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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖イグナチオ「夜中に目が覚めたら、自分はこのまま15分の後に、この世を去らなければならない。人生の会計報告をイエズスにしなければならないと考えてほしい。」

2022年09月15日 | お説教・霊的講話

2022年7月31日(主日)聖霊降臨後第八主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、聖霊の七つの賜物のうちの一つ「聡明」の賜物、“intellectus”の賜物について黙想することを提案します。

⑴「聡明」の賜物とは一体何なのか?

⑵ この聡明の賜物の御恵みを頂きながら、今日の福音に適用すると、福音の深い意味をどうやって理解したら良いだろうか?

⑶ 最後に、今日の福音の理解を実践した例を黙想して、最後に遷善の決心を立てることに致しましょう。

「聡明」の賜物というのは、私たちの知性を、聖霊の光が完成させてくれて、そして言葉の表面だけのことではなくて、その深い意味が何であるかを教えてくれます。

聖書に出てくる出来事や、あるいはその名前、あるいはその場所、その人物が表しているその深い意味は一体何なのか、あるいはそのような、私たちが信じなければならないことによって提案されている、提示されていることのその深いの意味が何かを理解させてくれます。

聖書の正しい意味は何なのかを、表面的ではなくて、その深い意味さえも、私たちに理解させてくれる特別の御恵みです。聖霊からの特別の光です。

旧約聖書には色々な出来事がありました。例えば、アベルの生贄、あるいはモーゼによってエジプトを脱出する時に捧げられた過ぎ越しの子羊、あるいはモーゼが紅海を渡るときに使った、海を開いたその杖の棒、あるいはモーゼが養ったマンナ、あるいは契約の櫃、あるいは天主の十戒の二つの石板、あるいはモーゼがその同じ杖で岩を叩いて出したその泉、その他、色々な旧約聖書の出来事がありました。しかし、これらの中にその深い意味がありました。つまり、これらはすべて、来るべき救い主イエズス・キリストを表していました。これらの出来事が、来たるべき救い主を表している、十字架の木を表している、と認めることができるのは、「聡明」の賜物の御恵みです。

⑵ では、その聡明の賜物の御恵みを願いつつ、今日の福音で出ている例えをどのように理解したら良いのか、考えてみましょう。

聡明の賜物を頂いた教父たちの言葉に従って、今日の福音を黙想することを提案します。

私たちがこの地上に生きているのは、実はこの地上の持ち主ではなくて、ただこの今しばらくの間、地上のことの管理を任されている雇い人、つまり、管理者にすぎない、ということを今日の福音は表しています。

ある時、主人は会計係に言いました。「お前をもう管理者にしておくことができない。もうお前は私の財産をあまりにも無駄に、不正に使ったという噂を聞いた。だから、さあ、会計報告を出してもらいたい。もうお前を雇っておくわけにはいかない」と。

これはまさに、私たちの人生の終わりに起こることです。私たちは主から多くの恵みを頂いて、光を頂いて、恵みを頂いたにもかかわらず、それをどのように使ったのか、良く使ったのか、あるいは濫用したのか。主の御望みの通りに使ったのか、あるいは全く用のない下らないことに使ってしまったのか。委ねられていた通りに使ったのか、どうか。

「さあ、会計報告を出すように。」

その時に彼は考えます。「ああ、もしもこれが終わったら、この後でどうしようか。働こうか、肉体労働をしようか。そんなことはできない。乞食をしようか。それも恥ずかしい。」

教父たちによると、「これは、私たちがこの人生を終わった後には、もうもはや働くことはできない。もはやその時間は終わった。功徳を積むことはもうできない、という意味だ」と言っています。

また、私たちが生きている間であれば、主に憐みを乞うこともできたはずです。しかし、亡くなった後には、主に憐れみを乞うこともできない。それはもう終わった。憐れみの時はもう終わった、ということを表している。ただあるのは、審判だけだ、と。

ですから、その「私たちがその会計報告をする前にすることができるのは、委ねられている今の能力を使って、憐みを施す、善業をする、ということである。」と言います。

私たちは死の時に、主にきっちりと、完全な会計報告をしなければならない、ということをこの今日の福音は教えています。

⑶ 福音の教えを実際に使って隣人に勧めた聖人もたくさんいます。今日は聖イグナチオの祝日でもあるので、聖イグナチオのエピソードを一つだけご紹介して、この今日の黙想を終えることに致します。

聖イグナチオはイエズス会を創立した方です。やはりイエズス会の会員で、ロレンシオ・マッジョという方は神父様は、イエズス会をこのまま居ようか、あるいは脱会しようか、という誘惑を受けていたそうです。詳しいこのマッジョ神父様の誘惑の内容は知られていませんが、しかしそのことを聖イグナチオに話したそうです。「脱会しようと思う」と。

すると、聖イグナチオはそれを引き止めようとせずに、一つだけお願いしたそうです。

もしかしたらそれは今日私たちも、聖イグナチオを通して私たちも、そうしてみることをお願いされているのかもしれません。今日の福音と同じようなことを、聖イグナチオはお願いしました。

「分かった。ロレンシオ。じゃあ、今日夜寝て、夜中にきっと君は、一度くらい起きるだろう。そして夜中に目が覚めたら、15分で良いから、自分はこのまま、あと15分の後に、この世を去らなければならない。そして人生の全てのことの会計報告を、イエズス様にしなければならない。今、目が覚めたのは、その15分後に死を迎える準備の為だ。特別に今、目が覚めている、ということを考えてほしい。」

「できるだけ生々と、『これから死ぬんだ。』もしかしたら熱が出て、コロナで、あるいはもしかしたら血栓ができて、あるいは心臓麻痺で、あるいは胸が痛い、あるいは頭が痛い、熱が出て、これで亡くなるんだ、死ぬんだ、もうこの世にさらばと言うんだ。」

「そしてその15分の後に、今度は、主が特別の憐れみをもって、まだ生かしてくれた、ということを思って、それででは、これはこのようなことは、今は本当に死ななかったけれども、しかしある時、私に実際に起こるに違いない、必ず起こる、一回起こる、ということを考えてもらいたい。その時お前は、イエズス様の為に仕えて良かったと思うだろうか、それともイエズス様に仕えずに、悪魔の元でこの世を楽しく面白く過ごして良かったと思うだろうか。そのことを考えてもらいたい」とお願いしたそうです。

そしてロレンシオはマッジョ神父様は、その通りにやった、とのことです。
後にイグナチオのところにやって来て「やっぱりイエズス会に留まる」と言ったそうです。

では、私たちはマリア様の御取り次ぎによって、「聡明」の徳を乞い願いましょう。

私たちがこの地上の出来事、あるいは聖書の出来事、あるいは私たちが聞くことから、信仰の深い意味を理解することができますように。

私たちの生きている目的とは何なのか、永遠とは何なのか、天主の全能、全知とは何なのか、天主が全ての究極の目的であるということは一体何なのか、私たちの今生きているこの一つ一つの意味は、永遠の為に一体どんな価値があるのか、深い意味を理解することができますように、特にマリア様の御取り次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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