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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ロザリオの祈り:カトリック教会にある、主の愛を知り、主を愛する祈りの素晴らしい方法

2019年10月17日 | お説教・霊的講話
2019年10月6日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者カトリック巡回教会にようこそ。
今日は2019年10月6日、聖霊降臨後第17主日のミサを行なっております。

今日の御ミサにいらっしゃった、カトリック信徒の方もそうでない方も、全ての方を心から歓迎致します。この聖伝のカトリックのミサの事をご存知ない方は、ミサの間ずっとお席に座って頂いても構いません。信者の方々と一緒に立ったり座ったり、跪いて下さっても結構です。

ミサの終わり頃、パンの形をした御聖体が信者の方々に授けられます。成聖の状態にあるカトリックの信者のみが、御聖体を受ける事ができます。カトリックの信者の方は、ここに来られて跪いて、口で聖体拝領なさって下さい。カトリック教会で洗礼を受けていらっしゃらない方々は、席に着いたままでいらして下さるようにお願い致します。

ミサの終了後、ミサの後の祈りを日本語で、そしてアンジェルスの祈りをラテン語で、皆で唱えます。皆さんも是非、これらの祈りに心を合わせて唱えて頂ければ幸いです。
このミサの後の祈りの直後に、聖体降福式という儀式もあります。これは、御聖体を皆で礼拝する、という簡単な儀式です。皆さんも参加して頂ければと思っております。

その後、少しの休息の後に、司祭は赤ちゃんを産んだお母さんに祝別を与えます。司祭による儀式の説明の後に、儀式を始めるにあたって、司祭とお母さんは入り口の方に参ります。これは、お潔めの式をなさった聖母に倣って「お母さんも教会に迎え入れる」という意味があります。その後またここに戻って、その続きを行ないますので、参列者の信者の方々やご友人の方々、ご招待客の皆様におかれては、この儀式の間その場に留まって下さるようにお願い致します。どうぞお母さんの為に、赤ちゃんの為にもお祈り下さい。

そのお母さんの祝別の後、私たちの将来である赤ちゃんのお誕生をお祝いするという意味で、皆さんと一緒にパーティーを開きたいと思っています。ここにいらっしゃる皆さん全員を、是非ともこのパーティーにご招待致します。是非ご参加の上、この私たちの喜びを分かち合って頂ければと思います。そうすれば大変光栄です。


「心を尽くし、力を尽くし、全霊を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、そしてミサに参列された皆さん、友人の皆さん、今日ミサの中で、私たちの主イエズス・キリストが、「最も大切な掟は何か?」という事を尋ねられました。

すぐ答えて、
「心を尽くして、力を尽くして、全てを超えて、天主なる主を愛する。」
「そして第2には、隣人を自分の如く愛する。」
「これにこそ、全ての律法と預言が含まれている、かかっている」と説明されました。

今日はこの事を、この黙想を深めていきたいと思っています。

⑴「主を愛する」というのは、どういう事で、どうしたら良いのだろうか?

⑵愛するには、何か、愛の対象を知らなければ、どういう方を知らなければならないのじゃないか?

⑶私たちはどうしたら良いのか?とても良い方法がある。

という事をぜひ、皆さんに知って頂きたいと思っています。そして今日このミサが終わった時に、「あぁ、カトリック教会では、ああいう風にして主を愛するという事を実践しているのだなぁ。あぁ、そういう事か」と、ご理解してお帰り下さるという事が、私の今日のお話の目標であります。それが達成できれば非常に嬉しく思います。


⑴「天主を愛する。全てを超えて愛する。自分自身に超えて愛する」という事はどういう事なのでしょうか?

天主というのは、私たちに全ての善を与えてくれる、この全ての全宇宙を創った御方を指します。全ての善の究極の根源であり、そして私たちの究極の目的です。私たちが最も望むべきその御方こそ、最高の善、終わりのない命、もうこれ以上ない完成された状態、この尽きる事のない喜びと幸せ、失う事のない至福、間違いのない、そして疑いのない真理、これこそが私たちの求める天主であって、私たちはこれを、「全てに超えて追求せよ」と命じられています。

なぜかというと、私たちはその為にこの世に生を受けたからです。この為にここに生きて、今現在生きているからです。私たちが現在、今この地上にいるのは、日本のここに今いるのは、儚い、あっという間に過ぎてしまう楽しみの為ではありません。

フルトン・シーンという司教様の本を読んでいたら、こういう自分の失敗談が載っていました。自分がまだ小さかった頃、お母さんがクッキーを焼いていたそうです。クッキーで、甘いバターの匂いと、砂糖の香りと、美味しい匂いがしていて、「あぁ、楽しみだ。クッキーを食べたい」と思っていたのですが、でもバターが特に好きだったので、バターをお母さんの所からとって、バターだけを食べて、たくさん食べてしまった。そしたらお腹が痛くなって、クッキーを食べる事ができなかった。ちょうど、これは本当に儚い例えですけれども、この地上の儚いものを、一部だけを間違って愛するが為に、本当の完成された善を、天主を失ってしまった、という事に似てないか、とこの司教様は書いていました。

私たちはですから、全てを超えて、この地上ではなく、究極の、最高の完成された善を、つまり天主を愛さなければなりません。

⑵では第2に、どうしたらそれを得る事ができるでしょうか?愛する事ができるでしょうか?

その為には、愛の対象を知らなければなりません。なぜ私たちがそれを愛する、それに相応しいのか、それを知らなければなりません。その事を知れば知るほど、ますます愛が深くなっていくからです。

天主というのは、私たちに何もしてくれずに、そして何もほったらかしにしておいて、ただ自分の愛だけを独裁的に要求する、暴君のような存在ではありません。北朝鮮のリーダーのような存在ではありません。そうではなくて、私たちを愛して、私たちに全ての善を与えて、私たちを愛で包むがゆえに、そのそれの反応として、私たちからの少しの愛を、私たちの愛を求める天主です。

⑶では、どうやったらその愛を知る事ができるでしょうか?どうやったら私たちが愛に包まれている、という事を知る事ができるのでしょうか?一体何をしたら良いのでしょうか?

それの一番良い方法として「ロザリオ」というお祈りがあります。

皆さんは、「ロザリオ」という言葉を聞いた事があるかもしれませんが、あるいは見た事があるかもしれません。これは昔からカトリック信者が、マリア様に対するお祈りを数える為に使っていた数珠で、そして輪っかのようになっていて、十字架が付いていて、53の玉が付いています。

なぜこのようなものがあるかというと、旧約聖書には、「詩篇」という150の、天主ヤーウェに対する歌があります。その歌を、聖職者・司祭や修道者たちは、それを今でも唱えています。しかし全ての人が、本を持ってラテン語でそれを唱える事ができるわけではありませんでした。そこでその代わりに、聖書の天使が言ったマリア様への言葉を、150回それを繰り返す、というお祈りが発達しました。そしてそのカトリック教会ではそれをお祈りします。

ただそれをお祈りするのみならず、このマリア様へのお祈りを唱えながら、イエズス・キリストが、天主が私たちになさって下さったその愛の業を黙想しながら、考えながら、そのお祈りを何度も繰り返します。

ちょうど、どこかで劇で、劇団が何かの劇をする時、あるいは映画で何かの劇をする時に、ただ俳優がおしゃべりを、セリフを言うだけではあまり効果がありません。その時にバックグラウンドミュージックがあったり、あるいはモーツァルトの曲が流れたり、あるいはその場面に従ってその音楽が流れる事に、効果音がある事によって引き立ちますが、何かそのような感じで、黙想をしながら、マリア様へのお祈りを何度も繰り返します。

何度も繰り返すというのはなぜかというと、私たちがこの受けた御恵みを感謝しているからです。つまり私たちが何度も、「ありがとう」と言ったり、あるいはお母さんが子供に、「あぁ、いい子だね。おぉ、勉強よくやった。あぁ、いい子だ、いい子だ」とか、あるいは恋人が相手に、「愛してるよ」と、何度も何度も絶えずに、絶え間なく繰り返すのと同じです。

そう同じ愛の言葉を繰り返しながら、何を考えるかというと、3つの事を考えます。それは、天主が人となって、私たちと同じ人生を送られた、イエズス・キリストがお生まれになった、という神秘です。これを「喜びの玄義」と言います。

次に、私たちの罪人の代わりに、本当に罪が無かった、義人であった、聖人であった天主御自身が、私たちの代わりにその罪を担って、死刑を受けて、苦しみを受けて、血を流されて、命を捧げられた。「苦しみの玄義」と言います。

最後に、「私たちの人生の究極の目的は、この地上ではなく、天国にある」という事、復活にある。永遠の命だ」という事を黙想させる、「栄えの玄義」です。
キリストの、イエズス・キリスト様の復活と、昇天、そして聖霊が降臨された事、あるいはマリア様が天に昇られた事などを黙想します。

そして私たちの心を天に高く上げます。私たちはこのロザリオを唱える事によって、ますます、どれほど愛を受けているか、という事を知らされます。

つい最近数ヶ月前、横浜で、キリシタンの遺物が発見されました。それによると、それはロザリオの15のこの神秘が、玄義が描かれていました。日本の古代から、キリシタンたちがずっと熱心に黙想して祈っていたのは何か?非常に大切な物として、今でも保存されているものは何か?というと、このロザリオの玄義の事でした。

日本ではこのキリシタンの時代から今に至るまで、このロザリオを非常に大切に黙想して、どれほど私たちが愛を受けているか、どれほど私たちは主を愛さなければならないか、という事を知る為の縁(よすが)にしていました。

10月は特に「ロザリオの月」と言われていて、ロザリオをたくさん唱えるとされています。ですから今日、この主を愛する最も良い手段の内の一つとして、ぜひ皆さんにロザリオの事を知って頂きたい思って、この話を申し上げました。そして是非皆さんに、ロザリオを手に取って頂いて、できればこのロザリオを唱えて下さるようにお願いします。

一つだけこの逸話を入れて、このお話を終えたいと思います。これも先ほど申し上げたフルトン・シーン司教様のお話なのですけれども、第1次世界対戦の時に、あるユダヤ人がオーストリア軍で西部戦線で戦っていて、オーストリアの4名の兵士と一緒にいたのだそうです。
そして塹壕に穴に入っているのですけれども、爆弾がたくさん来て、そのうちにオーストリアの兵士が4名が亡くなってしまいます。一人残されたユダヤ人は、カトリックでもキリスト教徒でもなかったのですけれども、同僚が残したロザリオを手に取って、それを唱えました。なぜかというと、他の同僚と一緒に、彼らが死ぬ前に時々ロザリオを唱えた事があったからです。

そこで唱えていると、何か非常な感覚があって、「ここにいては危ない」と思った時があったのです。そして場所を変えると、その直後にその穴に弾が来て、もしもそのまま残っていたら死んでしまう事だった。そしてそういう事が4回あって、最後に生き残って助かって、フルトン・シン司教様に会いました。そして彼にその話をした、と残しています。そのユダヤ人は、その「ロザリオの力の素晴らしい事に驚いた」と報告しました。

どうぞ皆さん、そのロザリオは、私たちがただ単に主を愛するという事をするのみならず、私たちは更に多くの愛を受ける、保護を受ける手段であるという事も知って下さい。

マリア様に是非お祈り致しましょう。このマリア様は100年前に、ファチマという所に現れて、子供たちにお願いしました、「ロザリオを毎日唱えなさい。戦争は終わるでしょう。世界の平和が来るでしょう。」「ロザリオを唱えなさい。そうすれば世界に平和が来るでしょう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


栄えの玄義、イエズスの御復活の黙想:死と、地獄と、罪に打ち勝ち給う、私たちの主イエズス・キリストの大勝利。イエズス・キリストを通らなければ、誰も聖父の元に行く事はできない。

2019年10月17日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第1玄義黙想 
2019年10月5日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』

今日は初土曜日ですので、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。今日はローザさんの追悼ミサを行いましたので、栄えの第1玄義、御復活、イエズス様の御復活を黙想致しましょう。

私たちのこの短い人生の終わりには、永遠の命が待っている。
イエズス様は、私たちを全て復活させる。
ある者は永遠の喜びに、そしてある者は永遠の滅びに。

最後の審判の時に、私たちは肉体の復活を受け、イエズス様は私たちに永遠の喜びを与える為に、御自分の復活を与える為に、この世に来られました。

十字架の苦しみがあって後に初めて、復活した後の、空の墓があります。真の命に辿る道は、十字架の道。イエズス様はそれを私たちに教えてくれます。

イエズス様は仰います、
「私を通らなければ、誰も聖父の元に行く事はできない。」
「人は、水と霊とによって生まれ変わらなければ、天の国に入る事はできない。」
「私は、命・道・真理。私を信じる者は、永遠に生きる。」

使徒信経でも言う通り、「我は、終わりなき命を信じ奉る。」

死と、地獄と、罪に打ち勝ち給う、私たちの主イエズス・キリストの大勝利は、喜びは、口で表現する事ができないほど、大きなものです。天使、大群の天使も、その御復活に、大感激と喜びを以て感嘆し、喜び合いました。

この大勝利を、イエズス様は私たちに、分かち与えようと思っておられます。

イエズス様はその最初に、その喜びを、マリア様にお伝えになりました。復活のその日、復活された御自身を、マリア様にお見せになりました。そして次に弟子たちに、使徒たちに、婦人たちに、お知らせになりました。

真にイエズス・キリストは、救い主は、罪と、地獄と、死に勝ち、よみがえり給うた。イエズス・キリストに付き従うものは、決して死ぬ事がない。永遠に生きる。永遠の復活を、喜び楽しむ。大勝利が待っている。

「聖母よ、この確信を、その深い信仰を、私の心に深く刻んで下さい。イエズス様とマリア様のお持ちでいらっしゃるその天国に、私たちも導いて下さい。

多くの人はこの地上を、この世界を、究極の目的と勘違いしています。これは手段に過ぎません。この地上での生活は、トランポリンに過ぎません、道具に過ぎません。

この地上が究極の目的である為に、多くの人は悩み、心配し、憂鬱になり、うつ病になり、絶望し、どうする事もできずに、暗闇の中でもがいています。

この地上が単なる手段であると分かる暁には、苦しみも、日常のつまらない生活も、屈辱も、侮辱も、痛みも、苦しみも、死も、全てが栄光の手段になります。

その時には私たちは、喜びと、安心と、信頼に生かされます。何を絶望する事があり得るでしょうか。

いつも私たちの心から復活の神秘を忘れる事がないように、マリア様、助けて下さい。このロザリオの神秘を黙想する時に、この復活の玄義を、深く心に刻み付けて下さい。」


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ロザリオの祈りの偉大さと素晴らしさ:何故「めでたし」を繰り返すのか?何を黙想するのか?

2019年10月16日 | お説教・霊的講話
2019年10月5日(初土)ローザさんの追悼ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月5日、10月の土曜日で、9月15日の真夜中に突然亡くなってしまった、ローザさんの追悼ミサを行なっております。

追悼ミサの後に、赦祷式という特別のお祈りがあります。それは、ご遺体が教会の中に持ち込まれた、その遺体の上でお祈りする儀式です。
祈りは時間と空間を超えるものでありますから、このお祈りも付け加えましょう。

今日は初土曜日でもありますので、この赦祷式が終わった後で、簡単な聖体降福式もあります。もし良かったらこれも与っていっていらして下さい。

特にこの初土の信心は、今度来日される教皇様の来日が実り豊かなものとなりますように、第二の聖フランシスコ・ザヴェリオが訪問したとも言えるような、日本にとって大きな御恵みとなりますように、という意向を込めて、短い聖体降福式を捧げたいと思っています。

この御聖体降福式が終わりましたら、少し休憩をした後に、いつもありますように、お約束していた短い公教要理の時間もあります。公教要理では今回は特に、ルターの教えとカトリックの教えは一体どう違うのか?その違いについて、特に短いお話をしたいと思っています。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの姉妹ローザさんの追悼ミサを行なっています。簡単にローザさんと私との出会いと、思い出話をするのを許して下さい。そしてローザさんがとても熱心に唱えていたお祈りがあります。それは自分の名前に似たお祈りで、「ロザリオ」でした。それでそれなので、ロザリオのお祈りについても少し話すのを許して下さい。

私がローザさんと出会ったのは、今から26年前の事でした。ローザさんの息子さんが上智大学に入学されて、彼が若い1年生の時に、私がちょうどその年に叙階を受けて司祭となって、初ミサを東京でする事になりました。その時に息子さんも呼ばれて、友達から「こういうミサがあるから」という事を教えられて、私の初ミサに与ってくれました。その事をすぐにお母さんに伝えて、そしてその時から、お母様も私が大阪でミサをする時に与ってくれるようになりました。

その時から一生懸命ロザリオを唱えて、そしてミサが本当に好きで、マリア様が大好きで、その方、ローザさんと出会う事ができました。特にマリア様に対する信心は熱心で、この緑のスカプラリオとか特別の信心で色々な神父様の助けをしていた、という事も伺いました。

特別の御恵みで、私はご自宅にも招かれて、家の祝別や、色々な楽しい思い出も一緒にする事が許されました。とても懐かしく思います。

また話は飛びますけれども、この新しいこの御聖堂に来るようになった時に、いつも仰っていたのが、「あぁ、ここはほんま天国のような所やね。いつもここに来るのがとても嬉しい。本当に天国のようだ。ここにいるのは本当に得も言われない喜びがある。幸せだ」という事を、いつも言っていました。

そして亡くなる直前に、その数年繰り返して仰っていたのが、きっとこう言う事を許して下さると思いますけれども、「自分はとても恵まれている」という事でした。そして「特に、最近発見した事がある。自分は、このような素晴らしい主人に出会って、本当に御恵みだ。私は知らなかった。毎日その素晴らしさを発見している」という事を、何度も何度も繰り返していました。

そこで、ローザさんがいつもよく愛して唱えていた、ロザリオの話をする事を許して下さい。

いつもローザさんはロザリオを唱えるのが好きだったのですけれども、ある人はロザリオの事をこうやって批判します、「ロザリオというのは、何度も繰り返して唱えるから、同じ言葉を繰り返すから、これは本当じゃない。」

しかし私のこの思い出す限り、ローザさんは特に晩年、「自分の主人はすごい。」「すごい人だ。」何度も何度も、同じ事を私に繰り返していました。それで「その素晴らしいところをいつも発見している。」「知らなかった。それを今分かった」と言うのです。「今まで分からなかったけども、分かった。」そして私に会う度に、その事を繰り返すのです。

これは、ローザさんは私に嘘を言っていたのでしょうか?
いや、本当の事をいつも言っていたのです。いつも新しい発見があって、新しいその所を、素晴らしい所を見出したので、「そうだ」と仰っていたのです。

それと同じようにロザリオも、私たちは、天使がマリア様に仰った、「めでたし、聖寵充ち満てる御方、主御身と共に在す。」あるいは聖エリザベトの、「あなたは女の内にて祝せられ、御胎内の御子も祝せられ給う。」

これは同じ言葉ですけれども、しかし同じではないのです。

私たちは、その天主から人類に、あるいはマリア様を通して私たちに、どれほどの愛を受けているか、救いの業がどれほど為されているか、という事を日々、新しい発見や、新しい出会いがあって、新しい気付きがあって、私たちの言っている言葉は、意味がますます深くなっているからです。

ですから単なる同じ事の退屈な繰り返しではなくて、深い叫びとなっています。

イエズス様が、全能の天主が、この世を創った、目に見えない永遠の至福の方が、私たちを天国に連れて行く為に、全くゴミのような、本当にたわいもない私たちの為に、人間となって下さった。マリア様にその事を、「人となる」という事を告げられた。そしてベトレヘムにお生まれになった。ナザレト、ベトレヘム、そして貧しい所でお生まれになった。そして神殿に、エルサレムの神殿に奉献された。そして隠れた生活をされて、そして12歳の時には、神殿で見失られた。3日間、マリア様はイエズス様を失った。

あるいはゲッセマニ。イエズス様は、私たちの罪を全て、私たちの代わりに担って下さった。私たちの代わりに、この肉体において鞭を打たれた。血を流された。あるいは辱めを受けられた。茨の冠を押し付けられた。本当の王であったにもかかわらず、信じられずに、嘲笑された、馬鹿にされ、足蹴にされ、唾きせられた。そして極悪人として、死刑を受けた、十字架を狙われた。私たちの為に。私たちを愛するが為に。そして十字架の上に付けられて、息を引き取られた。「聖父よ、彼らを赦し給え。彼らはその為すところを知らざるが故なり。」「見よ、女よ、汝の子、ここにあり。」「汝の母、ここにあり。」「我、渇く。」イエズス様のその最後の言葉。その十字架の苦しみ。

そして天国。御復活。永遠の喜び。私たちに与えるべきその永遠の命。天に昇られて、天主聖父の右に座して、そして私たちの為にいつもお祈りして下さる。私たちを助けようと、世の終わりまで聖霊を送って下さる。カトリック教会を導いて下さる。「地獄の門も勝たない。私はお前たちと共に、世の終わりまでいる。」そしてマリア様の被昇天。私たちの為に取り次いで下さる方を天に上げられた。マリア様がその栄光の座に着けられた。

など、私たちの救いのドラマを、私たちに見せてくれます。

ちょうどラジオで、あるいはテレビで、ナレーターが、あるいは劇が進められている時に、そのただ劇があるだけではなくて、バックグラウンドミュージックがあったり、ダラララ~ンなどという効果音があって、その劇が進められるように、その私たちの救いの神秘も、「めでたし聖寵充ち満てるマリア…」というバックグラウンドミュージックのような祈りが一緒に付けられて、そして私たちがどれほど天主から愛されているか、どれほど大切に思われているか、私たちの救いの為にどれほどなさっているか、私たちの人生の命がどれほど大切であるか、私たちはイエズス様に何をする事が求められているのか、私たちにとって最も大切なものは何なのか、この地上とは一体、意味は何なのか、私たちにとってどこに心を向けるべきなのか、私たちにとって愛する方は一体どこにいるのか、という事を教えてくれます。

ちょうどこのステンドグラスが、私たちに信心についての、イエズス様の私たちに対する愛を一つ一つが訴えるように、ロザリオの珠の一つ一つも私たちに、「どれほど天主から愛されているか」という事を教えてくれています。

ちょうどオーケストラの音楽シンフォニーが、色んなバイオリンや色んな楽器からなっているように、手ではロザリオの珠を、口ではめでたしを、あるいは頭では玄義を黙想して、そして救いの玄義を、私たちに対する愛を黙想しつつ、そして感謝と讃美のお祈りを捧げる、礼拝を捧げる、という最高の交響曲を、私たちが祈りで奏でているかのようです。

このロザリオを、私たちの姉妹のローザさんもとても好んでいましたし、私たちもとても大切に思っています。このロザリオというのは本当に、謙遜な者が唱える事ができる信仰の極み、信仰の延長線にあります。

イエズス様が馬草桶で生まれた時に、東の博士たちも謙遜に、この貧しい赤ちゃんを、「真の天主だ」として手に抱いて、礼拝しました。

そして2000年間、キリストの言葉を信じる信者たちは、イエズス様が仰った通り、このパンを、イエズス様の御体として、礼拝して、跪いて、そして心から愛を以て、拝領してきました。

そしてそれと同じように、謙遜な、キリストを信じる私たちは、救いの始めとなった天使の言葉を唱えて、何度も何度も唱えて、ロザリオの珠を手に握って、そして救いの玄義を黙想します。

聖ドミニコに特にマリア様は現れて、「このロザリオを唱えなさい」と言いました。
そしてこのロザリオを唱える事によって、聖ドミニコは多くの人々を、真のイエズス・キリストに対する信仰へと導きました。多くの人は異端を打ち捨てました。カタリ派という異端をやめて、真の信仰に戻りました。

あるいはつい最近では、ファチマでマリア様が現れて、「ロザリオを唱えなさい。」毎回、御出現になる度に、仰いました。

最後に10月に、10月13日には、「私はロザリオの元后です。ロザリオの女王です。ロザリオを唱えなさい。そうすれば世界に平和が起こるでしょう。多くの霊魂は救われる。」

そして6月13日には、ロザリオを唱えるその一連の終わりには、特別のお祈りを唱えなさい、『あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。』」

マリア様がどれほどロザリオを大切にしてるか、このお祈りがどれほど大切かを教えています。

つい最近読んだ中に、フルトン・シーンという司教様の本があるのですけども、そのフルトン・シーン司教様は、「ロザリオで、色んな奇跡が起こったのを私は知っている」という話をします。その内の一つにこんなものがありました。

第1次世界大戦の時に、ユダヤ人が西部戦線に、オーストリアの人たちと一緒にいたのです。西部戦線というのは非常に激烈な戦いで、多くの人が亡くなりました。そして穴に隠れていたこのユダヤ人たちは、4名の別のオーストリア人と一緒にいたのですけれども、大砲が来て、そしてその4名が亡くなりました。同僚が亡くなりました。自分一人が残ったのですけれども、その4人が持っていた内の1つのロザリオを、自分ももらったのです。そしてロザリオを唱えました。なぜかというと、ユダヤ人だったのですけれども、一緒によく彼らとロザリオを唱えた事があったからです。ですからお祈りをよく知っていました。
そしてロザリオを唱えながら、穴に隠れていると、「ここでは危ない」という気がしたのだそうです。そこで、そしてそこの穴を逃れて、別の穴に隠れると、その直後にこの穴が爆撃されて、もしも残っていたら死んでいた、という事が分かりました。そしてロザリオ唱える内に、同じような事が4回起こったそうです。4回とも場所を変えると、その直後にその穴が爆撃を受けていました。4回とも命が助かりました。
そして遂に生き延びて、カトリックとして、フルトン・シーン司教様から洗礼を受けたのです、アメリカで。

そしてこのフルトン・シン司教様が本を書いた時には、「今、彼は神学校で勉強している」と「司祭になろうとしている。」「ロザリオによって助かったという実話がある。」

おそらくこういう話は、皆さんもおありだと思います。たくさんあると思います。このロザリオを、ローザさんは非常に大好きで唱えていました。私たちもこれを大切に、この唱えたいと思っています。

ローザさんの霊魂の為にたくさんお祈り致しましょう。イエズス様は私たち一人一人の霊魂を非常に愛して、何でもない本当につまらない私たちでも、これをマリア様にそうしたように、綺麗に浄めて下さって、そして私たちをピカピカの状態にして、真っ白な状態にして、そして天国に迎え入れて、至福直観、永遠の命の喜びを与えて下さろうとしています。それこそが人生の究極の目的です。

私たちが死ぬと、もしもその浄めに達していないならば、煉獄でその浄められなければなりません。「ミサ」と「ロザリオ」は、私たちの浄めに非常に役に立ちます。この霊魂の為にたくさん、ミサで、またロザリオでお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズスの聖心は「イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事を私たちが理解し、イエズスの愛を 愛で以て返す」という事を求めている。

2019年10月16日 | お説教・霊的講話
2019年10月4日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日ですが、10月の初金曜日で、イエズス様の聖心の随意ミサをしております。

初金曜日はいつも、私たちはここで、イエズス様の聖心の御願いに従って、聖時間を行なっています。このミサの直後に1時間、イエズス様の御聖体の前で、お祈りを致しましょう。

明日は10時半からミサがありますが、突然亡くなってしまった姉妹のローザさんの追悼ミサを行ないたいと思っています。


“Consolantem me quaesivi.”
「私は、私を慰める者を探した。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の御望みになる事を黙想し続けましょう。

イエズス様の聖心は私たちに、たった1つの事を求めています。それは、「イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事を理解して、私たちがその愛を、愛で以て返す」という事です。

今日はその「イエズス様に、私たちを創って下さった創造主に、愛を愛で以て返す」という事について黙想する事に致しましょう。

天主は、1つの事を私たちに求めました、「全てを尽くし、力を尽くし、心を尽くし、礼を尽くし、汝の創り主なる主を愛せよ。これが最高の、最大の掟である。」「そして天主を愛するが為に、隣人を己の如く愛せよ。」

イエズス様は、私たちを創った創造主は、ここまでして、「私たちが主を愛する」という事を求めています。

この全宇宙を創った天主にとって、私たちの愛がどれほど必要だったのでしょうか?
全く必要ではありませんでした。私たちが愛そうが愛さまいが、無限に、永遠に、幸せな御方であり、永遠の至福、終わりのない、限りのない至福を楽しんでおられる方であるので、私たちがいくら何をしようと、その幸せには、無限の幸せには、全く変わりがありませんでしたが、あまりにも善い方であったので、あまりにも善に満ちた、愛に溢れた方であったので、その御自分の無限の幸せと喜びを、私たちにも与えたいと、私たちがその愛の団居の中に入る事を、私たちが天主のようになって、天主のような永遠の無限の喜びの中に入る事を、純粋に、あまりにも善い方だったので、それを御望みになりました。

特に私たちがそれに相応しい何かをしたとか、それに相応しかったという事は無く、全く憐みによって、それを御望みになりました。

ただ、天主は私たちをロボットとして、あるいは恐怖で、あるいは仕方なくそうする事を御望みなのではなくて、知性を以て、自由意志を以て、はっきりと真理を認識しながら、事実を認識しながら、自分で選んで、この最高の善を、最高の真理を愛する、という事を御望みになりました。

なぜ天主を愛するかというと、天主が愛に相応しい方であって、全ての愛を受けるに当然の方であって、私たちがそれを、「喜んでしたい」と思うように望まれました。

ここに天主の創造の自由と、聖寵の御恵みと、私たちの協力の神秘があります。

私たちは一週間前に、大天使聖ミカエルの祝日に、悪魔の反乱と、良い天使たちが大天使聖ミカエルに率いられて、天主を自由に選んだ、その愛と、御恵みと、その自由の神秘を黙想しました。

同様に私たちにとっても、天主は、全く自由に愛する事を御望みになって、あたかも私たちが天主を愛する事によって、天主様が幸せになるかのようなほど、御謙遜に御求めになっています。

旧約聖書のあるいは新約聖書の色々な所に、それが現れます。“Praebe fili mi cor tuum mihi.”「我が子よ、汝の心を私に与えよ。」あたかも天主は私たちから、乞食であるかのように、私たちから愛を乞い求めています。

天主は、「私たちが天主を愛する事ができるように」という特別の能力と、特別の御恵みを下さいました。私たちに知性と自由を与え、そしてそれが機能するようにできています。

それはどういう事かというと、私たちは、天主に対してたとえ罪を犯したとしても、天主はそれを本当に赦し、イエズス様の御血が本当にそれを綺麗に赦して、そして全く赦された、愛する事ができる者として、天主を愛し始めます。それによって私たちは、成聖の状態において、功徳を積む事ができます。

「天国での救いの状態は既に、この地上から始まっている」と、カトリック教会は2000年前から教えています。たとえ私たちが原罪の傷を負ったとしても、誘惑を受けたとしても、そして私たちの弱さを持っていたとしても、それにもかかわらず、天主を愛する事ができるように、そして功徳を積む事ができるように、そして愛に成長する事ができるようになっています。

私たちのカトリックの信仰生活というのは、この成聖の状態を、この愛の状態をますます大きくする事にあります。そして天国というのは、その愛を完成させる事に他なりません。

幼きイエズスの聖テレジアによれば、昨日私たちはそれを、この祝日を祝いましたけれども、「私たちは人生の終わりに、愛によって測られる、裁かれる。愛によってだけ裁かれる」と教えています。

黙示録にも同じくあります、「天のエルサレムを測るものは、1つの単位しかない」と。
聖トマス・アクィナスによれば、「天使についても、人間についても、全て『愛』という測りで、物差しで測られる。」

そしてイエズス様の聖心は私たちに、「愛するように」それだけを求めておられます。「愛する」という事はつまり、「イエズス様の掟を守る」という事であり、「イエズス様の御旨を果たす」という事です。「イエズス様の御望みの通りにする」という事です。

一体誰が天主のようでありましょうか、一体誰がイエズス様のようでありましょうか、誰が私たちが主に代わって、私たちの意思を押し付ける事ができるでしょうか。

私たちはイエズス様のしもべであって、その御旨を果たすべき者です。

そこでこのイエズス様の聖心は、私たちの愛を乞い願って、乞食のように、聖マルガリタ・マリア・アラコックにこうも訴えられました、「見よ、この人類をかくも愛する私の心を。私はこれほど人類を愛しているにもかかわらず、全てを与えたにもかかわらず、この聖心は愛されていない。」

そこで今日この御ミサを捧げながら、もう一度イエズス様に対する愛をいや増して下さいますように、お祈り致しましょう。

マリア様にぜひお祈りなさって下さい。「私たちがイエズス様を愛する事ができる」というその教えを、そしてこの「成聖の恩寵をますます大きくする事ができる」というこの教えを、私たちがいつも自覚していますように、そして「イエズス様を愛する」という唯一の、「イエズス様の愛を知り、それを愛で返す」というこの私たちの喜びを、いつも満たす事が、果たす事ができるその御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 聖伝のミサの報告2019年10月 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2019年10月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

台風19号で多くの被害が出たとニュースで拝見しました。被害に遭われた方々には、こころよりお見舞いを申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、10月7日(月)から、フィリピンのイロイロにある聖ベルナルド修練院で毎年恒例の司祭黙想会に参加しておりました。この機会が与えられていることに天主に感謝します。アジア管区司祭のうち、9名の司祭が参加しました。黙想会の間になさって下さった、愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに感謝します。

お伝えしたいことや、書きたいことは色々ありますが、別の機会に改めてさせていただくことにいたします。

11月には教皇様が来日されます。その霊的な実りのために多くのロザリオをお願いいたします。

10月13日(主日)と14日(月)には、大阪で聖伝のミサを捧げることができました。そのことにも感謝します。
特に10月13日は、ファチマの最後の御出現の日で、マリアは「私はロザリオの元后です」と言われました。


さらに同じ10月13日には、秋田でもマリア様が、カトリック教会の危機についてお話になりました。

「・・・もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。 ・・・ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう 」
この日に、特にカトリック教会の為に、日本と世界の平和の為に、御ミサとロザリオを御捧げすることができて、感謝します。

月曜日は祝日でしたので、ミサの時間を10時にしました。その後御聖体降福式も行うことが出来、日本のために、教皇様のために、御捧げすることができました。御聖体のうちに真にましまし給うイエズスの聖心の前で、跪き、礼拝し、御憐れみを乞い願いつつ、教皇レオ十三世の教えに従い、ロザリオの聖月なので御聖体の前で聖母の連祷を捧げました。

レポートを頂いたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度は特に苛酷なスケジュールにも関わらずミッションに来てくださってありがとうございました。
ミサの報告をお送り致します。

10月13日(聖霊降臨後第18主日)には、19人
10月14日聖カリスト教皇のミサには、17人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

主日のお説教は、イエズス様が中風者の罪を許され、病を治された聖福音についての黙想でした。
イエズス様が、罪を赦されるという事、それはつまり霊魂を義化するするという現実的な、実際的なもので、最高の奇跡であるという事実。
この義化のお恵みのもたらす3つの変化は、
①この恵み(成聖の恩寵)は常駐するものであり、天主が私達の霊魂に住まわれる。(私達は天主の神殿となる)
②私達が天主の命に参与するが故に私達を天主の高みまで高めてくださり、無限の差のある天主と私達の間に友の関係を持つことができる。
③天主の命に与る事によって、私達は功徳を積むことができる。

成聖の恩寵を受けることによって、天主三位一体が私と共にいて下さるという事実を改めてはっきりと認識できました。
天主様と友になる、という意味については、自分のような罪人ではなく、マリア様や聖人方だけが天主の友となる事ができるのかと今まで感じていました。
が、イエズス様の十字架での生贄、贖いの功徳はイエズス様を信じ、愛そうとする私達にどこまでもとんでもない素晴らしい特典を与えて下さり、与え続けて下さっていることに感嘆してしまいます。
成聖の恩寵によって、私達はすでに涙の谷で、天国を味わう事を許されているという事はなんという大きな慰めでしょうか。
一人でも多くの人々がこのお恵みに与る事ができるようロザリオを通して願いたいと思います。

14日は、教皇聖カリスト一世の生涯を垣間見て、教皇の務めとは何かを黙想いたしました。
四季の斎日を定めた事や大聖堂を建てたり、墓地を建設したりしただけでなく、ローマの重鎮やエリートを回心に導き、その為にロ ーマの怒りをかって井戸に捨てられて殉教されました。
ペトロがイエズス様から、「使徒たちの信仰を固めよ」と命ぜられたとおりに、使徒達から伝えられた信仰を受け継ぎ、そのまま後世に伝える事こそが、聖カリスト教皇様が教皇としてされた事でした。たとえ殺されても全世界にイエズス・キリストの教えを伝える。これが聖なる教皇様が務めとされた事でした。
来月訪日予定のフランシスコ教皇様も、聖なる教皇様方に倣って、環境問題や人権問題、平和問題だけを世界に伝えるのではなく、天主の権威、信・望・愛、愛の掟、十戒など、イエズス様が使徒たちに、特にペトロに命ぜられた任務を遂行して下さる事を願います。
ファチマや秋田でマリア様の「教皇様のためにたくさん祈ってく ださい」というお言葉どおり、多くの祈りを教皇様のためにお捧げする必要があると思いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【10月7日:東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第17主日のミサとご聖体降福式をありがとうございました。

10月はロザリオの月、典礼暦は以前、10月の第一主日がロザリオの祝日だったのですね。その翌日の7日はロザリオの聖母の祝日でした。二度ロザリオの聖母のミサに与れた思いです。今年はロザリオの聖母を讃えることができましたこと感謝申し上げます。(7日の朝ミサはいつもより早く始まりましたが、なんとかミサに与ることができ、うれしく思いました。ありがとうございました。)

この日の聖福音の言葉に「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」がありました。

この地上に生まれたのは儚いこの世の楽しみのためではなく天主様を愛するために生まれたのですとお聴きしまして、そのような目的に至ることのできるのは、本当にカトリック信仰だけであることを思いました。この日ミサに臨席くださいました多くの未信者の方の霊魂もこの神秘に触れる機会をいただいていることを感謝して、お祈りしました。

そして、天主様をお愛し、天主様に感謝申し上げる最も良い方法がこのロザリオを唱えることと教えていただきました。“最近、横浜でキリシタンの遺物が見つかり、ロザリオを祈っていた日本人がいたことが残されている”とお話しいただきました。私もそのニュースを新聞で読んだことを思い出しました。日本で迫害を受けながらもロザリオを祈り続けようとしていた当時のカトリック信者の信仰の強さを思いました。

本当にロザリオとカトリック信仰は、強く結ばれているように思います。フルトン・シーン司教様の著作からの、カトリック信者でなかった人がロザリオを祈っていたことにより命を救われたという神秘的な経験、切迫した戦争の中でおこった神秘的な出来事をご紹介いただきました。そのユダヤ人はこの世の命も救われたが、霊的な命も救われて、洗礼の恵みをうけて信者になったという実例は、ロザリオを祈っているならその人は滅びないということを示しているように思いました。マリア様が御守りくださるのでしょう。

教皇様を日本にお迎えするための準備の祈りとしての意向も含めて、ロザリオを祈っていきたいと思います。戦争が起こらないようにとの思いも込めて、毎日ロザリオを祈ろうと思います。

御聖体降福式では、御聖体顕示台に掲げられていますイエズス様の御前でお祈りできますことを、とてもうれしく思いました。そのお姿は目には見えないけれどイエズス様の御威光が私達を照らしてくださり、みじめな虫のようなものであるのにこうして私どもに聖寵をあふれるように注いでくださいますことを感謝申し上げました。

この日は、兄弟姉妹の若いご夫妻の三番目の赤ちゃんが誕生されたあとのお母さんの祝福式も行われました。フランスから赤ちゃんのグランパたちとグランマたちもお祝いに来てくださっていて、また、赤ちゃんの両親の御友人もたくさん来てくださり、ミサも御聖体降福式も祝福式もおごそかに盛大でありました。パーティには私たち信徒をもご招待していただき、楽しい時間を過ごすことができました、ありがとうございました。

ロザリオの聖母、われらのために祈り給え。

【参考資料:朝日新聞2018年11月18日】

16世紀のキリシタン信仰画

神奈川県大磯町の「澤田美喜記念館」で所蔵されていた出所不明のキリシタン信仰画が、16世紀末の安土桃山期の作品である可能性が高いことがわかった。当時の信仰画は残っているものがごくわずかで、国内に信者が増えた時期の信仰の姿を伝える貴重な資料とみられる。

記念館などによると、和紙に墨で描かれた巻物で、縦22センチ、横約320センチ。「受胎告知」や「受難」「聖母の戴冠」など15の場面がある。ラテン語の祈りの言葉も仮名で書かれている。「御出生以来千五百九十二年 はうろ」とも記されており、「パウロ」という洗礼名の信者が西暦1592年に作ったとみることができるという。

記念館と共同調査した横浜市歴史博物館によると、文字の書体や描かれた風俗には、江戸時代より前の特徴がある。記念館が外部の研究機関に放射性炭素を用いた年代測定を依頼したところ、1556年から1633年に作られた紙との結果が出たという。

信仰画には、場面ごとにイエズス会のマークが記されている。キリシタン史が専門の大橋幸泰・早稲田大学教授は「イエズス会は日本の習慣を重視し、布教に信仰画を用いたことが知られていたが、宣教師の報告ぐらいしか手がかりがなく、実態はわからなかった。当時の姿が浮かんでくる貴重な資料だ」と評価する。

キリスト教は日本に1549年に伝来し、豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令出した。
キリシタンの信仰画では、戦前に大阪で2点見つかった「マリア十五玄義図」が知られている。着色された西洋画風で、神学校で技法を学んだ日本人による江戸期の作と考えられている。一方、今回の作品は、作風や描かれた風俗が日本風だ。「復活」の場面では、人物の腰にある刀が日本刀のように見える。上智大学の川村信三教授(キリシタン史)は「相当に日本的。日本人が描いたのだろうが、このようなものは見たことがない」と話す。
調査では、作品に書かれた仮名文字も読み解いた。カトリック中央協議会が調べたところ「さんちいしもさくらめんとのらたにやす」と書かれており、先唱者に続いて信者が短く唱える「連禱」の言葉だと判明した。ほかにもラテン語の祈りの言葉が50行ほど記されている。京都大学の岩崎奈緒子教授は「ラテン語の原音に近いのが特徴。ラテン語がわかる人が、唱えるのを忠実に書きとめたのでは」とみる。

調査した横浜市歴史博物館の井上攻・副館長は「使われているのは高級ではない庶民の紙。1592年に作られたものを模写した可能性はあるが、文字の特徴などから描かれたのは江戸時代の早い時期までと考えていいだろう。輸入された版画などを目にした日本人信者が見よう見まねで描き、耳にした祈りの言葉を書きとめたといったことが考えられるのではないか」と話している。

注:「さんちいしもさくらめんとのらたにやす」は、Litaniae de Sanctissimo Sacramento に由来しており「御聖体の連禱」という意味。日本人の信仰の祖先が、御聖体に対する深い信心をもっていたことが偲ばれる。御聖体の連祷は、四百年以上の歴史があり、モーツァルトの "Litaniae de venerabili altaris sacramento" 「崇敬すべき祭壇の秘蹟の連祷」も存在している。



Panis vive, qui de caelo descendisti!
Deus absconditus et Salvator!
Miserere nobis!
天から降り給うた生けるパンよ!
隠れたる天主にして救い主よ!
我らを憐れみ給え!





聖ピオ十世会 2019年10月聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass SSPX JAPAN

2019年10月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日はロザリオの聖母の祝日ですね!

10月の初金と初土曜日に大阪でミサをすることができ、また10月6日と7日には東京で聖伝のミサを捧げることができて幸福です。

大阪では、多くの新しい方々との出会いがあり、嬉しく思いました。土曜日には先月亡くなったローザさんの追悼ミサが行われました。

東京では主日に85名が、月曜日にはミサの時間が六時半と早かったにもかかわらず10名が参列されました!

ご報告を頂いたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

また、10月13日(主日)、14日(体育の日)には大阪でミサがあります。
10月14日については、休日なので、午前10時にミサを行います。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちの大切な小野田神父様こんにちは。
10月の初金、初土の御ミサの報告をお送り致します。

10月4日(初金)の至聖なるイエズスの聖心のミサには14人、
10月5日(初土)のミサには26人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

両日共に、ミサの後に御聖体降福式がありました。
特に、11月に来日される教皇様の為にこのご聖体降福式をお捧げいたしました。教皇様の来日が日本のカトリックに益あるものとなります様にイエズス様の憐れみを希います。

初金曜日のお説教では、イエズス様の聖心が私達にお望みになる事は何かを黙想致しました。
全能、永遠の天主イエズス様が惨めな私達にお望みになっておられることは、イエズス様が、どれ程私達を愛しているか、それを理解してその愛に、愛をもって全てを尽くして愛をお返しする事です。
最大の掟、「全てを尽くして汝の天主を愛せよ」これだけをイエズス様は求めておられるにも関わらず、私達はどれほど冷淡で居続けるのでしょうか?
全ての愛と栄光と賛美を受けるに相応しいイエズス様の聖心は、私達を必要とされないにも関わらず、まるで乞食のように謙遜に、愛と憐みと善から私達が主を愛する事を望んで下さっているのです。 幼きイエズスの聖テレジアが言った「私達は人生の終わりに愛によって裁かれる」という事がよく理解できました。
ロザリオの聖母マリア様のお助けをもって、沢山の愛をマリア様と一緒に、マリア様を通してお捧げしようと遷善(せんぜん)の決心をたてました。

土曜日は、追悼ミサで、その中でロザリオについてのお説教をいただきました。
故ローザさんが毎日、毎日欠かさず唱えていらっしゃったロザリオの力と、現代におけるロザリオの祈りの必要性を黙想しました。
ローザさんが跪いてひと言ひと言、ゆっくりと美しくロザリオを唱えていらっしゃのを思い出しながら、ローザさんの永遠の安息と、日々の意向のためにロザリオを心を込めて唱えることができるよう、 お恵みを希いました。

土曜日の公教要理では、プロテスタント(マルチン・ルター)の第一原理と、カトリックの違いを勉強しました。
Justification をプロテスタントでは「義認」、カトリックでは「義化」と訳すように、ここに明らかな違いがありました。

「義認」とは、人間は罪から解放されることなく、罪の汚れは持ち続けるが、ただ天主が人を名前だけは「義」とされる、つまり内的ではなく、外的に「義ラベル」を張り替える」という意味です。実際は重病人だけれども、お医者さんはただ「健康体ですよ」と言って下さっている、と考えると簡単でした。
それに対して、カトリックの「義化」は、イエズス・キリストの贖いと聖血の功徳によって私達の罪は赦され、本当に真っ白に癒される、「義」とされるとします。
現在の結果としての弱さは残るものの、天主の聖寵、お恵みによって内的に赦し、清められるという意味です。

このルターの第一原理は4つの結果を生むこととなります。
①人は信仰のみ(Sola Fide)でいいので、仲介者は不要、基本的に全ての信仰者は司祭である。
②人は罪に汚れきっていて腐りきっていいるので、善行をしても意味がないし、善行などできない。ただ信じた印として善行をおこなう。(悲観主義)
③道徳律は不可能である。人は掟を守る事などできない
④教会は見えないもので、義人のあつまり。不明瞭。

これの四つの結果に対してカトリックは、
①叙階という秘跡を用いて司祭をつくり、位階制を昔からもっている。
②天主からのお恵みによって、惨めながらも善行をすることは出来、それは功徳となって天主の心に叶うものとなれる。
③掟を守らねば、(大罪を犯すと)義人ではなくなり、地獄にいかなければならない
④使徒信教にあるように、「一」「聖」「公」「使徒継承」のはっきりとした四つの印をもっている。

また、聖書以外に権威はない「聖書のみ」が権威を持つと、プロテスタントは主張するが、その聖書には「聖書のみ」とは書かれていない。
カトリックでは、啓示の2つの源泉「聖書と聖伝」がある。

以上のようなお話でした。
たった一つの考えの間違いから多くの過ちに繋がっていく恐ろしさを感じました。
何が正しくて、何が間違っているのかを、全ての人が理解し、永遠が決まってしまう審判のときではなく、生きているうちに理解する事が 出来るお恵みをマリア様を通して多くの人に与えられますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪の御ミサの後、プロテスタントとカトリックの違いについて教えていただきありがとうございました。
私自身がプロテスタントからの改宗者なので、以前の教会で理解できなかった点がルターの教えから来ているものだと、よく理解できました。
「義認」について、罪人であることを隠す(なかったことにする)という表現もとても合致し、それだからプロテスタントの方々は「罪」に対しての意識が薄いのだなと思いました。プロテスタントの教えでは個人的に悔い改めることはできても、償いをすることができません。自分の犯した罪を自覚すると同時に償いの気持ちが芽生えるのは自然なことだと思うのですが、それを不要としてしまっては、人間は罪を重ねるだけになってしまいます。
プロテスタント教会はそれでも、「信仰のみで」の教えなので、現世では「善人は現世でも恵まれながら、天国へ行ける」「悪人は現世では恵まれないが、天国では恵まれる」と教えています。しかし、その教えでは現世の秩序は乱れたままです。果たして、そのような世の中を天主様はお望みでしょうか…?と、問いたい気持ちになると同時に、まだ聖伝の教会に出会うことのできていないすべての人々のために祈らねばと思いました。

今こうしてマリア様にも出会い、告解の秘跡を受けていることが、どんなに素晴らしいお恵みか!まだまだ信仰も祈りも犠牲も足りないしもめですが、仲介者であるマリア様の御取次によって、より多くの人々が信仰に導かれるよう願います。

(補足)
ひとつ思い出したのですが、プロテスタント信者にとって「教会は信仰を強める場所」という教えだったと記憶しています。「万民祭司」の教理からくる発想でしょうか?「教会での礼拝を通し、聖霊の導きによって信仰を強めることができる」というものでした。今思うと、信仰宣言をしたすべての人々がペトロの継承者⁈⁈⁈と思うと驚きですね。
次回の公教要理も楽しみにしています!
デオ・グラチアス!

【お返事】
コメントをありがとうございます。
今回のお話しでは、なるべくルターの考えが何か、ということを出来るだけ正確に捉えようとしてみました。
その根本思想が「義認」です。

ルターによると、人間は罪人のままのこり、いかなる善も行うことが出来ないほど腐り病んでいます。ルターによると、救いは、全く純粋に天主の業であり、人間は何もすることがない、とされます。
信者はどのような意味においても救いの業に参与しないし、協力もしない、とされます。何故なら、人間は善をすることができないほど腐敗しきっているからです。
ルターによれば、人間は善を行って、功徳を積むこともないし、罪を償うこともできない、とされます。善行は、救われたものであることの印にすぎない、と。
ルターによると、秘蹟の執行(洗礼と晩餐)や説教、礼拝、などは、善行の一部ですが、信者の確信・信仰を促進させるという目的しかありません。
これらの行為が信者らを聖化するのではないし、功徳があるのでもないのです。
ルターによると、天主は、全く恣意的に望むがままに自分の義を人間に帰すだけです。
ですから、ルターに従うと、プロテスタント信者にとって、教会での礼拝を通し、聖霊の導きによって、信仰を強めてもらうように願うとされます。
ルターによると、すべては天主次第なのだけれども、自分が救われているという印として、礼拝などを行うとされています。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 41人(内、子供8人)
女: 44人(内、子供5人)
計: 85人(内、子供13人)

【報告】

小野田神父様

今日は とてもしみじみしたお説教でした。
ちょうど一年前の十五玄義図の発見時の朝日新聞の関連記事をおくらせていただきます。

16世紀のキリシタン信仰画が澤田美喜記念館で見つかりました。



ご聖体の連祷と黙想の図(十五玄義図)

今回調査を行ったところ、絵が日本風でこれまで発見されている他の十五玄義図とは趣が違っており、年代測定(放射性炭素年代調査)をしたところ、1556年から1633年に作られた紙であると確定されました。


フィリピンのダバオでのオブレート修道女の着衣式

2019年10月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、幼きイエズスの聖テレジアの祝日ですね。
9月15日には、フィリピンのダバオにある修練院にて、聖ピオ十世会のオブレート修道女の着衣式がありました。写真をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!








































初水曜日「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

2019年10月02日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2019年10月2日は、10月の初水曜日(月の初めての水曜日)であります。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


なぜなら、聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

 

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


9月29日大天使聖ミカエルの祝日、日本での聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX JAPAN

2019年10月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!今日は守護の天使の祝日ですね!守護の天使たちは、目に見えませんが、私たちを守ってくれています。

さて9月29日は大天使聖ミカエルの祝日で、フォルティン神父様が日本でミサを捧げてくださいました。ご報告を頂いたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

先月に続いて今月もマニラからピーター・フォルティン神父が来て、大天使聖ミカエルの大祝日のミサを挙げてくださいました。

御説教では、今日祝日を祝っている大天使聖ミカエルについて、聖書の中で登場する場面、初期の教父たちの見解、聖トマス・アクィナスの意見などについて教えて頂いた後、実際に聖ミカエルの出現があった、イタリアのガルガーノ、ローマ、そしてフランスのモン・サン・ミシェルの出来事についてお話しをして頂きました。そして19世紀の末に教皇レオ13世が幻視の後、私たちがいつも唱えている大天使聖ミカエルへの祈りを作られたこと、しかしその祈りがノブス・オルドのミサの公布と共に廃止されてしまったこと、そしてそれにもかかわらず現代においてこの祈りがいかに必要であるかを詳しく説明して頂きました。

また、今日のミサ中の第2献金としてマニラの聖ピオ十世会の学校への献金をお願いしたところ、74,151円が集まりましたので、フォルティン神父にお渡ししました。


今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 29人(内、子供5人)
女: 25人(内、子供5人)
計: 54人(内、子供10人)


【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本の保護の天使でいらっしゃいます大天使聖ミカエルの大祝日に、東京にも大阪にもこのミサの御恵みをくださいました天主様に感謝申し上げます。

フォルティン神父様は、慣れない東京の残暑の厳しさの中、大変だったと思います。今回も素晴らしいごミサをお捧げいただきまして、まことにありがとうございました。

私は前日から大天使聖ミカエル様へ祈りながら、マリア様もその御足で蛇を踏みつけられていらっしゃいますこと、大天使聖ミカエル様も御絵の中で槍を突き刺しながら悪魔をその足に踏みつけておられることを思い、このお二方に守られている日本のカトリック教会の今の惨状は、今は大変な苦しみの中にあるけれど必ず信仰の勝利がおさめられるに違いないと思いました。でも、たくさん祈らなければならないと思いました。

ミサに与りながら、日本のカトリック教会、特に日本の聖ピオ十世会の教会が守られますよう、聖母マリア様と大天使聖ミカエル様にそのお取次ぎをお願い致しました。

お説教では、大天使聖ミカエルのことを多方面から話していただきました。聖書において登場する場面や、イタリア・ローマ・フランスでのご出現の様子、その受け持つ四つの任務、典礼の中における大天使聖ミカエルの役割と意味、レオ十三世教皇の幻視の中で伝えられた(長文の)大天使聖ミカエルの祈りの意味、悪魔祓いの祈り、霊魂の保護者であることなど…。

レオ十三世教皇が視たという幻視の中で語られていたことは、現在実際に教会が悪魔からの攻撃を受けていることを思えば、まさに切実。いまのカトリック信者は、眠らされているか、必死で真理を求めて起きようとするか、目覚めて戦っているか、悪魔の餌食になってその道具となっているか、その四つのうちのどこかにいるのかもしれないと思いました。

実際、悪魔は、すでにカトリック教会に入りこんでいることを、誰もが本当はわかっているのではないでしょうか。悪魔の働きが教会の中に入りこんでしまったことがわからないふりをするのにも限界がきているように思います。反対に悪魔の働きを見破ったと自称する者を逆に罠にかけて教会から離れたものとさせるのも悪魔のやりかたなのでしょう。

ミサの後にある友人は、『この聖ピオ十世会の聖徳溢れるごミサに与ることをゆるされているカトリック信徒は、それだけ罪深く地獄に陥りやすいほどのものだからだとも思うことがある。そのことを忘れて、自分の知性や神学的知識を誇るあまりに、自分の考えが周りの誰よりも正しく思えてしまうように傲慢の罠にまんまと陥るようになる者がいるかもしれないのだから、僕たちはよほど気をつけなくてはいけないと思う。』と話してくださいました。

細く狭い道である使徒伝承の信仰を知り守り抜くことの険しさをあらためて思います。けれど逆に言うと、その細い道こそが最初からずっと続いてきている道であり、その狭い門こそが、天国の門かなと思います。

信仰を求めて歩む中で、この聖伝のミサに出会わせていただいたことを思うと、天主様のお導きに感謝申し上げます。そしてこれまでどれほど大天使聖ミカエル様によってお守りいただいてきていることかと思い、より一層のとりつぎと御保護をお祈りしました。

昔から教父たちがどうやって狡猾な悪魔から逃れたかたくさんの言い伝えや説教があるようです。
フォルティン神父様がお説教の最後に言われた言葉、「謙遜と天主への愛徳とを武器に悪魔と勇敢に戦わなければならない」を心に留めました。

聖母マリア様と大天使聖ミカエル様のその御保護のもと、日本のカトリック教会と日本の聖ピオ十世会が守られますように。

至聖なるイエズスの聖心、われらを憐れみ給え。
聖母の汚れなき御心、われらのために祈り給え。
大天使聖ミカエル、われらのために祈り給え。

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ミサの報告をお送りいたします。

9月29日(主)大天使聖ミカエルのミサには28人、
9月30日(月)聖ヒエロニモのミサには7人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

大天使聖ミカエルは、日本の守護者とされていますので、日本でこのミサが挙げられたことは大きなお恵みでした。

フォルティン神父様のお説教の中で、聖ミカエルの四つの任務をお聞きしました。
1、天主に逆らった堕天 使たちに対する戦いを続けていること、
2、私達の霊魂を臨終のときにサタンから救う事、
3、ユダヤ人と新約のキリスト教徒を守護すること、
4、私審判、公審判で私達の霊魂導いて天主に差し出す事
だそうです。

天主に逆らった堕天使を「誰か天主に如くものあらん」と先頭に立ってサタンと戦ったのは、その時だけではなく、ずっと戦い続けているという事に驚きました。
また、レオ13世の幻視の中で、天主がサタンに最悪の業を行う一世紀を選ぶ権利を与えられ、サタンは20世紀を選んだという話も大変興味深いと思いました。
真っ先に、20世紀には後にカトリック教会に大き なダメージ、躓きを与える第二バチカン公会議が開催された事を思い出さずにはいられませんでした。

憐み深い天主様は、一番謙遜で、一番強天使をカトリック教会の守護者として世の終わりまでお与え下さった事に感激します。
大天使聖ミカエル様が、日本と、全世界をサタンの狡猾な罠より、恐ろしい攻撃からお守りくださいますように、レオ13世教皇様の祈りを心から唱えたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

2019年の大天使聖ミカエルの祝日の説教(東京、大阪) : ピーター・フォルティン神父様 9月29日(主)

2019年10月01日 | お説教・霊的講話
2019年の大天使聖ミカエルの祝日の説教(東京、大阪)
2019年9月29日(主)
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様


愛する信者の皆さん、
聖書と聖伝から、天主が喜んで仲介者をお使いになることを私たちは知っています。人間と天使のどちらも、天主からのメッセージや祝福、保護をもたらすために使われます。天主はしばしば、霊魂や家族、集団、国々の世話をするために、この世における御摂理の一部として聖なる天使たちをお使いになります。聖なる天使は純粋な霊であり、死ぬことはありません。天使は、場所から場所へと思いのままに移動する力を持っています。天使には、最高の知性と非常に強い力があります。聖なる大天使たちの中で、聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルは、聖書の中で特に有名です。聖ミカエルは、その名前が「たれか天主にしくものあらん[誰か天主に比べられる者があろうか、あるはずがない]」という意味です。聖ミカエルは、ルチフェルとその仲間たちが天主に対して反乱を起こした際に、彼らに反対した忠実な天使たちの総帥です。悪魔は、天主の教会の不倶戴天の敵なのですから、聖ミカエルは天主によって、時の終わりまで悪魔の攻撃に対抗する特別な保護者として教会に与えられました。聖ミカエルは義人と悪人を分けるために、正義のつるぎをふるうことになるのです(黙示録12章7節以下参照)。

教会のこの特別な守護者にして保護者である聖ミカエルについて、反キリストによる最後の迫害の期間に教会を力強く守るであろう、と言われています。「そのとき、ミカエルが立ち上がる。なんじの民の子らを守る偉大な君主である」(ダニエル12章1節)。

初期の教父たちは、天使と大天使の重要性、特に聖ミカエルの重要性を認識していました。キュロスのテオドレトス(393-466年)は、そのダニエル書の解釈において、「われわれを守護し保護するために、またわれわれを悪魔のわなから救うために、われわれ一人一人は個々の天使の世話に託されている、とわれわれは教えられている。聖モーゼが教えたように、大天使は諸民族を守護する任務を委託されている。また聖ダニエルは、この説明に同意している。なぜなら、彼自らが『ペルシャ人の王国の君主』のことを語り、また少しのちには『ギリシャ人の君主』のことを語っており、その一方で彼はミカエルをイスラエルの君主と呼んでいるからである」。聖ミカエルは天主の民である旧約のユダヤ人たちを保護する役目を与えられていたのです。教父たちはまた、聖ミカエルこそが、アダムとエバが追放されたあと楽園の門で見張っていた天使であったこと、彼を通じて天主が十戒を公表なさったその天使であったこと、バラアムの通り道を妨げたその天使であったこと(民数記22章20節以下)、そしてセンナケリブの軍隊を全滅させたその天使であったこと(歴代誌下32章21節)、を断定するのです。

聖バジリウスと他のギリシャ教父たちは、聖ミカエルをすべての天使の総帥と位置づけました。中世のスコラ時代には、「天使の九階級」という説明がなされ、聖ミカエルはその第一の階級である熾天使(セラフィム)たちの総帥であると言う人々もいました。聖トマス・アクィナスは、聖ミカエルを最後の階級である天使たちの総帥としました。この力ある天使のさまざまな出現は、聖ミカエルが教会を保護していることを証明しています。ここでは三つの出現、ガルガーノ、ローマ、モン・サン・ミシェルについてお話ししましょう。

イタリアの南部にあるガルガーノで492年、ガルガーノという名前の男が田舎で大きな家畜の群れを放牧していました。ある日、一頭の牡牛が山に逃げ、行方がわからなくなりました。牡牛はある洞窟の中へ走って行ったのです。ガルガーノはその洞窟に向かって矢を射かけましたが、その矢は戻って来てガルガーノを傷つけました。これは非常に奇妙な出来事だったため、心配した人たちは地域の司教に相談することに決めました。司教は3日間の断食と祈りを命じました。3日後に、大天使聖ミカエルが司教に現れて、牡牛が避難所とした洞窟は聖ミカエルの保護のもとにあり、また天主は、聖ミカエルの名のもとに、また全ての聖なる天使に敬意を表すためにこの洞窟が奉献されることをお望みである、と宣言しました。司教は聖職者や人々とともに洞窟に行きましたが、洞窟の構造がすでに部分的に教会の形であるのに気付きました。聖なるミサがそこで捧げられ、その同じ場所に壮大な聖堂が建てられ、多くの大いなる奇蹟が起こりました。そして、聖なる大天使の保護をお与えになった天主の善に感謝するために、この大天使聖ミカエルに敬意を表す特別な祝日が教会によって制定されました。

590年、大規模なペストがローマを襲いました。大教皇聖グレゴリオは、悔悛のわざとして行列を率いて街路を巡り、罪の赦しと償いを求めました。すると、ハドリアヌスの墓(現在は聖ペトロ大聖堂の近くのサンタンジェロ城)のところに、聖ミカエルが現れてつるぎを鞘におさめ、ペストの終わりを示しました。教皇は、のちにこの墓の上に聖堂を建て、そこには今日まで聖ミカエルの大きな像が残っています。

フランスのノルマンディーでは708年、聖ミカエルがアブランシュの司教聖オーベールに夢の中に現れました。大天使は司教に対して、自分の名によって島の上に聖所を建てるように命じました。オーベールはただの夢に過ぎないと信じて、この命令を無視しました。次の夜、大天使ミカエルが再び現れて、自分に敬意を表してモン・トンブ[トンブ山]の上に聖所を建てるようにとの命令を繰り返しました。またもや、オーベールはこれを信じませんでした。いずれにせよ、海に囲まれて孤立した山の上の草の生い茂った岩だらけの地形のところに教会を建てるとすれば、とてつもなく大変な仕事になってしまうことでしょう。そこで司教は再び、この繰り返す夢を無視しました。オーベールが次の夜に眠っていると、大天使ミカエルが指をオーベールのひたいに押し当てて、同じ命令を繰り返しました。翌朝オーベールが起きてみると、自分のひたいにくぼみがあるのに気が付きました。オーベールは709年の年末に、教会を建てて大天使ミカエルに奉献するよう命じました。聖オーベールの頭蓋骨にはくぼみがあり、このことが真実であることを証明しています。

私たちのカトリックの聖伝においては、聖ミカエルには四つの任務があるとされます。(1)サタンと他の堕天使たちに対する戦いを遂行し続けること。(2)信者たちの霊魂を、特に臨終のときに、サタンの力から救い出すこと。(3)天主の民、すなわち旧約のユダヤ人たちと新約のキリスト教徒たちを守護すること。(4)最後に、この世のいのちから離れた霊魂たちを導いて、彼らを私審判のために私たちの主に差し出し、また時の終わりには公審判のために差し出すこと、です。このため、キリスト教美術では聖ミカエルが、武具をまとってつるぎまたは槍を持った戦う騎士として描かれたり、また、ヘビあるいは他の悪魔を象徴するものの上に勝ち誇って立っている戦う騎士として描かれたりします。時には、共に最後の審判の象徴である正義の秤あるいはいのちの書を持っている姿で描かれます。



カトリック信者として、私たちは、サタンと悪の力に対抗して私たちを守る聖ミカエルの重要な役割を典礼の中において記念してきました。死者のためのミサにおける古い奉献誦は、これらの任務を証明しています。「栄光の王、主イエズス・キリストよ、死せる信者すべての霊魂を、地獄の苦しみと底なき深淵とから救い出したまえ。彼らが冥府(よみ)の世界に飲み込まれ、暗闇に落ちぬよう、獅子の口から解き放ち給え。旗手聖ミカエルが彼らを聖い光明に導かんことを。主がその昔、アブラハムとその子孫とに約束し給うたその光に。主よ、いけにえと祈りとをわれらは主に捧げ奉る。本日記念する霊魂たちのために、これを受け入れ給え。主よ、彼らを死から生命へと移し給え。主がその昔、アブラハムとその子孫とに約束し給うたその生命へ」。

1200年代以来、聖なるミサにおいては、聖ミカエルは、コンフィテオールの祈りの中で、童貞聖マリアや洗者聖ヨハネ、聖ペトロと聖パウロとともに祈願の対象とされています。これらの聖人たちに祈願することは、信者が聖性へと呼ばれていること、そして天国の勝利の教会には罪が存在しないことを信者に思い起こさせます。

20世紀のかなりの間、信者たちはミサの終わりに聖ミカエルへの祈りを唱えました。教皇レオ十三世(1903年帰天)は、悲しみと戦争という来たる世紀についての預言的な幻視を見ました。ミサを捧げたあと、教皇は枢機卿たちと協議していました。突然、彼は床に倒れました。枢機卿たちは急いで医者を呼びました。脈はなく、教皇は死んだのではと皆恐れました。するとまた突然、教皇レオは意識を取り戻し、「私は何という恐ろしい情景を見るのを許されたことだろう!」と言いました。この幻視の中で、天主はサタンに対して、サタンが教会にその最悪のわざを行うための一世紀を選ぶ権利をお与えになりました。悪魔は20世紀を選びました。教皇はこの幻視に非常に心を動かされたため、次の大天使聖ミカエルへの祈りを作りました。「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え・・・」。

教皇レオは、1886年に、この祈りをミサの終わりに唱えるように命じました。(教皇パウロ六世が1968年にノブスオルドミサを発表したとき、ミサの終わりにあった、この聖ミカエルのへの祈りと「最後の福音」の朗読は廃止されました。)

最後に、聖ミカエルは、悪魔祓い(エクソシズム)の儀式において重要な役割を果たす存在です。特に、悪魔の攻撃を受けた場所の場合がそうです。ここでは、司祭はこう祈ります。「いとも栄光ある天軍の総帥、大天使聖ミカエルよ、この世の闇の君主たち、権力者たち、支配者たちとの戦いにおいて、これら元天使らの霊的な悪に対する戦いにおいて、われらを護り給え。天主がその似姿としてつくり給い、サタンの暴政から大いなる代価もて買い戻し給うた人間を助けに来り給え。教会はその守護者にして保護者として御身を敬い奉る。主は、これら贖われた霊魂らすべてを、御身の世話に委ね給うた。そは、御身が彼らを天国の幸いへと導かれんがためなり。われらの足元にサタンを踏み砕き給うよう、平和の天主に祈り給え。そは、サタンがもはや人間を捕らえ、教会を傷つけること能わざらんがためなり。われらの祈りを、いと高き天主に捧げたまえ。そは、天主の御あわれみが、早くわれらに与えられんがためなり。敵にして悪しき霊なるかの獣、かのいにしえのヘビを捕らえ。彼を永遠に無なるものとなし給え、そは、彼がもはや諸民族を誘惑せざらんがためなり」。

1994年の春、教皇ヨハネ・パウロ二世は、大天使聖ミカエルへの祈りを捧げるよう信者たちに求めました。教皇はまた、この祈りをミサで唱えることがもう一度制定されるように強く示唆しました。[しかし]教皇はミサでこの祈りを唱えるよう命じることはありませんでした。この教皇が、教会と世界に存在する重い罪、つまり信仰の喪失、冒涜、涜聖、宗教的無関心、また妊娠中絶や安楽死、虐殺、同性愛運動という罪に対応していたのは、明らかです。サタンと他の堕天使たちは、霊魂たちを地獄に導くよう全力を尽くしています。私たちには、こんにち、特に力強い聖ミカエルが必要です。この理由のため、私たちは聖ミカエルに対してミサの最後に祈りを捧げ、また聖なるロザリオとファチマの天使の祈りを捧げるのです。

聖ミカエルは教会の保護者であるのみならず、すべての信者の霊魂の保護者です。けんそんによって、彼は悪魔を打ち負かしました。同じ戦いに参加している私たちは、彼の武器を自分のものにしなければなりません。それは、けんそんと、天主への愛です。この大天使を天主のもとでの私たちの指導者とみなし、この私たちの保護者の有名な叫び「たれか天主にしくものあらん」をもって、悪魔のあらゆる攻撃に勇敢に立ち向かいましょう。私たちを助け、保護してくださるよう、特に、天使の軍団の元后である聖母に祈りましょう。



【英語原文】

St. Michael 2019 Tokyo/Osaka
Fr Peter Fortin, SSPX


Dear Faithful,
From Holy Scripture and tradition, we know that God is pleased to use intermediaries. Both men and angels are used to convey the messages and blessings and protection from God. He often makes use of the Holy Angels as part of His Divine providence in this world for the care of souls, families, congregations and countries. The Holy Angels are pure spirits and are immortal. They have the power of moving at will from place to place. They are of supreme intelligence and very powerful. Among the Holy Archangels, Saints Michael, Gabriel and Raphael are particularly distinguished in the Scriptures. Saint Michael, whose name means Who is like unto God? St. Michael is the prince of the faithful Angels who opposed Lucifer and his followers in their revolt against God. Since the devil is the sworn enemy of God's holy Church, Saint Michael is given to it by God as its special protector against the assaults of the devil until the end of time. He will wield the sword of justice to separate the righteous from the evil (cf. Revelation 12:7ff).

It is said of this special guardian and protector of the Church that, during the final persecution of Antichrist, he will powerfully defend it: At that time shall Michael rise up, the great prince who protects the children of thy people. (Dan. 12:1)

The early Church Fathers recognized the importance of the angels and archangels, particularly St. Michael. Theodoret of Cyrus (393-466) in his interpretation of Daniel wrote, “We are taught that each one of us is entrusted to the care of an individual angel to guard and protect us, and to deliver us from the snares of evil demons. Archangels are entrusted with the tasks of guarding nations, as the Blessed Moses taught, and with those remarks the Blessed Daniel is in accord; for he himself speaks of ‘the chief of the Kingdom of the Persians,’ and a little later of ‘the chief of the Greeks,’ while he calls Michael the chief of Israel.'” He was to protect the People of God, the Jews of the Old Covenant. The Church Fathers would also posit that St. Michael stood guard at the gate of paradise after Adam and Eve had been banished, and he was the angel through whom God published the Ten Commandments, who blocked the passage of Balaam (Number 22:20ff), and who destroyed the army of Sennacherib (2 Chronicles 32:21).

St. Basil and other Greek Fathers ranked St. Michael as the Prince of all the Angels. During the scholastic period of the middle ages and the exposition of the “nine choirs of angels,” some said St. Michael was the prince of the Seraphim, the first of the choirs. St. Thomas Aquinas assigned St. Michael as the prince of the last choir, the angels. Various apparitions of this powerful Angel prove the protection of Saint Michael over the Church. I will mention three apparitions. Gargano, Rome and Mont Saint Michel.

In Gargano, the southern part of Italy, in the year 492 a man named Gargan was pasturing his large herds in the countryside. One day a bull fled to the mountain, where at first it could not be found. The bull ran into a cave. Gargan shot an arrow into the cave, but the arrow returned to wound himself. It was very strange so the persons concerned decided to consult the bishop of the region. The bishop ordered three days of fasting and prayers. After three days, the Archangel Saint Michael appeared to the bishop and declared that the cave where the bull had taken refuge was under his protection, and that God wanted it to be consecrated under his name and in honor of all the Holy Angels. Accompanied by his clergy and people, the pontiff went to that cavern, which he found that the structure was already a partial form of a church. The Holy Mass was offered there, and there arose in this same place a magnificent temple where many great miracles were worked. To give thanks God's goodness for the protection of the holy Archangel, a special feast day was instituted by the Church in his honor.

In Rome, in year 590, a great plague struck Rome. Pope St. Gregory the Great led a procession through the streets as an act of penance, seeking the forgiveness of and atoning for sin. At the tomb of Hadrian (now Castle Sant’ Angelo near St. Peter’s Basilica), St. Michael appeared and sheathed his sword, indicating the end of the plague. The Holy Father later built a chapel at the top of the tomb and to this day a large statue of St. Michael rests there.

In Normandy, France in the year 708, the St. Michael appeared to St. Aubert, the bishop of Avranches, in a dream. The archangel ordered the bishop to build a sanctuary in his name at the top of the island. Aubert ignored this order as he believed it only a dream. The next night, the Archangel Michael appeared again and repeated his order to build a sanctuary at the top of Mont Tombe in his honor. Again, Aubert was unconvinced - and in any case, building a church on overgrown and rocky terrain on an isolated mount surrounded by the sea would be an immense task. The bishop ignored again this recurring dream. As Aubert slept the following night, the Archangel Michael pressed his finger into Aubert’s forehead and repeated his command. Aubert awoke the next morning to find that there was a hole in his head. He ordered in late 709, a church was built and devoted to Archangel Michael. The skull of St. Aubert testifies to the veracity of this as there is a hole in the skull.

In our Catholic tradition, St. Michael has four duties: (1) To continue to wage battle against Satan and the other fallen angels; (2) to save the souls of the faithful from the power of Satan especially at the hour of death; (3) to protect the People of God, both the Jews of the Old Covenant and the Christians of the New Covenant; and (4) finally to lead the souls of the departed from this life and present them to our Lord for the particular judgment, and at the end of time, for the final judgment. For these reasons, Christian art depicts St. Michael as a knight-warrior, wearing battle armor, and holding a sword or spear, while standing triumphantly on a serpent or other representation of Satan. Sometimes he is depicted holding the scales of justice or the Book of Life, both symbols of the last judgment.

As Catholics, we have remembered in the liturgy the important role of St. Michael in defending us against Satan and the powers of evil. An ancient offertory chant in the Mass for the Dead attested to these duties: “Lord, Jesus Christ, King of Glory, deliver the souls of all the faithful departed from the pains of Hell and from the deep pit; deliver them from the mouth of the lion that Hell may not swallow them up and that they may not fall into darkness, but may the standard-bearer Michael conduct them into the holy light, which thou didst promise of old to Abraham and his seed. We offer to thee, Lord, sacrifices and prayers; do thou receive them in behalf of those souls whom we commemorate this day. Grant them, Lord, to pass from death to that life which thou didst promise of old to Abraham and to his seed.”

In the Tridentine Mass since the 1200s, St. Michael was invoked in the Confiteor, along with the Blessed Virgin Mary, St. John the Baptizer, and Saints Peter and Paul; the invocation of these saints inspired the faithful to remember the call to holiness and the sinlessness of the Church Triumphant in Heaven.

For the greater part of the twentieth century, the faithful recited the prayer to St. Michael at the end of the Mass. Pope Leo XIII (d. 1903) had a prophetic vision of the coming century of sorrow and war. After celebrating Mass, the Holy Father was conferring with his cardinals. Suddenly, he fell to the floor. The cardinals immediately called for a doctor. No pulse was detected, and the Holy Father was feared dead. Just as suddenly, Pope Leo awoke and said, “What a horrible picture I was permitted to see!” In this vision, God gave Satan the choice of one century in which to do his worst work against the Church. The devil chose the twentieth century. So moved was the Holy Father from this vision that he composed the prayer to St. Michael the Archangel: “St. Michael the Archangel, defend us in battle! Be our protection against the wickedness and snares of the devil…etc.”

Pope Leo ordered this prayer said at the conclusion of Mass in 1886. (When Pope Paul VI issued the Novus Ordo of the Mass in 1968, the prayer to St. Michael and the reading of the “last gospel” at the end of the Mass were suppressed.)


Finally, St. Michael figures prominently in the Rite of Exorcism, particularly in the case of diabolical infestation of places. Here the priest prays: “Most glorious Prince of the heavenly Army, Holy Michael the Archangel, defend us in battle against the princes and powers and rulers of darkness in this world, against the spiritual iniquities of those former angels. Come to the help of man whom God made in his own image and whom he bought from the tyranny of Satan at a great price. The Church venerates you as her custodian and patron. The Lord confided to your care all the souls of those redeemed, so that you would lead them to happiness in Heaven. Pray to the God of peace that he crush Satan under our feet; so that Satan no longer be able to hold men captive and thus injure the Church. Offer our prayers to the Most High God, so that His mercies be given us soon. Make captive that Animal, that Ancient serpent, which is enemy and Evil Spirit, and reduce it to everlasting nothingness, so that it no longer seduce the nations.”

In the Spring of 1994, Pope John Paul II, urged the faithful to offer the prayer to St. Michael the Archangel. He also made the strong suggestion that the recitation of the prayer be instituted at Mass once again. The Holy Father did not mandate the recitation of the prayer at Mass. Clearly, the Pope was responding to the grave sins present in the church and in the world, the loss of faith, blasphemy, sacrilege, religious indifference, the sins of abortion, euthanasia, genocide, and the homosexual movements. Satan and the other fallen angels are doing their best to lead souls to Hell. We need especially the powerful St. Michael today. For this reason, we offer the prayer in his honor at the conclusion of Mass and Holy Rosary and prayer of the Angel of Fatima.

Saint Michael is not only the protector of the Church, but of every faithful soul. By humility he defeated the devil; we who are enlisted in the same warfare must adopt his weapons — humility and a great love of God. Regarding this Archangel as our leader under God, let us courageously resist the devil in all his assaults with our protector's famous exclamation: Who is like unto God? We pray especially to Our Lady, the Queen of the Legions of Angels to assist and protect us.

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