年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

検閲とか言論統制から

2014年09月24日 | 福神漬

 

明治の初期は日本には言論の自由というより言論の無統制という時期があった。新政府が安定してゆくうち、次第に政府批判の言論を統制するようになり、統制、規制を逃れる表現で政治を報道する大新聞の記者・編集者(旧幕臣が多い)は対抗しました。

 次第に大新聞から庶民を読者としていた小新聞まで規制の対象となっていました。1883(明治164月16日:「新聞紙条例」改正施行(16条 から42条に、保証金制度、発行禁止停止権の拡大)され、全国の新聞が激減しました。梅亭金鵞が関係していた風刺マンガ雑誌『團團珍聞』も姉妹雑誌という『驥尾団子』も自殺号を発行し廃刊となりました。

 梅亭金鵞が酒悦主人に新しい缶詰入りの漬物の命名を依頼される少し前の話です。言い伝えによると当初は大根・茄子・なた豆の3種類の材料が入っていた漬物のようだった。その漬物に『七偏人』の作者から七種類に素材を増やし命名を考えたようです。しかしここに江戸時代から上野谷中周辺で盛んであった七福神詣を考慮して命名した。だが『七』は当初の命名でも省いている。ここに梅亭金鵞が『福神漬』の中に隠されたメッセ-ジを入れても不思議ではない。ただ福神漬缶詰が高価であったため、一般庶民が食するまで時間がかかり、隠された比喩が時代の変化で意味をなさなくなり、忘れ去られた。

 福神漬の命名された時期は明治17年から19年までの頃である。福神漬という漬物には商品名にも中味にも明治新政府批判の風刺が入っていることが調べてゆくうちに気がついた。自由民権運動が盛んであったとき、隅田川の浮かんでいる船に『自由糖]とい菓子ののぼりがある絵があった。食品名に政治風刺の命名をしても整合性がある。

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