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私たちの主イエズス・キリストが天主御父の右に座したことは、私たちにとってどんな意義があるか?何を意味するのか?

2020年05月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2020年5月24日(主日)御昇天後の主日のテレ説教です。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は御昇天後の主日です。御昇天の神秘を、続けて黙想致しましょう。

【1: 御昇天の神秘】
私たちの主イエズス・キリストは、天に昇られました。イエズス・キリストは、人となった真の天主です。真の天主にして、真の人。天主の御言葉のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性とが合体した御方です。

主は、天主としては天国に常にましますけれども、御昇天で人間として、つまり肉体と霊魂とを伴って、天国に入りました。

イエズス様は天国に凱旋するのみか、天の最も高い所に、つまり、天主御父の右の座に座しておられます。主はこの玉座で、全被造物から礼拝を受けなければなりません。

聖パウロは言っています、「イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、みな膝をかがめ、全ての舌が、父なる天主の光栄を崇め、『イエズス・キリストは主である』と言い表す」(フィリッピ人への手紙2:10-11)為です。

【2:何故御昇天か?】
では、何故御昇天なのでしょうか?

イエズス・キリストが、この地上で生活をしておられた時、ほとんどの人々は、主の事をそうとは知らずに、主に鞭打ち、茨の冠をかむらせ、十字架に釘付けにしました。そんなに大切な御方だとは知らずに、命の主を虫けらのように足で踏みにじりました。

私たちの主は、これら全ての屈辱の苦しみのカリスを、御父に全く服従するために甘受しました。御父の御旨と御自分とを全く一致させて、いけにえとなる事に同意しました。

イエズス様の人間本性は全く完璧で美しく、主は全ての人の子の中で最も美しい方、最も完成された方でした。全ての天使たちはイエズス・キリストを、我を忘れて感嘆し、讃美していました。

この人類の最高の人間、人間となった天主イエズス・キリストは、御自分の兄弟である私たち人類の罪の負債を完全に、しかも有り余るほど支払う為に、辱めと苦しみの大海原の中に喜んで身を沈められました。

聖パウロは言っています、イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主は彼を称揚し、全ての名にまさる名をお与えになられた」(フィリッピ人への手紙2:8-9)と。

愛する兄弟姉妹の皆さんは、この地上での主の悲しみに寄り添って、主のカルワリオへの巡礼の道に従ってこられました。主の御苦しみを黙想してこられました。今日は頭を上げて、御昇天された主を見上げてください。主のおられる天のいとも高い所をご覧ください。悲しみの人であった私たちの主イエズス・キリストは、今や栄光の王となっておられます。

【3:結果】
では、私たちの主イエズス・キリストが、栄光の内に天主御父の右に座しておられる、という事は、私たちにとって、人類にとって、どんな意義があるでしょうか?これは何を意味するのでしょうか?

2つあります。

[1] 第1に、御父はイエズス・キリストを、「生ける人と死せる人との裁き主」として定められました。つまり、兄弟の皆さんも、私も、また私たちは誰一人として例外なく、イエズス・キリストによって裁かれます。今、人の子イエズス・キリストが座しておられるその玉座に、この裁判の席の前に、私たちは必ず出頭しなければなりません。誰もこれを避ける事ができません。

まず、私たちの霊魂が肉体を離れたその瞬間、つまり私たちの死のその直後、私審判があります。この私審判を受けるために、私たちの霊魂は主の前に現れます。私たちが受けるべき、受けるにふさわしい宣告を主の御口から聞く事になります。その時、私たちの永遠の運命が決まります。天国に行くか、あるいは地獄の火に燃やされるか、です。

そして、世の終わりに、全人類がもう一度、イエズス・キリストの前に呼び集められます。公審判です。

公審判では、最初の人間アダムとエヴァに始まって、最後の人間まで、全てが一堂に会します。

各自の裁きが、全人類の前で明らかにされます。人の子イエズス・キリストは、偉大な威厳と御稜威の内に再び地上に現れて、義人と悪人とを分ける事になります。

主の恐るべき威厳ある、権威ある御声が全世界に響き渡り、悔い改めなかった罪びとたちは、永遠の地獄の火に落ちていきます。肉体を以って焼かれる為に、落ちていきます。

義人たちに対しては、私たちの主は、肉体を以って永遠の喜びの報いを受けるように、招かれる事でしょう。

私たちにとって一番重要なのは、「イエズス・キリストによる裁き」です。永遠の命がこの裁きにかかっているからです。私たちの主は、私たちがいかに義務を果たしたか、について裁かれます。愛の義務です。主の御旨とは、「私たちが天主を全てに超えて愛し、そして隣人を我が身の如く愛する」ここにかかっています。

イエズス様は私たちにこう祈れと仰いました、「天にまします我らの父よ、 願わくは、御名の尊まれんことを、 御国の来たらんことを、 御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。」

御旨が天に行われる如く、地にも行われん事を。御国が今天にあるように、この地にも来たらん事を。

イエズス・キリストが今、天で王として、最高の裁き主として座しておられるその御国が、この地上にも来たらん事を。その為にも御旨が地に行なわれん事を。愛の掟が実行されん事を。

この「愛の掟」について、「天主の御旨を果たしたか否か」について、私たちは裁かれます。

私たちが恐れるべきは、この主の裁きです。人民裁判や、Twitterでの噂話や、支持率とか人気投票とか、風評、世間体、人々からの評判や人の目が、私たちの永遠を決めるのではありません。実際、命の主である私たちの主は、国民投票で十字架の死に渡されました。

私たちを永遠に地獄の火に投げ込む事ができる、あるいは天国に永遠の幸せに行く事を裁く事ができる方は、イエズス・キリストです。

今であれば、生きている間であれば、どのような罪びとであっても、回心して、イエズス・キリストに憐みや、情状酌量や、赦しを懇願する事ができます。しかし私たちが死んだ後には、既に時遅しです。生きている間に、キリストを無視して、キリストに対立して、攻撃して、無関係に生活したのに、死んだ途端いきなり、キリストと共にこのキリストの勝利を分かちあう、という事はできません。それは無理な相談です。

[2] イエズス様が昇天されて、最高に地位に付けれらた、というこの現実から導き出される、次の結論もあります。

それは、裁き主のみならず、イエズス様は、この地上の全ての国々と民々の「王」としての、この支配の、統治の権能を、権力を、御父から受けました。

「天と地の全ての力は私に与えられている」(マテオ28:18)とイエズス様は仰いました。

ですから、イエズス・キリストこそ私たちの主であり、王の王です。誰もイエズス・キリストによらなければ、地上の誰も正当に統治する事はできません。誰もイエズス・キリストの支配を逃れる事ができません。イエズス・キリストの関係のない、自律的な空間というものはあり得ません。どんな民族といえども、どんな国といえども、この世界を創った真の天主から独立して、無関係に生活するという事はできません。

聖パウロは言います、“Oportet illum regnare.”(コリント人への第1の手紙15:25) 「彼は、イエズス・キリストは、全ての敵をその足の下に置くまで支配しなければならない」と。

これはどういう事かというと、「イエズス・キリストは、生ける人と死せる人とを裁きに来られるその時まで、この世を統治しなければならない」という事です。「道、真理、命であるイエズス・キリストの快いくびきの教えに従わなければならない」という事です。

なぜかというと、主が、この全宇宙を創った天主であり、被造物の究極の目的、アルファでありオメガ、始めであり終わり、始原であり究極だからです。

ですからこそ、使徒たちから始まって、多くの司教たち、司祭たち、また数万の宣教師たちも、唯一の天主、救い主、贖い主、イエズス・キリストを宣教しました。命がけで宣教しました。これらの努力は、私たちが、イエズス様の教えと恩寵に助けられて、イエズス・キリストのおられる御国、天の国に入る事ができる、永遠の至福を私たちがこの地上にいる時から準備する事ができる、そして地上で生活している内から、愛徳に従って、幸せである、幸せな生活を送る事ができるためです。

イエズス様の御旨は、「天主を愛し、隣人を愛する」ここにあります。これこそ、主の御国です。この愛徳にが実践されるほど、喜ばしい、幸せな国というのは一体どこにあるでしょうか。

そうする事によって、私たちが主の愛の掟を守る事によって、主に祈り、国法を遵守し、弱い人を憐れんで助け、特に婦女子を助けて、また愛徳についての良心を究明して、罪を告白して、聖徳を実践するように努力する事になるでしょう。

これこそ、使徒の時から脈々と続く使徒継承の信仰です。この一致を乱してはなりません。

イエズス様は、御自分を信じて従う人々を、祝福と、優しさと、特別の御恵みで導かれます。

しかし、もしもそうでない場合にはどうでしょうか。イエズス様は、御自分の支配を拒む人々をも、正義によって統治されます。

つまり、自分の蒔いた毒の種を刈り取らされるがままにさせて、自分の行なった結果がブーメランのように戻ってくるがままにされるという事です。

現代では、義務、特に「愛徳の実践、愛の掟の実践、天主を愛する」という事よりも、「権利」が謳われています、「自由」が謳われています。「自分の好きにする権利がある」「自分が好きな道徳、モラルをする自由がある」と。「それが権利だ!」

天主から独立した、キリストも天主もいない自由、権利が主張されています。でももしも、イエズス様の教えた真理が認められないならば、嘘と誤謬によって支配されてしまいます。遂には、真理を言う事さえも、禁止され、罰せられるようになってしまう事でしょう。ちょうどジョージ・オーウェルの小説で書かれた、1984年の世界が、現実のものとなってしまいます。

皆が一斉にバラバを!我々はバラバを求める!と叫んだ聖金曜日の世界が再現してしまいま。

その時には、「真理」「天主の御旨」というよりも、声が大きい人が勝つ事でしょう。武力や、お金や、権威がある人が支配する、弱肉強食の世界ができてしまいます。名医が処方した良い薬を拒む病人たちは、やはり闘病生活を続けて重症化する事を覚悟しなければなりません。

「自由」「権利」だけが主張されるところでは、不道徳や、暴力や、猥褻や、不倫や、離婚、避妊、堕胎、自殺、安楽死などが、権利として至る所で増え続けて、この世界は、死の苦しみにもがかなければならなくなる事でしょう。そうなってしまえば世界は、不幸な人類を奴隷化する反キリストの到来を準備する事になります。

【4:遷善の決心】
では、愛する兄弟の皆さん、主のまします天に頭を上げましょう。目を眼差しを向けましょう。

かつて、人々はそうとは知らず、私たちの主を十字架に釘付けにしてしまいました。しかし私たちは、イエズス・キリストがどのような御方であるかを知っています。栄光の王です。私たちを裁く、人類全てを裁く、例外なく裁く、唯一の、真の、審判者です。私たちはしばらくしたら、主の来臨の時に、燦然と光り輝く、威光に満ちたイエズス・キリストを見る事でしょう。裁きに来られる主を見る事でしょう。

これが、カトリック教会が二千年間信じ続けてきた信仰です。

マリア様がこの信仰を守ったように、イエズス・キリストが復活し、真の天主であるという事を信じ続けたように、私たちもこれを守る事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。

マリア様は私たちに、きっとカナの婚宴の時と同じ事を仰るに違いありません。福音に記録されているマリア様のお言葉で、隣人に対して仰った言葉は、たった一つ残されています。カナの婚宴で働いていた使用人に仰った言葉です、「イエズス様の仰る事を、全て何でもやりなさい」と。

マリア様が私たちの信仰をいつも守って下さいますように、そしてマリア様の仰ったように、イエズス・キリストの御国が来たらん事を、その為に御旨が行なわれるように、イエズス様の御旨をいつも常に果たし続ける事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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