もうじき13歳になる柴犬の調子が8月の終わり頃から悪くなって、食欲も減り、一日中寝ていて、いつもなら散歩を催促するのに、それもダルそうで抵抗歩きをする。
ネットで調べると13歳から14歳が柴犬の寿命で、稀に20歳まで生きる柴もあるという。いずれにしても我が家の柴は高齢犬でもうじき(犬死に)に付き合わないといけなくなる。
辞書では犬死にとは『何の役にも立たない死に方をすること。徒死。むだじに。』となっているが我が家では家族のもめ事の緩衝犬でそれなりの貢献がある。
彼女にとって(家の柴犬は女の子)、序列1位のツマと寝ていて、エサの時だけ寄ってくる。コロナが忖度のない感染蔓延と同じように、人の都合は関係なく行動してくる。そんな柴が調子が悪く、家内の空気がコロナ感染不安と共に漂っている。動物病院で点滴したのでようやく普通の状態に近くなった。あと一回点滴すれば、元の食生活(ドックフ―ド)に戻れそうだ。今は医者の指示で医療食になっていて、便が今までと違う。体調不良の時は食事もなかったので散歩でも排便がなく、やっと元のようになりつつある。
ここまで書いて叔父の昭和20年5月の台湾からの特攻死は犬死にかどうか過去に気にしていた時期があり、さらに今も心が揺れている。多くの特攻本は生き残った特攻隊員のから聞いているのが多く、さらに残された遺書が軍隊の検閲という制限があって、どこまで真実だったかはわからない。戦後76年ともなれば生きていても90歳を超え、不都合と思われていた事実も語るようになったがそれでも戦争ということに、普通の市井の人たちが人を殺すことが平気になるという事実がある。
今でもテロリストが子供に爆弾を背負わせて、自爆攻撃をする。洗脳されていたという。これも犬死にというのだろうか。普通の人が戦争ということで自衛行動を含めて、人を殺すことが正当化される。生き物を殺し、食料としている人が食事ときに(命を)頂きますということになると同じなのだろうか。肉食していて、平和主義は何か解せない。