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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

雪の聖母の大聖堂の献堂の祝日:聖パウロ「あなたたちの体は天主から受けた聖霊の聖所であって自分のものではないと知らないのか」

2022年09月15日 | お説教・霊的講話

2022年8月5日(初金)イエズスの至聖なる聖心の随意ミサ(雪の聖母の大聖堂の祝日)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズス様のいと尊き御血の月が終わって、遂に8月に入りました。
8月は、イエズス様の聖心の愛の傑作であるマリア様を、私たちに多く見せています。

イエズスの聖心を形造ったマリア様、イエズスの聖心が愛しているマリア様、そのマリア様の汚れない御体(おんからだ)、そして汚れない御心(みこころ)、その御生涯をかざる被昇天(ひしょうてん)など、8月はマリア様の祝日で散りばめられています。

イエズス様の愛の最大の傑作であるマリア様に私たちは関心をよせましょう。私たちの視線と注意を向けましょう。この世の人たちが、あるいは低俗な快楽に身を任せているとしたら、イエズス様は私たちに崇高な、天の清い、汚れのない御母を私たちに見せて、模範にしようとさせています。

御自分の聖心の愛のその炎は、マリア様のまず御体を、清いものとしようとしました。全く罪の汚れのない、情念のメラメラと燃えるような情欲から一切逃れて、そしていつも冷静で、そして雪のように真っ白い心と体を持たれたマリア様のその御体は、今日雪の聖母の大聖堂の、それがマリア様の御体の清さと崇高さを、汚れのなさを象徴しているのではないでしょうか。

聖パウロは言います、「あなたたちの体は、天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コリント前6:19)と。イエズス・キリストを御宿しになるべく準備されたマリア様の御体は、どれほど純潔で清いものでなければならなかったことでしょうか。

ぜひ今日、イエズスの聖心に乞い願いましょう。聖母の聖徳に私たちが学ぶことができますように、真似をすることができますように、と。

この地上の人たちが関心を持っているような低俗なことではなくて、目をいつも高く上げていることができますように、マリア様のおられる天にいつも目を上げることができますように、マリア様に倣う心と体を持つことができますように、イエズスの聖心にぜひお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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聖イグナチオ「夜中に目が覚めたら、自分はこのまま15分の後に、この世を去らなければならない。人生の会計報告をイエズスにしなければならないと考えてほしい。」

2022年09月15日 | お説教・霊的講話

2022年7月31日(主日)聖霊降臨後第八主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、聖霊の七つの賜物のうちの一つ「聡明」の賜物、“intellectus”の賜物について黙想することを提案します。

⑴「聡明」の賜物とは一体何なのか?

⑵ この聡明の賜物の御恵みを頂きながら、今日の福音に適用すると、福音の深い意味をどうやって理解したら良いだろうか?

⑶ 最後に、今日の福音の理解を実践した例を黙想して、最後に遷善の決心を立てることに致しましょう。

「聡明」の賜物というのは、私たちの知性を、聖霊の光が完成させてくれて、そして言葉の表面だけのことではなくて、その深い意味が何であるかを教えてくれます。

聖書に出てくる出来事や、あるいはその名前、あるいはその場所、その人物が表しているその深い意味は一体何なのか、あるいはそのような、私たちが信じなければならないことによって提案されている、提示されていることのその深いの意味が何かを理解させてくれます。

聖書の正しい意味は何なのかを、表面的ではなくて、その深い意味さえも、私たちに理解させてくれる特別の御恵みです。聖霊からの特別の光です。

旧約聖書には色々な出来事がありました。例えば、アベルの生贄、あるいはモーゼによってエジプトを脱出する時に捧げられた過ぎ越しの子羊、あるいはモーゼが紅海を渡るときに使った、海を開いたその杖の棒、あるいはモーゼが養ったマンナ、あるいは契約の櫃、あるいは天主の十戒の二つの石板、あるいはモーゼがその同じ杖で岩を叩いて出したその泉、その他、色々な旧約聖書の出来事がありました。しかし、これらの中にその深い意味がありました。つまり、これらはすべて、来るべき救い主イエズス・キリストを表していました。これらの出来事が、来たるべき救い主を表している、十字架の木を表している、と認めることができるのは、「聡明」の賜物の御恵みです。

⑵ では、その聡明の賜物の御恵みを願いつつ、今日の福音で出ている例えをどのように理解したら良いのか、考えてみましょう。

聡明の賜物を頂いた教父たちの言葉に従って、今日の福音を黙想することを提案します。

私たちがこの地上に生きているのは、実はこの地上の持ち主ではなくて、ただこの今しばらくの間、地上のことの管理を任されている雇い人、つまり、管理者にすぎない、ということを今日の福音は表しています。

ある時、主人は会計係に言いました。「お前をもう管理者にしておくことができない。もうお前は私の財産をあまりにも無駄に、不正に使ったという噂を聞いた。だから、さあ、会計報告を出してもらいたい。もうお前を雇っておくわけにはいかない」と。

これはまさに、私たちの人生の終わりに起こることです。私たちは主から多くの恵みを頂いて、光を頂いて、恵みを頂いたにもかかわらず、それをどのように使ったのか、良く使ったのか、あるいは濫用したのか。主の御望みの通りに使ったのか、あるいは全く用のない下らないことに使ってしまったのか。委ねられていた通りに使ったのか、どうか。

「さあ、会計報告を出すように。」

その時に彼は考えます。「ああ、もしもこれが終わったら、この後でどうしようか。働こうか、肉体労働をしようか。そんなことはできない。乞食をしようか。それも恥ずかしい。」

教父たちによると、「これは、私たちがこの人生を終わった後には、もうもはや働くことはできない。もはやその時間は終わった。功徳を積むことはもうできない、という意味だ」と言っています。

また、私たちが生きている間であれば、主に憐みを乞うこともできたはずです。しかし、亡くなった後には、主に憐れみを乞うこともできない。それはもう終わった。憐れみの時はもう終わった、ということを表している。ただあるのは、審判だけだ、と。

ですから、その「私たちがその会計報告をする前にすることができるのは、委ねられている今の能力を使って、憐みを施す、善業をする、ということである。」と言います。

私たちは死の時に、主にきっちりと、完全な会計報告をしなければならない、ということをこの今日の福音は教えています。

⑶ 福音の教えを実際に使って隣人に勧めた聖人もたくさんいます。今日は聖イグナチオの祝日でもあるので、聖イグナチオのエピソードを一つだけご紹介して、この今日の黙想を終えることに致します。

聖イグナチオはイエズス会を創立した方です。やはりイエズス会の会員で、ロレンシオ・マッジョという方は神父様は、イエズス会をこのまま居ようか、あるいは脱会しようか、という誘惑を受けていたそうです。詳しいこのマッジョ神父様の誘惑の内容は知られていませんが、しかしそのことを聖イグナチオに話したそうです。「脱会しようと思う」と。

すると、聖イグナチオはそれを引き止めようとせずに、一つだけお願いしたそうです。

もしかしたらそれは今日私たちも、聖イグナチオを通して私たちも、そうしてみることをお願いされているのかもしれません。今日の福音と同じようなことを、聖イグナチオはお願いしました。

「分かった。ロレンシオ。じゃあ、今日夜寝て、夜中にきっと君は、一度くらい起きるだろう。そして夜中に目が覚めたら、15分で良いから、自分はこのまま、あと15分の後に、この世を去らなければならない。そして人生の全てのことの会計報告を、イエズス様にしなければならない。今、目が覚めたのは、その15分後に死を迎える準備の為だ。特別に今、目が覚めている、ということを考えてほしい。」

「できるだけ生々と、『これから死ぬんだ。』もしかしたら熱が出て、コロナで、あるいはもしかしたら血栓ができて、あるいは心臓麻痺で、あるいは胸が痛い、あるいは頭が痛い、熱が出て、これで亡くなるんだ、死ぬんだ、もうこの世にさらばと言うんだ。」

「そしてその15分の後に、今度は、主が特別の憐れみをもって、まだ生かしてくれた、ということを思って、それででは、これはこのようなことは、今は本当に死ななかったけれども、しかしある時、私に実際に起こるに違いない、必ず起こる、一回起こる、ということを考えてもらいたい。その時お前は、イエズス様の為に仕えて良かったと思うだろうか、それともイエズス様に仕えずに、悪魔の元でこの世を楽しく面白く過ごして良かったと思うだろうか。そのことを考えてもらいたい」とお願いしたそうです。

そしてロレンシオはマッジョ神父様は、その通りにやった、とのことです。
後にイグナチオのところにやって来て「やっぱりイエズス会に留まる」と言ったそうです。

では、私たちはマリア様の御取り次ぎによって、「聡明」の徳を乞い願いましょう。

私たちがこの地上の出来事、あるいは聖書の出来事、あるいは私たちが聞くことから、信仰の深い意味を理解することができますように。

私たちの生きている目的とは何なのか、永遠とは何なのか、天主の全能、全知とは何なのか、天主が全ての究極の目的であるということは一体何なのか、私たちの今生きているこの一つ一つの意味は、永遠の為に一体どんな価値があるのか、深い意味を理解することができますように、特にマリア様の御取り次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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なぜ私たちは、天主の御摂理に自分をおまかせすべきなのか?天主の全能と知恵と善性

2022年09月13日 | お説教・霊的講話

天主の御摂理への信頼についての説教

ドモルネ神父 2022年9月11日 聖霊降臨後第十四主日

はじめに

今日の福音で、私たちの主イエズスは、天主がどれほど私たちを愛し、私たちを気遣っておられるかを、感動的な心遣いをもって、確認してくださいます。今日は、天主の御摂理と、なぜ私たちが、その御摂理に自分をおまかせすべきなのかについて、お話しします。

1.天主の御摂理とは何か

私たちが「天主の御摂理」と呼ぶものは、天主の賢明です。少し説明させてください。賢明とは何でしょうか。賢明とは、良い目標を達成するために、誠実で適切な手段を選んで実行する、私たちの心の資質のことです。例えば、私が、自分の子どもたちに、カトリック教育を受けさせたい、としましょう。これが私の目標です。私は、賢明を用いて、この目標を達成するための方法を決めるために、三つの段階を踏みます。まず、私は、カトリック教育について、可能な選択肢を調べます。つまり、近隣のカトリック学校について、また家庭で教育をすることについて、などを調べるのです。次に、自分の人的・経済的資源に基づいて、私にとって最も良いものを選びます。最後に、私は、しようと決めたことを実行するのです。

私たちが、人間において「賢明」と呼ぶ完全性を、天主においては「御摂理」と呼びます。天主は、ある目的を持って、この世と私たちを造られました。「まず天主の国とその正義を求めよ」(マテオ6章33節)と、イエズスは私たちに言っておられます。天主の国とその正義とは、天主の栄光と私たちの永遠の幸福のことを意味します。天主は、この二重の目標を達成するために、すべてを準備され、時間をかけて少しずつ、その計画を正確に実現されるのです。この計画を実現されるための、天主の全宇宙に対する働きかけを、私たちは天主の御摂理と呼ぶのです。

私たちの主は、私たちに対して、天主の御摂理に、完全で、揺るぎない、冷静な信頼を持つように言われます。この信頼は、三つの原則に基づいています。

2.第一の原則:天主の全能

天主の御摂理に対する私たちの信頼の第一の原則は、天主の全能です。この世に起こることはすべて、天主があらかじめそれを予見されて、それを望まれたか、あるいは少なくとも、それが起こることを許されたのです。天主が第一の存在であり、存在するものすべての源です。したがって、天主から逃れることのできるものはなく、不意に起こることもなく、すべては、天主の絶対的な支配の下にあるのです。この世にある善いことはすべて、天主がそれを積極的に望まれるのであり、この世にある悪いことはすべて、天主が、より大きな善へのきっかけとするために、それが起こることを許しておられるのです。

私たちの主は、私たちに天主の全能を思い起こさせられ、それを私たち人間の弱さと比較しておられます。「野のユリがどうして育つかを見よ。苦労もせず紡きもせぬ。しかし私は言う、サロモンの栄華の極みにおいてさえ、このユリの一つほどの装いもなかった」(マテオ6章28節)。つまり、天主はその御力によって、何の努力もなしに、全宇宙を創造し、その素晴らしい秩序を保っておられるのです。その反対に、最も力ある人間でも、野のユリのような単純なものさえ作ることはできません。ですから、天主の御力よりも自分の力を信頼するのは、なんと愚かなことでしょうか。

3.第二の原則:天主の知恵

天主の御摂理に対する私たちの信頼の第二の原則は、天主の知恵です。天主が起こることを望まれ、あるいは起こるのを許されることはすべて、この世を創造されるに当たって天主が定められた目標を達成するために、そうされるのです。すでに述べたように、この目標は、天主の完全性の啓示を通した、天主ご自身の栄光と、私たちの永遠の幸福です。天主はすべてのことをご存じですから、この目標を達成する方法を、私たちよりもずっとよくご存じです。私たちの主は、鳥を例にして、天主がいかにすべてのものを賢明かつ効率的に導かれるかを教えておられます。「空の鳥を見よ。種をまきもせず、刈り取りもせず、倉に納めもせぬに、あなたたちの天の父はそれを養われる」。その反対に、人間の知恵には限界があります。「あなたたちがどんなに心配しても、身のたけを一尺さえ長くできぬ」(マテオ6章26-27節)。ですから、天主の知恵よりも自分の理性を信頼するのは、なんと愚かなことでしょうか。

天主の知恵は、私たちの主イエズス・キリストを、すべてのものの中心に据えられたことに注意してください。天主が、善性、正義、あわれみ、知恵、力などにおけるご自分の完全性をはっきりと示され、それによってご自分に無限の栄光を与えられるのは、私たちの主イエズスを通してです。天主が、私たちを永遠の幸福に到達させてくださるのは、私たちの主イエズスを通してです。ですから、天主の知恵は、私たちが私たちの主イエズス・キリストにますます従うようにするために、私たちの生活のすべてを取りはからってくださいます。聖パウロはこう言いました。「私は、あなたたちの中にあって、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した」(コリント前書2章2節)。

4.第三の原則:天主の善性

天主の御摂理に対する私たちの信頼の第三の原則は、天主の善性です。天主は、ご自分を愛する人々の善のために、すべてのものを取りはからってくださいます。天主は、その人々を聖化して、永遠の命を得させるために、すべてのものを取りはからわれます(ローマ8章28節参照)。聖性とは、奇跡を起こすことでも、特別な神秘体験をすることでもありません。聖性とは、私たちの主イエズスが示された模範に従って、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、天主を愛し、隣人を自分と同じように愛することです(マテオ22章37節参照)。このような愛を実現するためには、私たちの利己主義や、天主のみ旨に逆らう自己意志を完全に捨てることが必要であり、謙遜とすべての聖徳を実践することが必要であり、私たちの罪の完全な償いをすることが必要です。このようなわざは、私たち人間の力を超えています。でも、天主が私たちを助けてくださいます。天主は、私たちに幸せな出来事と不幸な出来事を経験させられ、それらの出来事を通して、そのわざを遂行されるのです。天主は、私たちの人生から苦しみを取り除かれるのではなく、その苦しみに耐えるための内的な力を、私たちに与えてくださるのです。聖人たちは、最悪の試練や苦しみに直面しても、決して天主に逆らいませんでした。なぜなら、彼らは、これらの試練を通して、天主が自分たちを聖化してくださっていることを理解していたからです。

私たちの主イエズスは、穏やかなとがめをもって、私たちに、天主の善性を思い起こさせてくださいます。「野のユリのことを考えよ…今日は野にあり、明日はかまどに投げ入れられる草をさえ、天主はこのように、装わせてくださる。それなら、まして、あなたたちに対して、よくしてくださらないはずがあろうか。信仰うすい人々よ」(マテオ6章28-30節)。聖パウロとともに、私たちも、次のように言うことができます。「天主の御子は、私を愛し、私のためにご自身を渡された」(ガラツィア2章20節)。ですから、私たちに対する天主の善性を疑うのは、なんと愚かなことでしょうか。

結論

親愛なる信者の皆さん、天主の御摂理に対する私たちの信頼は、この三つの現実に基づいています。天主は、すべてのことを行うことがおできになること。天主は、すべてのことをご存じであること。天主は、私たちを愛しておられ、私たちの善だけを望んでおられることです。

しかし、私たちなしに私たちを創造された天主は、私たちなしには私たちを救われることはない、ということを忘れないでください。天主の御摂理が私たちを見守ってくださっていますが、それは、私たちには何もすることがない、という意味ではありません。天主は、私たちが、天主の御摂理の働きに協力することを望んでおられるのです。ですから、私たちは、掟を守り、家庭や仕事上の義務を果たし、人生のあらゆる場面で天主のみ旨に従い、隣人に善を行う努力を、全力でするようにしましょう。私たちができる範囲で、これらすべてのことを行いましょう。しかし、私たちの力の及ばないことについては、天主の御摂理に、絶対の信頼を置きましょう。

東京での9時ミサの追加部分

[最後に、今日、私には、初聖体を授ける喜びがあります。聖体拝領を通して、私たちの主イエズス・キリストは、ご自身を物理的に私たちに与えられます。私たちの霊魂に、聖化のみわざを実行されるために、来られます。私たちに天主の愛を伝え、私たちを天国に導くために、来られるのです。聖体拝領は、私たちに対する天主のご配慮を最も感動的に証明するものであると同時に、私たちを天国に導くために天主が与えてくださる最も強力な手段です。ですから、私たちの毎回の聖体拝領が、天主の御摂理に対する私たちの絶対的な信頼を強めてくれますように。]

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カトリック聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年09月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ご報告が遅れて申し訳ありません。2022年9月11日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計111人でした。大阪では18人でした。

大阪では、来週の主日も午後6時です。ご不便おかけすることになり申し訳ございません。

兄弟姉妹の皆様のしもべは、ただいま、久しぶりに韓国でミッションをしております。お祈りください。

ある方が、ロザリオの15玄義を31文字で表現してくださり、私に教えてくださいました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介いたします。

喜びの玄義

第一玄義

マリア様
よくぞ答えて
くだされた
おおせのごとく
われになれかし

第二玄義

老女への
愛の奉仕に
ユダの地へ
あいさつ済めば
洗者聖別

第三玄義

ひっそりと
降誕された
イエズスは
神のひとり子
救いのおん子

第四玄義

シメオンの
預言を聞きし
マリア様
御子の受難
ともにあがなう

第五玄義

神殿に
現れたるは
神童ぞ
当時は誰も
何も分からず

苦しみの玄義

第一玄義

血の汗が
吹き出る恐怖
の後でさえ
み旨求める
主の従順

第二玄義

肌裂かれ
骨肉痛み
衰弱す
血潮失い
臓器弱まる

第三玄義

頭さえ
傷つけられし
イエズスは
赤いまなこで
聖母を見たり

第四玄義

重いかな
堪えがたきかな
十字架を
担いてあゆむ
ヴィアドロローサ

第五玄義

十字架に
釘付けされた
主イエズス
聖母もともに
苦しみ給う

栄えの玄義

第一玄義

復活の
主が向かいしは
聖母様
記述なけれど
母と子なれば

第二玄義

帰るべき
ところに帰る
勝利の主
主のみ教え
守り続ける

第三玄義

聖霊の
降臨ありて
教会は
生まれたまえり
主の神秘体

第四玄義

身も霊(たま)も
天に移されし
聖母様
感極まりて
わが子!我が神!!

第五玄義

マリア様
天の元后
曙の星
我らの祈りを
聞き容れ給え

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 111 including children.

09:00 mass
M: 30 (incl. 3 children)
F: 26 (incl. 3 children)
Total: 56 (incl. 6 children)

11:30 mass
M: 27 (incl. 5 children)
F: 32 (incl. 4 children)
Total: 59 (incl. 9 children)

Total of 2 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 54 (incl. 8 children)
F: 57 (incl. 7 children)
Total: 111 (incl. 15 children)


私たちは選ばなければならない。十字架の友となれ。聖伝のミサを通して私たちはますます十字架の友となることができる

2022年09月11日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年9月11日は聖霊降臨後第14主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第14主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


教皇聖ピオ十世の回勅「エ・スプレーミ」についての説教:キリストにおいてすべてを復興させるために熱心に働くことができるよう、聖ピオ十世が取り成してくださいますように

2022年09月10日 | お説教・霊的講話

教皇聖ピオ十世の回勅「エ・スプレーミ」についての説教

ドモルネ神父 2022年9月4日 大阪にて

はじめに

9月3日、私たちは、聖ピオ十世会の守護聖人である教皇聖ピオ十世の祝日をお祝いしました。聖ピオ十世は、1903年に教皇に選ばれました。彼は、その直後に、回勅「エ・スプレーミ・アポストラートゥス」(E Supremi Apostolatus、使徒座の最高の高みから)を発表し、その中で、自らの教皇職の指導原則と主要な司牧活動方針の概要を示しました。この指導原則と主要な活動指針は、私たちと同じものです。ですから、今日、私は、皆さんにそれを思い起こしていただきたいと思います。
【参考】https://www.immaculata.jp/mag2003/manila177.html

1. 私たちの時代の人類の病

この3年間、コロナウイルスの流行について多くのことが語られてきました。メディアによれば、この流行は、人類の歴史の中で、最も危険で致死的な病気の一つとなるだろう、ということです。しかし、それよりもっと深刻で、もっと劇的な結果をもたらす、別の病気があります。聖ピオ十世は、こう教えています。人間社会が、現在、過去のどの時代よりも苦しんでいる、非常に根深くて、非常に深刻な病気、日々進行し、社会の根底に食い込み、社会を滅亡に引きずり込む病気…この病気は、天主からの背教です、と。

私たちは実際、ルチフェルの時代、つまり、人間が、天主に逆らったルチフェルの模範に倣っている時代に生きているのです。ルチフェルのように、現代人は、天主に対して、「私はあなたに仕えない」と言い、天主とは無関係だというふりをしています。人間は、天主に対する不敬な戦争を始め、それは、世界のほとんどあらゆるところで進行しています。詩篇第2篇で語られるように、天主に逆らって、「異邦の民は、乱れ騒ぎ、国々の民はむなしくほえたける」(詩篇2章1節)のです。聖なる人ヨブが言ったように、天主の敵どもは、天主に、「われらからはなれよ」(ヨブ21章14節)と言うのです。その結果、大多数の人々の間で、永遠の天主に対する尊敬の念が、すべて消え去っていることが分かります。私たちは、天主の主権が無視されるような、公私の生活様式が発展しているのを目の当たりにしています。それに加えて、天主の記憶と知識を完全に破壊するために、あらゆる努力と策略が用いられています。

天主に逆らう人間のこのような態度は、どのような結果をもたらすでしょうか。それは、人間の滅びです。詩篇第72篇に、「見よ、あなたを離れる者は滅び(る)」(詩篇72篇27節)とあります。実際、人類の歴史の中で、このルチフェル的な時代ほど、破壊的で死をもたらす時代はありませんでした。世界大戦、世界中で起こる数多くの局地戦争、大量虐殺、イデオロギーによる迫害を思い出してください。また、中絶、避妊、安楽死、同性愛によって、人類がいかに自滅しているかを思い出してください。

2. 指導原則:キリストにおいてすべてを復興させる

天主に逆らう人間の戦いの勝者は誰でしょうか。それに関しては、疑いはありません。人間は、自らの自由を悪用することができます。人間は、一定の期間、創造主の権利と至高の御稜威を侵害することができます。しかし、最後には、勝利は常に、天主とともにあるのです。さらに言えば、人間が、勝利の錯覚の下、最も大胆に立ち上がる瞬間、人間の敗北は目前に迫るのです。

天主の勝利は確実です。しかし、天主の勝利の栄光にあずかるかどうかは、私たち次第です。この勝利を早めるかどうかは、私たちと私たちの行動次第です。では、どのようにすればよいのでしょうか。まず、詩篇第9篇に、「主よ、立ち給え。人間に勝たせ(給うな)」(詩篇9編20節)とあるように、天主に熱心に祈ることによってです。次に、さらに重要なことは、人間とすべてのものに対する天主の至高の支配権を、言葉と行いの両方によって公に認め、それによって、天主の支配権と権威が完全に尊重されるようにすることです。

しかし、私たちは、イエズス・キリストによらなければ、人間を天主の御稜威と支配に呼び戻すことに成功できないことを、忘れないようにしましょう。聖パウロは、「すでに置かれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を、誰も置くことはできぬ」(コリント前書3章11節)と言っています。「父が聖別して世に送られた」(ヨハネ10章36節)のは、キリストだけです。キリストなしには、誰も天主を知ることはできません。「子が何者かを知っているのは、父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と、子が示しを与えた者のほかにはありません」(マテオ11章27節)。ですから、人間を天主への従順に連れ戻すことは、キリストにおいてすべてを復興させることなのです。私たちのすべての努力の目的は、人類をキリストの支配のもとに連れ戻すことです。それが実現すれば、私たちは人類を天主のもとに連れ戻したことになるのです。

さて、キリストに到達する方法は、どんなものでしょうか。それは、私たちの主イエズスご自身によって創立されたローマ・カトリック教会です。私たちの主イエズスは、ご自分の教会を、ご自分の教えと掟の保管所とされ、同時に、人間の聖化と救いのための、尽きることのない恩寵の宝を、教会に授けられました。ローマ・カトリック教会が、唯一の真の宗教です。ローマ・カトリック教会だけに、人々を私たちの主イエズス・キリストのもとに導き、主を通して人々を天主と一致させる使命と権威が与えられました。ですから、キリストにおいてすべてを復興させるということは、信仰と道徳に関するカトリック教会の伝統的な教えに従うよう、人々と諸国に呼びかけることを意味します。

3. 行動

では具体的に、キリストにおいてすべてを復興させるために、信者は何をしなければならないのでしょうか。第一に、信者は、真のキリスト教生活を送らなければなりません。それは、天主の法と教会の戒律を忠実かつ熱心に守ること、カトリックの信仰を率直かつ公に告白すること、私利私欲や現世利益を顧みず、あらゆる種類の慈善活動を実践すること、を意味します。そして、教皇聖ピオ十世が私たちに思い起こさせるのは、真のキリスト教的生活という模範、キリスト教の慈善活動という模範が、言葉や崇高な論文よりも、霊魂をキリストのもとに導くのに、はるかに効果的である、ということです。

また、教皇聖ピオ十世は、多くの人々が、悪意よりもむしろ無知から、私たちの主イエズスと教会と福音に敵対していることを、私たちに思い起こさせます。聖ユダは、こう言っています。「かの人々は、自分たちの知らぬことを冒涜(する)」(ユダ10節)。そして、このことは、教育をあまり受けていない人々だけでなく、学者たちの一部にも当てはまります。この後者の宗教に関する無知は、時に非常に驚くべきものです。ですから、私たち自身もカテキズムをよく知り、機会があれば、人々に福音を教えられるようにならなければなりません。

最後の重要なポイントです。教皇聖ピオ十世は、司祭は地上におけるキリストの代理人であり、司祭は霊魂にキリストを形成する者である、と思い起こしています。ですから、キリストにおいてすべてを復興させるためには、司祭が必要なのです。若者が司祭になるためには、二つのことが必要です。一つは天主の召命、もう一つは、若者がその召命に対して、寛大に応えなければならないことです。さて、若者は、天主の召命に応える寛大さを、どこで学ぶのでしょうか。それは家庭、私たちの主イエズスが、王として尊敬され、愛され、従われ、強い敬虔さと寛大な愛徳があり、世俗的な精神が禁じられている、カトリックの家庭です。ですから、多くの司祭の召命が育まれるように、両親は子どもたちに、そのような家庭の雰囲気を与えるようにしましょう。

結論

キリストにおいてすべてを復興させるために熱心に働くことができるよう、聖ピオ十世が、私たちのために取り成してくださり、私たちに力強い恩寵を獲得してくださいますように。


【参考情報】「ある国家の犯罪の物語」カナダ政府はピーター・ブライス医師の警告を無視した

2022年09月10日 | 聖伝のミサの予定

【参考情報】「ある国家の犯罪の物語」

‘The Story of a National Crime’

一世紀前、ピーター・ブライス医師は、寄宿学校が人を殺すために設計されていることを証明した。カナダ政府は彼を無視した。

アンドリュー・ニキフォルク 2021年6月2日 TheTyee.ca

Tyeeの寄稿編集者であるアンドリュー・ニキフォルク(Andrew Nikiforuk)は、疫病、エネルギー産業、自然などをテーマにした著書や記事を執筆し、数々の賞を受賞しているジャーナリスト。

ピーター・ヘンダーソン・ブライス医師(Dr. Peter Henderson Bryce)は、1904年、カナダの初代医療衛生主任医官(chief officer of medical health)に任命された。彼は寄宿学校を視察し、そこが病気の培養の場にして感染の場であることを明らかにした。


おそらく読者の皆さんは、ピーター・ヘンダーソン・ブライス医師のことをお聞きになったことはないでしょうが、これだけは言えます。先週、カムループス・インディアン寄宿学校の敷地内で墓標のない墓が発見されたことに、彼だったらショックを受けたり驚いたりしなかったでしょう、と。

彼はフォークナーのように知っていました。過去は決して死なないことを。「過ぎ去りさえしない」ことを。

カナダの初代医療衛生主任医官は、15年間にわたり、この国にある病気だらけの寄宿学校は結核による死の収容所と化している、と繰り返し上司たちに警告しました。彼は勇気を持って改革を迫ったのです。

しかし、ブライスの上司たちは聞く耳を持ちませんでした。彼らは真実を知ろうとは望まず、官僚にしかできないこと、つまりこの医師の仕事をできなくさせたのです。

ですから、ブライスは政府を離れ、秘密保持の誓約がなくなると、先住民の絶滅を加速させることがカナダの寄宿学校で意図的に行われているということについて、24ページの暴露記事を書きました。こちらで読むことができます。

ブライスは、自分の本に「ある国家的犯罪の物語」(The Story of a National Crime)というタイトルをつけました。1922年のことです。

深刻な秘密に満ちていて、選び出された記憶に悩まされる国であるカナダは、もはやこの「国家的犯罪」を隠し続けることはできません。

国家は歴史を否定でき、歴史を無視でき、歴史を最小化でき、歴史を先送りでき、歴史を書き換えることさえもできます。

しかし、歴史と向き合わずに成長することはできません。それは単純な理由です。「『前』を知ることで、異なる『後』を創り出すことができるからです」。

その「前」は一世紀前に始まりました。エジンバラ、トロント、パリで教育を受けたオンタリオ州マウントプレザント出身者(であるブライス)は、1904年、移民・インディアン問題省の医療衛生主任医官の職に就きました。

ブライスが最初に目にした統計の一つが、これでした。先住民には、神経障害やアルコール依存症が非常に少ないという報告です。しかし、結核が彼らの命を奪っていたのです。

この病気には、その力を見せた植民地時代の歴史がありました。バッファローが根絶され、カナダの平原で生態系全体が破壊される以前は、結核はほとんど存在しませんでした。毛皮貿易が細菌の種をまいていたとはいえ、結核が広がるには人混みと飢えとホームレスが必要でした。

連邦政府は、多くの先住民の主な栄養源であったバッファローを絶滅させた後、これらの条件を忠実に提供したのです。

食糧配給を差し止めることで、政府は強制的に先住民に条約を結ばせ、300の異なる部族を、住みにくい居住区に追いやりました。そこでは、病気および飢餓の政治が、その条約の仲間に加わりました。

その結果、結核は恐ろしい先住民征服を始め、天然痘や他の欧州の微生物とともに、白人の入植のために平原を一掃するのに役立ちました。

欧州人がバッファローの代わりに飼った牛は、炭疽病、ブルセラ症、牛結核など多くの病気を媒介しました。

密猟であれ、政府による購入であれ、感染した牛1頭が、飢えていて免疫の低下した先住民100人を肺病に感染させることができたのです。

しかし、当時の人種差別理論は、先住民は欧州人より弱いだけ、あるいは、もともと結核になりやすい体質なのだ、という考えでした。

この病気の専門家であるブライスは、1907年に政府から寄宿学校の衛生状態の検査を依頼されたときに、そんなたわごとを信じず、そのことを証明したのです。

連邦政府は1883年、先住民を「同化」させて農民や仲間の資源採取者にするための植民地の戦力として、この学校を設立しました。

学校は、被支配者の文化やアイデンティティーを取り去るための、純粋かつ単純な国家公認の道具だったのです。連邦政府は、英国がハイランドのスコットランド人に行ったこと、つまり先住民を追い払うことを望んでいたのです。

ブライスは3カ月を費やして、マニトバ州とノースウエスト準州(当時はサスカチュワン州とアルバータ州を含む)の35校を訪問しました。いずれも、かつてバッファローが生息していた地域で、人々は今、飢餓または栄養不足の状態にありました。彼は、次々と屈辱的な状態があるのを見ました。建物は火事になりやすい構造で、水の供給も不十分でした。診療所もほとんどありません。まともな食料供給もないのです。

学校の換気も悪く、まるで刑務所のような雰囲気に、ブライスは愕然としました。それは、「ほとんど、一番伝染病が発生しやすい状況を意図的に作り出していたかのよう」でした。

ブライスは、学校を運営する教師や教会関係者といった植民地主義の代理人も、生徒がその後どうなったのかに関する情報収集に消極的だったことを指摘しました。彼には、その理由が分かりました。現在のサスカチュワン州であるところでは、過去15年間に悪名高いファイルヒルズ・インディアン寄宿学校を退学した生徒31人のうち、生存していたのはわずか9人でした。

ブライスは、この寄宿学校は結核の培養の場、そして感染の場として機能していたと判断しました。到着前に結核でなかった子どもたちも、運動さえもできないほど人混み状態の寄宿舎で、たちまち結核にかかりました。

そして、子どもたちの病気がひどくて机に向かうことができない場合、地元に送り返され、人の多い居住区の住宅内で病気を蔓延させました。

ブライスは、いくつかの学校の校長から話を聞いた結果、過去15年間に寄宿学校に通った先住民の子どもたちの約4分の1が結核で死亡していると推定しました。そして、「報告された1537人の生徒のうち、25%近くが死亡しており、ある学校の絶対的に確かな話では、元生徒の69%が死亡しており、また死因はどこでも変わらず結核であった」と書いています。

言い換えれば、寄宿学校は、先住民の子どもたちが生きるためではなく、死ぬために準備されるのが普通だったのです。


"人混み状態で、風通しの悪いオールドサンのアルバータ寄宿舎の感染の場の状況"  

写真はカナダ聖公会の教会会議総会アーカイブス(General Synod Archives)から。


やがて誰かが「ブライス報告書」と呼ばれるものをマスコミにリークし、こんな見出しが付けられました。「学校は白人のペストを助ける――インディアンの驚くべき死亡者数が明らかになった――健康の最低必需品に対する絶対的な不注意」。

しかし、ほとんどのカナダ人は、そのことを知らず、気にかけず、理解もしませんでした。

ブライスは最終的に、カナダのペスト学校に対する劇的な処方箋を勧めました。それは、監督下での医療ケア(看護師と医師)、栄養状態の改善、換気の改善です。(結核は新型コロナウイルス感染症と同じで、空気感染します)

ブライスはまた、学校を先住民のコミュニティーの近くに移転させるべきだと考えました。そして、政府が学校を買い取り、先住民の子どもたちが死なずにすむような療養の場にすることを勧告しました。

ブライスは植民地支配に反対していたわけではありません。ただ、歴史家のアダム・J・グリーンが言うように、「ブライスのアボリジニ政策の目標は、強制的な絶滅ではなく、同化だったことは確かだった」のです。

しかし、政府も教会もブライスの勧告に心を動かされませんでした。彼らは躊躇し、ぐずぐずして、経済コストを計算したのです。

次に、政府は「子どもたちの利益に注意を払っていないという悪評を払拭するために」最低限のことを行いました。食事や換気に関するいくつかの基準を設け、結核の生徒を登校禁止にし、学校への補助金を少しばかり増やしました。しかし、それでも子どもたちは死に続けました。

節約家のインディアン問題省トップのダンカン・キャンベル・スコットは、寄宿学校から墓標のない墓に入る先住民の子どもたちが続くという恥ずべきことが、なぜこれほどまでに人の心を動揺させるのかが分かりませんでした。

「この特殊な事情を考慮すれば、省は、インディアンのために期待されるだけのことはしています。これ以上のことをするためには、必然的に非常に大きな支出を伴いますから、今のところ、私はそれを勧告することはできません」。

ブライスは戦い続け、さらに統計を取り続けました。1909年、ブライスは、アルバータ州の状況がさらに悪化しているのを発見しました。ある学校では、28%以上の子どもたちが命を落としており、ほとんどが結核のためでした。サスカチュワン州の別の調査では、クアペル(Qu'apple)地区の93%の子どもたちが結核に感染していました。

先住民の結核「死亡率」が「カナダの平均的なコミュニティーより」2~3倍高いことを、なぜ政府が容認するのか、ブライスには、その道徳上の理由が分かりませんでした。

しかし、政府は意に介しませんでした。1914年までに、インディアン問題省はブライスの統計に飽き飽きし、この主任医官を、あからさまに脇に追いやりました。

当時、インディアン問題省のトップだったスコットは、ブライスに、結核と寄宿学校に関する彼の年次医療報告書はもう必要ないと告げました。報告書は、コストがかかりすぎており、政府には、その情報を使って本当に何かをする計画はなかったのです。

ですから、カナダ政府は、今日まで続く回避と否定を求める本能を見せて、もうそれ以上、ブライスにインディアン問題省に関する仕事を依頼することはありませんでした。

しかし、ブライスは意志を貫き通しました。ブライスは、政府が出版を拒否した1918年の小冊子の中で、先住民の人口を、全国の出生率から考えて、1904年から1917年の間に2万人増加するはずだったと推定しています。しかし、この間、先住民の人口は1600人減少しました。その主な原因は、結核などの治療可能な病気でした。

ブライスの良心に憤慨した政府は、この衛生医官にこれ以上、先住民の死亡率の統計を提供することを拒否しました。政府がそれを記録しない限り、問題は存在しないのです。

1921年、連邦政府は、ブライスが15年間、医療衛生主任医官を務めた後、連邦政府の仕事から引退せざるを得なくなる法律を制定しました。

しかし、この医師の心が黙ったままでいることはありませんでした。翌年、彼は「国家的犯罪の物語:カナダのインディアンのための正義の訴え」を出版し、それは1冊35セントで販売されました。この本は、ブライスが15年間目撃してきた進行中の(先住民に対する)ネグレクト、自己満足、無策という実態を、人物の名前を挙げて記録しました。

ブライスを最も悩ませたのは、政府が行動することを拒否したことでした。問題を認めないのは言うまでもありません。彼の最初の報告から15年たっても、結核は1907年に記録されたのと同じ驚くべき割合で、寄宿舎学校の子どもたちを殺していたのです。

ブライスは、政府の結核対策には暗黙の人種差別があると非難しました。これは、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに対する現在の政府の不公平な対応と、多くの点で異様なほど似ています。

10万5千人の先住民の結核対策と治療には1万ドルしか出せないのに、オタワの10万人の白人入植者の結核患者の入院の対応には3万3千ドル以上出すという政府のどこに正義があるのか、とブライスは問いかけました。

ハミルトン市は1904年から1917年の間に結核を75%も減らすことができたのに、アルバータ州の「ブラックフット族のような素晴らしい戦士の一族」を結核で死なせないために、どうして何もしなかったのでしょうか。

ブライスは、こう結論付けました。「権力欲」が繰り返し、オタワの「インディアンの命を救うといった高尚な考え」を上回ったのだ、と。

しかし、この本が出版された後も、ほとんど変化はありませんでした。先住民の健康管理は、何十年たっても政府の優先事項とはなりませんでした。

1945年まで、鉱山資源大臣は、まるで結核が変質した鉱物であるかのように、先住民の健康に公式な責任を負い続けました。

この医師は1934年、カリブ海への旅行中に死亡しました。

昨年、先住民の子どもたちの勇気ある擁護者であるシンディ・ブラックストックが、カナダ医師会誌に寄せた記事で、ブライスを「寄宿学校に関する内部告発者」と述べています。

寄宿学校の遺産とその生存者についての調査が始まったのは、10年前です。

2015年、真実和解委員会は、国内の寄宿学校で3千人以上の死亡が確認されたことを報告しました。
政府や教会関係者は、死者の32%の名前を記録していませんでした。
半数のケースで、政府は死因を明らかすることもしませんでした。
4分の1のケースでは、性別が報告されませんでした。

ほとんどの死者が、埋葬のために故郷に送られることはありませんでした。そこで、カムループスの墓標のない墓に話を戻しましょう。

今、読者の皆さんは、ピーター・ヘンダーソン・ブライス医師のことを知らないとは言えません。

また今、皆さんは、彼だったら、先週の発見にショックを受けたり、驚いたりしなかったであろう理由も理解できるでしょう。

彼は、私たちが耳をそばだてて聞きたいと思う以前に、ある国家的犯罪の物語を語っていたのです。


【参考情報】カナダでの教皇フランシスコの贖罪:謝罪に隠された真実

2022年09月07日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】カナダでの教皇フランシスコの贖罪:謝罪に隠された真実

Pope Francis' Atonement in Canada: The Truth Behind the Mea Culpa


PHOTO: SHUTTERSTOCK

先週、教皇フランシスコはカナダに使徒的巡礼を行い、カナダの先住民寄宿学校についての「悲惨な」政策にカトリック教会が協力したことを謝罪しました。

マリオ・アレクシス・ポルテラ

―2022年8月2日

先週、教皇フランシスコはカナダに使徒的巡礼を行い、カナダの先住民寄宿学校についての「悲惨な」政策にカトリック教会が協力したことを謝罪し、先住民のキリスト教社会への強制的な同化が先住民の文化を破壊し、家族を分断させ、数世代を社会から疎外させた、と述べました。組織としての教会による「大虐殺」行為とされてきたことについて、フランシスコは次のように述べました。

「大変申し訳なく思っています…。多くのキリスト教徒が先住民に対して犯した悪について、謙虚に赦しを乞い求めます」。

悪い振る舞いをする教会員が残虐行為を行ったという歴史的事実を、誰も否定することはできません。しかし、カトリックの宣教師や教会員によって行われた、特にオブレート会と聖アンナ姉妹会が運営するカムループスの学校で行われた大量虐殺という申し立ては、「文化的」であれ「肉体的」であれ、事実無根だとは言えないとしても、せいぜい仮説に過ぎません。

事実

2021年5月、若手人類学者サラ・ボリューは、元のカムループス寄宿学校付近の土地を地中レーダーで分析した後、予備調査結果に基づき、集団墓地が存在するという仮説を打ち立てました。

ボリューのいわゆる調査結果は、すぐに主要メディアに取り上げられ、ジャスティン・トルドー首相もこれを支持しました。何百人もの子どもたちが「殺され」、「集団墓地」に「密かに埋められた」(合計200体とも言われています)というような物語(ナラティブ)が、すぐさま続きました。

しかし、実際の問題として、集団墓地は発見されていません。事実、2022年1月11日、モントリオール大学歴史学部のジャック・ルイヤール名誉教授は、カナダのポータルサイト「ドーチェスター・レビュー」に「カムループスの学校では、集団墓地、密葬、その他の形の不規則な埋葬とされる子どもの遺体は、まったく発見されていない」と述べている広範囲にわたる記事を掲載しました。校舎の裏手には簡単な墓地があるだけで、そこには学校の生徒だけでなく、地元のコミュニティーの人々や宣教師たち自身も埋葬されていました。同じルイヤールは、2022年4月1日、インタビューの中で、カナダ先住民の文化的・肉体的な大量虐殺という考えをはねつけ、改めて寄宿学校における集団墓地の存在を否定しました。

2022年3月1日に「ドーチェスター・レビュー」に掲載された「寄宿学校についての誤った物語」(The False Narrative of the Residential Schools Burials)と題する最近の論文で、トム・フラナガン教授とブライアン・ゲスブレヒト判事は、113年にわたるカトリック系寄宿学校の歴史において、たった一人でも生徒が殺されたという痕跡はない、と結論付けています。実際、「真実和解委員会」(Commission de vérité et reconciliation, CVR)によると、寄宿学校に通っていた若者の死亡率は、1000人の若者に対して年間平均4人程度で、主な原因は結核とインフルエンザでした。CVRのマリー・ウィルソン・コミッショナーの主張にもかかわらず、先住民の親が、自分の子どもが寄宿学校に行って「二度と会うことがなかった」と主張した記録はありません。

「文化的大虐殺」という非難については、1857年に「漸進的文明化法」(Gradual Civilization Act)を可決したカナダ議会が、実際に強制的な同化を要求していました。政府は、主にカトリック教会に、一部はカナダ聖公会にも(最大30%)、若者たちを国の文化に統合する任務を委ねたのです。

19世紀から1970年代まで、カナダにいる15万人以上の先住民の子どもたちが家から連れ去られ、家族や文化の影響から隔離しようとして学校に入れられたというのが、カトリック教会に向けられた告発です。2008年6月、カナダ政府は先住民に公式に謝罪し、インディアン寄宿学校の調査をするために前述のCVRを設立しました。

委員会の研究者たちは、7100万ドルを受け取り、また7年間活動したという事実にもかかわらず、19世紀末に寄宿学校の運営を始めた修道会「聖母献身宣教会」(オブレート会)のアーカイブを参照する時間を見つけませでした。また、歴史家のアンリ・グーレは、「ケベック州におけるカトリック系寄宿学校の歴史」(Histoire des pensionnats indiens catholiques au Québec)の中で、先住民を元々いた場所から立ち退かせて統合させることを主張した英国の政府と教会とは違って、オブレート会が、カナダの先住民の伝統的な言語と生活様式を守る唯一の存在であったことを明らかにしました。この歴史学的な説明は、カナダ宗教史の国際的な第一人者であるジェノバ大学のルカ・コディニョーラ=ボー教授の研究で裏付けられています。

教皇は、学校制度は同化と市民権付与政策の一環として、「当時の政府当局によって推進された」と指摘しました。しかし、批判に答えて教皇は、その政策の実施に地元のカトリックの団体が「一端を担っていた」と付け加えました。正確には、どの程度なのでしょうか。この疑問には、控えめに言っても、相反する答えがあるように思われます。

カトリック宣教師たちの役割

カナダ訪問の最終日の前日、教皇がカナダの国立聖堂でミサを捧げたとき、先住民の活動家が「RESCIND THE DOCTRINE」(教えを廃止せよ)と書かれた横断幕を広げました。彼らが要求したのは、フランシスコが「植民地主義を正当化する15世紀の教皇勅令」を廃止することでした。デモ参加者は、教皇教書「インテル・チェテラ」(Inter cetera、1493年)のことを言っていたのであり、これはむしろポルトガルとスペインが互いにあからさまな対決に陥らないようにするための譲歩でした――教皇の承認がなくても両国は対決したでしょう。しかし、植民地主義が、第二次世界大戦後まですべての欧州列強によって行われていたことは覚えておく必要があります。

しかしながら、カトリックの宣教師がカナダにいたのは、イエズス・キリストの命令に従ったからです。「だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)。これは植民地主義ではなく福音宣教です。当然のことながら、多くの絶対君主たちは、嫌がる人々を征服して奴隷にするために宗教を利用しました。

フランシスコは一方で、「真の福音宣教者として、世界各地で先住民の言語と文化を保護した、これらの宣教師たち」を称賛しました。その中には、先住民の言語による最初の文法書を作ったことも含まれています。教皇フランシスコは説教の中で、この街の初代司教である聖フランソワ・ド・ラヴァルを称賛しました。ラヴァルは17世紀後半、この地域の先住民の間で商売をしていた酒類商を破門にしたのです。また教皇は、ラヴァルの他の文化に対する融和的なアプローチは、世俗主義という課題に取り組む今日の教会の模範となるべきである、とも述べました。

言及はされませんでしたが、信仰のために先住民に残酷に殺されたカトリックの殉教者もいました。イエズス会司祭の中で、名前を挙げるとすれば、ジャン・ド・ブレブフ神父(1593-1649年)がいます。彼は、1633年にケベックのイロコイ族ミッションに仲間の司祭2人とともに戻ってきました。彼らは小屋から小屋へと、子どもや大人にカテキズムを教えました。しかし、魔術師たちが、神父たちの存在が干ばつや疫病などあらゆる災いを引き起こすとイロコイ族に信じ込ませました。そこでイエズス会士たちは、求道者たちをキリスト教の村に隔離して保護することにしました。最初の村は、ケベックから4マイル離れた場所に作られました。そこには砦、チャペル、家屋、病院、そして神父たちの住居がありました。

当時、イロコイ族は、どうにもならないほど敵対的でした。彼らは、イサク・ジョーグ神父(1607-1646年)とその助任司祭ルネ・グーピル(1608-1642年)に、熱い炭火を浴びせて手足を切断させたのです。1649年3月、イロコイ族は、ド・ブレブフ神父とガブリエル・ラレマン神父(1610-1649年)を殉教させました。ド・ブレブフ神父は、イロコイ族に赤熱した棒で刺され、肉片を剥ぎ取られ、イロコイ族はその肉片を神父たちの目の前で焼いて食べました。この殉教者が天主を讃美し続けると、イロコイ族は彼の唇と舌を切り落とし、燃え残りを喉に流し込みました。ラレマン神父は頭を砕かれ、その後心臓を引き裂かれました。このイエズス会の宣教師たちは、「カナダの殉教者」または「北米の殉教者」として知られ、1930年に教皇ピオ十一世によって列聖されました。

また、モホーク族の父とキリスト教化されたアルゴンキン族の母の娘である聖カテリ・テカクウィタのように、自ら進んでカトリックになることを選んだ先住民たちもいます。彼女は、カトリック教会によって聖人と認められた最初のネイティブ・アメリカンとなりました。彼女は、故郷の村で嫌がらせを受け、石を投げられ、拷問をすると脅された後、200マイル(320キロ)離れたモントリオール近郊のソー・サンルイにある聖フランシスコ・ザビエル・キリスト教インディアン・ミッションに逃げ込みました。そこで彼女は、その優しさ、祈り、信仰、そして英雄的な苦しみが認められ、「モホークのユリ」として知られるようになりました。

両陣営の主張には、まだまだ多くのことがあります。しかし、ルイヤール教授はこう言います。

「果樹園にある集団墓地とされる場所の予備調査が、渦巻く主張となり、それがカナダ政府に支持され、また世界中のメディアに取り上げらるに至るとは、信じがたいことです。歴史とアボリジニの口伝史の対立ではありません。後者と常識の対立です。聖母献身宣教会(オブレート会)と聖アンナ姉妹会に対する非難が歴史に刻まれる以前に、具体的な証拠が必要です。発掘調査はまだ始まっておらず、遺骨も見つかっていません。犯罪委員会には検証可能な証拠が必要であり、特に被告人がずっと前に亡くなっている場合はなおさらです」。

マリオ・アレクシス・ポルテラ。フィレンツェ大司教区尚書係。ローマの教皇庁立ラテラン大学で教会法と民法の博士号を取得。フォーダム大学で中世史の修士号、セント・ジョンズ大学で政治・行政学の学士号も取得している。


2022年9月7日は、9月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2022年09月07日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年9月7日は、9月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


悪の中からでも善を引き出すことによって、天主は知恵の崇高さと偉大さと全能をあらわされる。

2022年09月06日 | お説教・霊的講話

2022年7月30日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母は聖霊の恵みの充満に受けた方です。マリア様は、天主の全能と、天主の知恵の深さというものをよくご理解していました。

主の知恵が一番深く表れるところは、悪からでさえも大きな善を引き出すことができることです。

「全くこれで負けてしまった、これでもう万事休すだ、もうこれで悪が支配した」というそのような中でも、そこから、悪にまさる、更に更に勝る、もっと大きな善を引き出すことができるというところにあります。

ここに、主の知恵の崇高さと、偉大さと、そして全能が表れます。一見、主が負けてしまったかのように見えたその瞬間、実はそれが大勝利の兆しである、それが主の最も深い知恵です。

十字架の上での、天主の御子の御死去、全く罪のない聖なる天主の御子が、極悪人であるかのように処刑されてしまったこと、命が死を迎えたこと、これはあたかも天主が負けたかのように見えましたが、実はこれが勝利の元でした。

マリア様が、罪がない、汚れのない御方であったにもかかわらず、これほど苦しまれた、それも、マリア様の栄光を与える理由になりました。

今、この現代の世界では、悪が満ち溢れているかのように思います。

天主が創造した、「男と女に創った」と、あれほどまでに繰り返されている創造の御業が、破壊されようとしているかのように思われます。マスコミやテレビや、映画で、男も女もなくて、男と女に限らないかのように、宣伝がされています。

あるいは、天主が立てた婚姻という制度、男性一人と女性一人が結ばれて一体となる、ということも、全く無視するかのように。

あるいは、この現実の大自然の秩序を破壊するかのような科学技術の勝ち誇りがあります。

お金で全てを解決して、お金持ちが自分の思い通りに世界を支配したいと考えている、国家を超えて、国家を、一部の金持ちの株式会社が世界を支配したいと思っている、今、そのような計画があると聞きます。

その為に私たちは、これから苦しみの時代を通らなければならないかもしれません。それが予告されています。さらなるパンデミックとか、あるいは食糧危機とか、エネルギー危機とか、あるいはその他戦争とか、飢饉とかです。ファチマの聖母もそれについて予告されました。

しかし、愛する兄弟姉妹の皆様、私たちはそれらの悪が満ち溢れるところに、主の知恵と、全能と、憐みが、更にもっと多く溢れるということを深く信頼致しましょう。

もしも私たちにそのような十字架が送られるとしたら、それには深い意味が必ずあります。そのような中から、それをはるかに超える善を、天主は引き出すことができる方であるからです。

私たちは、過去の救いの歴史において、それをよく知っています。悪が増えれば増えるほど、イエズス・キリストの大勝利が近付いている、ということのしるしでもあります。

マリア様に、上智の座であるマリア様にお祈り致しましょう。私たちがマスコミやあるいはその他の情報にそそのかされて不安になったり、あるいは恐怖を覚えたりすることがないようにしましょう。

いつも喜びと平和を保つことができますように、主の深い勝利を信頼することができますように、憐みと上智に満ちた主が、私たちをいつも守って下さる、ということを私たちがいつも確信することができますように、マリア様の御取り次ぎ乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「マルタ、マルタ、多くのことにお前は心配しているけれども、必要なことはたった一つだ。」

2022年09月06日 | お説教・霊的講話

2022年7月29日(金)童貞聖マルタのミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は聖マルタの祝日です。典礼はちょうど、マグダラのマリアの祝日の八日目、オクターブに祝日を置きました。教会の精神によると、聖マグダラのマリアと聖マルタはいつも離れることなく近くにいます。

死者のミサの時でも、福音ではマルタとイエズス様の話がでますし、そして続誦では、マグダラのマリアのことが言及されます。

聖マルタは、ラザロとそして聖マグダレナ・マリアの姉妹でした。同じ家の非常に裕福な家庭に生まれました。最もこの家族を裕福にしたのは、イエズス様を特別にお愛しした、イエズス様を自分の家に迎えて、そしてイエズス様の為に奉仕した、という特別な恵みを受けた家庭でした。

その為に、イエズス様はこの家族から恵みを受けたかのように見えますが、しかし却ってこの家族は、イエズス様からの特別の溢れるばかりの恵みを受けました。

エルサレムがローマによって攻撃を受けて崩壊したのが西暦70年ですが、その前後に、エルサレムの人たちはエルサレムから逃げて、安全な場所に行きました。聖マルタも、聖ラザロも、聖マグダレナ・マリアも同じでした。彼らは船に乗って、裕福な家族でしたので、召使いやしもべたちもたくさんいました。それらは皆船に乗って、帆もなく櫂もないような状態で、そして海に流されてマルセイユに到着しました。マルセイユで、イエズス・キリストに対する信仰を伝えた、と私たちに伝えられています。

聖ラザロは司教になりました。そして一緒に働いていたしもべであった、マクシミリアノという男もしもべも、司教になりました。聖マグダラのマリアは、サント・ボームという所の洞窟で祈りの生活をして、そして聖マルタは、マルセイユで多くの人々に奉仕をして、愛徳で非常に有名であった。そしてタラスコン(Tarascon)という所で亡くなって、今でも墓がある、と伝えられています。

一体私たちに、聖マルタは何を教えているのでしょうか?

今日の福音では、イエズス様の為に色々奉仕して、色々神経を使って、愛徳の業に奉仕した聖マルタが、イエズス様に少しお願い事をします。

妹のマリアはイエズス様のすぐ御傍に座って、イエズス様の御話ばかり聞いて、イエズス様の方をうっとりと見ているばかりで、何も自分の手伝いをしてくれない、少しは私の手伝いをするよう、不平じみたお願いをします。

するとイエズス様はマルタに答えて、「マルタ、マルタ、多くのことにお前は心配しているけれども、必要なことはたった一つだ。イエズス・キリストの真理を知り、そしてそれを黙想することだ。イエズス・キリストの近くに居て、愛することだ。そしてマリアは、その一番良いところを取った。」

私たちにも、聖マルタを通してイエズス様はこう言っています。「私たちにとって、確かに多くの仕事や、務めや、義務や、日常の生活があるけれども、イエズス・キリストの為に愛徳の為に行なうべき義務もあるけれども、しかし、祈りの生活を忘れてはいけない。祈りは、決して時間の無駄ではない。イエズス・キリストの近くに居て、イエズス・キリストと話をすることこそ、最も価値があって、最も大切なことである。」

そしてもちろんマルタは、その価値を認識して、それをしたに違いありません。

私たちも、聖マルタの御取次ぎで、祈りの生活の大切さをますます理解することができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カルロ・マリア・ヴィガノ大司教、兄弟である司教たちへ:使徒の後継者、キリストの役務者、天主の奥義の管理者である司教たちよ、皆さんを裏切りの共犯者にしている無気力さから目を覚ましてください。

2022年09月04日 | カトリック・ニュースなど

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教、兄弟である司教たちへ

愛する兄弟の皆さん、使徒の後継者、キリストの役務者、天主の奥義の管理者(コリント前書4章1節)である皆さんにご自分の責任をお考えになるように勧告します。自分の役割と権威を乱用して誤謬をまき散らし、天主の御稜威を侮辱し、聖なる教会を辱め、霊魂たちを失わせている者たちがいますが、皆さんが彼らの教理的・道徳的逸脱を支持することから生じる責任について考えるようにお勧めします。私はキリストの傷を通して皆さんにお勧めします。皆さんを裏切りの共犯者にしている無気力さから目を覚ましてください。

2022年9月3日(金)

CARLO MARIA VIGANÒ to His Brother Bishops

カルロ・マリア・ヴィガノ

大司教、教皇大使
司教職にある兄弟の皆さんへ

栄光ある殉教者において、聖なる教会は、私たちに倣うべき英雄的な聖徳の模範を示し、天主の恩寵が、苦悩と死を前にしても、天主を愛する者をどれほど援助するかを教えてくれます。そして、邪悪な者たちが殉教者たちの不滅の霊魂を苦しめるために、その肉体に対してむなしく怒り狂う一方で、聖人たちは、ご托身の真理が誤謬にまさること、いけにえの愛徳がこの世の誘惑にまさること証しすることによって、まさにキリストとともに勝利するのです。殉教者の持つシュロの枝は、十字架の木から樹液を吸い、殉教者の冠は、私たち主の贖いの犠牲の光で輝くのです。

Πρόδρομος(プロドロモス)つまり先駆者である洗者聖ヨハネの模範を考えてみましょう。彼は天主なる師に先立ち、天主の到来と罪の赦しのための洗礼を告知しただけでなく、ガリラヤ分国の王、ヘロデ・アンティパスの手で死を前にしました。ヘロデ・アンティパスに対して、自分の兄弟の妻ヘロディアデと公然と姦淫してイスラエルの民につまずきを与えたことを、ヨハネが戒めたからです。これらの出来事は歴史家によって記録されており、継父に洗者の首を要求したサロメの役割とともに、福音書で述べられています。聖アンブロジオは、こうコメントしています。

adulteris justus occiditur, et a reis in judicem capitalis sceleris pœna convertitur.
姦淫者によって義人が殺され、死刑の宣告が、有罪とされた者によって、その裁判官に対してなされる。
Clauduntur lumina non tam mortis necessitate quam horrore luxuriæ:
洗者の目が光に閉じられたのは、死の必要というよりも、むしろ情欲をおそれてであった。
Os aureum illud exsangue, cujus sententiam ferre non poteras, conticescit, et adhuc timetur:

今は血の気もなく彼の黄金の口は -- この口の発する宣告に、ヘロデ、おまえは耐えられなかった -- 、もやは沈黙している、それでもおまえは恐れている。

親愛なる兄弟の皆さん、姦淫の合法化を前にして、どうして皆さんの声が沈黙していることができるのでしょうか。この世の精神に屈し、権力者に卑屈な態度を示し、その行為によって天主の掟を侵害し、教会の法を軽んじ、信者につまずきを与える者たちを、ご聖体の食卓に来るのを認めるところまで行く者たちの共犯者になることを選ぶのですか。結婚の神聖さと洗者聖ヨハネの証しが足元で踏みにじられるのを、いつまで許すのですか。聖アンブロジオの言葉をいつまで無視するのですか。今日、彼の司教座に座している後継者は、新しいヘロデの客に受け入れられるように、姦淫者に好意を見せているのです。(こちらこちら

先駆者は、ヘロデに対して声を上げることを恐れませんでした。義人が天主のみ旨に委ねるその穏やかな委託の心をもって、洗者は死を前に受け入れました。

「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)の誤謬と欺瞞が、先駆者以上にサロメによってかきたてられているとしても、「アモーリス・レティチア」の作者が、皆さんのキリストへの忠実さを理由に最悪でも皆さんを司教座から追い出すことができるとしても、皆さんは御言葉を宣教し、よい折があろうとなかろうと繰り返し論じ、反駁し、とがめ、すべての知識と寛容をもって勧める(ティモテオ後書4章2節)のを、恐れるのですか。そして、たとえ皆さんが宮廷に引き出されたとしても、この世の命を救って永遠の命を失うために、キリスト、十字架につけられたキリスト(コリント前書2章2節)を宣べ伝えるのを放棄することに同意するのでしょうか。

愛する兄弟の皆さん、使徒の後継者、キリストの役務者、天主の奥義の管理者(コリント前書4章1節)である皆さんにご自分の責任をお考えになるように勧告します。自分の役割と権威を乱用して誤謬をまき散らし、天主の御稜威を侮辱し、聖なる教会を辱め、霊魂たちを失わせている者たちがいますが、皆さんが彼らの教理的・道徳的逸脱を支持することから生じる責任について考えるようにお勧めします。

私はキリストの傷を通して皆さんにお勧めします。皆さんを裏切りの共犯者にしている無気力さから目を覚ましてください。その裏切りのために、皆さんは、死を迎える日に公正な裁判官に対して説明しなければならなくなります。皆さんの沈黙が、最高の牧者であるキリストから皆さんに委ねられた霊魂たちを、天国の栄光から遠ざけていることを考えてください。ローマに座している者でさえ、いつか答えることになります。贖い主のご受難を無駄にしないでください。主がいと尊き御血を流されたのは、罪の中にある罪人を追認するためではなく、悔い改めた罪人を救うためなのですから。

主は皆さんに、主の群れの導き手となり、皆さんの司牧の杖(司教杖)を使って羊を天国の牧草地へと導くよう求めておられます。皆さんの運命は、彼らを地獄の炎へと先立たせることではなく、彼らが創造され、贖われた永遠の栄光に向けて、愛徳をもって彼らと同行することです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年8月29日
洗者聖ヨハネの斬首の祝日


カトリック聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年09月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日から東京では、主日のミサが二回になりました。今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計100人でした。東京では、今日のミサを最後に日本を離れる方もいらっしゃれば、今日、新しい方々がミサに与るお恵みを得られた方もおられました。また、今週の9月8日には成人の洗礼式が予定されています。新しい天主の子供となる方のために愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

大阪では20人がミサに与りました。大阪では明日の朝も6時半からミサがあります。
聖ピオ十世、われらのために祈り給え!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 100 including children.

09:00 mass
M: 22 (incl. 5 children)
F: 27 (incl. 5 children)
Total: 49 (incl. 10 children)

11:30 mass
M: 28 (incl. 4 children)
F: 27 (incl. 5 children)
Total: 55 (incl. 9 children)

Total of 2 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 9 children)
F: 53 (incl. 10 children)
Total: 100 (incl. 19 children)


もしも聖ピオ十世教皇が今の21世紀の現代世界を見たら何とおっしゃるでしょうか?聖ピオ十世教皇が指摘した 「人類社会が苦しんでいる 深く深刻な病」とは?

2022年09月03日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年9月4日は聖霊降臨後第13主日です。東京では聖ピオ十世教皇の荘厳祭です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第13主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 

 


総長の友人と恩人の皆様への手紙(91):殉教の覚悟をした霊魂の愛だけが利己主義や不純の帝国に勝利することができる

2022年09月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

総長の友人と恩人の皆様への手紙 第91号

「もし天主が、かつてないほど、この全世界的な悪、この新しい異教の帝国をお許しになるとすれば、それには、世界中にキリスト教のヒロイズムを呼び起こすという目的があるのは確実です」

Letter of the Superior General to Friends and Benefactors

"IF GOD ALLOWS, AS NEVER BEFORE, THIS UNIVERSALITY OF EVIL, THIS NEW PAGAN EMPIRE, IT IS CERTAINLY WITH THE AIM OF AROUSING CHRISTIAN HEROISM THROUGHOUT THE WORLD."

親愛なる信者、友人、恩人の皆様、

世界が突然、別のものとして目覚めるような印象を受けることは、歴史上、よくあることです。例えば、キリスト教の古代においては、聖ヒエロニモの有名な表現を使えば、あるとき世界は「目覚めるとアリウス派となっており呆然と」しました。同じように16世紀には、欧州の三分の一は目覚めるとプロテスタントになっていました。実際には、これらの現象は一夜にして起こったわけではなく、徐々に準備されていったものです。それにもかかわらず、その時代の人々は、これらの大惨事を準備したさまざまな出来事の重大さを把握せず、その結果にも気づかなかったため、それらの現象は、驚くべきものとして現れました。この意味で、すべての民族が目覚めると、アリウス派やプロテスタントになってしまっており、それに気づいた時には、もう遅すぎたのです。

残念ながら、私たちは今、同じような状況に置かれています。私たちの周りでは、私たちに衝撃を与える物事やコメント、取り組みが見られます。しかし、私たちには、その全貌を把握できていない恐れがあります。多くの場合、これらの要素は、他人には影響を与えるけれども自分たちには決して影響を与えないものとして認識されています。私たちは、それらの要素を知っており、嫌っていますが、しかし、なぜか日常生活ではそれを無視しています。このことは、これらの現実が、自分自身、特に子どもたちに及ぼす影響や危険性を把握するために、私たちの目が、必ずしも十分に開かれてはいない、ということを意味します。これについてはっきりと述べなければなりません。つまり、世界は、どこもかしこもソドムとゴモラになりつつあります。この変容は全世界的なものですから、私たちは他の場所に移っても、それから逃れることはできないでしょう。私たちは冷静でいなければなりません。しかし、自分の使うことができるあらゆる手段を講じて、今から準備しておかなければなりません。それは、私たちが目覚めるときに驚かないようにするためです。

全世界的なソドムとゴモラ

不吉な預言者として登場するのは常に困難なことですが、時にはそれを避けることができないこともあります。世界では日々、悪魔的な文化がますます根付きつつあります。背教と無神論によって天主を拒絶した現代人は、必然的に天主に取って代わろうと欲します。ですから、その結果は悪魔的なものです。何が善で何が悪かを決定するのは人間です。生きるか死ぬか、こうあるべきかそうあるべきか、命を与えるか命を抑圧するか、といったことを選ぶ権利を主張するのも人間です。要するに、天主がお決めになるはずだったことをすべて、しかも全世界的な規模で人間が決める、ということです。

しかし、最悪なのは、これらの忌まわしい原則に、無垢な者たちを引き入れようとする明白な意志があることです。子どもや若者には特に注意が向けられており、幼い頃からこの新しい現実の見方に彼らを引き入れ、彼らを堕落させ、大人だけが知るはずのこと、また、まだ人間らしく健全な社会では、大人であっても知るべきではないことを、彼らに教えることを目的としています。道徳的に言えば、本来あるべき無垢なところを破壊しようという現実の意志が存在するのです。私たちは、この段階に来ています。問題は、この世に侵入し、自らの行く手にあるすべてのものを汚染する罪にとどまらず、このすべてが承認され、押し付けられているという事実です。このことは、人間に見捨てられた天主が、今度は人間を、そのやりたいがままへと見捨て給うた、というしるしです。

天主を拒絶した結果

新しいソドムでは、信仰と愛が、嘘と利己主義に決定的に道を譲った。

聖パウロはすでに、背教の最終的な結末を、はっきりとした言葉で詳しく述べています。「彼らは天主を知りながら、これを天主として崇めず感謝しなかったからである。彼らは愚かな思いにふけり、その無知の心はくらんだ。(中略)そこで天主は、彼らをその心の欲に任せ、互いにその身をはずかしめる淫乱に渡された。彼らは天主の真理を偽りに変え、創造主の代わりに被造物を拝み、それを尊んだ。(中略)このため天主は彼らを恥ずべき欲に打ち負かされた。(中略)彼らは深く天主を知ろうとしなかったので、天主は彼らのよこしまな心のままに、不当なことを行うに任せられた。彼らはあらゆる不義、悪心、私通、貪欲、不正に満ち、嫉妬、殺人、争闘、詐欺、狡猾に富み、讒言する者、誹謗する者、天主を恨む者、侮辱する者、暴慢なる者、自負する者、悪事の発明者、父母に従わない者、愚者、背徳者にして、愛情なく、忠実なく、慈悲なき人々である。これらを行う者は死に値するという天主の定めを知りながら、彼らはそれを行うばかりでなく、それを行う人々に賛成する」(ローマ1章21節以降)

教会聖職者らの弱さ

このような状況に直面して、公会議から生まれ出た教会は、自らが袋小路に陥っていることに気づきます。これは、真理を説くことに取って代わって、対話することを始めた日から、必然的なことでした。この世に自分を合わせ、この世をありのままに受け入れようとし、この世の異常さを非難せず、もうそれ以上この世に立ち向かおうとしない意志、この意志が、究極的な実を結んでいるところです。すでに教会のかなりの部分が、先ほど記した忌まわしい行為を受け入れることを公然と主張しています。教会の残りの部分は、もはや彼らに反対する方法を知らないかのように見えます。要するに、すべてが、新しいソドムとゴモラの準備をしているのです。

適切な救済策の必要性

可能な解決策の第一の条件は、私たちの目を開いて、この新しいパラダイム【物の見方・考え方】が私たち全員に影響を及ぼすことを理解することです。ですから、支配的な文化の中では、言語、ファッション、芸術、ショー、街角など、いたるところにこのパラダイムが存在します。それは、私たちが絶え間なく受け取るメッセージの中にあるのです。なぜなら、それは私たちの時代のプリズムであり、これを通して、あらゆるものがフィルターにかけられて提示されるからです。私たちは、次のことをもっと認識しなければなりません。私たちが呼吸する空気は汚染されており、私たちが生活し、消費することをますます強いられているインターネットは汚染されていて、最も離れた場所にまでも疫病を運んでいます。これらすべてが私たちに影響を及ぼすのは避けられません。そしてまた、この恐ろしい汚染に対して最も脆弱なのは、私たち自身の家族をはじめとする、子どもたちや若者たちです。

キリスト教のヒロイズム:その二つの本質的な特徴

しかし、いったん私たちが目を開けば、次はどうなるのでしょうか。もし天主が、かつてないほど、この全世界的な悪、この新しい異教の帝国をお許しになるとすれば、それには、世界中にキリスト教のヒロイズム【英雄的行為、またそれを讃美する心情】を呼び起こすという目的があるのは確実です。私たちは、この帝国の外では生きていけませんが、その中で潰されることなく生きることができます。私たち自身が自らを「区別」する限りにおいて、つまり私たちが(霊的に帝国から)離れている限りにおいて、私たちは帝国で生き延びることができます。

このヒロイズムは、キリスト教徒がすでに異教の帝国で証明してきたものであり、二つの特徴を持っている。

第一に、このヒロイズムは、闇の中で始まり、栄養を受け、発展します。成長するためには、離れていることが必要です。天主への愛と、罪を最も激しく忌み嫌う中で成長するためには、祈りが必要です。それは一日ではできません。このヒロイズムの表現物である偉大な外的行為は、常に、長年にわたる隠された不変性と絶え間なく続く忍耐の結果でした。十字架のヒロイズムは、まぐさ桶やナザレトの家が世に知られないことを前提にしています。最終的な忍耐は、日常生活において、最もありふれた行動で、あるヒロイズムをもって、悪から身を守り、罪を避けることができた者にのみ与えられます。そのヒロイズムについては、手綱と心を試される天主のみがご存じであり、報いてくださることでしょう。外的な宣言や行動は、純粋な心や真の内的回心がなければ、私たちを錯覚させ、偽善にさえ陥らせる危険があります。アブラハムはこの純粋な心を持ち、天主に対する不動の心があったため、ソドムが象徴しているあらゆるものから遠ざかっておくことができました。ロトは、自分自身は義人であった(ペトロ後書2章7-8節)にもかかわらず、ソドムに定住し、そこに留まることを選びました。この環境は、何があったとしても、彼を喜ばせましたが、彼の子どもたちは残念ながら、その悪い影響を免れませんでした。

このヒロイズムの第二の特徴は、これも年月をかけて現れなければならないものですが、自己を根本的に与え尽くすことです。これは明白な愛のしるしです。信仰告白は、天主へ自分を与え尽くすという真の寛大さがある場合にのみ効果があります。天主は、私たちをして、天主が愛されるものすべてを愛させるように、天主が忌み嫌われるものはすべて忌み嫌うようにさせるのですから。その愛がなければ、私たちは天主が忌み嫌うように忌み嫌うことはできません。そして、この忌み嫌いがなければ、私たちは、ますます巧妙になり、深く、全世界的になっていくであろう誘惑、ロトの家族が完全には免れることができなかった誘惑に抵抗することができなくなるでしょう。

Credidimus caritati(私たちは天主の愛を信じた):三つの特権的な武器

私たちが新しいソドムに呑み込まれて目覚める前に、今私たちの目を開き、私たちの子どもたちの目を開きましょう。第一に、私たちの模範をもって、私たちの愛、私たちの忌み嫌いを、子どもたちに教えましょう。子どもたちを保護するのを待っていてはいけません。妥協することなく、穏やかで健全な頑固さをもって、この世の精神を広めるのを助けているものをすべて、家庭から排除しましょう。甘い考えを持ったり、弱くなったりしないでください。どんな家庭であっても、誰であっても、自分たちが安全だと思わないでください。腐敗はすでに、私たちが考えるよりはるかに深くなっており、その進行は止めようがありません。

同時に、この戦いは、基本的に超自然的なものであることを忘れないでください。私たちは、純粋に自然による手段で悪魔の欺瞞に立ち向かうのではありません。超自然の手段は主に三つあり、私たちは、それらを絶えず再発見しなければなりません。

第一の手段は、聖なるミサです。私たちの主が、悪魔と罪に勝ち続けておられるのは、ミサを通してでです。私たちは、この手段をそのすべての価値を評価してもしすぎることはできないでしょう。またそれに頼りすぎることもありえません。新しいソドムの真っただ中にあっても、純潔さおよび童貞を生み出す力を時の終わりまで保ち続けるのは、祭壇で捧げられる尊き御血です。ミサは、霊魂のための、私たちの主の愛の最高傑作であり、ミサが、霊魂を自己犠牲の段階にまで強める同じ愛を、霊魂に育むのです。

第二の手段は、聖なるロザリオです。このごく通常の手段を、私たちの家庭で再発見する必要があります。私たちは、ロザリオにおいて、私たちの主と聖母の生涯の偉大な神秘に、これまで以上に没頭する方法を見いださなければなりません。これを通して、私たちの母のお導きにより、私たちは、主と聖母とが自らを天主にお捧げになることにおいて、犠牲の精神において、純潔さにおいて、お二方に倣うことができるようになります。残念ながら、場合によっては、一緒に祈るために必要な時間を確保できないことがあります。ロザリオは、まず第一に、家族の日常的な活動であり続けなければなりません。私たちは、ロザリオを中心に一日を組み立てなければなりません。これが規則となっている家庭では、子どもたちが終わりまで堅忍する恩寵を必ずいただけるでしょう。

第三の手段は、終わりまで堅忍する恵みを得るという現在の状況に最も特化したものであることは確実です。それは、マリアの汚れなき御心です。御摂理において、私たちの主は、ソドムとゴモラの真っただ中で、私たちに避難所を与えようと望まれました。私たちが入らなければならないのは、この避難所です。つまり、私たちは自分の心と聖母の御心の間に、聖母の内的生活を知って称賛し、聖母の願い、喜び、悲しみ、心配を共にするような親密さを築かなければなりません。また、とりわけ、贖いのみわざに進んで協力しようとする聖母のお気持ちを共にしなければなりません。

では、私たちはこの御心に、他の場所では見つけることのできないどんなものを発見することになるのでしょうか。とりわけ、霊魂を無敵なものにする逆らいがたい愛徳を見いだすことでしょう。そこに勝利の秘密があり、そこにそれを見つけなければなりません。霊魂が本当に愛するとき、どんな試練にも立ち向かえる準備ができます。当然あるはずの理解できる恐怖はすべて消え、弱さはすべて消え去り、ヒロイズムが可能になるのです。実際、私たちがこれまでの考察で述べてきたことはすべて、根源的な愛の問題です。真の愛、すなわち、天主が私たちの心に注いでくださる愛徳は、常に勝利します。愛が君臨するとき、愛は他を従わせます。私たちが話している愛は、弱さと同義ではなく、強さと同義です。愛は、何者も抵抗できない武器です。殉教の覚悟をした霊魂の愛だけが、利己主義や不純の帝国に勝利することができるのです。そして、もはやこの世に存在しないものの、私たちのものでなければならないこの愛の模範と源泉を見つけることになるのは、童貞なる聖母の御心においてなのです。Credidimus Caritati.(私たちは天主の愛を信じた)

皆様全員に天主の祝福がありますように。

2022年9月3日、聖ピオ十世の祝日に
メンツィンゲンにて

総長ダヴィデ・パリャラーニ


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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