Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ礼拝し希望し御身を愛します!御身を信ぜぬ人々礼拝せず希望せず愛さぬ人々のために赦しを求めます(天使の祈)

イエズスの聖心は「イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事を私たちが理解し、イエズスの愛を 愛で以て返す」という事を求めている。

2019年10月16日 | お説教・霊的講話
2019年10月4日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日ですが、10月の初金曜日で、イエズス様の聖心の随意ミサをしております。

初金曜日はいつも、私たちはここで、イエズス様の聖心の御願いに従って、聖時間を行なっています。このミサの直後に1時間、イエズス様の御聖体の前で、お祈りを致しましょう。

明日は10時半からミサがありますが、突然亡くなってしまった姉妹のローザさんの追悼ミサを行ないたいと思っています。


“Consolantem me quaesivi.”
「私は、私を慰める者を探した。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の御望みになる事を黙想し続けましょう。

イエズス様の聖心は私たちに、たった1つの事を求めています。それは、「イエズス様が私たちをどれほど愛しているか、という事を理解して、私たちがその愛を、愛で以て返す」という事です。

今日はその「イエズス様に、私たちを創って下さった創造主に、愛を愛で以て返す」という事について黙想する事に致しましょう。

天主は、1つの事を私たちに求めました、「全てを尽くし、力を尽くし、心を尽くし、礼を尽くし、汝の創り主なる主を愛せよ。これが最高の、最大の掟である。」「そして天主を愛するが為に、隣人を己の如く愛せよ。」

イエズス様は、私たちを創った創造主は、ここまでして、「私たちが主を愛する」という事を求めています。

この全宇宙を創った天主にとって、私たちの愛がどれほど必要だったのでしょうか?
全く必要ではありませんでした。私たちが愛そうが愛さまいが、無限に、永遠に、幸せな御方であり、永遠の至福、終わりのない、限りのない至福を楽しんでおられる方であるので、私たちがいくら何をしようと、その幸せには、無限の幸せには、全く変わりがありませんでしたが、あまりにも善い方であったので、あまりにも善に満ちた、愛に溢れた方であったので、その御自分の無限の幸せと喜びを、私たちにも与えたいと、私たちがその愛の団居の中に入る事を、私たちが天主のようになって、天主のような永遠の無限の喜びの中に入る事を、純粋に、あまりにも善い方だったので、それを御望みになりました。

特に私たちがそれに相応しい何かをしたとか、それに相応しかったという事は無く、全く憐みによって、それを御望みになりました。

ただ、天主は私たちをロボットとして、あるいは恐怖で、あるいは仕方なくそうする事を御望みなのではなくて、知性を以て、自由意志を以て、はっきりと真理を認識しながら、事実を認識しながら、自分で選んで、この最高の善を、最高の真理を愛する、という事を御望みになりました。

なぜ天主を愛するかというと、天主が愛に相応しい方であって、全ての愛を受けるに当然の方であって、私たちがそれを、「喜んでしたい」と思うように望まれました。

ここに天主の創造の自由と、聖寵の御恵みと、私たちの協力の神秘があります。

私たちは一週間前に、大天使聖ミカエルの祝日に、悪魔の反乱と、良い天使たちが大天使聖ミカエルに率いられて、天主を自由に選んだ、その愛と、御恵みと、その自由の神秘を黙想しました。

同様に私たちにとっても、天主は、全く自由に愛する事を御望みになって、あたかも私たちが天主を愛する事によって、天主様が幸せになるかのようなほど、御謙遜に御求めになっています。

旧約聖書のあるいは新約聖書の色々な所に、それが現れます。“Praebe fili mi cor tuum mihi.”「我が子よ、汝の心を私に与えよ。」あたかも天主は私たちから、乞食であるかのように、私たちから愛を乞い求めています。

天主は、「私たちが天主を愛する事ができるように」という特別の能力と、特別の御恵みを下さいました。私たちに知性と自由を与え、そしてそれが機能するようにできています。

それはどういう事かというと、私たちは、天主に対してたとえ罪を犯したとしても、天主はそれを本当に赦し、イエズス様の御血が本当にそれを綺麗に赦して、そして全く赦された、愛する事ができる者として、天主を愛し始めます。それによって私たちは、成聖の状態において、功徳を積む事ができます。

「天国での救いの状態は既に、この地上から始まっている」と、カトリック教会は2000年前から教えています。たとえ私たちが原罪の傷を負ったとしても、誘惑を受けたとしても、そして私たちの弱さを持っていたとしても、それにもかかわらず、天主を愛する事ができるように、そして功徳を積む事ができるように、そして愛に成長する事ができるようになっています。

私たちのカトリックの信仰生活というのは、この成聖の状態を、この愛の状態をますます大きくする事にあります。そして天国というのは、その愛を完成させる事に他なりません。

幼きイエズスの聖テレジアによれば、昨日私たちはそれを、この祝日を祝いましたけれども、「私たちは人生の終わりに、愛によって測られる、裁かれる。愛によってだけ裁かれる」と教えています。

黙示録にも同じくあります、「天のエルサレムを測るものは、1つの単位しかない」と。
聖トマス・アクィナスによれば、「天使についても、人間についても、全て『愛』という測りで、物差しで測られる。」

そしてイエズス様の聖心は私たちに、「愛するように」それだけを求めておられます。「愛する」という事はつまり、「イエズス様の掟を守る」という事であり、「イエズス様の御旨を果たす」という事です。「イエズス様の御望みの通りにする」という事です。

一体誰が天主のようでありましょうか、一体誰がイエズス様のようでありましょうか、誰が私たちが主に代わって、私たちの意思を押し付ける事ができるでしょうか。

私たちはイエズス様のしもべであって、その御旨を果たすべき者です。

そこでこのイエズス様の聖心は、私たちの愛を乞い願って、乞食のように、聖マルガリタ・マリア・アラコックにこうも訴えられました、「見よ、この人類をかくも愛する私の心を。私はこれほど人類を愛しているにもかかわらず、全てを与えたにもかかわらず、この聖心は愛されていない。」

そこで今日この御ミサを捧げながら、もう一度イエズス様に対する愛をいや増して下さいますように、お祈り致しましょう。

マリア様にぜひお祈りなさって下さい。「私たちがイエズス様を愛する事ができる」というその教えを、そしてこの「成聖の恩寵をますます大きくする事ができる」というこの教えを、私たちがいつも自覚していますように、そして「イエズス様を愛する」という唯一の、「イエズス様の愛を知り、それを愛で返す」というこの私たちの喜びを、いつも満たす事が、果たす事ができるその御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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