とりがら時事放談『コラム新喜劇』

政治、経済、映画、寄席、旅に風俗、なんでもありの個人的オピニオン・サイト

沈まぬ太陽 アフリカ編

2006年03月12日 17時54分43秒 | 書評
昨年、羽田からのスカイマークエアラインズを予約したら日本航空とのコードシェア便で、搭乗する機材がJALだったので、ビビったことがある。
「え、JALですか.......」
と落胆していると、スカイマークエアラインズのチェックインカウンターのお姉さんも慣れてらっしゃるのかニコッと笑って「ハイ」とだけ答えた。

かように今飛行機に乗る時に日本航空だと「ドキッ」とするような状況が続いている。
昨年の連続トラブルに続き、今年は社内でクーデターが起こったのだから乗らないに越したことはないエアラインだと言えるだろう。

この危険な航空会社の体質を知るのに良い書籍はないものかと探していたら、ありました。
山崎豊子著「沈まぬ太陽」。

「白い巨塔」や「大地の子」の著者として知られる山崎豊子が他の作品と同じように緻密な取材(この人も新聞記者出身の作家)で集めた真実をもとに、架空の航空会社「国民航空NAL」を舞台にその会社の特殊な体質を見事に描いた大作だ。

「国民航空」
日本のフラッグエアライナーとして描かれているこの国民航空は、もちろん日本航空をモデルにした架空会社だ。
今のところ、前半の「アフリカ編 上下」を読み終わったところだが、この国民航空の半官半民という体質が、完全民営化となった今日もこの会社(国民航空=日本航空)の体質に色濃くしみ込んでおり、昨今のトラブルや人事的事件に繋がっているのではないかと思われるのだ。

一般に官が主導する事業は信頼がおけると思いがちだが、とんでもない。
政治家や官僚が事業に関与すると財政面はメチャクチャになり、そのうえ責任所在もはっきりしなくなり、人事面でも衝突が発生する。
それが建築事業やサービス関連事業であれば人命が失われるということも少ないだろうが、こと航空事業となるとそうはいかなくなる。
その人事政策の異常さ、数々の利権を伴う国からの経営介入。
総ての面に於て、民間では考えられない事柄が展開されている。

考えてみれば国鉄も国営時代は多額の債務を抱え、経営者である官はその負債に対してまったく責任を取らなかった。
今も巨額の借金は宙に浮いている。
昨年のJR西日本が起こした事故は、国鉄時代に作られた企業文化の名残が生み出した悲劇だったという側面も見られるようだ。
もう一例を挙げると阪神大震災を口実に、黒字経営だった阪神高速道路公団は官が経営に入り込んできたその年から赤字に転落。
未だに再起はできていない。

アフリカ編を読み終わり、次は御巣鷹山編。

物語がどう展開していくのか、目が離せない。

~「沈まぬ太陽 アフリカ編」山崎豊子著 新潮文庫~

ホワイトデーも禁止か?

2006年03月11日 18時26分40秒 | エトセトラ
2月14日はバレンタインデーで、日本では女が男に対してチョコレートを贈るのが習わしだ。
なかでも女が好きな男に捧げるチョコレートは「本命チョコ」と呼ぶ一方、会社や学校などでとりあえず、どの男にもくれてやるチョコレートのことを「義理チョコ」と呼ぶ。
今年も私はいくつかの方面から義理チョコを頂戴し、甘党の辛党である私にとってもささやかな有り難さを感じるバレンタインデーであった。
(注:今どき「ウイスキーボンボン」をくれた君、わたしゃチョコレートを噛んだ時に中からウニョッと冷たい酒臭いシロップが流れてくるウィスキーボンボンは苦手なので、次回は安物で結構なのでアポロチョコとかミニベビーチョコ、量の多い名糖のアルファベットチョコをくれるように。)

ところで、このバレンタインデー直前の2月初め、私が務める会社では本社総務部から次のようなメールが送られてきた。
「昨今の社会事情を考慮し、バレンタインデーにおける社内でのチョコレート等の贈り物は、これをすべて禁止いたします。ほとんどの企業ではこれを「禁止すること」は一般化していますので各社員は厳守するように」
総務部次長のSの名前で送られてきた電子メールを読んで私の課の者たちはもちろんのこと、他の部署でも「なんじゃこりゃ?」となったのは言うまでもない。

総務部のS次長は「変人」として社内では知られている。
ついでに「変人」としてだけでなく「嫌われ者」としても確固たる地位を築いており上記のようなメールを送ってくるとも「彼なら十分あり得る」ということで社内では落ち着いた。
また彼はフランスでは正式にカルト扱いされている与党系某カルト宗教団体の信者でもあるので「さもありなん」と全員納得してしまったのだった。

でも、なぜ彼がいきなり全社に対して「バレンタインデーのチョコレート贈与」を禁止したのかという疑問が残った。

ある日、かつて総務部に勤務したことのある他部署のP君と缶コーヒーを飲みながら雑談をしていた時、ふと「チョコレート禁止」の話題が口を突いてでた。
私は冗談のつもりで次のようにP君に話したのだ。
「もしかしたらSのヤツ、去年一人だけチョコレート貰われへんかったから禁止にしたんとちゃうの?」
「..................えええ! なんで知ってるんですか!」
事実なのであった。

総務部には10名ちょっとの社員(正社員・派遣社員含む)がおりそのうち半数以上が女子社員だ。
その女子社員たちはS次長が大嫌いのため、ついに去年彼だけにチョコレートを渡さなかったのだという。

「Sさんだけ一昨年、ホワイトデーのお返しをせんかったんですよ。『必要ないんじゃない』って言って」
ただでさえ嫌われているところに、大阪本社の会社で東京弁。
女子社員に好かれるはずがない。

で、ホワイトデーも禁止令がでるかどうか、今、週明け月曜日の社内メールに全社員の注目が集まっている。

(しかしこんなショーモナイことしか楽しみはないんか、うちの会社は。給料上げろっちゅうねん)

赤影参上!

2006年03月10日 21時36分55秒 | 音楽・演劇・演芸
30代終盤から40代半ばまでの世代のオッサンの一部には「大丈夫」という言葉を普通に言えない人々が存在する。
「大丈夫」
という時はかならず右手親指を鼻の頭に乗せ、手をくるっと回しながら「ダイジョ~ブ」と言わなければ落ち着かないのだ。
いい年こいたこのオッサン連中は「大丈夫」の他に「こんばんわ」や「こんにちは」、「合点承知」などという言葉も普通に言うことができない特徴を有しているが、その原因には、何を隠そう古の子供向けテレビ時代劇「仮面の忍者赤影」の存在がある。
(注:超駄作映画「Red Shadow 赤影」ではない)

先週、家の近くにあるTSUTAYAで「仮面の忍者赤影」のDVDを見つけた。
さっそく借りて帰ったところ、この時代劇の「凄さ」をあらためて実感したのであった。

「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃、琵琶湖の南に金目教という怪しげな宗教が.........」
という有名なナレーションとともに始まる主題歌に子供の時に感じたときめき感を再び心を高ぶらかせている私であった。
カラー放送が一般的になってまだまもない頃の番組ということと製作局が東京のキー局ではなく大阪の関西テレビであったことが相互作用して、今まじまじと見るとセットなどがかなりショボイ作りの番組なのではあるが、さすが東映京都のスタッフ。
時代劇または活劇のなんたるかを知っている映画人にしかできないであろう演出が随所に溢れていており、ショボイセットや特撮に妙なリアル感があり、大人になった私にも十分に楽しめる内容だったのだ。

忍者が突然ヒラヒラの見るからに模造紙を切り抜いた影になったり、ミラーボールが秘密装置であったり、下半身はどう見ても京都大映から借りてきた大魔神としか思えない金目像であったり、実にちゃちいのだ。
赤影が甲賀忍者と木の幹を駆け降り駆け登りながら戦うところなどは、一瞬「コントか?」と思ってしまうくら白々しいのだが、カット割が絶妙で音楽が「活動写真調」なのでめちゃくちゃ面白いのだ。

きっと子供だった私は「作り物」をCGも特殊メイクも使わない古典的な正攻法の映画テクニックで「本物」に見せる、このテレビ時代劇の魅力に取り憑かれたのだろう。

私が大学生の時に製作した8ミリ映画のいくつかはSF映画だった。
当時私は特殊撮影が大好きで、私のテクニックの右に出る学生は私の大学にはいなかった。
私は「スタートレック」や「スターウォーズ」の影響を受けて、特撮を志したように思い込んでいたが、今回「仮面の忍者赤影」を見るにおよび、その考えは間違えであったことがわかった。

ショボイセットも同じなら、遠景カットはしらじらしく「人形」を使い、音楽に合わせてカット割りを考えている、わざとらしいアニメや糸吊り特撮、崖への落下シーンも同じだったのだ。

それにしても、DVDを見ていて初めて気がついたが竹中半兵衛役の里見浩太朗がその身振り、声のトーン、話し方でこの時すでに「松平長七郎」であったことに驚いた。
ついでに、赤影の笑い声に妙な魅了を感じてしまった。
この赤影の笑い声を笑い袋にすれば爆発的に売れるのではないか、と思ってしまったのだ。
笑い袋のスイッチを入れ「アハハハハハ、アハハハハ」と笑った後、「赤影参上!」と言うと忘年会で受けるかも知れない。

なお、「参上」とは目上の人にまかり越しました、という意味になるので、誰(木下藤吉郎、竹中半兵衛、甲賀幻妖斎、青影、白影、村の老人、町娘など)に対しても「赤影参上!」と言っている赤影は、かなり身分が低いらしいことが分った。

テレビの吹替えは翻訳手本の宝庫だった

2006年03月09日 21時44分50秒 | 音楽・演劇・演芸
カナダのモントリオールに住む友人が最近翻訳のアルバイトを始めたという。
なんでも、
「カレーは辛いからカレ~て言うんだよ」
という日本語の英訳に苦心したらしいが、こうまでも見事な「滑るシャレ(オヤジギャグ系シャレ)」を英訳しなければならない彼女の今後の苦労が思いやられて、今私は無責任にも笑っている。
尤も、彼女はこのシャレをたいそう気に入っているようで、私は思わずシンガポールに長年在住した別の友人が「最近NHKの海外放送でやっている『コメディ、お江戸でござる』が物凄く面白いように感じられるようになってんねんけど、これってビョ~キ?」と言っていたことを思い出した。
海外在住の日本人のギャグセンスの病的変化に危惧している私ではある。

ところで、日本語のシャレを外国語に訳すのは難しいが、外国語から日本語に訳すのもこれまた難しい。
そういう難しい仕事ばかりをしている人に、外国のテレビ番組を日本語に翻訳している人たちがいる。
常日ごろ私たち一般人は彼らの努力の結晶を知らず知らずにテレビで見ていることになり、画面を見ながら「キャハハハ!」と何も知らずに笑っているわけだ。

そこで今日はいくつか「このテレビの翻訳は素晴らしい!」というのを挙げて見たいと思う。

まずは、古くさいテレビシリーズ「マペットショー」の日本版から。

この「マペットショー」は以前このブログにも書いた通り、日本では15本放送して打ち切りになったアメリカの人気番組で、セサミストリートに登場する人気キャラクターが毎回ゲストを迎えトークやミュージカルを演じるというバラエティーショーだった。
初回のゲストはエルトン・ジョン。
当時、エルトンはまだサイケティックな派手派手衣装で活躍していた頃だった。
で、番組の中でのキャラクターの一人、鷲のイーグル・サムが楽屋うちで他のキャラクターと会話をしている時に巧い翻訳セリフが交わされた。
各キャラクターがイーグル・サムにエルトンの派手なカツラをかぶせる。
「なんじゃこりゃ!(とイーグル・サム(声は納谷悟朗))」
「とっても似合っているよ(とスクーター(声は近石真介))」
「カツラ鷲などありえん! だいたい偉大な芸術家はカツラなどせん!モーツアルトを見よ」

原文の英語のセリフがどういうものか今となっては不明だが、なかなか苦心の跡が窺える。
しかしこの番組でもっともびっくりしたセリフは以下のようなものだった。

「僕、と~てもお口が臭いの(と電話の着ぐるみを着たフォジー・ベア(声:神山卓三))」が言うと、
「これがホントの公衆(口臭)電話!(とスクーター(声:近石真介))」

これなどは本文の英語はどうだったのか、あまりに画面とピッタリのセリフだったので「面白い」と思う前に驚愕した。

で、もっとも凄い翻訳は日曜洋画劇場の「未知との遭遇」
「未知との遭遇」は言わずと知れたスピルバーグの初期の傑作SF映画。
これでフランスの映画監督トリフォー演じるUFOリサーチャーとその通訳を務めるアメリカ人(役者名忘失)が交わす会話がすばらしかった。
オリジナルではトリフォーはフランス語で話しているのだったが、この日曜洋画劇場版では巧みな日本語で話す通訳との掛け合いになっていて、それでいて不自然さを感じさせない見事なセリフ運びになっていたのだ。
現在発売されている同映画のDVDがこの吹替えバージョンを貼付されているのかどうか知らないが、ともかく翻訳セリフの最高傑作と言えるだろう。

で、本題から少しくずれていると思えなくもないが、私が言いたいのは、
「海外テレビ映画は翻訳手本の宝庫だった」ということだ。

ともかく、モントリオールのお姉さん。翻訳はシャレのセンスを磨きながら頑張るように。
応援しています。

ミャンマーの占い

2006年03月08日 21時01分22秒 | エトセトラ
好評なのかどうかが書いている本人にもさぱっり分らない「ミャンマー大冒険」は第50回目にして、やっとこさ旅の三日目を終了し、マンダレーへ到着した。
思えば、長い鉄道の旅であった。
この時私は列車に乗ったまま夜を2つも迎えることになるとはまったく予想していなかったので、時間的感覚は二日間ではなく「長い一日」という感覚であった。

大宅壮一風に言うと「ミャンマーの一番長い日」ということができるだろう。(ってできるかい! 注:一人ツッコミ)

あまりに長い旅でブログに書いても数ヶ月に渡ってしまったので、読んでくれているかどうかは分らないが、旅行記に登場する石山さんこと東京都港区三田在住のウズランさんは、このブログの旅行記を読んで、あの気の遠くなるようなダゴンマン列車の旅を思い出し、トラウマが再発しているのではないかと、少しく私は心配している。(但し笑いながら)

ところで、ミャンマーの首都がヤンゴン(英国名ラングーン)から、中部の町ピンマナへ突如として遷都されつつあることは以前このブログにも書いた。
しかもそのピンマナという町を、私たちは列車に乗り知らない間に通過していたことも、ここに書いた。

昨年後半から今日までのミャンマーについて新聞テレビなどで触れられているニュースはこの突然の首都移転のニュースと、ブッシュ大統領がミャンマーを北朝鮮やイランと並び世界の「ならず者国家」に認定したことぐらいでった。
北朝鮮やイランは分らんでもないがミャンマーを「ならず者」というくらいなら「ジョージさん、オタクはいったいなんなのよ」と言いたくなる部分も少なくないが、アメリカは我が国の大切な同盟国なので悪口はこのへんにしておこう。

この突然の遷都には多くの外国にとっても寝耳に水で、「どうないなっとんねん、説明もせんと(遷都の駄洒落)」というのが各国公館の話だという。
ところが、年が明けて最近になってから、また異変が発生したと先週新聞が伝えていた。
「移動可能な省庁からヤンゴンへ戻るように」
という指令がだされたらしい。
「ええ加減にせいよ!」
と役人の皆さんも言いたいところだろうが、もし言うと刑務所送りになるので言えないのがミャンマーのつらいところだ(こういうところが「ならず者国家」か?)。

遷都中止の原因はピンマナがあまりにも田舎だったことにあるという。
道路は狭く舗装もされておらず、空港もない。
あるのは急場で作った庁舎とマラリアにビクビクして暮らさなければならない官舎ぐらいで娯楽施設なんて当然なく、生活不便、陸の孤島のようなところだったのだ。

そもそもどうしてこういう場所を新首都に選んだかというと、様々な報道がなされてきた。
「英国に無理やり移された首都機能をミャンマー人によって刷新すること」
「最近関係が深くなってきている中国に配慮した」
「攻め込みやすい海に近いヤンゴンを離れたかった」
などなど。

しかし真相は、
「占い師に見てもらったら『ピンマナに遷都せよ』という卦を立てられたから」
という驚くべき事実があったようだ。
占いで遷都すんなちゅうねん。21世やぞ。

ま、故レーガン米国大統領の夫人ナンシー女史は夫が大統領職であったとき「星占い師に政局を見立ててもらっていた」というのは有名で、ある意味ならず者国家には「占い」は絶対要素なのかも知れない、と思った次第である。

TOEIC刷新

2006年03月07日 21時50分39秒 | 社会
本日の産経新聞夕刊を読んで、5月からTOEICの試験内容が変ることを初めて知った。

TOEICとはなにか?
知らない人のために記述しておくと「東京の駅弁で一番美味しーのなはなにか」という意味ではなく「Test of English for international communication」の略である。

このTOEICという英語力を試すテストの結果が最近の就職活動や会社内での昇進査定に影響するのだというのだから恐ろしい。
私の務める会社のように小さなところだと、このような特殊技能はあまり要求されることがない。
海外へ行くことがある、といっても多くの場合、会社の費用で出かけるのは社長や専務、常務といったエクゼクティブに限られるし、訪問する国も「中国」「韓国」「香港」が99%なので英語を話せてもあまり意味を持たない。
私のような平の管理職で海外へ行く機会といえば実費で海外旅行をする時ぐらいだ。
しかも私のような、訪問する国がいつも「タイ」「ベトナム」「ミャンマー」というような場所の場合、ほとんど英語は役に立たず、せっかくのTOEICのポイントもまったく意味を成さないのだ。

そのTOEICの中身が変わるというので、どういうふうに変わるのか気になって記事を真剣に読んでみた。

まず、これまでのTOEICは「アメリカ英語」中心であった。

確かに、TOEICのテストを受けるとリスニングテストでは映画やテレビで聞きなれた米語が流れてくる。
これはありがたい。
日頃親しんでいる訛りの英語に触れるのは高い点数を獲得するための必要条件だ。

ところが、改定後のTOEICでは、米語だけでなくイギリス英語やオーストラリア英語など、他のアクセントを持つ英語もリスニングテストの対象になるという。
これはもしかすると「ケッ、イギリス英語って、訛ってるやん、ケッ!」という一言に怒りを覚えたイギリス人の謀略の成せる業かも知れない。
英語はともかく豪語まで認めるとなると、やがて「インド訛りの英語」「テキサスなど南部訛りの米語」「シンガポールのシングリッシュ」「ロシア訛りのチェコフの英語」なども認めらるのではないかと気が気ではない。

リスニングがこんな調子なのでリーディングはどうかといえば、これも難しくなるそうな。

読解のテストはこれまでより長文になるそうだ。
長文と言ってもどれほど長文なのかは不明である。
今でも私はリーディングのテストで読み切れず、タイムオーバーになることが多い。にも関わらず、さらに長文の読解テストになるというのだ。
これではまるで「検査体制がおろそかで、輸入再開直後に禁止部位の脊髄の一部か混ざっていた牛肉を日本に輸出して『ごめんなさい、詳細な報告書を出すから許してね』と宣いながら500ページを越える『英文』の報告書を客である『日本政府』に提出した」どこかのアホ国家と変わらない。

ということで、産経新聞の記事いわく「駆け込み受験増加」とのこと。
なんとなく、わからんでもない。

ミャンマー大冒険(50)

2006年03月06日 20時14分43秒 | 旅(海外・国内)
ダゴンマン列車の旅も終りを迎えようとしていた。

対向列車待ちのためだろうか、駅舎もないようなところで10分ほど停車した後、ダゴンマン列車は発車した。
暫く超低速で走っていると前方に川が見えてきた。
滔々と黄土色の水が流れている大きな川で、そこにトラスもないようなJR山陰本線の余部鉄橋のような橋が架かっていた。
列車はその単線の鉄橋を安全に渡るためにスピードをぎりぎりまで落としているのだった。
水面から鉄橋は20メートルぐらいあり、かなり迫力がある。
しかも川は増水し一杯の水をたたえて流れているので、もし突風にでも吹かれて転落したら助かる見込みはないように思える。
ミャンマーには英国植民地時代に作られたもっとスリルのある鉄橋が北方にあると聞いているが高所恐怖症の私には迫力あるスリル感はこの鉄橋で十分であった。

鉄橋を過ぎると列車はまたまたスピードを上げて走り始めた。
同時に太陽も地平の彼方に沈みあたりは夜の闇に包まれた。

ガイドブック「地球の歩き方」に載っている極めて大ざっぱなミャンマー地図を広げるとマンダレーまではもうすぐのような気がする。
最後の停車駅。
私たちが各駅停車からダゴンマン列車に戻ってきた駅「タージィ」を出発してすでに一時間以上が経過していた。
地図を見る限り、タージィからマンダレーまでは100キロちょっとのようだ。
100キロちょっとというと箱根駅伝と似たり寄ったりの距離。
日本でなら在来線の快速列車で1時間半というところか。

マンダレーの地図を広げると駅のすぐ近くに王宮跡があり、そのすぐ北東側にマンダレーヒルという小高い丘があることが明記されていた。
マンダレーヒルは標高236メートル。
頂上にはお寺や展望台がある。
夜ともなればライトアップされて地上からも見えるはずだ。
ということは列車からも見えるはずで、頂上に明かりの灯る小高い丘を見つけたら、それがマンダレーの目印だ!
と、私は勝手に思い込んだのであった。

時刻は午後七時を過ぎた。
私の予想によると、もう間もなくマンダレーヒルの灯が見えてくるはずだ。
車内は長旅に疲れ、しかも外は漆黒の闇になり景色も見えなくなってしまっていたので言葉に言い表せない倦怠感が漂っていた。
石山さんとデイビット夫妻は寝てはいなかったが表情は弛緩して呆けた感じになっていた。
私の前に座っているTさんは器用に座席に小さくなってうつらうつらしているようだった。
私はといえば、もう間もなく見えてくるであろうマンダレーヒルの灯をイメージしながら、それを見つけようと闇の景色に目を凝らしていたのだ。

線路はいつの間にか複線に戻っていた。
窓から顔を出して前方を見つめると、頂に照明が灯っている丘を発見した。
「Tさん、マンダレーですかね」
とうたた寝中のTさんをたたき起こした。
「......さあ、どうなんでしょう....」
眠そうな目をこすりながらTさんも窓から顔をだして前方を見つめた。
灯の丘が次第に近づいてきた。
「いよいよだ」
と思っていたが、列車はスピードを落とす気配も見せず、ばく進を続けている。
そうこうするうちに、とうとうその丘のすそ野を通過してしまった。
丘の上には確かにライトアップされた寺院があり、麓からはこれまたライトアップされた参道があって大きな寺院であることが窺えた。
しかし「マンダレーヒル」ではなかったのだ。

列車内に先ほどとは違った雰囲気の沈黙が漂った。
私が「マンダレーヒルだ!」なんて言ったものだからみんなに期待を持たせてしまったのかも知れない。
そうこうするうちに、また頂に明かりの灯った丘が現れた。
「今度こそマンダレーヒルだ!」
と思ったが、今度も先ほどのような寺院で、再び期待を裏切ることになった。

さらに進むと「勘違いマンダレーヒル」が無数に現れてきた。
あの丘にも灯がある。
あ、あの丘には幾つも灯がある。
ほら、あそこにも。
ということで、どこもかしこも似たような丘が集まった場所に出て来てしまったのだった。
「あれは、みんな瞑想センターですよ」
とTさんは言った。
ミャンマーには「瞑想センター」と呼ばれる宿坊が全国各地にあり、このあたりの丘にもたくさんの宿坊が集まっていたのだった。
この宿坊には外国人の滞在できる場所も少なくなく、もし仏教の戒律をきっちりと守れ、迷惑をかけることなく修行する心構えがあれば、届け出さえちゃんとすれば長期間そこで寝食することができるのだ。
朝のお勤めの後、講話を聞いたり瞑想したりして一日を過ごし、心の平安を探るという、日本人の私たちにはいたって理解しやすい仏教文化がこの国には溢れている。

なんてことを考えていても、やはり一番の目標はマンダレーヒルの灯を見つけることであった。

次第に沿線に建物が増えてきた。
つまり街になってきたようだ。
住居もニッパヤシの小屋からちゃんとしたコンクリート作りの建物や工場、学校とおぼしき建物も見られるようになってきたのだ。
鉄道と平行に走る道路の通行量も心なしか増えてきた。
「マンダレーの郊外に入ったのかな」
と思ってから実際にマンダレー駅へ到着するまで1時間ぐらいかかったのだった。
旧都マンダレーは人口こそ若干少ないながらもその市街地は首都ヤンゴンよりずっと大きかったのだ。

反対方向へ向かう何本かの列車とすれ違った後、列車はスピードをぐぐっと落とした。
ポイントを通過するガチャガチャという音が響く。
警報の鳴っている踏み切りを越えると、昨晩タウングー駅に到着した時と同じように物売りが低速で走っている列車にしがみついてきた。
何か叫んでいるが、用はない。
窓から前方を見るとマンダレー駅の大きな構内が見えてきた。
「ついに到着!」
車内に一斉に拍手の音が響いた。
石山さんとデイビット夫妻が思わず歓声を上げ拍手したのだった。

静かに列車が滑り込んでいくマンダレー駅のプラットホームは迎えの人々で溢れていた。
で、結局「マンダレーヒル」は列車からは見えなかった。

マンダレー到着。
午後8時10分。

予定より15時間遅れ。
総時間29時間の列車の旅であった。

つづく.............(旅は次のステップへ)

ミャンマー大冒険(49)

2006年03月05日 20時22分27秒 | 旅(海外・国内)
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガシャンドスン、ガチャガチャ、ホンワホンワ。

心地よい風に吹かれながら列車が線路に刻むリズムに耳を傾けていた。
ダゴンマン列車は相変わらず凄まじい揺れと連結器どうしがぶつかり合う金属音でとても賑やかだった。
そのけたたましい列車の乗り心地とは反対に車窓にはノンビリとした田園風景が広がっていた。
その田園風景も線路際の少しだけ、というようなショボイものではなく、どこまでも、どこまでも、さらにどこまでも広がる広大な田園風景だったのだ。
時おり農作業から戻ろうとしている農民たちの姿がちらほらと見られる。
ある者たちは菅笠を被り鍬や鋤などの農具を担いで歩いていた。
またあるものは牛車に乗ってあぜ道をゆっくりと走っていた。

小僧さんが2人歩いている。
濃い赤茶色の袈裟が黄金色の田園のなかでひときわ鮮やかであった。

田園が続く遥か東の彼方に山の稜線が夕日を受けてクッキリと望まれた。
「インレー湖はあの山の麓ぐらいにあるんですか?」
と私は山の方を指さしながらTさんに訊いた。
「いいえ、あの山の向こうにあるんですよ。」
「まだずっと向こうですか」
「そうです」
田んぼや木立ばかりが広がり、人家はおろか高いビルなどまったくない。
対象物がないのであの山まで今列車で走っている私たちの場所からどのくらい距離があるのか見当が付かなかった。
建物といえば、ちらほらと黄金色に輝く仏塔のてっぺんが見えるだけだ。
山は何十キロも、あるいは何百キロも彼方にあるように見えるのだ。

小道に続いている並木は長い影を地表に投げ掛けていた。
私たちの乗っている列車もまた、地面に長い影を投げ掛けていた。

ふと石山さんたちの座っている左側の座席の方に目を向けると、そこには言葉には表せないぐらい美しい光景が広がっていた。
石山さんとデイビットさん夫妻が向かい合わせに座っている座席の間の窓がまるでフレームのようになり、地平線に沈みゆく夕日を一枚の絵画に仕上げているのだった。
「これは..........」
私はデジタルカメラをとり出してシャッターを切った。
偶然にも石山さんとデイビット夫妻のシルエットも車窓の美しい景色の一部なっているのだ。
液晶画面で確認してみると露出を間違え真っ暗だ。
シャッター速度を落として絞りを開けて再度シャッターを切った。
ちょっと気に入らない。
ちょっとだけ暗い。
で、またシャッター速度を調整して絞り値を変えてシャッターを切った。
もうひとつ気に入らない。
列車が激しく揺れているのでシャッター速度をこれ以上落とすことはできないと思い、絞り値だけを少し変えてまたまたシャッターを切った。
今度はまずまずだ。

シャッターを切り、設定を変え、またシャッターを切っているうちに、私の心に潜むカメラマンもどきの血が騒ぎ出した。
私は立ち上がり、列車の扉を注意深く開け落ちないように片方の手で手摺りにつかまりながらシャッターを何枚も切ったのだった。

東側の景色と異なり、西側には山の稜線がない代わりに一日の終わりを告げる太陽の輝きが今、地平線の彼方に沈みつつあった。
遠くの空には雄大な入道雲が空高く聳え立ち太陽からの赤い光がその輪郭をクッキリと浮かび上がらせていた。
近くのクリークや沼、田んぼには、その自然の造形美が反射して何とも言えない美しさなのだ。

シャッターを切り終った私はしばらく扉から身体を乗り出し風に吹かれたまま自然が作り出したとてつもない景色に見とれていた。

数々のトラブルに見舞われ、ついに一日を列車で過ごすことになってしまったが、この景色が総てを精算してくれているような気がした。
もし予定通りこの列車が走っていれば、このあたりは早朝のまだ景色の見えない時間を走っていたに違いない。
鉄橋が流され足止めを食ったおかげでこの美しい景色を望めたのだ。
いや、それだけではない。
トラブルがあったためにタッコンという田舎駅の風景を切り取ることができたし、ちょっとだけだったが子供たちと触れあう機会も得た。
各駅停車の列車に乗り、一般の車内の雰囲気を楽しむこともできたし、Tさんとたっぷり話す時間もとれたのだ。
相次いだトラブルはもしかするとお釈迦様から頂戴したまたとない旅の贈り物だったのかも知れない。

つづく

--------------------------------------

ミャンマー大冒険を写真と一緒に楽しもう!
旅サイト「東南アジア膝栗毛」
左欄のリンクをクリックしてね。

日本アカデミー賞

2006年03月04日 20時56分47秒 | 音楽・演劇・演芸
世の中に「賞」と名のつくものは数あれど、「日本アカデミー賞」ほど恥ずかしいものは他にない。

なにが恥ずかしいってか?
「名前が恥ずかしい」

一頃の日本映画は、当ブログにも度々書いてきたように悲惨の極みで観るに絶えないものが多かった。
巨匠という名の製作者や監督は自身の趣味の世界に嵌まってしまい、ただただ芸術の世界だと標榜しつつも、実際それは趣味の世界。
「興行収入などより芸術性」
ということで、金にならない映画は長続きするはずものなく、邦画は次第に下火になり、いつのまにかテレビ以下になってしまった。

で、ヒット作を製作しようとしてはアメリカ映画の真似ばかり。
「トラック野郎」は「トランザム7000」の真似だったし、
「スターウォーズ」がヒットすれば「惑星大戦争」や「宇宙からのメッセージ」など、どうでもいいような映画ばかりが作られた。


ちょうどそういう映画が盛んだったころに作られたのが「日本アカデミー賞」
映画がアメリカの真似なら、それに授ける「賞」もアメリカの猿まねだった。

アメリカのアカデミー賞がショーマンシップに則った見ているものが楽しめる「ショー」になっていることに対して「日本アカデミー賞」は映画人のヨイヨイ宴会の雰囲気だ。
各出演者のインタービューに終始して、そこには肝心の観客の姿は認められない。

ここのところ、多くの若手映画人による素晴らしい日本映画がリリースされているが、「賞」のみは旧態依然の内輪パーティ。
この際、名前も変えて、もっと世界に誇れる映画賞にしてはいかがか?

--------------------------------------------

ところであなた。
「日本エミー賞」「日本トニー賞」「日本ゴールデンブローグ賞」「日本フューゴー賞」「日本ノーベル賞」「日本グラミー賞」「日本ピューリッツア賞」「日本ネビュラ賞」なんてあったらどうします?
恥ずかしいでしょ。

でも日本の映画人は思わないんすよね。

荒川静香のウイニングラン

2006年03月03日 07時59分34秒 | マスメディア
ちょうど一週間前の金曜日の朝。
私は宇都宮駅前の某ビジネスホテルのベッドの上でドキドキとしながらテレビを観ていた。

なんと女子フィギュアスケートで思いもかけなかった金メダルが獲れそうなのであった。
やがて金メダル最有力候補のロシアのスルツカヤがずっこけた。
この瞬間、荒川静香に金メダルが確定したわけだが、それよりもなによりも、彼女の演技があまりに完璧であったため、金メダルは演技終了とともに決まっていたと言っても過言ではない。

オリンピックで日本人選手がメダルを獲得すると自分がメダルを獲得したような錯覚をして大喜びする能天気な人々が我が国には多いが、じつは私もそのうちの一人である。

今回のトリノオリンピックは日本人選手がまったくメダルを獲ることができず、このまま無冠の大会に終ってしまうのではないかと思っていた。
これはちょうど毎年6月以降優勝争いから取り残され、ただただ惰性で甲子園へ足を運んだりテレビ観戦をしていたかつての阪神ファン(私)のように諦観した気持ちであっということができる。
そこへまさかの「金メダル」。
それだけに観戦者の私としても喜びは小さくなかったのだ。

オリンピックで日本人選手が金メダルを獲得すると何が嬉しいかというと、表彰式でどでかい日の丸が掲揚され、君が代が演奏されるからだ。
世界一シンプルで美しいデザインといわれる国旗「日の丸」。
他の国のほとんどの国家がマーチや軍国勇まし調なのに対して厳かで格調高い曲調の「君が代」。
そして日本人選手の誇らしげな笑顔がテレビから流れてくるのは、ほんとに嬉しいことなのである。

今回の表彰式の生中継を見ていたら、その国旗掲揚の場面で、なんと荒川静香選手が君が代を口ずさんでいるではないか。
近ごろの若い者は日教組などのアホタレ教師の教育で、国旗に反感を持つアホ共が少なくないが、荒川選手のごく自然な姿は私の胸を強く強く激しく打ったのであった。

で、問題なのはここからだ。

つい昨日まで、私はこの表彰のシーンのすぐ後に感動的なシーンが繰り広げられていたことを知らなかった。
それはなにも無料のおにぎり朝食を食べるためにホテルのロビーへ下りたからではない。
それは生中継を行っていたNHKが画面を切り替えたからだ。
NHKが画面を録画ビデオなどに切り替えた裏では、大きな日の丸を手に持ち会場をウイングランする荒川選手の姿があったというのだ。

かつて荻原健司選手、清水宏保選手などが金メダルを獲得後、大きな日の丸を持ってウイニングランを行ったシーンは多くの国民の記憶に焼き付いていることだろう。
ところが「みなまさのNHK」は観客の大歓声の中、国旗を持って笑顔でウイニングランを行っている荒川選手の姿をなぜかカットしたのだ。
これは、いったいどういうわけだ?

幻の「荒川静香のウイニングラン」
また1つ、NHKの存在を必要としない現象を発見した瞬間であった。