Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖体降福式は聖体のうちにおける主の御へりくだりの償いである

2020年05月25日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
聖体の顕示に関する黙想
 
聖体降福式は聖体のうちにおける主の御へりくだりの償いである
 
 礼拝 聖体の秘跡のうちに隠れて祭壇上においでになるイエズス・キリストを礼拝しよう。
 
 聖会は多くの殉教者、教皇、博士、聖人たちの口を借りて次の事実をあなたに告げる。ここにおいでなるのは、あなたの天主、童貞母より生まれ、カルワリオ山上で世の人々の罪のために生贄(いけにえ)となり、死んでよみがえられ、天に昇って天父の右に坐し、宇宙を統治されるキリストである、と。
 
 まことにそうであり、あなたもまたこれを確信する。聖体中での主の実在を証(あか)すためには、あなたもまた自分の鮮血を注いでもよいと考えているであろう。
 
 だが、ご復活後の主にとっては、屈辱の時期は過ぎ去った。どんな苦痛も恥辱も、もう主に加えることはできない。そして主は天国で、光栄と誉れとを永遠に所有されるのである。
 
 それなら主は、なぜ人に知られず、謙遜そのものともいえるこの秘跡のうちに満足しておとどまりになるのであろうか。
 
 ああ、それは私たちに対する愛以外に理由がない。主は私たちを愛するあまり、天国での誉れと特権と光栄とのいっさいを自分から捨てて、全能によって秘跡の形で再びこの世にくだり、世の終わりまで私たちといっしょにとどまることを望まれたからである。
 
 主のこの御ふるまいをなんといったらよいのだろうか。聖パウロはご托身について、み言葉は自分を無として奴隷の姿をおとりになったと言いあらわした。いまや、最も美しい人の子、光栄のうちにおけるキリストは、すべての被造物を支配される王笏(おうしゃく)と天使の大軍が恐れおののきつつ礼拝する御稜威とをホスチアの中にひそめ、太陽よりも光り輝く光栄を秘跡のおおいで包み、御父のみ旨への完全な服従によって、いっさいの人類を裁く権利をかち得られたご自身を、人間の意志にすべてゆだねられるのである。主のこのありさまは、ご自分から選ばれた虚無そのものというよりほかに言いあらわす方法がない。
 
 しかし、実は虚無以上の虚無である。なぜなら、もともと虚無なものが虚無になったのは、当然であるが、主の場合には、それが無限の愛によって自由にお選びになった屈辱と犠牲との累積であるからである。
 
 だから、聖体の中においでになる主を礼拝するとともに、償いの義務のあることを忘れてはならない。私たちは、この地上で許されるかぎり天国にならい、私たちのため聖櫃の中にご自身を埋没して放棄されたご光栄を、主にお返ししなければならない。
 
 聖ヨハネは、黄金の玉座にすわられる主をほのおと電光とが囲み、勝利を占められた子羊のみ前に無数の大群衆が讃美歌を歌い、また立ちのぼる祈りの香煙の中で、聖者たちがひれ伏して主におのれの冠をささげるのを見た。
 
 聖体降福式は、ヨハネによってしるされた天国における礼拝の貧弱な模倣である。だから、高くしつらえられた玉座の周囲には、多くの花とろうそくとがあり、その中心には天地を支配される聖体が安置してある。会衆のまなこは、みな主に注がれ、人々の心は、みな主に集まり、これによって諸天使諸聖人はいうまでもなく、御母マリアに対する尊敬も、しばらく光を消してしまうのである。
 
 それでは司祭と信者とを問わず、みんな聖体の玉座のみ前にひれ伏して『勝利を占めたまえる子羊に光栄あれ』との天上の賛美歌に声を合わせよう。『屠られたまう御者に、能力と名誉と賛美と感謝と祝福と世々にあれかし。アーメン。』
 
 感謝 ああ、だが、あまりにも慈愛深いキリストよ、なぜ御身は、このような貧しい償いをもって満足なさるのであろうか。なぜ、主は、勝利者の光栄をもって私たちの眼前にあらわれたまわないのであろうか。もちろん、それは主にお仕えする幸福を私たちに得させてくださるためであって、ただそれだけの理由でも、主はこの隠れた卑しい存在をお選びになったであろうと思われる。しかし、主はなお別に多くの理由ももっておられるのである。
 
 すなわち、主が天国の光栄を捨て、貧弱なパンの一片の外観の中に隠れておいでになるのは、
(一)私たちの救いの源である主のご死去の事実をできるだけはっきり私たちに示されるため、
(二)私たちに貴重な信仰の徳を養わせるため、
(三)主の大いなる光栄を直接に仰ぐには、あまりにもかよわい私たちの目をいたわってくださるため、
(四)世間のごうまんと貪欲とを絶え間ない謙遜と屈辱とによって償いたもうためである。
 
 これらの理由によって、かりに私たちの肉眼には御血を流しておなくなりになる主の御姿を仰ぎ見ることができなくても、聖体はまことに十字架に釘づけられた救い主ご自身にちがいないことがわかる。
 
 このような思いは、あなたの心に最も熱烈な感謝の念をひき起こさないであろうか。
 
 償い もし主が突然聖体のおおいをとって、光り輝く御姿を祭壇上におあらわしになり、怠惰、冷淡、不熱心で、不義の執着に迷う私たちを叱責されるなら、そのすさまじいご威光に、私たちは色を失い、恐れふるえて息が絶えるであろう。それを思えば、今日、無限の御あわれみによって私たちの罪と冷淡とをお見過ごしになる主をあなどる私たちのこの不熱心な状態を継続していてよいであろうか。主をあなどる私たちをどんな刑罰が待ち受けていることであろうか。
 
 祈願 聖体の中で、最上の威勢と光栄とを有しておられる全能の天主が実際においでになって私たちの礼拝と尊敬とを待っておられるから、聖体に対しては愛とともに敬畏を忘れてはならない。ああ、イエズスよ、御身の無限な御慈愛とともに無限なる御稜威の在(ましま)すことを私たちに深くさとらしめたまえ。
 
 実行 聖堂は天国である。目には見えないが、天主の光栄はその中に満ちている。だから聖堂に入ったら、謹慎と謙遜の心をもって、まず聖体を礼拝しよう。






2020年5月24日の聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2020年05月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日、主の昇天後の主日のミサを東京と大阪とで捧げることができました。この憐れみとお恵みを私たちの主イエズス・キリストに感謝します。東京では61名、大阪では18名がミサに与るお恵みが受けました!

緊急事態宣言ももうすぐ解除されそうだとの報道がなされ、これについても感謝します。

東京都の提示した段階的な緩和を進める「ロードマップ」(行程表)によると、第1段階「50人まで」、第2段階「100人まで」、第3段階「1000人まで」なので、それに合わせて、東京でのミサの回数を調整していきたいと思っております。

また、今までのように、皆で一緒に聖歌を歌い、祈りを唱える日が来ることを切に望んでおります。

第三階で、聖伝のミサに与る方々の数も、千人となると更に嬉しく思います。😉☺️😊

フェイスブックでの生中継のミサも、続けていきたいと思います。

今日、東京では、ラテン語と日本語対訳、英語、フランス語のみならず、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ポーランド語、ベトナム語のミサ典書が準備されていました!会長、いつもありがとうございます!

東京のミサ会場の設営と片付けの為に、多くの兄弟姉妹の献身的なご協力を頂いております。深く感謝します。イエズス様が、千倍にして報いて下さいますように!

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 13人(内、子供1人)
女: 9人(内、子供2人)
計: 22人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 10人(内、子供4人)
女: 11人(内、子供4人)
計: 21人(内、子供8人)

12:30のミサ
男: 10人(内、子供0人)
女: 10人(内、子供0人)
計: 18人(内、子供0人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの2人を除く)
男: 31人(内、子供5人)
女: 30人(内、子供6人)
計: 61人(内、子供11人)






【ポーランド語】と【ベトナム語】











2020年5月24日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for May 24, 2020

2020年05月24日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末:2020年5月21日(木)22日(金)23日(土)24日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 5月21日(木)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 5月22日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 5月23日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 5月24日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 5月25日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

5月24日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。12時30分は、比較的に少数です。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of May 24th, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live

11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, last Sunday's mass attendance was as follows:

09:00 - 19
11:00 - 22
12:30 - 18

Mass location:
Iriya Hall 3F
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Thu, May 21: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Fri, May 22: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, May 23: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, May 24: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, May 25: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.








今なら、生きている間なら、栄光の座におられるイエズス・キリストに憐みと赦しを乞うことができる_御昇天後の主日の説教 Sermon for Sunday after Ascension

2020年05月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御昇天後の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

イエズス様のご昇天の神秘を引き続き黙想いたしましょう。

イエズス・キリストが栄光のうちに天主聖父の右に座しておられることは、私たちにとって、人類にとって、どんな意義があるのでしょうか?

主日を、聖母聖月を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


聖体は至高の審判者である

2020年05月24日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
天主である聖体
 
聖体は至高の審判者である
 
 礼拝 あなたの眼前にある聖体が、生きる者と死せる者との恐ろしい審判者であることを知り、幸福なおそれに満たされて、これを礼拝しよう。
 
 たしかに、主の沈黙、主の外見のやさしさにもかかわらず、この柔和で忍耐深いホスチアは、正義の天主であり、ふくしゅうの天主である。ホスチアは、すべてのものを創造された天主であるから、万物に命令する権をもっておいでになり、そして主はこの権をもって、不従順なものを罰されるのである。
 
 また主は万物の根源であるから、すべての被造物の終局目的であり、したがって、私たちが望んでも望まなくても、ついには主のみ手の中に落ちなければならないのである。
 
 最後に、主は、そのお考えと、みわざとに関して、なんぴとにも負うところのない最高の主宰者であられるから、すべての人を裁かれるにあたって、他の抗議を許されない。『なぜなんじは、われらをかくのごとく裁きたもうのか』と主に逆らいうる者はひとりもないのである。
 
 だから、あたかも裁判官の前に出た罪人のように、目を伏せて恥じおののきながら、あらゆる事がらを見通しになる全知の審判者なる聖体を礼拝しよう。この審判者は何者によってもあざむかれず、人によってかたよることなく、また、そのご宣告は永遠に効力をもつ恐るべき正義の天主であられるからである
 
 そればかりではない。ホスチアの中のイエズスは、単に天主として被造物を裁かれるだけでなく、復活された天主の人として、すなわちそのご死去とご勝利とによって、生者と死者とを裁く二重の権利をもった御方である。
 
 キリストはすでに天主のみ言葉と一致されたときから、天主の審判権をおわかちになったのであるが、さらにご自分で人々から不正の裁判と不義の刑罰とを受けられたことによって、これを償うために、あらゆる人類を裁く新しい光栄と権力とを得られたのである。
 
 だから世界の最後の日に、光栄の座にすわって、そこにおののきながら集まる全人類の眼前におあらわれになるとき、主は生者と死者とを裁く最高の権利を十分に使役されることを私たちは覚悟しなければならない。その時、いかなる権威、いかなる力、いかなる御稜威、いかなる光栄を主は示されるであろうか。この時語られるのは主おひとりである。そしてその宣告のいちいちは、たちどころに行われ、永遠にわたって効力をもつであろう。
 
 だからあなたたちは、今、聖体の秘跡の中に、慈愛に満ちて隠れたもう恐るべき審判者を礼拝しよう。ホスチアのむさぐるしい隠れ家から、主があなたのあらゆる行いと、望みと、思いとを見、また裁かれることを忘れてはならない。
 
 主が見、また裁かれるときには、主は、あらゆる事情を考慮して、真理に基づいてこれをなさるのである。あなたに与えられたあらゆる恩恵と、助力とを、また、あなたが主のみ旨に従って生活し、あなたの境遇の義務を尽くし、召命に従っていくために、与えられたあらゆる方法と便宜とを、主はすべて勘定に入れて裁かれる。何ものも主の御目から隠されない。私たちが自分の良心をくらますために用いるにせの理由、私たちが私たちまたは他人をあざむくために用いる口実など、ひとつも主をあざむくことができないのである。主は誤ることができない真理の光を用いて、私たちを裁かれるのである。
 
 だから第一に自分を顧み、自分の罪を痛悔し、謙そんに正直にこれを償ってのち主に近づくようにしよう。
 
 感謝 主は終わりの日の恐るべき審判者でありながら、今日尊いホスチアの中では、慈悲と忍耐とにあふれる、やさしい審判者であることを感謝しよう。
 
 主は私たちの過失を見、私たちの罪の醜さを知っておいでになる。私たちの罪は、至聖なる主を傷つけ、侮辱し、主の愛をないがしろにする。しかし主は私たちの罪をいたく憎まれるにもかかわらず、今はあたかも何ごとも知らず、何ものも見ぬふりをして、おいでになるのである。
 
 そればかりではない。主は私たちの罪を滅ぼし、これを赦し、私たちが真心から改心するために必要な恩恵を与えようとして、祭壇上に御身をいけにえとしてくださるのである。
 
 聖体の中においでになる正義の天主がお与えになる他の祝福は、私たちをして私たち自身を十分に裁かせてくださるということである。もし私たちが毎晩、その日の行為、言葉について、聖体のみ前で私たち自身を裁くなら、翌朝、その真実と謙そんとの報いとして私たちは安心して聖体を拝領することができるであろう。
 
 最後に、聖体の中においでになる正義の天主がお与えになるもうひとつの祝福は、これをふさわしく受ける者が感じる正義に対する飢えと渇きである。彼らの心は、善を愛し、激しく悪を憎むようになる。彼らは血肉の望みを顧みないで、熱心に完徳を追うようになる。彼らは自分の罪を償ったあと、他人の罪のために彼ら自身の肉体を罰するようになる。すなわち彼らは、教会のために、イエズス・キリストのご受難の欠けたところを補い、聖体の御ぎせいに自分を合わせて、天主の正義のむちを受け、罪人を滅びから救うようになるのである。
 
 だからこの秘跡、すなわち、万事が愛と変わったこの秘跡によって、最も恐れなければならない正義においてさえ、仰ぐにこころよく祝福に満ちたものとされた最高の審判者に感謝しよう。
 
 償い だからこの最高の審判者が、聖体の秘跡の中でおおっておられる慈悲、柔和、忍耐のおおいをあなどる者の罪はいかに大きく、その罰はいかに恐ろしいものだろう。彼らは自分の欲と利益とに迷って主をはずかしめ、けいべつし、主の無力をあなどり、主の全知を信じない。そのある者は心の中で主をサタンに渡して冒瀆し、また、ある者は主に最も不正な待遇を与える。
 
 彼らがあなどる天主の忍耐が、彼らの頭上に、主の御怒りと刑罰とを積み上げているのを彼らは知らないのである。どんな恐ろしい未来が彼らを待っていることだろう。ふくしゅうの天主は万事を沈黙のうちに忍んでおられ、これによって悪人が勝利を得たかのようにみえた。人とおなりになった天主、正しい罪のないイエズスは、人々に対しての過度の愛からホスチアの中に隠れて、ご受難の時に受けられたのと同じ不正な裁判を、幾世紀も幾世紀もお忍びになるのである。
 
 しかし、イエズス・キリストは最後の日に、あらゆる不正と不義とに対してふくしゅうされるであろう。聖体がこのようにけいべつされ、捨てられ、不正の裁判を受けられたために、私たちを裁かれる主の御怒りは、いかに恐ろしいものとなるであろうか。一般に罰は、ないがしろにされた愛の大きさに比例する。聖体の秘跡の愛は無限であるから、この愛をないがしろにした者に対しての刑罰は天主の御怒りを傾けつくした恐るべきものとなるのである。
 
 祈願 私たちは毎日、聖体の秘跡における最高の審判者の慈悲と功徳(くどく)と犠牲によりすがり、最後の審判の日の御あわれみを願わねばならない。このために私たちは平素から主を敬い、主と親しみ、主と交わって、主のように考え判断し、希望することを学び、また特に聖体拝領に際して天主の聖徳とイエズス・キリストのご模範を考え、また主のご受難とご死去とをしのんで、今から十分に私たち自身を裁いておく必要がある。
 
 私たちが自分自身を裁くのは、自分を清めてふさわしく聖体を受けることができるためである。私たちはこのようにして過失をただし、罪を繰り返すことを防ぐだけでなく、天主の正義が求められる償いを果たすために、自分で自分を罰さなければならない。
 
 だから、聖体の慈悲の玉座の上に坐したもう審判者に対して、聖会とともに次の祈りを唱えよう。
 
『ふくしゅうの正しき審判者
清算のかの日の前に
わが罪の赦しを与え給え
 
罪人なるわれ、嘆き叫び
恥にわがおもては赤し
天主よ、願う者を赦したまえ
 
なれはマリア(マダレナ)の罪を清め
盗人の祈りを聞き
またわれに希望をたまいぬ
 
わが祈りは、げにふさわざれども
いつくしみの、よきみあるじよ
われを永遠の火より救いたまえ
 
羊の群れにわれを数え
ヤギの群れより引きだしたまえ
右手のかたへわれを並ばしめたまえ』
 
Juste Judex ultionis,
Donum fac remissionis,
Ante diem rationis.
 
Ingemisco, tamquam reus:
Culpa rubet vultus meus:
Supplicanti parce, Deus
 
Qui Mariam absolvisti,
Et latronem exaudisti,
Mihi quoque spem dedisti.
 
Preces meæ non sunt dignæ;
Sed tu bonus fac benigne,
Ne perenni cremer igne.
 
Inter oves locum præsta.
Et ab hædis me sequestra,
Statuens in parte dextra.
 
 実行 毎晩の糾明に際し、特に聖体に対して犯した罪を注意してよく糾明しよう。




5月21日、主の昇天の祝日の午後3時北京は突然の暗闇に包まれたそうです。

2020年05月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

【参考情報】
5月21日、主の昇天の祝日の午後3時00分、北京では、今まで明るかったのに、突然の暗闇に包まれたそうです。





主よ、憐れみ給え!


【参考資料】


【参考資料】2000年6月にバチカンが発表した「ファチマの第3の秘密」

2020年05月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

【参考資料】
2000年6月にバチカンが発表した「ファチマの第3の秘密」と言われているものによると、次の通りです。

“J.M.J.

 天主よ、私は御身への従順のためにこれを書きます。御身はレイリアの司教様と、いとも聖なる御身の御母にして私の母なる聖母マリアとを通して、私にそうすることを命じ給います。

 私がすでに説明した2つの部分の後で、聖母マリアの左の少し上に、私たちは、左手に炎の剣を持つ一位の天使を見ました。この剣はこの世を火で焼くことができるかのように見える炎を出して燃えていました。が、これらの炎は聖母マリアがその右の手からこの天使へと向けて輝き出す輝きに触れて消されてしまいました。天使は、右の手で地上を指し示しながら大きな声で叫びました。「償い!償い!償い!」 そして私たちは巨大な光を見ましたがそれは天主様でした。(人々が鏡の前に立つと、自分の姿が鏡に映されるような様子と何かにていることです。)白い服を着た一人の司教様(私たちはこの司教様は教皇様であるという印象を受けました)、その他の司教様たち、神父様たち、男性、女性、修道者たちが山の上に登っています。その頂上には、樹の皮の付いたコルクの樹の幹を荒く切り倒して作った大きな十字架がありました。そこに辿り着く前に、教皇様は、苦しみと悲しみとで半分震えて半分躊躇する足取りで、半分崩壊した巨大な都市を通り抜け、その途上で出会った死体の霊魂らのために祈っていました。山の頂上に到着すると、大きな十字架の元にひざまずき、彼に向けて弾丸と矢を放った一軍の兵士たちによって殺害されてしまいました。そして同じように、その他の司教様たち、司祭たち、修道士、修道女達、そして様々な階級と職種の平信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の二つの腕の下にいた二位の天使たちは、殉教者達の血を集めて水晶で出来た灌(かん)水器に入れて手に持ち、それで聖水のように天主へと道を進む霊魂たちに振りかけていました。

« J.M.J.

A terceira parte do segredo revelado a 13 de Julho de 1917 na Cova da Iria-Fátima.

Escrevo em acto de obediência a Vós Deus meu, que mo mandais por meio de sua Ex.cia Rev.ma o Senhor Bispo de Leiria e da Vossa e minha Santíssima Mãe.

Depois das duas partes que já expus, vimos ao lado esquerdo de Nossa Senhora um pouco mais alto um Anjo com uma espada de fôgo em a mão esquerda; ao centilar, despedia chamas que parecia iam encendiar o mundo; mas apagavam-se com o contacto do brilho que da mão direita expedia Nossa Senhora ao seu encontro: O Anjo apontando com a mão direita para a terra, com voz forte disse: Penitência, Penitência, Penitência! E vimos n'uma luz emensa que é Deus: “algo semelhante a como se vêem as pessoas n'um espelho quando lhe passam por diante” um Bispo vestido de Branco “tivemos o pressentimento de que era o Santo Padre”. Varios outros Bispos, Sacerdotes, religiosos e religiosas subir uma escabrosa montanha, no cimo da qual estava uma grande Cruz de troncos toscos como se fôra de sobreiro com a casca; o Santo Padre, antes de chegar aí, atravessou uma grande cidade meia em ruínas, e meio trémulo com andar vacilante, acabrunhado de dôr e pena, ia orando pelas almas dos cadáveres que encontrava pelo caminho; chegado ao cimo do monte, prostrado de juelhos aos pés da grande Cruz foi morto por um grupo de soldados que lhe dispararam varios tiros e setas, e assim mesmo foram morrendo uns trás outros os Bispos Sacerdotes, religiosos e religiosas e varias pessoas seculares, cavalheiros e senhoras de varias classes e posições. Sob os dois braços da Cruz estavam dois Anjos cada um com um regador de cristal em a mão, n'êles recolhiam o sangue dos Martires e com êle regavam as almas que se aproximavam de Deus.

Tuy-3-1-1944 ».

ーーーーーーーーーーーー

“J.M.J.

I write in obedience to you, my God, who command me to do so through his Excellency the Bishop of Leiria and through your Most Holy Mother and mine.

After the two parts which I have already explained, at the left of Our Lady and a little above, we saw an Angel with a flaming sword in his left hand; flashing, it gave out flames that looked as though they would set the world on fire; but they died out in contact with the splendour that Our Lady radiated towards him from her right hand: pointing to the earth with his right hand, the Angel cried out in a loud voice: ‘Penance, Penance, Penance!'. And we saw in an immense light that is God: ‘something similar to how people appear in a mirror when they pass in front of it' a Bishop dressed in White ‘we had the impression that it was the Holy Father'. Other Bishops, Priests, men and women Religious going up a steep mountain, at the top of which there was a big Cross of rough-hewn trunks as of a cork-tree with the bark; before reaching there the Holy Father passed through a big city half in ruins and half trembling with halting step, afflicted with pain and sorrow, he prayed for the souls of the corpses he met on his way; having reached the top of the mountain, on his knees at the foot of the big Cross he was killed by a group of soldiers who fired bullets and arrows at him, and in the same way there died one after another the other Bishops, Priests, men and women Religious, and various lay people of different ranks and positions. Beneath the two arms of the Cross there were two Angels each with a crystal aspersorium in his hand, in which they gathered up the blood of the Martyrs and with it sprinkled the souls that were making their way to God.

Tuy-3-1-1944”.




聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である

2020年05月23日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】

聖体の顕示に関する黙想

聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である

 礼拝 聖体顕示器を中心とする荘厳な礼拝の祭式の間に、秘跡のおおいのもとに隠れておいでになる主イエズス・キリストを礼拝しよう。
 主の御稜威の前にひれ伏して、私たちの天主を礼拝しよう。聖櫃の神秘的な隠れ家の中に、光栄に包まれておいでになる救い主を、尊敬と謙そんと聖なる怖れとをもって礼拝しよう。主は顕示台上にあらわれ出でて、あなたに近づいて、あなたのもとにおいでになる。その光輝ある人性は、聖体の陰に隠されているものの、今こそ主は自分でお選びになった牢獄からお出になったのである。主はかつて御墓の石を除かれたように、今、黄金のチボリウムのふたを取り去られ、秘跡的存在の御姿をここにあらわされる。

 あなたは主を宿すホスチア、このいとも妙なる礼拝すべき秘跡であるホスチアを、今、何ものも妨げるものなく直接に眺めることができるのである。だから聖体降福式は『隠れし天主』である主を、あなたにあらわす最も完全な方法であるといわなければならない。

 教会が聖体降福式を許可した理由のひとつは、聖体の中に実在されるイエズス・キリストに対して、ふさわしい賛美をささげさせるためである。ミサ聖祭にあずかることが、新約の生贄(いけにえ)としての聖体を敬うことであり、また、聖体拝領が、生命のパンの無限の御恵みを尊ぶことであると同様に、聖体降福式は、聖体の中でのイエズス・キリストの絶え間ない実在をあがめることにほかならない。

 この祭式の荘厳さ、聖所と祭壇との美しい装飾、連らなるろうそくの輝き、高い玉座の上に安置された顕示器の燦燦(さんさん)たる金色など、すべてがこの事実を示し、聖体に人々の注意と尊敬とを集める。

 また聖会は、それが可能な場合には、聖体の絶えない礼拝も許可している。これは、司祭や信者たちが交替して、昼夜をわかたず顕示されている聖体のみ前にひれ伏し、見えない天使の群れとともに、天主である聖体を礼拝し、これに公の尊敬をささげるのである。

 すべてこれらの祭式は、秘跡の中でのキリストの実在、またその永遠の天主的生命を賛美し、礼拝することを目的とするのである。

 だから私たちは、できるかぎりたびたびこの祭式にあずからなければならない。なぜなら私たちはみな聖体の中でのイエズスの愛の実在に負うところが多いからである。

 感謝 私たちの母である教会が制定するすべての事がらは、すべてイエズス・キリストの聖心が私たちにお与えになる御恵みである。聖体降福式もそのひとつである。

 まず第一に、それは私たちの弱い信仰にとって大きな助けとなる。もちろん、聖体中のイエズスの実在が顕示式によって増すのではない。しかし、私たちはイエズスを包み、イエズスを示すホスチアの外観を、まのあたり眺めて、いっそうこの実在をよく理解し感得することができるようになる。

 これは実に大きな助けである。肉身と霊魂とからなっている私たちは、信仰によるほかに、肉眼によって主を仰ぎ見るとき、主がいっそう私たちに近いのをおぼえるからである。信仰はその対象を見て強められ、ささえられるのである。

 第二に、聖体のいうべからざる光栄と、会衆の敬虔な雰囲気とによって、祈りはもっとたやすくなり、心の散ることも少なくなる。このようにして、これにふさわしい清さと善意とをもって聖体のみ前に出るとき、私たちの霊魂はおのずから不思議な恩恵と信心とを体験するようになる。

 主がはっきりと御姿を示され、ともすると主を忘れようとする私たちの怠惰な心を呼びさまそうとされるのは、はなはだ特殊な恩恵であるといわなければならない。主は私たちが主を絶えず覚え、主のみ前にあって感激することを望まれる。これは、主が私たちを深く愛されるあまりの聖なるご要求なのである。

 償い 聖体降福式の大いなる祝福にも感激せず、あわれみ深い主のご出現に対しても冷淡な者は、まことに信者の名にふさわしくない者である。

 主が聖体顕示の時に私たちをお招きになっても、これに応ぜず、特殊な恩恵をいただいても、これを評価することを知らず、また、主の新たな愛のご努力にも注意せず、主が実在を明示して求められるこのうえない完全な礼拝を拒むのは、主の聖心を傷つけるとともに、いとも高貴にして豊かなる恩恵をむだにすることである。救い主が聖女マルガリタ・マリアに聖心をあらわし、人々の冷淡と忘恩とを嘆かれたのは、聖体の祝日後の聖体顕示の日においてではなかっただろうか。

 聖体降福式にあずかったときのこれまでの不熱心をよく糾明し、自分の忘恩を償い、天主にてまします生贄に深くご同情申しあげよう。

 祈願 世界各国に公の顕示式が広まるように熱心に祈ろう。それはとりもなおさず、主のみ国の実現することを願い、また、主の聖なる人性に大いなる光栄の帰せられるよう祈ることである。同時にそれは、地上で主のご実在がもっと豊かな効果を結ぶことを祈ることにもなる。『父よ、御子に光栄あらしめたまえ。イエズスよ、御身の聖体のみ国の来たらんことを。』 これこそ私たちらの絶え間ない希望であって、私たちの奮発の理由でなければならない。

 実行 私たち自身の奮発と聖なる奉仕とによって、至聖なる公の聖体降福式が広く行われるように努力しよう。




1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である

3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である

私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
 「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」




私たちの主イエズス・キリストの昇天の祝日【写真追加しました】

2020年05月22日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日は、私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日です。大阪では、聖伝のミサが捧げられました。

聖ピオ十世会としては、日本では最初の御昇天のミサだと思っていたのですが、実は、秋田巡礼で一回ありました。☺️😉😊

御聖体に対する冒瀆(ぼうとく)を償うためにも、主の御昇天のお祝いのため、また関西圏では非常事態宣言解除を天主に感謝して、御聖体降福式を行いました。

























聖体は霊魂の医師である

2020年05月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
人である聖体
 
聖体は霊魂の医師である
 
 礼拝 あなたの肉体と霊魂とは無数の病を蔵している。この事実を深く自覚し、あつい望み、けんそんな信頼をもって、いとも親切で力のある医師イエズスを礼拝しよう。
 
 主は医師と呼ばれることを望んでおられ、地上でのかつてのご生涯におけるように、今日聖体のうちにおいても、医師の務めを果たされるのである。『医師を要するは壮健なる人にあらずして病める人なり』とおおせになった主は、いつもどこででも人間の霊魂と肉身との医師でおいでになる。
 
 今日世間は重病に伏し、まことに力のある医師を要している。だから、天来の医師がみ手を休められることなく、ししとしてお励みくださるのは、まことにありがたいかぎりである。
 
 人祖が禁断の木の実を食べてから、病毒は人類の血液中にはいりこみ、諸器官を侵し、血液を腐敗させた。これによって人類は虚弱となり、害毒を受けやすく、その恐ろしい結果として手のくだしようがない難治の病をもつようになった。霊魂の病の本態は、肉身の病よりもいっそうわかりにくい。聖アウグスチノは、『全世界の上に横たわるこの大病人には偉大なる医師が必要である』といった。
 
 主はこの病をいやすために地上においでになった。実に主のご托身それ自身が、すでに根本的に全人類をいやしてくださるものだったのである。主が天主性を、人性すなわち人間の霊魂と肉身とに一致させてくださったことは、そのまま人類を健全な生きた体となされたことである。
 
 天主性に一致されたキリストの人性は、すべての病に対する力のある解毒剤となった。イザヤが『われらは主の御傷によりていやされたり』といったのは、その意味にほかならない。主はそのご教訓をもって私たちの病んだ知能をいやし、愛をもって私たちの死んだ心をよみがえらせ、秘跡をもって主のすべての御徳とご生命とを私たちの霊魂のうちに循環させてくださる。また医師であるキリストは私たちの肉身をも顧みてくださり、あるいは奇跡によって病をいやしてこれを健康体にし、あるいは聖体拝領によって心の苦しみを和らげて光栄ある復活の御約束の保証を与えてくださるのである。
 
 『医師を尊め。そは全能の主われらをあわれみ、病をいやさんとて彼らを送りたまいたればなり』と聖霊もおおせになった。医師としての完全な知識と経験とをもって、私たちのすべての病をいやす方法を知っていらっしゃるイエズスをあがめ、そして礼拝しよう。どんな傷にも献身的な愛を示し、またどんなにわがままで恩知らずの病人であっても忍耐を失われない主をあがめ、そして礼拝しよう。私たちは主の治療に信頼し、その処方を忠実に守って、その全知、全能、全善に依頼して少しも疑ってはならない。
 
 感謝 主が地上のご生涯の間、霊魂または肉体的な病人に、いかなる慈愛と忍耐と熱心とをもって近づかれたかを思うとき、私たちは感謝の心を抱かないではいられない。
 
 主は、彼らを訪問し、また彼らが群れ集まることを許された。『病をいやされんとて群集おびただしく集まり来たり』『彼はそのすべてをいやしたまえり』とは聖書のところどころに見られる言葉である。ある時は、ただ一言をもって、または手を触れただけで病をいやされた。またある時は病人に近づいて御身をかがめ、肉体の健康とともに、慰藉と信仰、改心と心の平和とを与えてくださった。
 
 肉体的な病人よりももっと苦しんでいる精神的な病人、すなわち悲しむ者、泣く者たちに対しても、主は彼らをいやそうと約束なさった。その際、主がお求めになったのは、主の御もとに来てその心に信頼し、いっさいの重荷をおまかせすることだけであった。『われに来たれ、すべて労苦して重荷を負える者よ、われ汝らを回復せしめん』と。
 
 もしあなたが求めるなら、主は今日、より以上のことをしていっそうの愛を示し、私たちのためにその御力を用いて、各人の霊魂のすべての不安、すべての病をいやしてくださるのである。この際のあらゆる薬剤が、たったひとつの偉大な薬のうちに含まれている。それは主ご自身である。主は天主性と人性、ご霊魂とご肉身、御血と御肉、御徳とその御功力とのすべてをもって、ひとつの霊薬をつくり、日々これを私たちに施してくださるのである。アンチオキアの聖イグナチオは『聖体は不死の薬、死の解毒剤、罪を清め悪を追う霊薬である』といった。
 主の薬は非常に飲みやすい。『天よりの医師は甘味に満てるよき香油もて薬をつくり、われらを見守りたもうに倦(う)みたもうことなし』とあるとおりである。たびたび全快はおそく、不明瞭であり、また病人の不注意と不従順とによって妨げられる。しかし主は、少しもこれを意にかけられず、いつも同じ慈愛と深い心づかいとをもっておいでになり、病人の最後の日までこれを繰り返されるのである。
 
 ああ慈悲深いよき医師よ、倦むことなく私たちをいやそうと努めてくださる御身に、すべてをおまかせしない者があるであろうか。深い感謝の心を抱かない者があるであろうか。
 
 償い あなたの霊魂が過去においてわずらったことのある種々の病、また、現在および将来においてかかるかもしれない多くの病について、まじめに、また真剣に、その数、その重さ、その恐ろしさなどを考えてみよう。
 
 心の中に絶えず燃えている邪欲のほのおは、すべての悪の根源である。あなたはその中に生きている。世間、あなたの呼吸する空気、その他すべての感覚的被造物は、内部の邪欲に呼応して、その忌まわしい火をそそりたてる。だから、もしもほんとうに、あなた自身の腐敗と弱さとをあなたが知ったなら、あなたはどれほど自分を怖れ、同時にどんなに全幅の信頼をもって、慈悲深い医師に信頼することであろうか。
 
 ところが実際はこれに反して、私たちは彼を無視し、彼から遠ざかろうと努めている。私たちは真の医師よりも、にせの医師を好んで、創造主に求めなければならないものを被造物に求めている。ちょうど福音書の中に描かれている血漏の婦人のように、全信頼をむなしいものに傾けつくして、しかも病はだんだんと重なってゆくのである。
 
 慈悲深いまことの医師は、私たちのこの狂態を見て、み心を痛められるのである。ああ、いつ私たちは愚かな抵抗をやめ、信頼して彼を迎え、主よりも被造物を愛好するような無礼と侮辱とを改めるのであろうか。
 
 あなたはまた、自分だけでなく、他の愚かな人々のためにも償いをささげなければならない。彼らは自分の病のために、天主である医師をあなどるだけでなく、彼を憎み嫌い、彼の治療の効果を否定し、単に言葉だけでなく、時には暴力をふるってさえ、彼を他の霊的の病人のかたわらから追い払うのである。聖アウグスチヌノは、これらの人々を、天主である医師を十字架にかけた刑吏と同じように憎まねばならないものであるといったが、まさにそのとおりである。
 
 しかしながら主は常に慈悲深く、常に親切で、名誉が傷つけられることも、また生命が危害に会うこともすべてこれを意とせず、愛と忍耐とをもって人々の憎悪に打ち勝とうとして、自分を避ける人々のために祈り、彼らによって尊い御血が流されることがあっても、その御血を彼らの救霊のために天父にささげ、彼らのごうまんがくじけ、かたくなな心が和らげられることを願われるのである。主は縛られ、むちうたれ、ののしられ、あざけられ、十字架につけられ、冒瀆されても、ご自身が彼らをいやすためにあまくだった医師であるというひとことしか考えておられない。
 
 ああいかに不思議な忍耐、献身、けんそん、並びに愛の模範であろうか。私たちはこれをまことにさとってはじめて、愛のいけにえなるいとも愛すべき医師に尊敬と柔順とを誓い、その傷つけられた御稜威にふさわしい償いをなし、み心のお望みになる御慰めをささげることができるのである。
 
 祈願 福音書中で、あわれな病人、盲、つんぼ、不具者などが、その病をいやされるために主に叫んだ熱烈な祈りを、あなた自身のために繰り返すがよい。彼らの祈りは必ず聞き入れられた。あるいはすぐその場で、あるいはもっと不思議な方法で少しのちに。……このことはあなたの信頼を深めるはずである。
 
 生まれつきの盲は『主よ、われをして見えしめたまえ』といった。エリコの盲は『われをあわれれみ給え、ダヴィドの子イエズスよ』と叫んだ。カナアンの女は『わが娘は悪魔に苦しめらる』『子犬もその主の食卓より落つるパンくずを食するにあらずや』と祈った。悪魔につかれた子どもの父は主のみ前にひざまずいて、『主よ、わが子をあわれみたまえ、彼は悪魔につかれて激しく苦しめらる』と嘆いた。十人のらい病人は主の御姿を見かけるとすぐに、遠方から手をあげて、『イエズスよ、よき師よ、われらをあわれみたまえ』と願った。これらの祈りをみな、あなた自身の祈りとするがよい。
 
 もし不信の友だちが、ごうまんと性急との心から、あなたの祈りを妨げるようなことがあるなら、エリコの盲のように、もっと声高く、もっと熱心に叫ばなければならない。だがあなたの祈りは同時に、『主よ、わがしもべ病めり、されどわれは主のわが家の下に入りたもうにたえず、ただひとことをのたまわば彼はいえん』といった百夫長の祈りのようにけんそんでなければならない。
 
 最後に、ミサ聖祭中、司祭が聖体を拝領するときに『主イエズス・キリスト、われは主の御肉と御血とを受くるにたえざれども、願わくはこの聖体拝領が、わが審判と宣告とにならずして、主の御あわれみにより、かえってわが霊魂と肉身との守護といやしとにならんことを』との祈りの言葉を教会といっしょに唱えるがよい。
 
 実行 私たちの苦痛と傷と病とを、聖櫃中においでになる医師に語り、またその薬である聖体を拝領しよう。

















聖グリニョン・ド・モンフォール「聖母に対する真の信心」第一章 聖母に対する信心の素晴らしさと必要性(続き)

2020年05月21日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールによる「童貞聖マリアに対する真の信心」

第一部 聖母に対する信心一般について

第一章 聖母に対する信心の素晴らしさと必要性(続き)

C'est par Marie que le salut du monde a commencé, et c'est par Marie qu'il doit être consommé. Marie n'a presque point paru dans le premier avènement de Jésus-Christ, afin que les hommes, encore peu instruits et éclairés sur la personne de son Fils, ne s'éloignassent pas de la personne de son Fils, en s'attachant trop fortement et trop grossièrement à elle; ce qui apparemment serait arrivé si elle avait été connue, à cause des charmes admirables que le Très-Haut avait mis même en son extérieur : ce qui est si vrai que saint Denys l'Aréopagite nous a laissé par écrit que, quand il la vit, il l'aurait prise pour une divinité, à cause de ses charmes secrets et de sa beauté incomparable, si la foi, dans laquelle il était bien confirmé, ne lui avait appris le contraire; mais, dans le second avènement de Jésus-Christ (59), Marie doit être connue et révélée par le Saint-Esprit, afin de faire par elle connaître, aimer et servir Jésus-Christ. Les raisons qui ont porté le Saint-Esprit à cacher son épouse pendant sa vie, et à ne la révéler que bien peu depuis la prédication de l'Évangile, ne subsistent plus.  世の救いが開始したのはマリアを通してである。それが完成されるべきはマリアを通してである。マリアは、イエズス・キリストの最初の御来臨にはほとんど目立たなかったが、それは、人々が天主の御子のその人について、まだよく知らずよく分かっていなかったので、聖母にあまりに強く、あまりに人間的に愛着して御子から遠ざかることがないためだった。もしも聖母が知られていたとしたら、いと高き天主が聖母の外見にさえ置かれたそのすばらしい魅力のために、それが起こっていただろう。これはあまりにも本当で、アレオパゴスの聖ディオニジオは私たちにこう書き残している。彼が聖母を見た時、もし彼が固くとどまっていた信仰がそうではないと教えなかったら、聖母の秘密の魅力と無比の美しさのために、彼はてっきり、マリアを“天主”だと勘違いしていただろう、と。しかし、イエズス・キリストの再臨において、マリアは聖霊を通して知られ明らかにされねばならない。それはマリアを通してイエズス・キリストが知られ、愛され、奉仕されるためである。聖霊が、御自分の浄配マリアを生涯の間隠し、福音の御宣教以後も聖母をほとんど明らかにしなかった理由が、もうすでにないからである。
Dieu veut donc révéler et découvrir Marie, le chef-d’œuvre de ses mains, dans ces derniers temps : 1° parce qu'elle s'est cachée dans ce monde et s'est mise plus bas que la poussière par sa profonde humilité, ayant obtenu de Dieu, de ses apôtres et évangélistes, qu'elle ne fût point manifestée ; 2° parce qu'étant le chef-d’œuvre des mains de Dieu, aussi bien ici-bas par la grâce que dans le ciel par la gloire, il veut en être glorifié et loué sur la terre par les vivants; 3° comme elle est l'aurore qui précède et découvre le Soleil de justice, qui est Jésus-Christ, elle doit être reconnue et aperçue, afin que Jésus-Christ le soit; 4° étant la voie par laquelle Jésus-Christ est venu à nous la première fois, elle le sera encore lorsqu'il viendra la seconde, quoique non pas (60) de la même manière; 5° étant le moyen sûr et la voie droite et immaculée pour aller à Jésus-Christ et le trouver parfaitement, c'est par elle que les saintes âmes, qui doivent éclater en sainteté, doivent le trouver; celui qui trouvera Marie trouvera la vie, c'est-à-dire Jésus-Christ qui est la voie, la vérité et la vie; mais on ne peut trouver Marie qu'on ne la cherche; on ne peut la chercher qu'on ne la connaisse, car on ne cherche ni on ne désire un objet inconnu : il faut donc que Marie soit plus connue que jamais, à la plus grande connaissance et gloire (61) de la très sainte Trinité ; 6° Marie doit éclater, plus que jamais, en miséricorde, en force et en grâce, dans ces derniers temps : en miséricorde, pour ramener et recevoir amoureusement les pauvres pécheurs et dévoyés qui se convertiront et reviendront à l'Église catholique; en force, contre les ennemis de Dieu, les idolâtres, schismatiques, mahométans, juifs et impies endurcis, qui se révolteront terriblement pour séduire et faire tomber, par promesses et menaces, tous ceux qui leur seront contraires; et enfin elle doit éclater en grâce, pour animer et soutenir les vaillants soldats et fidèles serviteurs de Jésus-Christ, qui combattront pour ses intérêts; 7° enfin, Marie doit être terrible au diable et à ses suppôts comme une armée rangée en bataille, principalement dans ces derniers temps, parce que le diable, sachant bien qu'il a peu de temps, et moins que jamais, pour perdre les âmes, redoublera tous les jours ses efforts et ses combats ; Il suscitera bientôt de nouvelles persécutions, et mettra de terribles embûches aux serviteurs fidèles et aux vrais enfants de Marie, qu'il a plus de peine que les autres à surmonter (62).  従って、天主は御自分のみ手の傑作であるマリアを、この最後の時に明らかにして見出させようと望み給う。何故なら①マリアは、御自分が表われないようにすることを、天主からも、使徒からも、福音記者からも得て、この世でご自分をお隠しになり、その深い御謙遜により御自分を塵(ちり)よりも、さらに低くされたからだ。②マリアは、地上では恩寵による、天上においては栄光による、天主の御手の傑作であり、天主は、この傑作について、生ける人々により地上で栄光を受け賛美されることを望み給うからだ。③マリアが、イエズス・キリストという“正義の太陽”に先駆けてこれを示す“あけぼの”なので、イエズス・キリストが知られ認められるために、聖母が知られ認められねばならないからだ。④マリアは、イエズス・キリストが最初に私たちのもとに通った“道”であり、主が来臨されるときもそうである、それがたとえ同じやり方ではないとしても。⑤マリアは、イエズス・キリストに行くための、またイエズス・キリストを完全に見いだすための確実な手段、まっすぐな汚れのない道であり、聖性において輝きでなければならない聖なる霊魂たちは聖母を通してイエズス・キリストを見いださねばならない。マリアを見いだす人は、生命(いのち)を見いだす(格言8:35)、すなわち「道、真理、生命」(ヨハネ14:6)であるイエズス・キリストを見いだす。しかし、マリアは、さがし求めなければ見いだすことができない。マリアを知らなければ、さがし求められない。何故なら知らないものを、探すことも、望むこともできないからだ。従って、マリアは今までになかったほどより良く知られねばならない。それは、至聖三位一体が最高に知られ、最高に栄光を受けるためである。⑥マリアは、この最後の時において、かつてなかったほど、憐みと、力と、恩寵とにおいて輝きでなければならない。憐みにおいて:何故なら、改心しカトリック教会にもどってくるあわれな罪びとたちと道を外れた人々を、愛情こめて連れ戻し受け入れるために。力において:天主の敵どもに対して、偶像崇拝者、離教者、イスラム教徒ら、ユダヤ教徒ら、約束や脅迫で自分たちの対立者を惑わし倒そうとする恐るべき反抗を企てる頑固な不敬な人々に対して。最後に恩寵において:イエズス・キリストの利益のために戦う勇敢な兵士であり、忠実なしもべたちを力づけ、支えるために。⑦最後に、マリアは、悪魔とその手先どもにとって「陣立てを整えた軍隊のように」(雅歌6:3)戦慄すべき存在でなければならない。とりわけ、この最後の時においてそうである。何故なら、悪魔は霊魂ら失わすために、時間がほとんどなくかつてなく少ないと知っており、日に日にその努力と戦いを倍増させるだろう。悪魔はやがて、自分にとって他の者たちよりも打ち勝ちがたい、マリアの忠実なしもべらと、マリアの真の子どもらに対して、新たな迫害をおこし、恐ろしい謀計をめぐらすだろう。
C'est principalement de ces dernières et cruelles persécutions du diable (63), qui augmenteront tous les jours jusqu'au règne de l'Antéchrist, qu'on doit entendre cette première et célèbre prédiction et malédiction de Dieu, portée dans le paradis terrestre contre le serpent. Il est à propos de l'expliquer ici, pour la gloire de la très sainte Vierge, le salut de ses enfants et la confusion du diable.  反キリストの統治するまで、毎日増加する悪魔のこの残酷で最後の迫害のことについてこそ、地上の楽園で蛇に対してなされた、天主のこの最初の有名な予言と、呪いの言葉を理解すべきである。それをここで説明するのがふさわしい。それは、いとも聖なる童貞女の栄光のため、聖母の子らの救霊のため、また悪魔に恥をかかせるために。
Inimicitias ponam inter te et mulierem, et semen tuum et semen illius ; ipsa conteret caput tuum, et tu insidiaberis calcaneo ejus. (Genes. III, 15) « je mettrai des inimitiés entre toi et la femme, et ta race et la sienne ; elle-même t'écrasera la tête et tu mettras des embûches à son talon. » Inimicitias ponam inter te et mulierem, et semen tuum et semen illius ; ipsa conteret caput tuum, et tu insidiaberis calcaneo ejus.「私は、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に敵対をおく。彼女はおまえのかしらを踏み砕き、おまえは彼女のかかとを攻撃するであろう」(創世記3:15)
Jamais Dieu n'a fait et formé qu'une inimitié, mais irréconciliable, qui durera et augmentera même jusqu'à la fin : c'est entre Marie sa digne mère, et le diable; entre les enfants et serviteurs de la sainte Vierge, et les enfants et suppôts de Lucifer; en sorte que la plus terrible des ennemies que Dieu ait faites contre le diable est Marie sa sainte Mère; il lui a même donné, dès le paradis terrestre, quoiqu'elle ne fût encore que dans son idée, tant de haine contre ce maudit ennemi de Dieu, tant l'industrie pour découvrir la malice de cet ancien serpent, tant de force pour vaincre, terrasser et écraser cet orgueilleux impie, qu'il l'appréhende plus, non seulement que tous les anges et les hommes, mais, en un sens, que Dieu même. Ce n'est pas que l'ire (64), la haine et la puissance de Dieu ne soient infiniment plus grandes que celles de la sainte Vierge, puisque les perfections de Marie sont limitées ; mais c'est 1° parce que Satan, étant orgueilleux, souffre infiniment plus d'être vaincu et puni par une petite et humble servante de Dieu; et son humilité l'humilie plus que le pouvoir divin; 2° parce que Dieu a donné à Marie un si grand pouvoir contre les diables, qu'ils craignent plus, comme ils ont été souvent obligés de l'avouer malgré eux par la bouche des possédés, un seul de ses soupirs pour quelque âme, que les prières de tous les saints, et une seule de ses menaces contre eux, que tous les autres tourments.  天主は、終わりまで続き増加し続けさえする唯一の敵対、しかも和解し得ない敵対を、一つだけ作り形成した。それは、天主の威厳ある聖母マリアと悪魔との間の敵対であり、聖母の子供たちとしもべらと、ルチフェル(堕天使の頭)の子らとその手先との間の敵対である。それは、天主が作った、悪魔に対する最高に恐ろしい敵は、天主の御母マリアとなるためである。地上の楽園の時からすでに、天主は聖母に、といっても聖母はまだ天主の御計画の中にしかおられなかったが、聖母に天主のこの呪われた敵に対する多くの憎しみと、この古(いにしえ)のヘビの悪意を見抜く深い鋭さと、この傲慢な不敬の悪魔に勝利し、打倒し、ふみ砕く絶大な力をお与えになった。そのため悪魔は聖母を、全ての天使と人間たちよりも、いや、ある意味では天主御自分よりも恐れている。これは天主の怒りや憎悪や力が、聖母のそれよりも無限に大きいのではない、ということではない。何故なら、マリアの完全さには限度があるからだ。そうではなく、それは、第一に、サタンは高慢なので、天主の御力よりも、ちっぽけで謙遜な、天主のはしためによって、負かされ、罰っせられるほうが、果てしなく苦しむからである。天主の全能よりも、聖母の謙遜は悪魔をより辱めるからである。第二に、天主はマリアに、悪魔らに対する偉大な力をお与えになったので、悪魔憑きらの口を通して、しばしば嫌々ながら白状せざるをえなかったように、悪魔らは、全ての聖人の祈りよりも、聖母がある霊魂のためにするたった一回の溜息の方をより恐れる程だ。悪魔らに対する聖母のたった一回の脅しの方が、他の全ての苦しみよりも、より恐ろしいのだ。
Ce que Lucifer a perdu par orgueil, Marie l'a gagné par humilité ; ce qu'Ève a damné et perdu par désobéissance, Marie l'a sauvé par obéissance. Ève, en obéissant au serpent, a perdu tous ses enfants avec elle, et les lui a livrés ; Marie, s'étant rendue parfaitement fidèle à Dieu, a sauvé tous ses enfants et serviteurs avec elle, et les a consacrés à sa majesté (65).  ルチフェル(悪魔)が高慢によって失ったものを、マリアは謙遜によって得た。エワが不従順によって亡ぼし失ったものを、マリアは従順によって救った。エワは蛇に従順になり、自分の子ら(全人類)を自分と共に失い、子らを悪魔に渡した。マリアは、完全に天主に忠実になり、御自分と共に全ての子ども、全てのしもべを救い、天主の御稜威に彼らを奉献した。
Non seulement Dieu a mis une inimitié, mais des inimitiés, non seulement entre Marie et le démon, mais entre la race de la sainte Vierge et la race du démon ; c'est-à-dire que Dieu a mis des inimitiés, des antipathies et haines secrètes entre les vrais enfants et serviteurs de Marie et les enfants et esclaves du diable ; ils ne s'aiment point mutuellement, ils n'ont point de correspondance intérieure (66) les uns avec les autres. Les enfants de Bélial (67), les esclaves de Satan, les amis du monde, (car c'est la même chose), ont toujours persécuté jusqu'ici et persécuteront plus que jamais ceux et celles qui appartiennent à la très sainte Vierge; comme autrefois Caïn persécuta son frère Abel, et Ésaü son frère Jacob, qui sont les figures des réprouvés et des prédestinés; mais l'humble Marie aura toujours la victoire sur cet orgueilleux, et si grande, qu'elle ira jusqu'à lui écraser la tête où réside son orgueil. Elle découvrira toujours sa malice de serpent, elle éventera ses mines infernales et dissipera ses conseils diaboliques, et garantira jusqu'à la fin des temps ses fidèles serviteurs de sa patte cruelle ; mais le pouvoir de Marie sur tous les diables éclatera particulièrement dans les derniers temps où Satan mettra des embûches à son talon, c'est-à-dire à ses humbles esclaves (68) et à ses pauvres enfants qu'elle suscitera pour lui faire la guerre. Ils seront petits et pauvres selon le monde, et abaissés devant tous comme le talon, foulés et persécutés comme le talon l'est à l'égard des autres membres du corps ; mais en échange ils seront riches en grâce de Dieu, que Marie leur distribuera abondamment ; grands et relevés en sainteté devant Dieu ; supérieurs à toute créature par leur zèle animé ; et si fortement appuyés du secours divin, qu'avec l'humilité de leur talon, en union de Marie, ils écraseront la tête du diable et feront triompher Jésus-Christ.  天主は一つの敵対ではなく複数の敵対【inimicitias】を置いた。マリアと悪魔との間だけでなく、聖母の種族と悪魔の種族との間に置いた。つまり、天主はマリアの真の子供としもべ、そして悪魔の子供と奴隷、この両者の間に、数々の敵対、反感、秘密の憎しみを置かれた。この両者は相互に愛し合うことがない。両者は、互いに内的なつながりがない。ベリアルの子ら、悪魔の奴隷、この世の友、これらはみな同じであるが、彼らは、今日まで常に聖母に属する人々を迫害したが、今後も今まで以上に迫害するだろう。かつてカインが弟のアベルを迫害したように。エザウが弟のヤコブを迫害したように。カインとエザウは、亡びる人の前じるしである。アベルとヤコブは救われる人の前じるしである。しかし謙遜なマリアはこの高慢な悪魔に対して、いつも勝利を得るだろう。しかも、高慢の宿る頭部を踏み砕くまで行く大きな勝利を。聖母はいつも、蛇の悪意を見抜くだろう。地獄的なその地雷を堀出し、悪魔的な勧めを散らすだろう。御自分の忠実なしもべたちを、世の終わりまで悪魔の残酷な手から守ることを保証するだろう。しかし、マリアが全ての悪魔どもに対して持つ力は、とりわけ最後の時に輝くだろう。その時、サタンは聖母の踵(かかと)に襲いかかる。つまり、聖母が悪魔と決戦するために起こす、聖母の謙遜な奴隷たち、聖母の貧しい子らに対して、である。彼らは世間によれば、小さく、貧弱だろう。全ての人々の前では踵(かかと)のようにさげすまれ、踵が体の他の肢体からそうされるように、踏まれ、圧迫を受けるだろう。しかしその代わりに、彼らは天主の恩寵に富むだろう。マリアが彼らに豊富に分配するだろうからだ。彼らは、天主の御前で、聖徳において偉大で高められ、その熱心においては全被造物に勝り、天主の助けに強く支えられ、自分の踵の謙遜をもって、マリアと一致しつつ、悪魔の頭を踏み砕き、イエズス・キリストを凱旋させるだろう。
Enfin Dieu veut que sa sainte mère soit à présent plus connue, plus aimée, plus honorée que jamais elle n'a été ; ce qui arrivera sans doute si les prédestinés entrent, avec la grâce et la lumière du Saint-Esprit, dans la pratique intérieure et parfaite que je leur découvrirai dans la suite : pour lors, ils verront clairement, autant que la foi le permet, cette belle étoile de la mer ; et ils arriveront à bon port, malgré les tempêtes et les pirates, en suivant sa conduite ; ils connaîtront les grandeurs de cette souveraine, et ils se consacreront entièrement à son service, comme ses sujets et ses esclaves d'amour ; ils éprouveront ses douceurs et ses bontés maternelles, et ils l'aimeront tendrement comme ses enfants bien-aimés ; ils connaîtront les miséricordes dont elle est pleine, et les besoins où ils sont de son secours, et ils auront recours à elle en toutes choses comme à leur chère avocate et médiatrice auprès de Jésus-Christ ; ils sauront qu'elle est le moyen le plus assuré, le plus aisé, le plus court et le plus parfait pour aller à Jésus-Christ, et ils se livreront à elle, corps et âme, sans partage, pour être à Jésus-Christ de même.  最後に、天主はその聖母が、現在、これまでに過去なかったほどより知られ、より愛され、より尊敬されることをお望みになる。これのことは、おそらく、救われる人々が聖霊の恩寵と光と共に、私がこれから彼らに見出させる内的で完全な実践を実行するなら達成されるだろう。その時、彼らは信仰がそれを許す限り、この美しい“海の星”をはっきり見るだろう。彼らはこの星に従って、暴風雨や海賊にもかかわらず、目的の港にたどり着くだろう。彼らはこの女王の偉大さを知るだろう。そして聖母の家臣として、愛の奴隷として、聖母への奉仕にまったく自分を奉献し尽くすだろう。彼らは、聖母の母としての甘美さと優しさを実感し、聖母から愛された子供たちとして優しく聖母を愛すだろう。彼らは、聖母がそれで満ち溢れている憐みを知り、聖母の助けがどれほど必要かを理解し、イエズス・キリストの御前における自分たちの愛する弁護者かつ仲介者として、万事において、聖母のもとに馳せゆき、助けを求めるだろう。聖母こそイエズス・キリストに至る最も確実で、最も容易で、最短の、最高に完全な手段であると知るだろう。そして彼らは、イエズス・キリストのものになりきるために、自分の体も、霊魂も、残りくまなく聖母にささげ尽くすだろう。
Mais qui seront ces serviteurs, esclaves et enfants de Marie ? Ce seront un feu brûlant des ministres du Seigneur qui mettront le feu de l'amour divin partout ; ce seront sicut sagittae in manu potentis, « des flèches aiguës dans la main de la puissante Marie, » pour percer ses ennemis.  ところで、これらマリアの家臣、奴隷、子供たちとは、誰なのか?それは、主のしもべら(詩篇104:4)の燃えさかる炎で、彼らは天主の愛の火をいたる処に点じるだろう。それはsicut sagittae in manu potentis力ある方の手にある矢のよう、つまりご自分の敵どもを貫く「力ある方であるマリアの手にある鋭い矢のよう」(詩篇127:4)である。
Ce seront des enfants de Lévi, bien purifiés par le feu de grande tribulation, et bien collés à Dieu (69), qui porteront l'or de l'amour dans le cœur, l'encens de l'oraison dans l'esprit, et la myrrhe de la mortification dans le corps ; et qui seront partout la bonne odeur de Jésus-Christ aux pauvres et aux petits, tandis qu'ils seront une odeur de mort aux grands, aux riches et aux orgueilleux mondains.  それは、大いなる苦悩の火で清められ、天主と密着したレヴィ族の子供らである。彼らは心に愛の黄金を、精神に祈りの乳香を、体に苦行の没薬を帯びるだろう。かれれは、貧しい人たちや小さな人たちにとっては、どこででも「イエズス・キリストのかぐわしい香り」(Ⅱコリント2:15~16)だろう。他方で、この世的な偉い人、富んだ人、高慢な人たちにとっては、“死のかおり”だろう。
Ce seront des nuées tonnantes et volantes par les airs au moindre souffle du Saint-Esprit, qui, sans s'attacher à rien, ni s'étonner de rien, ni se mettre en peine de rien, répandront la pluie de la parole de Dieu et de la vie éternelle ; ils tonneront contre le péché, ils gronderont contre le monde, ils frapperont le diable et ses suppôts ; et ils perceront d'outre en outre, pour la vie ou pour la mort, avec leur glaive à deux tranchants de la parole de Dieu, tous ceux auxquels ils seront envoyés de la part du Très-Haut.  彼らは、聖霊のかすかな息吹で天空をめぐって飛ぶ雷雲(イザヤ60:8)だろう。彼らは、何にも愛着せず、何にも驚かず、何も心配せず、天主のことばと永遠の生命の雨を降らせるだろう。罪を弾劾して雷鳴のようにとどろき、世間を叱りつけ、悪魔とその手先を撃ち、天主のことばという「両刃の剣」(ヘブレオ4:12)で、いと高き天主が送った全ての人々を端から端まで刺し貫き、ある者は生命に至り、或いは、死に至るだろう。
Ce seront des apôtres véritables des derniers temps, à qui le Seigneur des vertus donnera la parole et la force pour opérer des merveilles et remporter des dépouilles glorieuses sur ses ennemis ; ils dormiront sans or ni argent, et qui plus est, sans soin (70), « au milieu des autres prêtres, ecclésiastiques et clercs », inter medios cleros, et cependant auront les ailes argentées de la colombe pour aller, avec la pure intention de la gloire de Dieu et du salut des âmes, où le Saint-Esprit les appellera; et ils ne laisseront après eux, dans les lieux où ils auront prêché, que l'or de la charité qui est l'accomplissement de toute la loi(71).  彼らこそ、最後の時の真の使徒たちである。彼らが奇跡を行い天主の敵どもに勝利し、栄光ある戦利品をもたらすために、力ある主は彼らに言葉と力とをお与えになる。彼らは、金も銀もなく、さらには地上のことに無頓着で、他の司祭、聖職者らの中でinter medios cleros眠るだろう。しかし彼らには銀の“ハトの翼”(詩篇68:14)を持ち、天主の栄光と霊魂の救いという清らかな意向をもって、聖霊がお呼びになる所に飛んでいく。彼らは自分が説教した場には、「全律法の完成」(ローマ13:10)である愛徳の黄金しか残さないだろう。
Enfin nous savons que ce seront de vrais disciples de Jésus-Christ, qui, marchant sur les traces de sa pauvreté, humilité, mépris du monde et charité, enseigneront la voie étroite de Dieu dans la pure vérité, selon le saint évangile et non selon les maximes du monde, sans se mettre en peine ni faire acception de personne, sans épargner, écouter ni craindre aucun mortel, quelque puissant qu'il soit.  彼らこそイエズス・キリストの真の弟子たちであると私たちは知っている。彼らは、主の清貧や御謙遜、この世を軽蔑することや愛徳といった徳の足跡を歩みながら、この世の格言によらず、聖福音に従って、純粋な真理において、天主の狭き道を教えるだろう。誰をもはばからず、誰の顔色もうかがわず(マテオ22:16)、誰も容赦せず、どれほど権力のある人であったとしても死すべき人間のおどしを耳に入れず、恐れない。
Ils auront dans leur bouche le glaive à deux tranchants de la parole de Dieu ; ils porteront sur leurs épaules l'étendard ensanglanté de la Croix, le Crucifix dans la main droite, le chapelet dans la gauche, les sacrés noms de Jésus et de Marie sur leur cœur, et la modestie et mortification de Jésus-Christ dans toute leur conduite.  彼らはその口の中に、天主の言葉という「両刃の剣」(ヘブレオ4:12)を持つだろう。彼らの両肩は十字架の血染めの御旗を担ぎ、右手には十字架像、左手にはロザリオ、心にはイエズスとマリアの聖名(みな)、彼らの全ての身の振る舞いにはイエズス・キリストの慎みと苦業とを帯びるだろう。
Voilà de grands hommes qui viendront : mais Marie sera là par ordre du Très-Haut, pour étendre son empire sur celui des impies, idolâtres et mahométans. Mais quand et comment cela sera-t-il ?... Dieu seul le sait ; c'est à nous de nous taire, de prier, de soupirer et d'attendre : Exspectans exspectavi (72).  以上が、来る偉大な人たちである。しかし、マリアは、いと高き天主の命令により、不敬な者ども、偶像崇拝者たち、イスラム教徒たちの帝国の上に、御自分の支配を拡張させるため、そこにおられるだろう。しかし、いつ、どのように、それが実現するのだろうか?天主のみがこれを知っておられる。私たちは、ただ黙り、祈り、嘆息し、待つのみである。「私は待ち望みつつ待ち望んだ。」(詩篇40:1)


聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆(ぼうとく)の最善の償いである

2020年05月20日 | お説教・霊的講話
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
聖体礼拝の理由
 
聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆(ぼうとく)の最善の償いである
 
 礼拝 万物の主である天主を認めないで、信仰の教えるところに反して天主をあなどる者は、天主の御稜威の冒瀆(ぼうとく)者である。そればかりでなく、天主が人となって地上においでになり、この世にお住みになったのであるから、彼らは同時に、天主且つ人イエズス・キリストの冒瀆者である。
 
 彼らは主が天主であることを否み、主の童貞マリアからお生まれになったことを信ぜず、主のご生涯を物語とみなし、主、および、主が世の終わりに至るまで人類の光明として建設された聖会の権威をけいべつする。また彼らは主の制定されたいっさいの秘跡をあざけり、主が模範を示されたすべての信心のわざをあなどる。
 
 彼らによると、天主とはひとつの空虚な名称にすぎず、イエズス・キリストは幻覚にとらわれた狂人で、天啓はすべて虚偽であって、教会は人間の権利を侵害する野心家の団体にほかならない。以上の事がらは公に説かれて多数の人々に信用され、紙上の論説となって大衆の間に広がってゆく。
 
 すべてこれらは、全世界をおおう濁流である。ちょうど地獄が口を開いてすべての悪魔を出だし、彼らの呪いを地上に吐かせたようである。
 
 侮辱は賛美を、憎悪は愛を、冒瀆(ぼうとく)は礼拝を要求する。
 
 だから、主を信じている私たちは、まことの天主、まことの人なるイエズス・キリストが生き、またこの中にお住まいになっている聖体の秘跡を礼拝しよう。
 
 聖体の前にひれ伏して、できるかぎりの信仰と愛とをもって、主キリストが唯一まことの天主、聖の聖なる御者でおいでになり、天地の創造主であることを公言しよう。
 
 主が万物のはじめであり、終わりであること、天においても地においても、いっさいの天使と人類とは、みな主に属し、主に服従し、主の御おきてをあがめ、主のみ前に礼拝しなければならないことを告白しよう。
 
 主が天主の御ひとり子のペルソナと合わせられたまことの人で、いっさいの徳、いっさいの能力をそなえておいでになることを主張しよう。
 
 このような信徳と愛徳との祈りを繰り返し、この祈りをイエズスご自身にほかならぬ尊いホスチアにささげよう。そして、もしできれば、これによってあの恐ろしい冒瀆(ぼうとく)が主に達しないために、賛美をもってホスチアを包囲しよう。
 
 感謝 絶えず繰り返される無数の冒瀆(ぼうとく)は、主の愛と御稜威を考えるとき、まことに極悪無道の行ないであるといわなければならない。私たちはこの事実を前にして、心の張り裂けるのをおぼえる。かの恐ろしい冒瀆を償い、無礼を除く方法を案出しなければ、私たちはとうてい安心することができない。
 
 ところがこの方法は、私たちの手の届くところに存在する。すなわち至聖なる聖体の礼拝がこれである。
 
 天主のみ前において、善業の功徳は冒瀆を消す。だから天主は、賛美をもって汚聖を、尊敬をもってけいべつを、けんそんな信仰をもって不信を、愛をもって憎悪を償わせたもうのである。
 
 ところが聖体の礼拝は、これらの善業のすべてを含んでいる。すなわち私たちが聖体を礼拝するのは、イエズス・キリストのうちに存在する神性の完徳を認め、イエズス・キリストのもっておられる天主的主権を認めるからである。またそれは、イエズス・キリストによって、天主がいっさいの恩恵の恵み豊かな与え主でいらっしゃることを、喜びと感謝とをもってお認めするからである。なおそのうえ、御血であがなわれた人々が繰り返し犯す罪によって破ったイエズスのみ心をお慰めするためである。これらすべては、冒瀆(ぼうとく)の正反対である賛美、信仰、愛徳、その他の善業でなくて何であろうか。
 
 そのうえ、主のおいでになる場所に来て、直接にイエズスにこのけいけんな務めをささげるのであるから、私たちの礼拝はいっそう完全になる。なぜなら、他の事がらをさしおいて主のみもとに来るためには、私たちはたびたび、かなり大きなぎせいをはらわなければならないからである。
 
 このように確実で容易な、しかも完全な償いの方法を与えてくださった主の御慈悲を感謝し、同時にこれを利用して、尊い救い主に冒瀆が加えられるのを見るたびに私たちが感ずる心の苦しみを、これによって慰めようではないか。
 
 償い 心からいっさいの冒瀆を悲しみ嘆こう。心に、この悪魔的行為の醜さと恐ろしさとをよく刻みつけよう。なぜ冒瀆がこのように忌まわしいかというと、冒瀆は、ただ愛によってのみ私たちを造り、すべてのよいものを私たちに与えることを唯一の喜びとしておられる天主に対して直接の反逆となるからである。
 
 天主は愛によって私たちと同じ人間となり、いっさいの恩恵と天国の相続権とを私たちに与えるために、そのご霊魂をすべての悲哀のなかにひたし、そのご肉身をすべての苦痛にわたし、そのご生命をいとも悲惨な死によって失われたのである。
 
 天主の愛から出たこの大いなるお恵みを、冒瀆者のあざけりと不信とに対比しよう。このようにあわれみ深い天主を無理に冒瀆するとは、いかなる憎悪いかなる盲目の結果であろうか。
 
 主のために同情し主のために嘆こう。また御許しを願おう。聖母が十字架のもとに立って、御子の苦悩を見守りながらお感じになった御苦しみをわかとう。自分の償いを補うために、聖母の償いをおささげしよう。
 
 祈願 冒瀆者の陥っている悲惨な状態、彼らが招いた天主の激しい御怒りと、彼らを待っている恐ろしい刑罰とを考えるなら、どうして彼らのために熱心に祈らないでいられるだろうか。
 
 彼らがついに目ざめて、あなどられたもう天主を知ることができるようお願いしよう。冒瀆が地上にあとを断って、この世から消失することをお願いしよう。聖母とともに祈り、聖母とともに冒瀆者のために泣こう。祭壇の上で絶えずささげられるイエズスご自身の祈りに声をお合わせしよう。『父よ彼らを許したまえ。そは彼らそのなすところを知らざればなり』と。
 
 実行 聖体のうちにおいでになる天主に対し、大いなる反逆を償う心をもって、すべての善業を行なおう。

















聖母への真の信心の効果がどれほど素晴らしいか、最初の二つの効果

2020年05月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年5月17日(主日)復活後第5主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
「聖母への真の信心の効果がどれほど素晴らしいか、最初の二つの効果」をご紹介いたします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、5月は聖母聖月、マリア様の月です。

この前は、「マリア様に対する真の信心」、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールの真の信心をするその理由を少しお話しました。「8つある」という事をお話しました。

ところで、同じ本の中で、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、「その効果がどれほど素晴らしいものか」という事を説明しています。聖人は「7つ」その効果を説明していますけれども、その一つ一つがとても深くて、そしてその説明を7つ目になればなるほど効果が、後になればなるほど、そのものすごいという事が分かります。

最初の、その小さな効果の内の最初の2つを、今日一緒に黙想する事を提案します。

聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「最初の効果は、自分の無価値さ、自分が何でもない、という事を理解するようになること」と言っています。

多くの罪は、傲慢とか利己主義とか、自分のやりたい通りにやりたい、天主を無視する、という事で犯されます。

しかし「この真の信心をする事によって、聖霊の花嫁であるマリア様からの特別な光をもらって、『私たちが一体何であるか』という事をよく理解できるようになる。つまり『私たちは被造物であって、何の価値もないものだ。天主の前で無である』という事を理解できるようになる。」

するとどうなるかというと、私たちがたとえ軽蔑されても、私たちがバカにされても、別に怒ったりもせずに、それは何でもなくなります。いや、むしろ「私たちはその謙遜を愛するようになる」と説明します。「そうする事によって私たちはますます、マリア様の御謙遜に深く一致する事ができるようになる」と説明します。

これが第1の効果です。

第2の効果は、「マリア様の信仰に与る事ができること」といいます。

マリア様がこの地上で生活していた間は、非常に素晴らしい信仰をお持ちでした。アブラハムの信仰は偉大でしたが、それを遥かに超えたものでした。大聖人、あるいは殉教者、その他多くの偉大な聖人たちの信仰を、マリア様の信仰は遥かに超えた、深い、生き生きとしたものでした。

マリア様の信仰は、本当に天の星々の数が数え切れないように、海原の真砂が数え切れないほどの、ものすごいものでした。

マリア様の信仰はまさに、生き生きとした、愛に満ちたものであって、純粋に天主に対する愛だけによって生かされていました。

マリア様の信仰はまさに、確固としたものであって、どのような困難があっても、苦しみがあっても、あるいは台風があっても、震える事なくガッシリとしていて、そして微動だにする事がありませんでした。確固とした信仰。

マリア様の信仰はまさに、非常に活動的なものであって、そして天主の神秘の中に深く深く入る事ができるものでした。ちょうど、コンピューターのパスワードがあれば、あるいは鍵があれば、どんな深くでも入っていく事ができるかのように、マリア様の信仰はまさに、天主様の一番奥深くまで行くような信仰でした。

マリア様の信仰はまさに、非常に勇敢で果敢であって、そしてどんな事でも、どんな難しい事であったとしても、困難があったとしても、霊魂の救いの為に、あるいは天主の栄光の為にそれをやってのける、それに向かっていく、というものでした。何ものにもひるまないものでした。

「この信仰、これを、私たちが聖母に対する真の信仰によって参与する事ができる、分かち合う事ができる」と教えています。

聖母聖月、あとまだ半分残っています。マリア様のこの信心をする事によって更にもっと深い効果がありますけれども、それは皆さん本を読んで、じっくりと黙想なさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。









教会の精神に従って、私たちの主の昇天の祝日の準備を致しよう

2020年05月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年5月17日(主日)主の復活後第5主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は主の復活後第5主日です。

あと数日で、来たる木曜日には、主の昇天の祝日があります。

私たちの主は、40日の断食の後に、悪魔に対して勝利を収めました。復活の後には、40日間弟子たちに現れて、御自分が真に復活したという事を、その勝利を見せびらかして、そして最後には、ちょうど凱旋門をマーチする優勝チームのその監督のように、天に昇られました。御自分の力で、凱旋的に昇られました。そして天主聖父の右の座に、永久に座しました。

これは、天主御自身が、人となった天主御自身が、人間性を以って、最も高いところまで地位まで上げられた、という事です。人間として上げられた、という事です。こうして御自分の大勝利を、確実に、永久に、絶対的に確立された、という事です。この祝日を、あと数日で祝います。来たる木曜日です。私たちは何と喜ばしい事でしょうか。

私たちはこの御昇天の祝日を目前に、では一体どこに行けば良いのか?という事を確実に知る事ができます。「天の国」です。私たちの主が座って、私たちを待って、私たちの為に祈り取り次いでおられる天の国です。

そしてどの道を通っていけば良いかも分かります。「イエズス・キリスト」という道を通って、イエズス・キリスト様が教えて下さった「十字架の道」を通って行く事です。

イエズス様が私たちの為に勝利を収めた、復活の勝利を収めた、悪魔に対する勝利を収めた、死と罪に対する大勝利を収めたというのは、まさに「祈り」と「謙遜」と「十字架」、人間のこの弱い、この弱さを以っての大勝利でした。

私たちは確実に知っている事が1つあります、「私たちにはただ1人、イエズス・キリストしか真の救世主がいない」という事です。「真の勝利がない」という事です。

もしもこの真理を、事実を拒否するのならば、今これを受ける事ができないならばどうなるでしょうか?

救世主としてではなく、裁判者として、この世の終わりにもう一度、イエズス・キリストに会わなければならなくなりません。今では憐みの主として、今では私たちを助ける、天国へと導く者としていらっしゃいますけれども、しかしその時には、既に時は遅かりし、私たちを正義によって厳しく審判する裁判者として、裁判官として、生ける者と死せる者を裁く為に来たり給う裁判官として、会わなければなりません。この方以外に、人類を裁く方はいません。イエズス・キリストです。

では愛する兄弟の皆さん、この教会の精神に従って、教会と共に、カトリック教会と共に、私たちの主の昇天の祝日の準備を致しましょう。私たちの弱さにもかかわらず、この天の国に導かれる事ができますように。

どうしたら良いでしょうか?

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様はファチマでこう仰いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天に導く道である。天主へと導く道である」と。願わくは、マリア様が私たちをいつも助けて下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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