年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

最後の浮世絵師小林清親への疑問

2020年07月30日 | 福神漬
最近の小林清親の浮世絵展は混んでいて浮世絵知識のない自分は驚いている。福神漬の歴史を調べているとどうしても清親の評伝に不満がある。反骨の浮世絵師だが何かを表現しようとしている。
 清親の子供(評伝を書いているカズさん)の文章で気になる部分がある。原胤昭と交流がある前に鶯亭金升と交流があったようだ。団団珍聞に小林清親を紹介したのは鶯亭金升かもしれない。しかし明治元年生まれなので鶯亭は12から13歳で遥か目上の小林清親の就職あっせんをしたのだろうかという疑問が残る。この点が小林清親の評論家の論点から外されたと思う。そこに二本松藩というのと横浜の高島嘉右衛門・戸田欽堂を加えると鶯亭が小林清親の団団珍聞への仲介者とも言えなくもない。小林清親が今の千葉県旭市飯岡の博徒飯岡の助五郎宅に泊まったということは評伝から外れているが鶯亭金升の交流からあり得ることで、鶯亭の父長井昌言の知行地の一部は飯岡町下永井と上永井にあった。地名は永井で幕臣名は長井である。
 明治の言葉で士族の商法という言葉がある。多くの武士が失業し不慣れな商売に手を出して失敗した。明治6年に日本の鉄道開業後まもなく工部省鉄道寮6等の旧幕臣長井昌言は病死し、下谷根岸に髪を降ろして住まいを定め、子供の成長を生きがいとしていた鶯亭金升の母の人脈はどうだったのだろうか。高島嘉右衛門・戸田欽堂の援助があったとみるべきだろう。団団珍聞をどこから手に入れたのだろうか。
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