Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ファチマの聖母が望んでおられること もしそれがなされないならば「ロシアの諸々の誤謬(共産主義)」は世界に広まる

2020年05月14日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

三上教授のファチマの聖母マリアから引用します。

シスター・ルチアは、(…)一度ならず、そして慎重に強調しながら、こう言った:

シスター・ルチア「聖母が望んでおられることは、教皇と世界のすべての司教たちが特別の一日に御自分の汚れなき御心にロシアを奉献するということです。もしこのことが為されるならば、聖母はロシアを回心させられるでしょう。そして平和が来るでしょう。もしそれがなされないならば、ロシアの諸々の誤謬は世界のあらゆる国を通じて広まるでしょう。」

「このことは、あなたの意見では、あらゆる国が、例外なしに、共産主義によって征服されるということを意味するのですか?

シスター・ルチアはい、その通りです。

"Our Lady of Fatima" p. 221 by William Thomas Walsh, published in 1947.


マヌエル・ロチャ神父は、ウィリアム・トマス・ウォルシュ氏のために選ばれた通訳だった。

1946年7月15日の午後の3時間にわたるシスター・ルシアとのインタビューの間に、通訳してくれるようにウォルシュ氏が頼んだ質問の一つは、「あなたの意見では、あらゆる国は例外なしに共産主義によって制覇されるのですか?」であった。

シスター・ルシアは「はい、そうです」と答えた。

ウォルシュ氏がその答についてはっきりさせたいと思って、「そしてそのことはまたアメリカ合衆国をも意味するのですか?」とつけ加えながらその質問を繰り返すと、シスター・ルチアは「はい、そうです」と答えたと述べた。

"The Wonders She Performs" p. 159 by Louis Kaczmarek, published in 1986.


ファチマの聖母マリアは、私たちに既に1917年7月13日にこう警告していました。

もし人が聖母の要求を聞かないならば「ロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とを促進するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。いろいろな国々は無くなってしまうでしょう」と。

Se não, espalhará seus erros pelo mundo, promovendo guerras e perseguições à Igreja. Os bons serão martirizados, o Santo Padre terá muito que sofrer, várias nações serão aniquiladas.

ファチマの聖母よ、我らの為に祈り給え!




霊的秋田巡礼 霊的講話3 被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれた

2020年05月14日 | お説教・霊的講話
2020年5月5日(火)霊的秋田巡礼 霊的講話3
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれた」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、ではテレ巡礼を続けていきます。

私たちは主から、荒れ野に行くように招かれました。ところで、私たちがその荒れ野に行く事ができるように、模範を見せて下さった方がいらっしゃいます。マリア様です。

マリア様とイエズス様は、決して離す事ができません。決して離す事ができないという事は、イエズス様がいらっしゃるところには必ず、マリア様がいらっしゃるからです。マリア様がいらっしゃるところには必ず、イエズス様がいらっしゃるからです。

イエズス様がこの地上に来られたその最初の瞬間から、そしてこの地上で息を引き取られた、十字架の下にいらしたその時も、常に一緒におられました。

マリア様はイエズス様をお生みになる為に、この地上に生を受けました。そしてマリア様はイエズス様によって、御自分の母となる事を選ばれました。

イエズス様とマリア様は、愛によって、沈黙の内に、一つの事を望んでいます、「天主の栄光と、そして霊魂の救い」です。もしも天主が選ばれた霊魂たちを荒れ野に、この被造物から離れて、この喧騒から、儚さから離れて、単純な、そして変わる事のない、厳しい荒れ野に招いたとすれば、マリア様こそまさに、その選ばれた方でした。

いえ、もっと言うとマリア様こそ、この被造物の全ての喧騒や、儚さ、虚しさ、つまらなさから切り離された御方です。無原罪の御孕りであるからです。マリア様には罪の汚れが一つも、一切ない、単純な、清らかな、純粋な御方であったからです。

あたかも被造物から全て離脱した、聖なる荒れ野、神殿として、イエズス様はマリア様の御胎内を選ばれたかのようです。マリア様において天主に逆らうものは何一つありませんでした。全てが天主によって満たされていました。聖寵充ち満てる御方でした。その聖寵のその程度は、その満ち溢れの度合いは、全ての天使、そして聖人たちをはるかに超越するものでした。マリア様はイエズス・キリストに満たされて、天主に満たされて、イエズス様と全く一つとなっていました。

イエズス様はマリア様によって運ばれていました。イエズス・キリストをマリア様は御自身で、御自身の中で運ばれていました。生ける天主の聖櫃となっていました。イエズス・キリストというのは真の天主、全ての聖寵の創り主、そして天主の第二のペルソナ、三位一体の第二のペルソナ、天主の御言葉、永遠の知恵、それ御自身を、マリア様が御胎内にお運びになります。

聖寵充ち満てる御方、天主に充ち満てる御方、イエズス・キリストに充ち満ちて、溢れている御方、マリア様です。無原罪の御孕りです。インマクラータです。マリア様こそ、天主に対する信仰と、礼拝と、希望と、愛に、溢れていました。

マリア様はただ御聖櫃の中に、あるいはチボリウムの中に御聖体がある、というように、物体的に、あるいは物理的に、イエズス様を中に御胎内に入れた、例えば香炉入れの中に香炉を入れた、物理的にそうだった、だけではありません。マリア様の中には、イエズス様が浸透して、イエズス・キリストに対する信仰と、礼拝と、希望と、愛によって、深く染み通り、天主に充ち満ちて、一体となっていたからです。ただ物理的な、その中にある、を遥かに超えた存在でした。

創られない天主の御言葉、偉大な全てを超越する創造主、全てはこれによって創られた、その天主の御子、御言葉、永遠の知恵が、天から降られて、マリア様の御胎内にお住みになりました。まさに天主の生ける神殿でした。天主の御国でした。

私たちは洗礼を受けたその時に、三位一体が私たちの罪を全て赦されて、そして私たちの霊魂に住み始めました。カトリック信仰はそう私たちに教えてくれます。

マリア様はこの御自分の存在の最初の瞬間から、全く天主に充ち満ちて、罪の汚れを一切持たずに、存在を始められました。その瞬間から、最初の瞬間から、マリア様は沈黙の内に、天主を礼拝していました。天主の元に、天主の御前で、御自分を無とされて、沈黙の内に礼拝していました。全ての天使たち、全ての聖人たちを遥かに勝って、マリア様の礼拝と愛は、燃え立つようなものでした。御謙遜に、そして熱烈な愛の讃美を、マリア様は最初の瞬間から、存在の最初の瞬間から、天主に捧げていました。

永遠の知恵、イエズス・キリストを受ける上智の座、マリア様。この霊魂からは、マリア様の汚れない霊魂からは常に、礼拝と、讃美と、感謝、祈りの快い香りの香が天に立ち上っていました。マリア様の沈黙、被造物からの離脱、儚いものからの離脱、罪に対する憎しみ、嫌悪、そして軽蔑。しかしそれと同時に、天主に対する愛と、罪人に対する同情と、憐れみは、私たちを招いています。

天主の御母。永遠の全知全能の天主の御母、天主にそれほどまでも一致しておられる御母、天主によってそれほどまでも豊かに高められた、恵みに満ち溢れている御母、聖寵の御母、天主によって全く清められた最高の美、被造物の傑作、その御母。

天使でさえも、マリア様のその前に尊敬を、そして敬意を払う、マリア様のその霊魂の清さ。大天使はマリア様にこう挨拶します、「聖寵充ち満てる御身に挨拶致します。」“Ave, gratia plena.”

ちょうど御聖体を入れる顕示台のように、マリア様は私たちに天主を示しています。マリア様において私たちは、天主を沈黙の内に愛し、礼拝し、そして讃美し、感謝し、褒め称えましょう。

マリア様は、繰り返しますけれども、マリア様はただ御聖体を、イエズス・キリストをただ入れた顕示台ではありません。この御聖体を、御自分の御血を以って、御自分の母の愛を以って養い、そして育てた御母です。このマリア様の前では、全てのこの世のつまらない雑音、騒音、心配などは、沈黙しています。

マリア様に有るのは、天主に対する信仰と、礼拝と、希望と、愛です。被造物からの離脱です。この霊魂には、この世の中がどのように騒いでいても、平安がありました。平和がありました。沈黙における喜びがありました。いつもその霊魂は穏やかで、秩序立っていて、全ては天主の為に、天主へと向かっていました。

平和の元后。まさに天主が私たちに与える、秩序における安息さ、平穏さの元后であります。私たちにその平和を伝える方です。

「平和を作り出す者は幸いなるかな。彼は天主の子と呼ばれるだろう。」

マリア様こそ、私たちに平和を与えて下さるものです。全てを、天主を頂点として秩序立てる事ができる平和を与えて下さるからです。マリア様の霊魂は、悲しみの剣でどれほど刺し貫かれた事でしょうか。しかし全てを、天主の為に受け入れました。平和の内に、沈黙の内に。

私たちもマリア様の元に駆け寄りましょう。マリア様のように天主を愛する、天主に私たちの身を一致させる、私たちの身を捧げる。

天主を愛するという事は、これは私たちの力では到底できません。被造物の身で分際で、一体超自然の御方をどうやって愛する事ができるでしょうか。天主様の御助けが必要です。天主様の愛を以って、天主を愛さなければなりません。マリア様がそれを、私たちに助けて下さいます。天主様に愛されて、天主様の御恵みを受けてこそ、天主を愛する事ができるからです。

マリア様は天主様から愛されて、聖寵の充ち満ちを受けて、それを以って天主を愛されました。ですから私たちも、心を天主に広げなければなりません。大きく開けなければなりません。被造物ではなくて、天主の御恵みを、天主の聖寵を、私たちの心に受け入れなければなりません。その為には心が全て被造物において空でなければなりません。天主に満たされなければなりません、マリア様のように。ちょうど貞潔なマリア様のように。

マリア様は仰います、「私は主の婢女である。仰の如く我になれかし。」
聖パウロはきっと、「主の奴隷だ」と言う事でしょう。イエズス様とマリア様は決して離れる事がありません。イエズス様が天主聖父に従順であったように、しかも十字架の死に至るまで従順であったように、マリア様も従順で、同じように従順であります。イエズス様の十字架の足下に至るまで、従順でした。

マリア様は、終生童貞で貞潔を守りました。これはただ肉欲から離れている、というだけではありません。マリア様の心には、この世からの離脱の他に、更に超えて、その離脱を天主による愛によって埋めて、それに満たされていました。

私たちの沈黙、荒れ野に行くというこの目的は、マリア様に倣って、ただ単なる沈黙、荒れ野ではありません。私たちの目的は、「天主の御言葉を愛し、これに満たされて、天主の愛に満たされる」という事です。「天主と一致する」という事です。

そしてこの最も美しい理想を、模範を、マリア様が示して下さっています。マリア様は愛に燃えて、十字架の下に立ち留まります。イエズス・キリストの愛に全く御自分を捧げて一致されます。イエズス様の苦しみに御自分の苦しみを添えて、一つとなります。イエズス様の燃える望みと御自分の望みを全く一つにさせます。聖寵に充ち満ちて、キリストに充ち満ちた御方となります。

では愛する兄弟の皆さん、私たちも、マリア様の元に馳せ寄りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

霊的秋田巡礼 「マリア様の沈黙:マリア様こそ聖なる荒れ野。私たちが荒れ野に行くための美しい模範。」霊的講話3


霊的秋田巡礼 霊的講話2 沈黙の天主、天主の沈黙。この沈黙にこたえる二つのやり方「この世の答え」と「天主を愛する人々の答え」

2020年05月14日 | お説教・霊的講話
2020年5月4日(月)霊的秋田巡礼 霊的講話2
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
沈黙の天主、天主の沈黙。この沈黙にこたえる二つのやり方「この世の答え」と「天主を愛する人々の答え」



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、では主に招かれて、荒れ野に参りましょう。荒れ野で天主様は私たちに、沈黙の中で語って、私たちに語りかけてくださいます。ですから私たちは天主様の沈黙の中に入りましょう。イエズス・キリストの沈黙の中に、御聖体の沈黙、御受難の沈黙の中に深く入りましょう。

秋田でシスター笹川が、天使あるいはマリア様の声を聞くその前に、不思議な現象が起こりました。それはシスターの耳が全く聞こえなくなった事です。全く聞こえませんでした。お医者さんに行って、どのような大きな音をかけても、全く聞こえませんでした。

では私たちもこの沈黙に、シーンとした沈黙の中に入る事に致しましょう。

イエズス様は40日間、砂漠の荒野に入られましたが、そして沈黙の内に祈りをされました。旧約時代でも同じでした。シナイ山においてモーゼは、40日40夜留まって、そして天主に祈っていました。「モーゼは山に登った。雲は山を覆い、主の栄光はシナイの山に留まり、雲は6日の間山を覆っていた。そして7日目、主は雲の中からモーゼを呼ばれた。イスラエルの民の目には、山頂の主の栄光が、燃え盛る炎のように見えた。モーゼは雲の中に入った。彼は山に登って、40日40夜そこに留まった。」

シナイ山の姿は恐るべきもので、もうこの世の終わりかと思われるほどでした。山頂からは雲が立ち上り、炎が見え、光が見え、主の栄光が御稜威が見えました。この中で主はモーゼに語りかけました。

シナイ山は別名「ホレブの山」とも言います。天主の人、祈りの人、奇跡を起こす人、全く天主と一致していた男エリア、預言者エリアは、ホレブの山に行きます。

その前にはサレプタで、寡婦の子供を生き返らせます。奇跡を、一大奇跡を行なった大預言者です、エリア。

そしてバアルの司祭たちを皆殺しにしました。真の天主ヤーウェを信じるエリア。

なぜホレブの山に行くようになったかというと、この天主の男であったエリアも、このアカブ王が、預言者を全て刺し殺したという事を伝えると、イザベル、この女性はエリアに使者を送ってこう言うのです、「お前があの預言者共にしたように、お前の命を明日この時刻に私が奪わなければ、神々が私自身それと同じように、いやそれよりも酷く扱われても良い。」

エザベル女王は、「エリアを殺す」と言ったのです。

すると、この天主の男である預言者は、非常に恐れました。「エリアは恐れ」と書かれています。自分の命を救おうと旅立ち、荒れ野に入り込み、自分の死を願って言います、「主よ、もうたまりません。私の命を絶って下さい。私は先祖より優れた人間ではありません。」

すると主は一位の天使を送って、この天使はエリアに、「起きて食べよ」と言います。すると焼いた固パンと水の筒がありました。エリアはそれを食べて、水を飲んで、横たわると、主の天使は再び彼に触れて、「さぁ食べよ。そうしないとお前は長い旅に耐えられまい」と言います。

エリアは起き上がって飲食し、それに勢いをつけて、天主の山ホレブまで40日40夜歩き続けます。

ところでエリアは、ホレブで天主の声を聞きます、天主と出会います、「ホレブに着くと、洞穴に入り夜を過ごした。」その時主は、「エリアよ、そこで何をしているのか」と仰せられます。エリアは答えます、「イスラエル人はあなたとの契約を破り、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。私は万軍の天主なる主の為に、力の限り奮闘しました。残ったのは私1人ですのに、彼らは私の命も狙っているのです。」

すると主は、「そこを出て、山の上、天主の前に立て」と仰せられます。すると天主は、通って行かれます。

山は揺れて、石は割れるほどの強い風が吹き荒れます。でもこの強い強風、嵐の中に、主はいらっしゃいませんでした。

風の後に嵐の後に、地震が来ます。でも主は、地震の中にもいらっしゃいませんでした。

地震の後に、火が来ます。でも主は、火の中にもいらっしゃいませんでした。

火の次に、そよ風がします。エリアはその音を聞くと、外套で面を覆い、「天主が在す」という事が分かり、そして恐れて外に出て、洞穴の入り口に足を止めます。ちょうどケルビムが、天主の御前で羽を以って顔を覆ったかのようです。

天主は強い嵐の中にも、地震の中にも、火の中にも在し給わず、静かなそよ風の中にいらっしゃいました。沈黙の中にいらっしゃいました。

預言者エリア

天主は沈黙の中で、たった一つの、一言を、御言葉を話されました。「はじめに、御言葉があった。」

ですから私たちは、沈黙の中に入らなければなりません。天主に満たされる為に、天主の御旨を知る為に、沈黙の中に入りましょう。

「沈黙」というのは、しゃべらないというよりは、「私たちの心を、天主の方に向ける」という事です。「被造物ではなく、創られない天主の方に心を向ける」という事です。「考えを向ける」という事です。そして「天主の事に集中する」という事です。「天主の事を知ろうとする」事です。「天主を愛そうとする」事です。

「沈黙」という事と、「静けさ」という事と、そして「いつも同じだ」という事と、「全ては完成させられている」という事は、同じであるかのように思われます。

3人の弟子たちが、タボル山という荒れ野に連れて行かれた時に、天主御父はこう言います、「これこそ、私の愛する子。彼に聞け」と。

アルファでありオメガである、始めであり終わりである、かつて在り、今在り、そして将来も永遠に在す、天主御子のその御言葉を「聞け」と。

天主こそが在りて在るものであって、それ以外のものは全く無に等しい、空しいものです。全ての被造物は全く空しいものです。天主のみを信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。全てに越えて、天主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。そして天主の為に、隣人をも我が身の如く愛さなければなりません。

しかし私たちの知っている真理は、「天主こそが在りて在るものであって、その他のものは無きに等しいものである、天主によって在らされているものである、空しい存在である、この世に来ては、そしてあっという間に消えてしまう、束の間の儚い存在である。全ての被造物は全く空しい」と教えています。

私たちは天主の中に生きて、天主の中に動いて、天主の中に今、こうして存在しています。

イエズス様は仰います、「アブラハムが在った前に、私は在る」と。「私は在る。」
天主はモーゼに、この御自分の御名を言います、「私は、在りて在るものである。」
イエズス様は言います、「私は在る。永遠に在る。」

天主こそ、全ての被造物を超越し、全ての存在を超越して、在りて在る真の天主です。イエズス・キリストこそ、真の天主です。そしてこの天主イエズス・キリスト様が、私たちの心と心に、沈黙の内に語りかけようとしています。

なぜかというと、天主は私たちの最も奥深くに、私たちを在らしめている方であるから、私たちの最も心の親密なところに、考えの最も奥深くに、語りかける事ができる存在であるからです。私たちに真理を教える事ができるからです。

天主は、この世の全てを統治しておられます。全ての全歴史を、支配しておられます。髪の毛1本でさえも、主の許しなく御存知ない事なく落ちる事はありません。この世に起こる事全てが、主の目の前に全く包み隠さず明らかです。私たちの考えも、密かな考えも、思いも、主の前に全く明らかです。全ては主の力によって維持されているからです。

イエズス様がたとえ馬鹿にされ、冒瀆され、侮辱され、唾を吐かれ、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を担わされ、ありもしない嘘や、攻撃や、讒言などを吐かれ、そして遂には十字架の上で御血を流された、その時に、イエズス様をそのようにしている悪人ども、信じない人々さえも、創造の力でそれを在らしめて、それに存在する事を許しておられました。天主は、沈黙の内に全てを支配しておられます。

ただ罪だけは、人間の自由意志を以って犯します。

天主は沈黙の内に、私たちに存在を与え、そして私たちを生かし、そして私たちに御恵みを、そして溢れる御恵みを、聖寵を、恩寵を与え続け、更に与え続け、与え続けています。

洗礼の時も、私たちは沈黙の内に、そして全く静けさの内に、聖寵を受けました。成聖の聖寵を受けました。天主の命を受けました。人間がこの世に宿る時も、全く沈黙の内に宿ります。

沈黙の内に天主は、成聖の恩寵にいる、罪が赦された状態にある霊魂たちの中に住まわれます。愛を以って住まわれます。そうする事によって私たちに、天主の命を伝えようとされます。沈黙の内に。

では私たちは、この沈黙の天主、天主の沈黙にどうやって答えたら良いでしょうか?

2つの答えがあります、「この世の答え」と、「天主を愛する人々の答え」です。

「この世の人々」は、天主の沈黙の前に、やっぱり軽蔑の、そして無関心、注意を払わない事で答えようとします。回心の呼びかけ、罪から離れる呼びかけを無視しようとします。それに耳を塞ごうとします。そしてそれから無関心と拒否を以って答えようとします。

福音にもありました。金持ちの青年が、「主よ、私はどうしたら良いですか?」主は愛の眼を以って彼に答え、「全てを捨てて、私に従え」と。するとこの青年は、非常に悲しそうに主を去っていきます。お金持ちだったからです。自分の持っている被造物に対する愛着を、捨てる事ができませんでした。彼も黙って主を捨て去りました。主の招きに答えませんでした。

ユダもそうでした。「友よ、お前は口づけを以って人の子を裏切るのか?」ユダはそれに答えません。沈黙を以って裏切り続けます。「俺は知らんよ」とでも言うかのようです。

ポンシオ・ピラトもそうでした。主が、「私は、真理を証明する為に生まれてきた」と言い、ピラトは主にイエズス様に質問をします、質問というか、「真理なんて何だ。」そしてイエズス様に答えようとしません。「そんなもの知らんよ。そんなものあるか。」

十字架の上でも、イエズス様の左右に2人の罪人がいました、盗賊がいました。そのうち左に立っていた盗賊は、イエズス様のその御姿を見て、冒瀆を言い、無関心、そして罪の赦しを乞う代わりに、それを拒否します。

イエズス様の愛を、「愛さない」で答えようとするこの世。

あたかも、現代世界の縮図であるかのようです。なぜかというと、この現代社会は、全ての事について語ろうとします。この大自然の秘密、人間の秘密、ウィルス、病気、天体、この地球の構造、あるいは宇宙の果てしないと天体のなにそれ。しかし、天主については話そうとしません。それ以外の事を以って気を散らそうとします。永遠について、真に在すこの世の創り主について、それ以外の事で気を紛らわそうとします。あえて自分は無知でいる事を望んでいるかのようです。

「主を愛する人たち」は、聖人たちは、この主の愛を、この沈黙を聞く事によって、沈黙の中に主の御言葉を聞こうとして、答えました。沈黙の中に留まって、そして沈黙を愛そうとして聞きました。

私たちの霊魂は、主の神殿です。主が沈黙の内に住まわれています。そこの中で、私たちの心の中で、その影響をますます大きくしよう、大きくしようと望んでおられます。

天主が私たちの心を支配する事ができるように、天主以外のものを、罪と被造物に対する愛着と情念、その他の雑音を全て取り除きましょう。そうする事によって、主の沈黙に答えましょう。そうする事によって、主を讃美して、そして主に近付く事に致しましょう。

イエズス様はナザレトで、全く沈黙の内に30年間過ごされました。十字架の上で御自分を無にして、沈黙をされました。そして御聖体の内に、全く自分を無として、私たちを養おうと沈黙されます。御謙遜と、従順と、隠れた生活、天主御父との生活の模範を見せられました。

私たちもこれに倣って、単純に、そして内的な生活、沈黙、この世の喧騒や儚さから離脱する事に致しましょう。それができますようにお祈り致しましょう。主は、私たちを沈黙の中に招いています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

霊的秋田巡礼 「イエズス様の沈黙:なぜ私たちは沈黙の中に入らなければならないか」霊的講話2



霊的秋田巡礼 霊的講話1「私は彼女を誘って、荒れ野に連れて行き、その心に語りかけよう。」(ホセアの書2:16)私たちは、主と共に荒れ野に、砂漠に参りましょう。

2020年05月14日 | お説教・霊的講話


2020年5月4日(月)霊的秋田巡礼 霊的講話1
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

「私は彼女を誘って、荒れ野に連れて行き、その心に語りかけよう。」(ホセアの書2:16)私たちは、主と共に荒れ野に、砂漠に参りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、四旬節の務めが終わって、それから復活祭も終わりました。それで私たちは、秋田に巡礼に行こうと思っていました。

ところが、天主様の御摂理によって、秋田の巡礼は今年はキャンセルになってしまいました。ですからテレワークの方式で、テレ巡礼を行ないたいと思っています。霊的に秋田に参りましょう。そしてマリア様の御元に行きましょう。

私たちはこのテレ巡礼をするにあたって、講話もテレ講話をしたいと思っています。たまたまこの講話をお聞きの方々もいらっしゃると思います。これはたまたまではないと思っています。天主様がこれを招いて下さっているのだと思っています。

『ホセアの書』という旧約聖書の中にこうあります、第二章十六節、「私は彼女を誘って、荒れ野に連れて行き、その心に語りかけよう。」

「荒れ野に連れて行き」

「荒れ野に連れて行かれる」という事は「愛されている」という証拠です。

主は特別の弟子たちを、御自分の愛する弟子たちを連れて、他の人たちと離して、荒れ野に連れて行きました。聖ペトロ・ヤコボ・それからヨハネは、タボル山の元に主と共に登りました。そしてその心に語りかけるかのように、御自分の栄光の姿を御見せになりました。

またこの3人を特別に、他の弟子たちから離して、別の荒れ野にも連れて行きました、ゲッセマ二の園です。そして御自分の言う事ができない御苦しみを、悶えを、祈りの姿を、お見せになりました。

イエズス様は荒れ野に連れて行って、私たちの心に話しかけようとされています。これは特別の御恵みです。「主から招かれている」という、「愛の招きを受けている」という、特別な御恵みです。

そして今日この講話を聞いていらっしゃる愛する兄弟の皆さんは、特別の愛の対象です。主が御自分の思いを皆さんに語りかけようとしています。

ですから私たちは、主と共に荒れ野に、砂漠に参りましょう。

天主は私たちを招いて、そして私たちのこの地上の雑音から身を離させようとしています。聖マルコの福音によると、「主は、天主はイエズス様を砂漠に追い出した」とあります。天主は私たちを愛するが故に、私たちは砂漠へと荒れ野へと導かれています。

荒れ野、なぜ荒れ野なのでしょうか?

なぜかというと、「この世から離れている」という理由であるからです。この荒れ野に行くと、非常に単純で、変わる事もなく、そして全くこの地上のものから、この世の事から離脱していて、沈黙があります。センセーショナルな事はありません。厳しさがあります。そして人々が不在です。

砂漠に荒れ野に行くと、私たちの見つけるものは、単純な、厳しい、天主の御姿です。この荒れ野に招かれるというのは、天主様の懐に招かれるであるかのようです。この世を離れて、天主に御元に深く行くという事であるかのようです。天主様との親密なコンタクトを取る、天主と共にいる、私たちの霊魂を浄める、そして単純な真理の中に入る、という事であるかのようです。

ですから私たちは寛大に、この霊的なテレ講話の中に入っていきましょう。荒れ野に招かれる事に致しましょう。

私たちにとって一番大切なのは、「天主様の御旨を果たしたい。天主様の近くに行きたい」という事です。

これが私たちの最後の巡礼であるかのように、最後の講話であるかのように、私たちのこの時間を無駄にしないように、黙想致しましょう。私たちは特にこのGolden weekを、God’s week、天主様の1週間に、愛の黄金に満ちた、天主への愛に満ちた1週間となりますように、この世の喧騒から離れて、この世の私たちの心配事から離れて、他の人があー言っている、このニュースはあーだ、この世界はこーだ、という事から離れて、荒れ野に、天主様の御元に参りましょう。

天主だけを求めて、天主の聖寵を受け入れる事を求めて、それに満たされる事を求めて、天主様だけと生活するその恵みを求めましょう。

秋田に本当に巡礼に物理的に行けば、大自然の中でマリア様の元でそれも簡単に叶ったかもしれません。私たちはそれが叶わないの今、できるだけ寛大に、この世の事を忘れて、一時忘れて、被造物から離れて、被造物の事を忘れて、あの人が、この人が、という事を忘れて、天主に心を向けましょう。

なぜかというと私たちは、天主がその「心」に語りかける、と招いているからです。私たちの心に、天主の御国がやって来ますように、内的な天主様との親しい命が、生活が、私たちの心に確立しますように。

では私たちの心を、荒れ野のように、一切の雑音から離して、飛行機の雑音からも離して、電車の騒音からも離して、そして天主様に満たされて、荒れ野に参りましょう。天主様はこれを望んでおられます。天主様は私たちにどのような御恵みを与えようか、という事を知っています。

ところで、何で天主は私たちを荒れ野に導くのでしょうか?

なぜかというと、主は隠れておられるからです。沈黙の天主であるからです。私たちの肉の目では、目に見えない存在であるからです。天主様はいつも私たちに隠れて、愛の内に働きかけるからです。

その典型的な例が、「御聖体」です。イエズス様は御聖体の内に真に、パンの形色の内に、外見の内に、真に在す天主です。しかしこれは隠れて、パンの外見の下に隠れて、私たちに愛の内に働きかけます。

ちょうど全ての秘跡の中心であり、太陽であるかのように、私たちに真理の光と信仰の光の源となって、愛の熱の源となって、その私たちに光と、熱情と、天主に対する燃えるような愛を伝えてくれます。

私たちはこの光の前で、愛の前で、御聖体の前で、礼拝して、沈黙して、そしてファチマで100年前に天使がしたように、それを罪の償いを込めて、イエズス様を、真に御聖体の内に在し給うイエズス様を礼拝致します。天主は隠れて在す。

御受難の時もそうでした。私たちは四旬節の時に、特に聖週間にこの事を黙想しました。イエズス様は苦しみの、悲しみの人となって、全てのこの世の苦しみ、悲しみ、苦痛、屈辱を受け給いました。

御聖体では人の姿でなくなってパンの形を取っていらっしゃるように、御受難の時にはもはや人間ではないかのように、虫けらであるかのように、ただれて、血まみれになって、この世の全く屑であるかのようになられました。十字架の死に至るまで、屈辱を受けました。天主聖父を愛するが為に。

天主は隠れて、御自分の栄光、御自分の力強さ、御自分の御稜威を隠されて、私たちに愛を以って働きかけようとします。

天主はその秘密があります。この秘密をしかし全く隠すのではなくて、少しずつ私たちに近付くように、私たちがその中に入る事ができるように、助けてくれます。

イエズス様は私たちがその荒れ野に行く事ができるように、御自分で模範を示して下さいました。40日間40夜、御自分の公生活の最初に、荒れ野に行かれました。乾燥した、人が誰も住んでいない砂漠、荒れ野。私たちもこの荒れ野に招かれていきましょう。

私たちが求めるのは、単なる物理的な水の無い荒れ野ではありません。「霊的な沈黙」です。「被造物からの離脱」です。私たちの周りにある騒音が消えるというよりは、私たちの心に沸き起こる情念や、あるいは心配、あるいは憂鬱、あるいはその他色々な被造物の声、あれをしたい、これをしたい、あーだこーだ、それを沈黙させる事です。離脱する事です。被造物を全て脱ぎ捨てる事です。天主に渇く、天主を求める、天主のみと生きる、天主を愛する、という事です。

旧約時代、モーゼを通して天主御自身が、マンナを以って、砂漠で彼らを、旧約の民を養われました。天主は今も私たちに、砂漠で荒野で、御自分自身を以って養って下さろうとされます。「御聖体」は、十字架という最も高貴な木に実る実りです。天主御自身です。それを以って私たちを養おうとされます。

その為に私たちは、天主のみを求める荒れ野に参りましょう。天主を愛するが為、天主の為に、天主と共に、そして天主を受ける為に、天主に満たされるが為に、荒れ野に参りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


霊的秋田巡礼 「天主は荒れ野に隠れてまします」霊的講話1


今日5月14日は、聖コロナの祝日です

2020年05月14日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!
今日は、シリアにおいて、殉教者聖コロナの祝日です。(聖ヴィクトルと聖コロナ)
聖コロナは、疫病の保護聖人として敬われています。

聖コロナは、疫病から守る守護聖人として崇敬されています。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様!こんばんは!今のところ、北イタリアはコロナウ...

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