お江戸・尾張・・・そして九州放浪記

2006年江戸へ、2012年3月に尾張へと単身赴任が続き2014年3月末で退社して九州に帰ってきました、放浪は続きます。

JRウォーキング:「「黒崎一夜城」と「安川電機みらい館」を巡るスタンプラリー」

2017年10月09日 | JRε =  ε =  ε = ヾ(;~o~)ノ
今日は久しぶりにJRのウォーキングに参加いたしました。

黒崎駅で改札を抜けると・・・?(*゚Д゚) アレ?受付が・・・跨線橋の上で受付をしています。

跨線橋を降りると直ぐに真新しそうな「安川電機」があります。



【安川電機みらい館】世の中の機械を飛躍的に進化させてきた「メカトロニクスのYASKAWA」が100年かけてこだわり続けてきたものづくりの世界。 ここでは、世界一のサーボモータ・インバータ・産業用ロボットの 最先端技術がつくり出す、ものづくりの楽しさと凄さを体験することができます。 お客様や学校・研究機関、地域の方々に、ものづくりの魅力、そしてロボットの 最新技術などを発信する展示・体感・学習施設として利用できます。



側には「未来館」があり、中に入ると直ぐにアームが器用に動く産業ロボットが展示されています。

両腕のように手がそれぞれ目的に合わせて動くように展示されているものや、館内や未来の世界を説明しているロボットもあります。

二階には首をかしげてルービックキューブをしているロボットもあります(´ー`)フッ

みらい館を出ると歴史館もあり、年表で安川電機の歴史を解説していたり、三相誘導電動機、VSモータ 製品第一号機、国内初全電気式産業用ロボット「MOTOMAN-L10」等が展示されていました。

安川電機を出て山を見ると頂上の方に薄っぺらの感じの城が見えます。

山に向かって歩いて行くと石段を上がり頂上を目指します・・・城跡に向かうようです。


【城山緑地公園】黒田藩の黒崎城の跡地である城山(標高63メートル)のふもとの広場から山頂まで、およそ13.7ヘクタールの広大な空間を活用して作られた緑あふれる憩いスポット。園内は野球場やテニスコートなど、気軽にスポーツを楽しめる施設が整備されているほか、散策路で四季の豊かな自然も楽しめます。山頂には黒崎城本丸跡の記念碑や石垣なども見られ、当時の風景を連想させる歴史情緒も満点。そして高台から見晴らす洞海湾や皿倉山の景色も素晴らしく、また名所として知られる桜を求めて、春には多くの花見客も訪れています!

ヒーヒー言いながら頂上に着きました・・・(*゚Д゚) アレ?城の石垣が見当たりません。

頂上からは若土大橋が見えています・・・頂上を回っていくと先ほど見えていた薄っぺらな・・・板に描かれた城に着きました?・・・黒崎の工場などが見下ろせます・・・景色は大きくなった木々で見下ろせるのは数か所しかありません┐(´ー)┌ フッ



頂上は平らになっていて桜の木が植えられています・・・でも石垣が見当たりません・・・看板を見ると新田開発時に石垣は利用されたようで・・・降り口に少しだけ石垣の名残が見えました。

山から下りて少し歩くと「東構口(ひがしかまえぐち)」と書かれた石碑がありました。

【東構口(ひがしかまえぐち)】黒崎北東部に位置し、古くは安土桃山時代から江戸時代の参勤交代へと続く「長崎街道」の、いわば黒崎宿の東の入口でした。1615年の一国一城令により黒崎城を廃止、その城の南側にあった塀を埋めて設けた番所で、白塗の袖塀があり、その内側から人家が並んでいました。4人が昼夜交代で詰め、旅人の監視を行っていた場所です。




東構口は石碑だけでした・・・

少し歩いて行くと鳥居が見えてきました「春日神社」です。

【春日神社】黒田官兵衛・黒田長政ならびに黒田二十四騎を祀る神社。黒田二十四騎画像(市指定文化財)、刷り物黒田二十四騎画像を所蔵。黒田二十四騎画像は江戸時代後期、初代藩主黒田長政の重臣であった24人の肖像を御用絵師の尾形洞霄(おがたどうしょう)が描き、二十四騎の子孫たちが春日神社に奉納したもの。毎年10月初旬、黒崎で開かれる「筑前黒崎宿場まつり」では、黒田長政・黒田二十四騎に扮した武者行列が、春日神社に集結する。



石段を上がっていくと改築された社殿があります・・・(*゚Д゚) アレ?出雲大社や須賀神社等の看板?も掲げられています・・・なんでだろう???









春日神社から歩いているとアーケードのある商店街に来ました・・・長崎街道と説明されている看板がありますがすべての建物が立て替えられていて街道の名残がまったくありませんザンネン!(つд⊂)



商店街を抜けて大きな通りに出ると「黒崎宿西構口」の石碑があります。

【黒崎宿西構口】構口は宿駅とも書き、宿駅の出入口に標として設けられたもので、道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築いたものでした。特別の木戸や扉は設けられていません。構口は方位にかかわらず、上り方面を東、下り方面を西としました。木屋瀬宿の場合、岡森用水路際にあった北側の黒崎口が東構口、現在石垣が残っている南側の飯塚口が西構口です。そして、両構口に囲まれた内側が宿駅で、宿駅としての規制の対象となり、宿内には本陣(御茶屋)、脇本陣(町茶屋)、人馬継所、代官所、郡屋(郡方の役人たちの集会所)などの諸施設が完備し、旅籠屋や商店が置かれていました。 この構口が築かれた時期ははっきりしませんが、諸大名の参勤交代が制度化された寛永12年(1635年)以降、宿駅が整備されていく過程と考えられます。木屋瀬宿西構口跡は市内に残る唯一の構口の遺例として、近世交通史を考える上で重要な文化財です。

周りを見あたしたのですが・・・石碑以外にそれらしきものが見当たりません・・・東側と一緒ですエト・・(´・ω・)y-~

通りを渡り少し行くと赤い欄干の橋が見えました・・・乱橋と欄干に書かれています。

<font size="2">【乱橋】元は橋の名前でなく地名であった説や、ホタルの群舞が橋に邪魔されて乱れ飛ぶ様子から乱橋となった説等があります。


ラブホテルの前にあります・・・乱れた関係の物たちが集まる場所???(´ー`)フッ

少し歩いて行くと通りの向こうに松林が見えてきました。

【曲里の松並木】旧長崎街道に沿って江戸時代に植樹された松(クロマツ)並木です。江戸時代には徳川幕府が旅人を炎天や風雪から守るため、全国の街道に松や杉を植樹させていました。当時は遠くからでも街道が一目で分かる標識にもなっていました。江戸後期の狂歌師大田南畝(蜀山人は別号の一つ。寛延2年~文政6年=1749~1823)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りて、又坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。」とその紀行文(小春紀行)にこの松並木あたりの描写をしています。江戸時代末期のこの付近の往還図には、松の並木が100本以上も描かれています。また、昭和20年頃までは長崎街道には多くの松が残っていましたが、今はわずかにこのあたりが昔日の長崎街道の面影をとどめています。

長い松並木を歩いて行くと・・・今日はとても暑いのですが日陰になり汗も引いてきます(´ー`)フッ

土の道には沢山の松ぼっくりと松葉が落ちています・・・なんだかな~落ち着きます。

松並木を過ぎて広場に来るとテントが並んでいます・・・八幡西区健康まつりが行われているようです。

各分野の専門家(医師・歯科医師・薬剤師・看護師等)の方々が、皆さまの健康づくりをサポートしているようです。

駅側のテントでは飲食物が売られています・・・健康診断を受けてアルコールと食べ物を楽しむ・・・???

そろそろコースの最終の様で駅に向けて歩いていきます・・・駅の北側は工業地帯で、こちらは商業スペースのようです。