百菜健美☆こんぶ家族ラボ

おいしい
と感じることは生きる喜びに
そして笑顔になります。
舌で味わい、
目は閉じていても
耳は心で。

くやしいということ

2009-10-22 | Weblog


くやしいということはどういうことなのか。哲学とか、感情論なんてものは、あまり、真っ正面から論じて、どうの、こうの、と、いったものは在りません。涙というのは取り上げている人がいます。怒りもあります。嫉妬もあります。しかし、くやしいという感情には非常に微妙な、自分自身をいためつけると同時に、他の人に頼むことができない、お願いすることができない、そういった感情がこちら側にあるんだということで、非常に悶々とするということが、多々あります。非常に画然としたくやしさというのがあって、自分がくやしい思いをしているということ自体、非常に確固とした意思を持って、自分の心の中にあり、その感覚なり感情を押しとどめて我慢しているものなんだというふうに考えます。
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「楽しみ鍋」

2009-10-22 | Weblog


鍋料理は、材料がいろいろあるので、それを盛るのもなかなか工夫がいります。この点を注意しないでぞんざいに扱うと、いかにも屑物の寄せ集めみたいになってしまいます。河豚みたいなものは大皿に並べざるを得ませんが、それは特殊なことであって、普段の材料をもるのは、深鉢にこんもりと盛るのがいいと思います。この盛り方ですが、生け花と寸分ちがわないと思っています。生け花と言うのは、自然の草や木を自然にあるままに生かそうというので、そのためにいろいろ工夫をしています。料理も自然、天然の材料を人間の味覚に満足を与えるように生かし、その上、目もよろこばせ、愉しませる美しさを発揮さすべきだとおもいます。そのこころの働かせ方は、花を活けることと何らの違いもないようにおもいます。こういった事は、なにかの時だけ、儀式的なことに、無闇と飾り立てたりしながら、普段はぞんざいにものごとを扱っている弊風があるのを、あまり感心しません。美的生活をなそうとするには、特別な時だけでは駄目で、いつでも、どんなものにも美を生み出す心掛けを忘れてはならないだろうと思います。
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神秘な女体

2009-10-22 | Weblog


道の満ちた谷にいる神は、
けっして死なないのさ。
それは
すべてを産みだす神秘な女体
と言えるものなんだ。
その門をくぐってゆくと
天地の根っこに達する。

そこから湧きでるものは
滾滾として尽きないー
まったくタオの命はいくら掬んでも
いくら掬んでも
掬みつくせないものなのさ。
   第六章【成象】      加島祥造 《著》
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石焼ラーメン岩礁のエスプレッソ

2009-10-22 | Weblog
「石焼ラーメン岩礁のエスプレッソ」とはいかにも長ったらしい名前ですが、経緯があるんです。まず、「塩」は今、使用している(海部藻塩)で作っている塩ダレ、(じゃっぱ汁)のスープ・「ACQUA PAZZA」にも類似する調理法そして・「CACCOICCO」・ 名前にCが五つ入るから五種類の材料(魚)・岩礁の辺りに生息する様々なもの、それらを沸々と煮え滾る石鍋の中で麺と供に食する。 京都(仕込みの)石焼ラーメン(石焼鍋使用でacqua pazza風な)岩礁の(caccoicco五種類以上の魚を使った)エスプレッソ(海部藻塩を使った塩とじゃっぱ汁のスープ) となります。 アクアパッツァ(acqua pazza)は、イタリア料理のひとつで、魚介類(白身魚と貝類)を白ワインで蒸し煮にした料理です。
イタリア語で「奇妙な(風変わりな)水」あるいは「狂った(暴れる)水」という意味で、ブイヨンなどを用いず、シンプルに煮込むだけで魚介のうまみを引き出すことができます。 魚としてタイ、スズキ、タラ、カサゴ、メバルなどの白身魚、貝類としてアサリ、ムール貝などが良く用いられます。さらに、好みによりイカ、タコなどを加えても良いし、パンやパスタとともに供される事もあります。選んだ素材により、「明石鯛とアサリのアクアパッツァ」といった具合にメニューに登場します。 じゃっぱ汁は青森県の郷土料理です。「じゃっぱ」とは、共通語で言う「雑把」の意味であり、通常は魚を三枚に下ろしてのこった頭や内臓、身の付いた骨を総称して指し示す津軽弁です。共通語では内臓以外の部分も含めた広義の「あら」に対応します。
じゃっぱ汁は、この「じゃっぱ」をぶつ切りにして具とし、他の野菜などを加えて煮込んだ塩や味噌仕立ての汁を差し、主にタラや鮭のじゃっぱ汁が一般的であります。多くは塩仕立ての味付けが多くて、共通語ではあら汁と呼んでも差し支えないでしょう。
身(魚肉)だけよりも、非常にこくのある出汁がえられ、地元では人気の高い郷土料理です。 入れる具は家ごとに微妙に異なって、鮭のじゃっぱにじゃがいもとネギを用いれば、北海道の三平汁と同様となりますね。
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贅沢な人間の教育の仕方

2009-10-22 | Weblog


「学問というものはよい薬である。しかしどんなによい薬でも容れ物が悪ければ、変化や腐敗を受けずに永持ちはできない。
修業には、われわれの目前に現れるあらゆるものが格好の書物として役に立つ。給仕の悪意、従僕の愚鈍、食卓での談話、そうしたものがすべて新しい材料となるのだ」
「われわれの職業の大部分は芝居に似ている。(世の中全体が芝居をしている)。われわれは自分の役割を正しく演じなければならない。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならない。仮面や外見を本物ととり違えたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない」
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すっぽんラーメンは「ブリア・サヴァラン 味覚の生理学」に通じる

2009-10-22 | Weblog


昨日にすっぽんを注文しておいたのが正解でした。たくさんのラーメンメニューがありながら、然程の「石焼ラーメン すっぽん」を注文していただく訳がやはりあるのだと確信する次第です。 ブリア・サヴァランの「味覚の生理学」という本のなかで、こういっています。フランス人は、ほかの民族よりも、ただおなかがすいたから食べるという人間と、味をよく噛みしめて楽しんで食べるという人間を厳重に区別することに、非常な熱意を燃やしている民族である。つまり、世の中には食べるということに関して二種類の人間がいて、フランス人はそのことに早くから気がついていたという。そして、二種類の人間がいるということは、二種類の料理があるということで、あたりまえのことだけれど、料理の水準というのは、味をよく噛みしめて楽しんで食べる人のためにつくられる料理によってつねにリードされ、保たれてきた。フランス料理が世界に冠たる料理になった秘密は、フランス人はそのことをじつによく知っていたということである。・・・・と。翻って「人、飲食せざるなし、而して味を知るもの鮮し」は味がわからないということは名誉でも不名誉でもない。生まれつきであってみれば、背が高いとか、低いとかいうことと同じで、別にはずかしいことでもなんでもない。ただそういう人は、うまいものを作ろうとか、料理を覚えようとかするには不向きだ。・・ということで、ここで私(料理人)は、決して偽物を食べてはだめで本物の料理を食べなくてはならない <といった事を>そうこれからも続けることに先があると確信します。嗜好という先入観を捨て、本気で食することを繰り返してこそ、真から得心がいく・・・と。
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可愛い女 (チェホフ

2009-10-22 | Weblog


 そこそこに器量がよくて、気立てがよくて、惚れっぽい女。自分の意見は何ひとつなくて、惚れた男の意見を受け売りするばかり。それがまた可愛い女と評判をとる要件になったりもする。当然ながら、世間的に見ていい夫君にめぐまれる。ところが、佳人薄命。いや、この場合は佳人の旦那が薄命で、一人目ならず二人目にも先立たれてしまう。傍らに惚れた男がいないと、自分の意見というものがなく、空虚な存在と化する。そろそろトシで、器量も落ちてくる。器量が落ちれば、ひとも寄りつかなくなる。器量が落ちてなお、あるいは器量の如何に関わらずひとを惹きつけるものがあるとすれば、見てくれとは別の何ものかなのだが、女主人公オーレンカはそれに気づかない。ひとのよさをそのまま生きて、ちっとも自らを顧みない。自然児である。かくて、旧知の子どもに惚れこむ。雀百まで踊り忘れず。しかし、これも・・セ・ラ・ヴィである.           さよなら、こんにちは。さよなら、こんにちは。一人でいるのは淋しすぎる。逢えばさよならが気にかかる。ことばにしなけりゃわからない。ことばにしたらウソになる。さよなら、こんにちは。さよなら、こんにちは。友よまた逢おう・・・・
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大きな網

2009-10-22 | Weblog
「天の網(ネット)」って知ってるかい?
  権力を恐れるなと言ったがね、
  しかし恐れないでただ勇敢にやる者は
  殺されるよ。
  あえて勇敢にしない勇気を持つ者が
  生きぬく。
  とは言え、どちらが
  この世を利するものか害するものか、
  人間には言えんのさ。
  天にある道(タオ)の働きが、
  どちらを嫌うかなんて
  タオの人にさえ言えないことなんだ。
  だいたい天の働きというのは、
  ずっとずっと大きんだ。それは
  争いもしないのにいつか勝ってしまう。
  口で言ったりしないのに、やらせてしまう。
  招きもしないのに、いつの間にか来ている。
  ゆったりとしているようで、
  ちゃんと計画している。
  じっさい、
  天にあるタオの働きは
  大きな網(ネット)みたいなものでね、
  目はあらくて、
  隙間(すきま)だらけだが、
  大切なものは何も漏らさないんだ。
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老子

2009-10-22 | Weblog
天と地がうまれて  
物に名がついたわけだが、 
名とは
物の表っ面にただ張りつくものだ。 
 
美しいと汚いは、 
別々にあるんじゃあない。 
美しいものは、 
汚いものがあるから 
美しいと呼ばれるんだ。 
善悪だってそうさ。
善は、 
悪があるから、 
善と呼ばれるんだ。 
悪の在るおかげで 
善が在るってわけさ。 
同じように、 
ものが「在る」のも、 
「無い」があるからこそありうるんでね。 
お互いに 
片一方だけじゃあ、在りえないんだ。 
 
長い、と言ったって 
短いがあるから長いのさ。 
高い、と言ったって 
低いものがあるから高いんだ。 
ひとつの歌だって、そこに 
声とトーンがあるから歌になる。 
前だって 
後があるから 
前もあるわけでね。 

だから 
道の働きにつながる人は 
知ったかぶって手軽くきめつけたりしない。 
ものの中にある自然のリズムに任せて 
手出しをしない。 
すべてのものは生まれでて 
千変万化して動いてゆくんだからね。 
 
このタオの 
本当のりアリティを受け入れる時 
人は 
何かを造りあげても威張らない。 
成功しても、 
その成果を自分のものにしない。 
自分のものだと主張しないから 
かえって人から忘れられない。そして 
誰もその人の成果を 
奪い取ろうとしないんだ。 
 

加島祥造  著 
筑摩書房
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暖かい愛情

2009-10-22 | Weblog
料理をする、塩を使う時、それはからくする為の塩か、甘味物などを作る時の、甘味を増すための塩か、からくする時は、からい塩と思って作り、ぜんざいの時は、甘くなれと心に思ってひとつまみの塩を投ずる。はたして完成させる為の目的で使用する、小さじ何ばいなどと、きっちりはかって入れてみても、その材料、火加減または湿度、乾燥などで、必ずしも思った味になるとはかぎらない。作るときの心ということは、なにをするにかぎらず大切なことです。まして塩の種類の豊富な昨今いよいよもって考える事しきりです。絵を描く人も、この心を失って、ただ、ぬるだけなら、芸術家ではなく職人。絵画ではなく、ぬり絵です。すべてものごとをするにあたって、技術に加えて必要なものは、その人の愛情であり、その人の品格が大切です。芸術は、芸術家だけの占有物ではない。味が分かることは、料理するものの暖かい愛情であると思う。さて休み前の夜半これから食事をして久しぶりに画を描きます。
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エナジー

2009-10-22 | Weblog
 第五六章「深い同化」の技
だから
自分のなかの精気(エナジー)を、
いかに保つか。これは
身体全体で感じるべきものでね、
それを知る人はあれこれ言わない。
知らない人がかえって、
いろいろ喋くるんだ。

知る人は
口でも耳でも眼でも、あんまり
無駄使いをしない。むしろ
目や耳や口が鋭く働くのを
制限する。
ごたついた考えをほぐし、
利口な先走りを抑え、
世間で塵やゴミと見られるものと
一緒にされても、平気でいる。
こういう態度を玄同、
「深い同化」と言うんだよ。

だから世間が、
こういう人に親しもうにも、
把えどころがないんだ。
無視しても効果はない。
利用しようにも乗ってこない。
やっつけようにも、手がかりがない。
とっ摑まえたって、利益にならず、
軽蔑したって手応えがない。
そして、しまいに世間は
こういう人を、貴ぶようになるのさ。
                (加島祥造)著
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世の中の隙間

2009-10-22 | Weblog


「天の網(ネット)」って知ってるかい?
  権力を恐れるなと言ったがね、
  しかし恐れないでただ勇敢にやる者は
  殺されるよ。
  あえて勇敢にしない勇気を持つ者が
  生きぬく。
  とは言え、どちらが
  この世を利するものか害するものか、
  人間には言えんのさ。
  天にある道(タオ)の働きが、
  どちらを嫌うかなんて
  タオの人にさえ言えないことなんだ。
  だいたい天の働きというのは、
  ずっとずっと大きんだ。それは
  争いもしないのにいつか勝ってしまう。
  口で言ったりしないのに、やらせてしまう。
  招きもしないのに、いつの間にか来ている。
  ゆったりとしているようで、
  ちゃんと計画している。
  じっさい、
  天にあるタオの働きは
  大きな網(ネット)みたいなものでね、
  目はあらくて、
  隙間(すきま)だらけだが、
  大切なものは何も漏らさないんだ。
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石焼ラーメンは手間がかかるのです

2009-10-22 | Weblog


タイトルのそのままなんですが、ホールひとり厨房ひとり、いつまでもこの体制なのでちょっと忙しくなると手がまわりません、作りおきはしないので永遠とこの調子だろうと思います。お客様のアドバイスはよくいただきますが(メニューに工夫を凝らせ・・とかなんとかかんとか・・・)気が向きません。そんな訳で注文の伝票がたまってきて石焼ラーメンの注文がはいると・・ちょっと・・となるのです。コンロが四つしかないのです、時間がかかるのです。長いことお待ちしていただく事になります。それでもいいよ・・とおっしゃっていただきますと・がんばります。でもなかには待てない方もいらっしゃいます・次の又に来れるという距離ではないという方もいます・二の句が出ません。でも入店なさって石焼ラーメンがテーブルの上に置かれるのは二時間かかるかも知れません実際今晩のお客様で三時間待たれた方がいらっしゃいました(本当にご迷惑をおかけいたしましたありがとうございました)以前のことなのですが、本当のことなので、<当店は一つひとつ手作りでやっていますので大変調理に時間がかかります。作り置きをしない為急がれる方には不向きな店です>みたいな文章をメニューの上に書いていたところなんとなく不穏な空気になってきたので止めた経緯があります。でも仕方がありません儲けようと思うともっと他の手があるとはおもうのですがこのままでやっていこうと思います。仕込みの事、材料の事、光熱費その他の事を考えると本当に儲かる商売ではありません。だからこそ・・なのです・「人と人との出会いをつなぐものが、料理なのだと」。料理というのは、会話の媒介であって、会話、つまり人間。仲のよい気のおけない友人と楽しむのが、料理。おいしければ、なお良い。楽しいな、一緒にいてよかったな、そう思える相手と食事をすることが、「本当においしい」ということなのだと教えてくれます。会食の楽しみを共に分かちあうことこそ、まことに人生の至福であると私は考えます。
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加島祥造

2009-10-22 | Weblog
 道(タオ)につながる人は
     柔らかなのだ。
     その柔らかさは、ベビーの柔らかさだ。
     ベビーっていうのは
     まったく邪心がないから、
     毒虫だって刺さないし、蛇だって咬まないよ。
     まして虎や鷲なんかは手を出さない。
     
     ベビーっていうのは
     骨は細いし筋肉はふにゃふにゃだよ。
     それでいて手を握ったときの
     あの拳の固さはどうだ!
     男と女の交わりなど知らんくせに、もう
     オチンポはしっかり立つ!
     それはベビーに
     真の精気(エナジー)が満ちているからだよ。

     一日じゅう泣きわめいたって
     声が嗄れないのは
     身体全体が調和しているからさ。
     何に調和しているのか、といえば、
     道の本源の精気と調和しているのさ。

     このエナジーを知ることが
     本当の智慧なのだし、この
     命の力を増すことが
     幸いにつながる。

     しかし、ひとは壮年期には
     意志や欲望のまま
     精気と命をこき使う。
     これはかならず無理強いになって
     命を傷め、老いを早めるんだ。
     これはね、
     まったく道の人の往き方じゃあないよ。

                         加島祥造
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余計な料理

2009-10-22 | Weblog
 これは生きる上で大切だから
 くり返して言うんだが、
 まわりをみてごらん、
 ひとに目立とうとしてバレーダンサーみたいに
 爪先立ちをしても、
 長くつづかないよ_じきにぐらつくんだ。
 ひとを追い越して大股にゆく者なんて
 どうせ遠くには行けない_じきに
 へたばるのさ。自分を
 ひとによく見せようとばかりする者は
 自分がさっぱり分からんのさ。そして
 自分こそ正しいって言い張る者は、
 かえってひとに認められないし
 鼻たかだかでなにかする者なんて
 誰にも尊敬されないのさ

 じっさい、
 プライドばかり高い人間には、誰も
 ついてゆかない。これはみんなが
 ひそかに知っていることだよ。

 タオの立場から見れば、こんなものは
 みんな余計な料理なんだ、
 充分にライフを戴いたあとの
 残りものにすぎない。だから
 タオにゆながってゆったり生きる人は
 手を出さないよ こんなものには。
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