Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの主イエズス・キリストが天主御父の右に座したことは、私たちにとってどんな意義があるか?何を意味するのか?

2020年05月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2020年5月24日(主日)御昇天後の主日のテレ説教です。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は御昇天後の主日です。御昇天の神秘を、続けて黙想致しましょう。

【1: 御昇天の神秘】
私たちの主イエズス・キリストは、天に昇られました。イエズス・キリストは、人となった真の天主です。真の天主にして、真の人。天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性とが合体した御方です。

主は、天主としては天国に常にましますけれども、御昇天で人間として、つまり肉体と霊魂とを伴って、天国に入りました。

イエズス様は天国に凱旋するのみか、天の最も高い所に、つまり、天主御父の右の座に座しておられます。主はこの玉座で、全被造物から礼拝を受けなければなりません。

聖パウロは言っています、「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みな膝をかがめ、全ての舌が、父なる天主の光栄を崇め、『イエズス・キリストは主である』と言い表す」(フィリッピ人への手紙2:10-11)為です。

【2:何故御昇天か?】
では、何故御昇天なのでしょうか?

イエズス・キリストが、この地上で生活をしておられた時、ほとんどの人々は、主の事をそうとは知らずに、主に鞭打ち、茨の冠をかむらせ、十字架に釘付けにしました。そんなに大切な御方だとは知らずに、命の主を虫けらのように足で踏みにじりました。

私たちの主は、これら全ての屈辱の苦しみのカリスを、御父に全く服従するために甘受しました。御父の御旨と御自分とを全く一致させて、いけにえとなる事に同意しました。

イエズス様の人間本性は全く完璧で美しく、主は全ての人の子の中で最も美しい方、最も完成された方でした。全ての天使たちはイエズス・キリストを、我を忘れて感嘆し、讃美していました。

この人類の最高の人間、人間となった天主イエズス・キリストは、御自分の兄弟である私たち人類の罪の負債を完全に、しかも有り余るほど支払う為に、辱めと苦しみの大海原の中に喜んで身を沈められました。

聖パウロは言っています、イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主は彼を称揚し、全ての名にまさる名をお与えになられた」(フィリッピ人への手紙2:8-9)と。

愛する兄弟姉妹の皆さんは、この地上での主の悲しみに寄り添って、主のカルワリオへの巡礼の道に従ってこられました。主の御苦しみを黙想してこられました。今日は頭を上げて、御昇天された主を見上げてください。主のおられる天のいとも高い所をご覧ください。悲しみの人であった私たちの主イエズス・キリストは、今や栄光の王となっておられます。

【3:結果】
では、私たちの主イエズス・キリストが、栄光の内に天主御父の右に座しておられる、という事は、私たちにとって、人類にとって、どんな意義があるでしょうか?これは何を意味するのでしょうか?

2つあります。

[1] 第1に、御父はイエズス・キリストを、「生ける人と死せる人との裁き主」として定められました。つまり、兄弟の皆さんも、私も、また私たちは誰一人として例外なく、イエズス・キリストによって裁かれます。今、人の子イエズス・キリストが座しておられるその玉座に、この裁判の席の前に、私たちは必ず出頭しなければなりません。誰もこれを避ける事ができません。

まず、私たちの霊魂が肉体を離れたその瞬間、つまり私たちの死のその直後、私審判があります。この私審判を受けるために、私たちの霊魂は主の前に現れます。私たちが受けるべき、受けるにふさわしい宣告を主の御口から聞く事になります。その時、私たちの永遠の運命が決まります。天国に行くか、あるいは地獄の火に燃やされるか、です。

そして、世の終わりに、全人類がもう一度、イエズス・キリストの前に呼び集められます。公審判です。

公審判では、最初の人間アダムとエヴァに始まって、最後の人間まで、全てが一堂に会します。

各自の裁きが、全人類の前で明らかにされます。人の子イエズス・キリストは、偉大な威厳と御稜威の内に再び地上に現れて、義人と悪人とを分ける事になります。

主の恐るべき威厳ある、権威ある御声が全世界に響き渡り、悔い改めなかった罪びとたちは、永遠の地獄の火に落ちていきます。肉体を以って焼かれる為に、落ちていきます。

義人たちに対しては、私たちの主は、肉体を以って永遠の喜びの報いを受けるように、招かれる事でしょう。

私たちにとって一番重要なのは、「イエズス・キリストによる裁き」です。永遠の命がこの裁きにかかっているからです。私たちの主は、私たちがいかに義務を果たしたか、について裁かれます。愛の義務です。主の御旨とは、「私たちが天主を全てに超えて愛し、そして隣人を我が身の如く愛する」ここにかかっています。

イエズス様は私たちにこう祈れと仰いました、「天にまします我らの父よ、 願わくは、御名の尊まれんことを、 御国の来たらんことを、 御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。」

御旨が天に行われる如く、地にも行われん事を。御国が今天にあるように、この地にも来たらん事を。

イエズス・キリストが今、天で王として、最高の裁き主として座しておられるその御国が、この地上にも来たらん事を。その為にも御旨が地に行なわれん事を。愛の掟が実行されん事を。

この「愛の掟」について、「天主の御旨を果たしたか否か」について、私たちは裁かれます。

私たちが恐れるべきは、この主の裁きです。人民裁判や、Twitterでの噂話や、支持率とか人気投票とか、風評、世間体、人々からの評判や人の目が、私たちの永遠を決めるのではありません。実際、命の主である私たちの主は、国民投票で十字架の死に渡されました。

私たちを永遠に地獄の火に投げ込む事ができる、あるいは天国に永遠の幸せに行く事を裁く事ができる方は、イエズス・キリストです。

今であれば、生きている間であれば、どのような罪びとであっても、回心して、イエズス・キリストに憐みや、情状酌量や、赦しを懇願する事ができます。しかし私たちが死んだ後には、既に時遅しです。生きている間に、キリストを無視して、キリストに対立して、攻撃して、無関係に生活したのに、死んだ途端いきなり、キリストと共にこのキリストの勝利を分かちあう、という事はできません。それは無理な相談です。

[2] イエズス様が昇天されて、最高に地位に付けれらた、というこの現実から導き出される、次の結論もあります。

それは、裁き主のみならず、イエズス様は、この地上の全ての国々と民々の「王」としての、この支配の、統治の権能を、権力を、御父から受けました。

「天と地の全ての力は私に与えられている」(マテオ28:18)とイエズス様は仰いました。

ですから、イエズス・キリストこそ私たちの主であり、王の王です。誰もイエズス・キリストによらなければ、地上の誰も正当に統治する事はできません。誰もイエズス・キリストの支配を逃れる事ができません。イエズス・キリストの関係のない、自律的な空間というものはあり得ません。どんな民族といえども、どんな国といえども、この世界を創った真の天主から独立して、無関係に生活するという事はできません。

聖パウロは言います、“Oportet illum regnare.”(コリント人への第1の手紙15:25) 「彼は、イエズス・キリストは、全ての敵をその足の下に置くまで支配しなければならない」と。

これはどういう事かというと、「イエズス・キリストは、生ける人と死せる人とを裁きに来られるその時まで、この世を統治しなければならない」という事です。「道、真理、命であるイエズス・キリストの快いくびきの教えに従わなければならない」という事です。

なぜかというと、主が、この全宇宙を創った天主であり、被造物の究極の目的、アルファでありオメガ、始めであり終わり、始原であり究極だからです。

ですからこそ、使徒たちから始まって、多くの司教たち、司祭たち、また数万の宣教師たちも、唯一の天主、救い主、贖い主、イエズス・キリストを宣教しました。命がけで宣教しました。これらの努力は、私たちが、イエズス様の教えと恩寵に助けられて、イエズス・キリストのおられる御国、天の国に入る事ができる、永遠の至福を私たちがこの地上にいる時から準備する事ができる、そして地上で生活している内から、愛徳に従って、幸せである、幸せな生活を送る事ができるためです。

イエズス様の御旨は、「天主を愛し、隣人を愛する」ここにあります。これこそ、主の御国です。この愛徳にが実践されるほど、喜ばしい、幸せな国というのは一体どこにあるでしょうか。

そうする事によって、私たちが主の愛の掟を守る事によって、主に祈り、国法を遵守し、弱い人を憐れんで助け、特に婦女子を助けて、また愛徳についての良心を究明して、罪を告白して、聖徳を実践するように努力する事になるでしょう。

これこそ、使徒の時から脈々と続く使徒継承の信仰です。この一致を乱してはなりません。

イエズス様は、御自分を信じて従う人々を、祝福と、優しさと、特別の御恵みで導かれます。

しかし、もしもそうでない場合にはどうでしょうか。イエズス様は、御自分の支配を拒む人々をも、正義によって統治されます。

つまり、自分の蒔いた毒の種を刈り取らされるがままにさせて、自分の行なった結果がブーメランのように戻ってくるがままにされるという事です。

現代では、義務、特に「愛徳の実践、愛の掟の実践、天主を愛する」という事よりも、「権利」が謳われています、「自由」が謳われています。「自分の好きにする権利がある」「自分が好きな道徳、モラルをする自由がある」と。「それが権利だ!」

天主から独立した、キリストも天主もいない自由、権利が主張されています。でももしも、イエズス様の教えた真理が認められないならば、嘘と誤謬によって支配されてしまいます。遂には、真理を言う事さえも、禁止され、罰せられるようになってしまう事でしょう。ちょうどジョージ・オーウェルの小説で書かれた、1984年の世界が、現実のものとなってしまいます。

皆が一斉にバラバを!我々はバラバを求める!と叫んだ聖金曜日の世界が再現してしまいま。

その時には、「真理」「天主の御旨」というよりも、声が大きい人が勝つ事でしょう。武力や、お金や、権威がある人が支配する、弱肉強食の世界ができてしまいます。名医が処方した良い薬を拒む病人たちは、やはり闘病生活を続けて重症化する事を覚悟しなければなりません。

「自由」「権利」だけが主張されるところでは、不道徳や、暴力や、猥褻や、不倫や、離婚、避妊、堕胎、自殺、安楽死などが、権利として至る所で増え続けて、この世界は、死の苦しみにもがかなければならなくなる事でしょう。そうなってしまえば世界は、不幸な人類を奴隷化する反キリストの到来を準備する事になります。

【4:遷善の決心】
では、愛する兄弟の皆さん、主のまします天に頭を上げましょう。目を眼差しを向けましょう。

かつて、人々はそうとは知らず、私たちの主を十字架に釘付けにしてしまいました。しかし私たちは、イエズス・キリストがどのような御方であるかを知っています。栄光の王です。私たちを裁く、人類全てを裁く、例外なく裁く、唯一の、真の、審判者です。私たちはしばらくしたら、主の来臨の時に、燦然と光り輝く、威光に満ちたイエズス・キリストを見る事でしょう。裁きに来られる主を見る事でしょう。

これが、カトリック教会が二千年間信じ続けてきた信仰です。

マリア様がこの信仰を守ったように、イエズス・キリストが復活し、真の天主であるという事を信じ続けたように、私たちもこれを守る事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様は私たちに、きっとカナの婚宴の時と同じ事を仰るに違いありません。福音に記録されているマリア様のお言葉で、隣人に対して仰った言葉は、たった一つ残されています。カナの婚宴で働いていた使用人に仰った言葉です、「イエズス様の仰る事を、全て何でもやりなさい」と。

マリア様が私たちの信仰をいつも守って下さいますように、そしてマリア様の仰ったように、イエズス・キリストの御国が来たらん事を、その為に御旨が行なわれるように、イエズス様の御旨をいつも常に果たし続ける事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




聖体は仲介者である

2020年05月26日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
人である聖体
 
聖体は仲介者である
 
 礼拝 たとえホスチアの陰に隠れておられても、信仰の目にはきわめて明らかにみ姿を示される天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、天主と人との間の仲介者として礼拝しよう。
 
 天主にして人なる御ありさまのうちで営まれる仲介者のご任務は、主にとっていちばん大切なお仕事である。なぜなら、これこそ宗教の本質であり、天主に最もふさわしく、同時に人間に最も必要なものであるからである。すなわち天主は、仲介者なるキリストによって、その正義を満足させ、無限の御稜威に対してささげなければならない宗教の務めを私たちに尽くさせ、また人は仲介者によってはじめて罪の赦しを受け、天父と和睦(わぼく)し、天主に嘉納される確信をもって、主に仕えることができるからである。
 
 人が罪を犯してから、天主は天主と人との間に存在していた愛のつながり、すなわち恩恵のつながりを切断された。本来人間は、自分を自然以上にあげる恩恵の助けがなければ、天主の御もとに至り、天主を賛美し、天主に嘉納されて、天主を所有することができないのである。ところが一方にはお怒りになる天主があって、これに対して他方には永遠に天主から分離した罪人がある。これが原罪によってもたらされた状態であった。天主と人間との間にあったのは、単に無限と有限との差だけではない。それよりもっと大きい差、聖なる御者のみ前において汚れた者、愛のみ前においての忘恩者、傷つけられた正義のみ前において償いをすることのできない者、これが天主と人間との間に横たわっていた距離である。
 
 天主の御子は、この深い淵(ふち)をうずめ、この相隔たる両岸をつなぐ橋とおなりになった。それは、御托身、すなわち天主たることをやめず人とおなりになったことによってである。私たちはこの御托身によって、主において人性と天主性とが和睦し、一致し、天主と人、無限と有限とがひとつのペルソナにおいてひとつとなられるのを見た。
 
 キリストの中における人性は、私たちの人性と同一であって、これを代表するものである。そしてこのキリストの中での尊い人性は恩恵と天主の愛とに満たされ、天主の生命、天主のあらゆる完徳と無限の幸福とを受けられた。そしてあらゆる人類にかわって、天父に罪の赦しを願い、そのために十分な償いをされた。すなわち、これが、御父におささげになった主の完全で無限の価値ある宗教的ご任務である。み言葉のペルソナは、キリストの人性に無限の価値を与えるから、この人性は御父のみ旨にかない、天主の無限の御稜威にふさわしい愛と尊敬とをおささげになることができるのである。
 
 だからこの尊い仲介者を礼拝し、感謝し、賛美しよう。キリストが人と天主との間の仲介者であるのは、単に一時的なことでなく、またある特殊なみわざをなさるときにかぎるのでもない。いや、それは御托身の後、永遠に、常にそうである。なぜなら、キリストは永遠に、常に、天主にして人に在(ましま)すからである。
 
 さきに説明したように、み言葉の御托身が、すでにそれ自身、仲介者であることである。主は、ほかになんらかのことをなさらなくても、すなわち、私たちのために天父に御あわれみを請い、償いをささげ、大司祭として祈らなくても、天主にして人に在す事実だけによって、永遠に天主と人間との仲介者でいらっしゃるのである。それは主のペルソナの中には、天主性と人性とが和睦し、一致して存在されているからである。
 
 聖体の中においでになるのは、この生きた天主の人キリストである。それで私たちは主を礼拝し、自分を主にささげ、主の仲介者の利益を受けるために祈らなければならない。
 
 感謝 イエズス・キリストの仲介の利益の第一は、これによって不可能事がなくなったことである。私たちは、イエズスの仲介によって、私たちの超自然的目的であり永遠の幸福である天主をたやすく見出すようになり、また天主に対する信心の不足と貧しさと不完全さとを絶えず補うことができるようになった。実際私たちは、たとえ恩恵の御恵みに浴し、思いのままに救霊の手段をとることのできる身であっても、主の仲介がなければ主にふさわしく仕えることは不可能である。
 
 その理由は、天主は無限に神聖で、天主に対しての奉仕は無限に完全でなければならないのに、私たちはこの奉仕を可能にする恩恵に、十分にまた常に一致していくことができないからである。尊い仲介者なるイエズスは、このような私たちの不足を補ってくださるのである。主は、主おひとりのためだけではなく、私たちすべての名において祈り、苦しみ、功徳(くどく)を積み、この測り知れない御功徳をことごとく私たちの上に注がれる。しかも主は、この愛深く、慈愛あふれるみわざを、尊い聖体の中において、うまずたゆまず、世の終わりまでつづけられるのである。
 
 パンとぶどう酒との外観のもとに死の状態をとり、祭壇上にご自身を供えられることによって、主は、毎朝この礼拝、償い、祈りの犠牲を新たに天父にささげられる。これこそ主の仲介の大いなるみわざである。しかも主は、父の御あわれみをただ一時的に請い求められるばかりでなく、天主の光栄、私たちの救霊のために供えられた生贄(いけにえ)の状態で、常に御身を天父の御目の前に横たえられるのである。
 
 だから天父は、謀反人(むほんにん)なる私たち、不敬な私たちをながめられるとき、同時にこの最愛の御子、天主にして人なるイエズスをごらんになるのである。ここにこそ私たちの救いがあり、富がある。だから、私たちはこのあわれみ深い仲介者を常に賛美しなければならない。
 
 償い 私たちはこのようなあわれみ深い仲介者の功力を無視し、主の多大な犠牲をたびたび無意味にささげている。人間はとかく、天主のご助力なしに事をするのを好み、自分にのみたよっているが、これは傲慢(ごうまん)の結果であって、実に憎むべき盲目といわなければならない。すべての罪の出発点は傲慢である。傲慢者は天主を忘れ、創造主の権力を退けひたすら自力をもって成功しようとする。このように超自然を認めないで、天主を恐れず、イエズスのご教訓と、ご模範とのいっさいを顧みない人々については特にいう言葉がない。それは聖なるものを汚すことであり、主の仲介に対する完全な拒絶であるからである。しかしこの礼拝すべき仲介者を全く無視するまでに至らなくても、主のご助力を軽々しく考える人がどれほどあるであろうか。彼らは祈りを好まず、たびたび聖体を拝領せず、何ごとをするにも自然の動機に従い、天主の思し召しに無関心であり、またほんとうに天主に依頼しない。彼らはまたイエズスを自分の生活の中心とせず、自己の霊魂の中にイエズスを宿らせないのである。このような人々は、イエズスのいつくしみ深い仲介をないがしろにする名ばかりの信者であって、主は最後の審判の日に必ず彼らに厳重な清算を求められるであろう。だからあなたは適当に自分を省み、救霊のために欠くことのできない尊い仲介を最もたいせつに利用すべきである。
 
 祈願 何ごとを決心し、何ごとを求め、何ごとをするにも、すべて私たちの主イエズス・キリストによってこれをなし、万事において主のみ旨を求め、どんな計画を立てるに際しても、必ず、第一に自分の考えを告げ、これに関した誘惑、恐怖、希望などを主に打ち明け、必要な恩恵を請い、繰り返し主に祈り、主の有力なご助力をお願いしよう。できるだけ親しく主と一致し、主に依頼し、困難に際しても落胆せず、また主のお助けがおくれることがあっても決して失望してはならない。たびたび主を思い出し、あなたの意向を清めよう。
 
 こうするなら、あなたは決して孤独ではない。またあなたの仕事はむなしくならず、すべてが聖にして、永遠のためによい実を結ぶものとなるであろう。なぜなら、それらのわざは、みな天主と人との間の唯一の仲介者なるイエズスとともに、イエズスにおいて、イエズスによって、霊感を与えられ、遂行され、完成されるからである。
 
 実行 あなたの行なうすべてのわざを主にささげ、天主である仲介者のいつくしみ深い御助けのもとにおこう。






2020年5月31日聖霊降臨の主日(一級祝日・八日間付 赤)聖霊降臨のミサのラテン語と日本語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年05月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2020年5月31日は、聖霊降臨の主日(一級祝日・八日間付 赤)です。
東京と大阪とでそれぞれ聖伝のミサがあります。
【東京】
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
【大阪】
18:00 ミサ聖祭 歌ミサ
聖霊降臨祭は、御復活の祝日と並んで典礼暦年の最も重大な祝日で、特に、聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で最初のミサが行われました(2016年5月15日聖霊降臨)。
聖霊降臨のミサのラテン語と日本語の対訳のテキストをご紹介いたします。日本語訳がラテン語にできるだけ忠実であるようにしてみました。

DOMINICA PENTECOSTES 聖霊降臨の主日 
I classis cum Octava I classis 一級祝日・八日間付 
Statio ad S. Petrum (指定巡礼教会)聖ペトロ大聖堂
Ant. ad Introitum. Sap. 1, 7. 入祭文 知恵  1ノ7
Spíritus Dómini replévit orbem terrárum, allelúia : et hoc quod cóntinet ómnia, sciéntiam habet vocis, allelúia, allelúia, allelúia. 主の霊は全地球を満ちた、アレルヤ、万物を保ち給うこのお方は、【いかなる】声の知識をも持ち給う、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Ps. 67, 2. 詩篇68ノ2
Exsúrgat Deus, et dissipéntur inimíci eius : et fúgiant, qui odérunt eum, a fácie eius. 天主は立ち給わんことを、主の敵どもは敗走せんことを。主を憎む者は、主の御顔【の前】から逃げ去らんことを。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と……。(栄誦)
Spíritus Dómini replévit orbem terrárum, allelúia : et hoc quod cóntinet ómnia, sciéntiam habet vocis, allelúia, allelúia, allelúia. 主の霊は全地を満たした、アレルヤ、すべてのものを存在させ給う御者は、また、言葉の師にて在す、アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
Oratio. 集祷文
Deus, qui hodiérna die corda fidélium Sancti Spíritus illustratióne docuísti : da nobis in eódem Spíritu recta sápere ; et de eius semper consolatióne gaudére. Per Dóminum . . . in unitáte eiúsdem Spíritus. 本日、聖霊の照らしを以って信者の心を教え給いし天主、同じ聖霊を以って我等に正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。
Léctio Actuum Apostolórum. 使徒行録の朗読。
Act. 2, 1-11. 使徒行録 2ノ1-11
Cum compleréntur dies Pentecóstes, erant omnes discípuli pariter in eódem loco : et factus est repénte de cælo sonus, tamquam adveniéntis spíritus veheméntis : et replévit totam domum, ubi erant sedentes. Et apparuérunt illis dispertítæ linguæ tamquam ignis, sedítque supra síngulos eórum : et repléti sunt omnes Spíritu Sancto, et cœpérunt loqui váriis linguis, prout Spíritus Sanctus dabat éloqui illis. Erant autem in Ierúsalem habitántes Iudǽi, viri religiósi ex omni natióne, quæ sub cælo est. Facta autem hac voce, convénit multitúdo, et mente confúsa est, quóniam audiébat unusquísque lingua sua illos loquéntes. Stupébant autem omnes et mirabántur, dicéntes : Nonne ecce omnes isti, qui loquúntur, Galilǽi sunt ? Et quómodo nos audívimus unusquísque linguam nostram, in qua nati sumus ? Parthi et Medi et Ælamítæ et qui hábitant Mesopotámiam, Iudǽam et Cappadóciam, Pontum et Asiam, Phrýgiam et Pamphýliam, Ægýptum et partes Líbyæ, quæ est circa Cyrénen, et ádvenæ Románi, Iudǽi quoque et Prosélyti, Cretes et Arabes : audívimus eos loquéntes nostris linguis magnália Dei. さて、五旬祭の日が来て、かれらがみないっしょに集まっていると、突然、天から、烈しい風が吹いてくるような音が聞えて、かれらが座っていた家にみち、火のような舌があらわれ、分れて、おのおのの上にとどまった。すると、かれらはみな、聖霊にみたされ、霊がいわせるままに、色々の国のことばで話しはじめた。そのころイェルザレムには、天下のあらゆる国から来た敬虔なユダヤ人たちが住んでいたが、その音がひびきわたったので、人々が集まりよってきた。そしてかれらは、それぞれの国語で使徒たちが語すのを聞いて、みな仰天し、おどろき感嘆して、「話しているこの人々は、みなガリラヤ人ではないか。それなのにどうして私たちは、おのおのの生国のことばを聞いているのだろう?パルト人、メド人、エラミト人、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポント、アジナ、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などの人々、ここに住んでいるローマ人、ユダヤ人と改宗者、クレタ人、アラビア人などの私たちは、天主の偉大な業を、私たちの国のことばで話すかれらの話を聞いている」といった。
Allelúia, allelúia. V/. Ps. 103, 30. Emítte Spíritum tuum, et creabúntur, et renovábis fáciem terræ. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇103, 30.  聖霊を遣わし給え、しかしてよろずのものは造られん。地の面は新たにならん。アレルヤ。
Allelúia. (Hic genuflectitur) V/. Veni, Sancte Spíritus, reple tuórum corda fidélium : et tui amóris in eis ignem accénde. アレルヤ。(ここでひざまずく) V/.聖霊来たり給え、信者の心に満ち給え、主の愛熱の火を我等に燃えしめ給え。
Sequentia. 続誦 (ヴェニ・サンクテ・スピリトウス)
Veni, Sancte Spíritus,et emítte cǽlituslucis tuæ rádium. 聖霊よ、来給え、天より、御光の輝きを送り給え。
Veni, pater páuperum ;veni, dator múnerum ;veni, lumen córdium. 貧しき者の父、天の賜物の分配者、心の光なる御者よ、来給え。
Consolátor óptime,dulcis hospes ánimæ,dulce refrigérium. 御身は、優れた慰め主、霊魂の甘美な客、優しくさわやかな御者に在す。
In labóre réquies,in æstu tempéries,in fletu solácium. 労苦する者の憩い、暑熱の時の涼味、泣く時の慰めにて在す。
O lux beatíssima,reple cordis íntima tuórum fidélium. ああ、いと幸いなる光よ信者の心にしみ込み給え。
Sine tuo númine nihil est in hómine, nihil est innóxium. 御身の保護なくしては、人には有害なもの以外の何ものもない。
Lava quod est sórdidum,riga quod est áridum, sana quod est sáucium. 汚れたものを清め、荒れた所を潤し、病む者をいやし給え。
Flecte quod est rígidum, fove quod est frígidum, rege quod est dévium. 剛きものを柔らげ、冷えたものを暖め、曲ったものを直し給え。
Da tuis fidélibus, in te confidéntibus, sacrum septenárium. 主に信頼する信者らに、七つの聖なる賜物を下し給え。
Da virtútis méritum, da salútis éxitum, da perénne gáudium. Amen. Allelúia. 善徳の功徳を積ませ、救いに至らせ、永遠の幸福を与え給え、アメン、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦。
Ioann. 14, 23-31. ヨハネ  14ノ23-31
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Si quis díligit me, sermónem meum servábit, et Pater meus díliget eum, et ad eum veniémus et mansiónem apud eum faciémus : qui non díligit me, sermónes meos non servat. Et sermónem quem audístis, non est meus : sed eius, qui misit me, Patris. Hæc locútus sum vobis, apud vos manens. Paráclitus autem Spíritus Sanctus, quem mittet Pater in nómine meo, ille vos docébit ómnia et súggeret vobis ómnia, quæcúmque díxero vobis. Pacem relínquo vobis, pacem meam do vobis : non quómodo mundus dat, ego do vobis. Non turbátur cor vestrum neque formídet. Audístis, quia ego dixi vobis : Vado et vénio ad vos. Si diligere tis me, gaudere tis utique, quia vado ad Patrem : quia Pater maior me est. Et nunc dixi vobis, priúsquam fiat : ut, cum factum fúerit, credátis. Iam non multa loquar vobíscum. Venit enim princeps mundi huius, et in me non habet quidquam. Sed ut cognóscat mundus, quia díligo Patrem, et sicut mandátum dedit mihi Pater, sic fácio. そのとき、イエズスは弟子たちに仰せられた、「私を愛する人は私の言葉を守る。また父もその人を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む。私を愛さない人は私の言葉を守らない。あなたたちがきいているのは、私の言葉ではなくて、私をおつかわしになった父のみことばである。私は、あなたたちといっしょにいる間に、こういうことを話した。しかし、弁護者、すなわち父が私の名によっておつかわしになる聖霊が、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう。私はあなたたちに平安をのこし、私の平安を与える。私は、この世が与えるようにして、それを与えるのではない。心配することはない、おそれることはない。"私は去って、またあなたたちのもとに帰ってくる"と私がいったのをあなたたちはきいた。もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずである。父は、私よりも偉大なお方だからである。私は、ことが起るとき信じるようにと、ことが起るまえに、こうあなたたちに話しておいた。この世のかしらが来るから、私はもう長くあなたたちと話しあわない。彼は私にたいしてなにもできないが、私が父を愛しており、父の命令のままにおこなっていることを、この世は知らねばならない。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 67, 29-30. 奉献文 詩篇  67ノ29,30
Confírma hoc, Deus, quod operátus es in nobis : a templo tuo, quod est in Ierúsalem, tibi ófferent reges múnera, allelúia. 天主よ、御身が我らのうちに行い給えることを固うし給え。エルサレムにある御身の神殿より、王たちは礼物を御身に捧げん。アレルヤ。
Secreta. 密誦
Múnera, quǽsumus, Dómine, obláta sanctífica : et corda nostra Sancti Spíritus illustratióne emúnda. Per Dóminum . . . in unitáte eiusdem Spíritus. 主よ、願わくは、捧げられた礼物を聖化し、聖霊の光もて、われらの心を清め給え。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。
Præfatio, 聖霊降臨の序誦 (その八日間の土曜日まで)
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancta Pater, omnípotens ætérne Deus, per Christum, Dóminum nostrum. 主よ、聖なる主よ、全能永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、われらの主キリストによって、主に感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいことでありわれらの義務と救いである。
Qui ascéndens super omnes cælos, sedénsque ad déxteram tuam, promíssum Spíritum Sanctum hodiérna die in fílios adoptiónis effúdit. 主は全ての天の上に昇り、御身の右に座し給い、御約束の聖霊を、この日、養子の子らに注ぎ給うた。
Quaprópter profúsis gáudiis, totus in orbe terrárum mundus exsúltat. Sed et supérnæ Virtútes, atque angélicæ Potestátes, hymnum glóriæ tuæ cóncinunt, sine fine dicéntes : Sanctus… 故に、喜びにあふれて、全地球において全世界はいさみことほぐ。さらに天上の力天使らも、能天使らも、御栄光(みさかえ)の讃歌をきわまりなく歌う。 聖なるかな…
Infra actionem Communicantes et Hanc igitur propria. 聖変化の部 コムニカンテス(その八日間の土曜日まで)
Communicántes, et diem sacratíssimum Pentecóstes celebrántes, quo Spíritus Sanctus Apóstolis innúmeris linguis appáruit : sed et memóriam venerántes, in primis gloriósæ semper Vírginis Maríæ, Genetrícis Dei et Dómini nostri Jesu Christi : (...) 聖なる一致において、聖霊が、使徒たちに数多くの舌の形をとって現れ給うた、至聖なる聖霊降臨の日も祝いつつ、かつ、まず、天主の御母にして我らの主イエズス・キリストの御母、終世童貞なる光栄あるマリアの記念をつつしんで行い奉る:(...)
Hanc igitur oblatiónem servitutis nostræ, sed et cunctæ famíliæ tuæ, quam tibi offérimus pro his quoque, quos regeneráre dignatus es ex aqua et Spíritu Sancto, tríbuens eis remissionem ómnium peccatórum, quǽsumus, Dómine, ut placátus accípias : (...) 故に、我らの奉仕の、また、御身の各々の家族のこの捧げものを快く受け入れ給わんことを。我らはこれを、御身が水と聖霊とから再び生まれさせ、全ての罪の赦しを与え給うた人々のためにも御身に捧げる (...)
Ant. ad Communionem. Act. 2, 2 et 4. 聖体拝領誦 使徒行録  2ノ2,4
Factus est repénte de cælo sonus, tamquam adveniéntis spíritus veheméntis, ubi erant sedéntes, allelúia : et repléti sunt omnes Spíritu Sancto, loquéntes magnália Dei, allelúia, allelúia. 突然、彼らの座っていた場所で、天から、烈しい息の到来するような音がした、アレルヤ。すると皆は聖霊に満たされ、天主の大いなる御業を語った、アレルヤ、アレルヤ。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Sancti Spíritus, Dómine, corda nostra mundet infúsio : et sui roris íntima aspersióne fecúndet. Per Dóminum ... in unitáte eiusdem. 主よ、聖霊の注入が、われらの心を清め、聖霊が、その露(つゆ)の染み入る散布により、[われらの心を]豊饒ならしめんことを。その同じ聖霊との一致において、天主として、(…)。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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