコンドームやピルといったものがありますが、江戸時代の人々はどのように避妊していたのでしょうか?(江戸時代の妊娠から出産は別の記事があります)
睦み合う男女。江戸時代、遊女などを除いて基本的にはあまり避妊はしなかったとか。(『絵本小町引』喜多川歌麿 画)
さて、江戸時代にもコンドームの原型ともいえるものがありました。それがこちら。
これ、動物の皮で出来ています。
男性器にかぶせて使用しました。
江戸時代後期の1857年(文政10)に刊行された『閨中女悦笑道具(けいちゅうにょえつわらいどうぐ)』に紹介された「茎袋(きょうたい)」という道具。見た目はまんまコンドームです。別名「ルーデサック」と呼ばれるもので、オランダからの舶来品。舶来品なだけあって非常に高価でしたが、使い心地は悪いし、あまり効果もなかったとか……。
ほかはこんなものもありました。
画面右が江戸時代の避妊具。
名を「甲形(かぶとがた)」。
素材は水牛の角やウミガメの甲羅(べっ甲)。
い、痛そう。
男性器の先端にかぶせて使ったそうです。
ちなみに左は「鎧形(よろいがた)」という道具で陰茎にはめて使うアダルトグッズです。こういうものが200年近い昔に存在することに驚きます。避妊具「茎袋」や「甲形」は、すぐに外れてしまうためあまり役に立たなかったようで、むしろ「笑い道具」、今でいう“大人のおもちゃ”として使われたそうです。
ちなみにですが、江戸時代にも“大人のおもちゃ”を売るアダルトショップがありました。
江戸は両国にあった「四ツ目屋」という店で、避妊具のほか媚薬や張形(はりがた)などを扱っていました。
これは、四ツ目屋の当時の広告です(当時、引き札とよびました)。「オランダ秘法」を謳っていて、いかにもすごそう。
広告にも載っている店の看板商品「長命丸(ちょうめいがん)」はいってしまえば江戸時代のバイアグラ=精力剤で、当時人気だったようです。性の悩みはいつの時代も深刻です。
こうしたもののほかに、魚の浮き袋なんかも避妊具として使用されたといいます。
なお、国産コンドーム第1号が誕生したのは1909年(明治42)のこと。しかし、目的は避妊ではなく“おもちゃ”的なものだったようです。現在のコンドームの基礎となるラテックス製コンドームが誕生したのはなんと、1934年(昭和9)。さらにコンドームが普及するのは昭和も末期のことで、意外とその歴史は新しいのです。また、コンドームが使用され始めた当初は性病予防が目的でしたが、やがて避妊が主目的となっていきました。
眉唾ものの女性の避妊方法
江戸時代、“性”を売り物にしていた遊女たちにとって妊娠はご法度であり、避妊は重要事項でした。彼女たちはどのように避妊していたか?
現代にもある、意外なものを用いていました。
何かというと、
和紙です。
正確には「御簾紙(みすがみ)」という薄くて丈夫な和紙の一種。遊女たちはこれを口に入れ噛んで柔らかくし、ペッと吐き出し、丸めたものを局部に詰めて避妊していたといわれます。今でいうペッサリーです。
また、事後にとにかくひたすら水で洗い流すという方法もとられていたようです。ほかにも、妊娠を防ぐための灸なんてものもあったようですが、効果はかなり眉唾ものです。
今のピルのような避妊薬もありました。
なかでも「月水早流(げっすいはやながし)」「朔日丸(ついたちがん)」は庶民にもよく知られた有名な避妊薬で、なんと長屋の共同トイレに広告まで貼られていました。「月水早流」は、1日3服、塩を入れた湯で飲む粉薬で、お値段は372文(約7440円)と非常に高価でした。一方の「朔日丸」は「毎月1日に飲めば妊娠しない」という触れ込みの薬で、お値段は100文(約2000円)。しかし、成分は不明でどちらもあまり効果はなかったようです。これらの避妊薬は堕胎薬としても出回っていたそうです。
堕胎を専門とする中条流の医者と思われる病院。(『北里花雪白無垢』より)
画面右の門前の角行灯をみると、
避妊・堕胎薬「朔日丸」の文字が見えます。側面には「女いしゃ」の文字もあり。
この薬がいかに人気があったかがわかるとともに、これらが身近な問題であったことがうかがえます。
「朔日丸」と人気を二分した避妊薬に「天女丸」というものがありました。これは意外な人物が生み出したものでした。
それは当時の人気作家です。
名を、式亭三馬。
江戸時代後期の作家。お風呂屋さんを舞台に庶民の生活を描いた『浮世風呂』で人気を博しました。三馬は作家業のほか薬の販売・製造も行っており、避妊薬「天女丸」は看板商品。「天女丸」は避妊のほか生理不順への効果や、服用をやめればすぐに妊娠するなどさまざまな効果を謳っていました。
望まぬ妊娠の末、堕胎という悲しき選択
効果的な避妊方法がなかった江戸時代、望まぬ妊娠をしてしまうことはままありました。その結果、「間引き」と呼ばれる乳児殺しや堕胎が行われることも少なくなかったそうです。江戸で堕胎専門医として知られたのが「中条流(ちゅうじょうりゅう/なかじょうりゅう)」です。中条流は、豊臣秀吉に仕えていた中条帯刀(たてわき)を祖とする外科・産婦人科の一派ですが、堕胎を行うニセ医者たちが「中条流」を名乗ったため、いつの間にか「中条流=堕胎専門医」と認識されてしまうようになり、「中条」といえば堕胎の代名詞となりました。
画面中央の2人の女性の後ろに「中条流」の看板が見えます。その隣には避妊薬「朔日丸」の看板も。こんなに公然と宣伝されていたんですねぇ。(『絵本譬喩節』より)
どのような治療が行われていたか詳細は不明ですが、かなり強引な方法がとられ母体を害することも多かったとか。また、「中条丸」という中絶薬も当時よく知られていましたが、これは水銀と米粉を混ぜて丸めた錠剤。水銀はいわずとしれた毒物ですので、かなり危険な薬です。
このほか民間では鬼灯(ほおずき)の根を煎じて飲んだりしたそうです。なんでも鬼灯に含まれるヒスタミンという成分が子宮収縮作用があるとか。
こうして行われた中絶ですが、三代将軍・徳川家光の治世である1667年(寛文7)、幕府は「堕胎禁止令」を発布し、堕胎を禁じました。また、五代将軍・綱吉の治世にも同様の禁止令が出されました。しかし、中絶がなくなることはなく堕胎医は潜りの医者として需要に応え続けました。
性の開放化が進んだ江戸時代、効果のほどははなはだ疑問ですが、さまざまな避妊法があったんですね。いずれにせよ、女性側の負担がかなり大きかったようです。
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