Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

POPE FRANCIS IN JAPAN 2019 テーマソング替え歌

2019年10月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
POPE FRANCIS IN JAPAN 2019 テーマソング替え歌

Keep the Holy Faith 〜 時のしるし 〜
Lyrics:

はるか時のかなた 見えない天主 ぼくらを愛して 全てを創った!
地獄の苦しみから ⼈を救おうと 人となって生き 血を流された!
とわの生命のにために 我が罪を悔やんで泣こう!
主の声を知らせて きっと出会う真理 めぐりあう愛の天主に

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.

ぼくも主と歩く この十字架の道を 何度もくじけて あきらめそうになるけれど
どんな坂道でも 震えた夜も いつかたどり着く 光がさす⽅へ
同じ時の中 ただ⼀度の⼈⽣で
マリア様に祈るよ 聖母とつないだ⼿を ⼆度と離さないで

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.
Keep the Faith with the help of God.

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.
Keep the Faith with the help of God.


願わくは、教皇様が、キリストの代理者として、
三位一体の天主、イエズス・キリスト、母なる教会、罪、霊魂の救い、天国、地獄、超自然の生命、天主への信仰・礼拝・希望・愛徳、御聖体、十字架、秘跡、イエズス・キリスト、来世、天主教の話をされますように!

二酸化炭素、森、水、海、動物、命、つながる世界、夢、未来、自然環境、地球村、母なる大地、温暖化、環境保全、平和、人権、貧困、人間に対する信仰・希望・愛、自由・平等、兄弟愛、民主教ではなく。



教皇の最も重大な使命は「イエズス・キリストから、使徒を通して私たちに伝えられた超自然の信仰の遺産を、私たちに、後世へと伝える事」、永遠の命を得るために必要な信仰を教えること。

2019年10月24日 | カトリックとは
2019年10月14日(月)殉教者教皇聖カリスト1世のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月14日、教皇殉教者聖カリストのミサをしています。

そこで今日は、

⑴聖カリスト教皇様の生涯を垣間見て、

⑵教皇様の務めというのは一体何なのか?簡単に黙想する事にしましょう。

⑶そして、11月に来られる教皇様の訪日の為にたくさんお祈りをする、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1点は、教皇聖カリストはどういう人か?という事を簡単に申し上げます。

ローマの出身のローマの人で、アントニヌス・ヘリオガバルス(Antoninus Heliogabalus 203年 - 222年)というローマ皇帝の元で教皇になりました。


信徒会長が作って下さっているミサ典書にも書かれていますけれども、四季の斎日の日付を確定した方で、「使徒継承の大小斎を、この日に守る」という事を決めました。「年に4回、水・金・土」と。「そしてこの大小斎は、全てのカトリック教徒が守らなければならない」と定めました。

そしてトランステヴェレの聖マリア大聖堂を建設しました。また、アッピア街道にあった墓地も拡張しました。多くの司祭、殉教者をそこで葬る為です。そこでそこにある墓地は、今では聖カリストのカタコンベと呼ばれています。

司祭殉教者であった、カレポディウスという殉教者の遺体を見つけ出さなければならない、という事を霊感を受けて、そしてこの聖人の遺体を発見しました。そしてこの遺体を埋葬する為の墓地を造り、そしてカレポディウスの墓地という名前が付けられました。

教皇として特に主だった事として、墓地を造ったり、あるいは四季の斎日の断食の日を決めたのみならず、多くの人をカトリックの信仰に導きました。特に有名だったのは、ローマの最高役職の執政官であったパルマチウス(Palmatius)という有名な人で、彼をカトリック信者へ導き、洗礼を授けました。また元老院の議員であったシンプリチウス(Simplicius)にも、洗礼を授けました。また特にローマで有名だったフェリックス(Felix)とブランダ(Blanda)と言う人々にも洗礼を授けました。

しかしこのローマのエリートたち、指導階級に洗礼を授けたという事で、その怒りを買った聖カリスト教皇様は、ついに投獄されて、足に枷をはめられました。そしてその教皇様が、聖カリストが洗礼を授けたこの元老院、あるいは議員、あるいは著名な人々も、遂には殉教する事になります。

牢獄にいて、ただその苦しみを捧げていたのみではありませんでした。牢獄にいて、ローマ兵士が、腫瘍で全身が覆われていて、とても苦しんでいたプリバートゥス(Privatus)という兵士がいたのですけれども、その兵士を哀れに思って、奇跡的に彼を癒します、治癒します。するとこの奇跡を受けたローマ兵士は、キリストのその力を知り、「洗礼を受けたい」と思い、そして回心します。遂に彼も殉教します。

ローマ教皇として、ローマの著名な人々を信仰に導いた、イエズス・キリストの教えに服従させたのみではありませんでした。更に12月の四季の斎日の土曜日に、教皇として5年間在期間の間に、5回叙階式を行ないました。その叙階式の間に合計すると、16人の司祭を叙階し、そして4名の助祭を叙階、そして8名の司教も聖別しました。

牢獄に閉じ込められていたカリストは、多くの苦しみを捧げていましたが、特にひどかったのが、食べ物が与えられなかった為に、その飢えと渇きでした。そして体はますます弱り果てて、遂に井戸の中に捨てられて、そしてローマ皇帝アレクサンドルの元で殉教します。西暦222年の事でした。

この遺体はすぐに探されて、カレポディウスの墓地に埋葬されたのですけれども、しかし後に、自分が造ったトラステヴェレの聖マリア大聖堂の主祭壇に、聖遺物が移されました。1960年には、カレポディウスの墓地にあった、その元々の聖カリストの墓地が発見されました、「確かに、ここに埋葬されていた」と。

⑵では、イエズス・キリストの信仰をローマのエリートたちに、指導者たちに伝えて、彼らをイエズス・キリストに服従させて、そしてイエズス・キリストに従うようにさせ、そして使徒たちから伝えられた使徒継承の教えを、特に大斎小斎の教えを規定した、その聖カリストは私たちに、教皇の務めというのは一体何であるという事を、何と教えているでしょうか?

聖ペトロはイエズス様から、「兄弟たちの信仰を固めよ」と命令を受けました。

教皇様の最も重大な使命は、「使徒たちから伝えられた、イエズス・キリストから伝えられて、そして使徒を通して私たちに伝えられた信仰の遺産を、そのまま、イエズス・キリストが教えたまま、私たちに伝えて、それを解説して、それを説明して、そして私たちに伝えるのみならず、後世へとそれを伝達する事」です。

イエズス・キリストは使徒たちに言いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊との御名によりて、洗礼を授けよ。もしも信じて洗礼を受けるならば、救われる。しかしそうでないならば、滅ぼされる。」

全世界に行って教皇様は、イエズス・キリストの教えを伝える事を、教える事を命令されました。イエズス・キリストは私たちに何を教えてきたでしょうか?

イエズス・キリストは私たちに、天主が在す、全ての人類を創った唯一の愛に在す天主が存在して、その天主は私たちの父であって、共通のお父さんであって、私たちを子供として愛しておられる。そして愛するがあまりに聖子を、天主聖子をこの世にお与えになった。

「与えた」という事はどういう事かというと、私たちがそれを自由に、必要な時に、私たちがそれを楽しむ事ができる、という事で、全く私たちのものとされた。

どのようにされたかというと、私たちを愛するがあまりこの聖子は、私たちの人間本性を取って、この世で生活されて、私たちの代わりに御血を十字架の上で流されて、そして贖いをされた。

「友の為に命を与えるほど大きな愛はない。」イエズス・キリストは私たちの為に、御自分の命を与えられた。そしてこの世の終わりまで、私たちを愛するが為に留まり給う。そして私たちの為に、天国の門をもう一度開いて下さった。超自然の命、天主の命への参与の特権を下さった。

聖パウロは言います、「私は、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストしか伝えない、教えない。私の宣教するものは、十字架に付けられたイエズス・キリストだけだ。その他のものは塵芥だ」と。

なぜかというと、私たちはイエズス・キリストのこの十字架のいけにえによって、天主の三位一体の養子となったからです。天主三位一体が、私たちの霊魂に特別にお住みになろう、私たちの心をその宮殿として、皇居として、私たちの霊魂に住み給う、そして私たちのこの地上の生活から既に、天国への喜びを始めよう、と思われたからです。

イエズス・キリストは私たちに、超自然の命を、永遠の命の事を教えて下さいました。ですから、「貧しい者は幸いなるかな。天の国は彼らのものである。」「私の為に迫害を受ける者は幸いなるかな。喜べ、彼らの報いは天国では最も大いなるものである」と仰いました。

イエズス・キリストの教えはまさに、この地上での事ではなくて、「私たちが天国に行く為に、その為に、天主がどれほどお愛しになっているか」という事に尽きます。

この事を見ると、イエズス様は、人となった天主は、イエズス・キリストが私たちに教えて、そして使徒から教えられた信仰の遺産というのは、環境問題の事ではないという事が分かります。あるいは小さき者が差別されているとか、あるいは人権問題という事ではないという事がよく分かります。

イエズス様の教えたものは、天主の権利です。私たちは天主に、三位一体に、この世を創り、私たちを愛して下さっておられる、極みなく愛して下さっている天主を父として、それをこの愛を信じて、私たちは天主を礼拝する義務がある。その天主を知り、礼拝し、この天主に希望し、天主を愛する義務がある。私たちの義務について、天主を愛する義務について、十戒について、教えられました。愛の掟について教えられました。

そこで、教皇様の務めは明らかです。
聖パウロも言う通り、「全てを、キリストにおいて復興させる。全てを、キリストにおいてもう一度秩序立てる。天主に向けて秩序立てる。贖いの業を完成させる。」
「私は、あなたたちの中にあって、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した。」
「実に、主イエズス・キリストを知るというすぐれたことに比べれば、その他のことは何によらず損だとおもう。私はかれのためにすべてを損する。そしてキリストを得るためには、すべてが芥だと思う。」
聖ペトロが言ったように「救いは主イエズス・キリスト以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」

⑶では、私たちは今回、どのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?

今ローマで、アマゾンのシノドスというのが行なわれていますが、色々な高位聖職者たちから、枢機卿あるいは司教たちから、警告の声があがっています、「そのアマゾンのシノドスに参加している人たちの発言は、カトリック教会の信仰の遺産ではない。別の宗教の教えであって、使徒継承の教えではない」と。

ですから私たちはまず、教皇様が、カトリックの信仰を、信仰の遺産を正しく私たちに伝えて下さる事ができるように、御恵みをお祈り致しましょう。

第2に、教皇様が日本に来られる時に、私たちは特に教皇様の為に、そして日本の方々の為にお祈り致しましょう。なぜかというと、「信仰」というのは、超自然の御恵みだからです。私たちがいくら説得しても、もちろん私たちはその信仰への準備をする事ができますけれども、しかし超自然の天主、超自然の生命、超自然の目に見えない三位一体の神秘、イエズス・キリストの神秘を、超自然的に信じる事は、これは天主の御恵みであるからです。ですからこの超自然の御恵みを日本の多くの方が受けるように、お祈りを致しましょう。教皇様が日本に来られるというのは、その御恵みを受ける良き機会となりますように。

そして最後に、ファチマでは子供たちにマリア様が色々なビジョンをお見せになりました。それを見た子供たちは、「教皇様の為にたくさん祈らなければならない」と理解しました。秋田でもマリア様は仰いました、「教皇、司教、司祭の為にたくさん祈りなさい」と。

特に10月はロザリオの月でもありますし、特にこの教皇様の来日の準備の為にも、教皇様の為に、たくさんお祈りをする事に致しましょう。聖カリスト教皇殉教者に、このフランシスコ教皇様の為に、特に御取次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



カトリックの義化の効果:「成聖の恩寵」私たちの霊魂に常駐する聖寵があたえられ、私たちの霊魂は、天主の神殿となる。天主の友となる。功徳を積む事ができるようになる。天国の栄光の種を、成聖の恩寵として持つ。

2019年10月24日 | カトリックとは


2019年10月13日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月13日、聖霊降臨後第18主日のミサです。明日もミサがあります。10時からです。祝日の為に少し遅くなり、10時から始まります。


「子よ、安心せよ、お前の罪は赦された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、私たちの主が本当になさった、歴史の一コマを福音書で読みました。

ある半身不随者が、友人によって担架に担がれて来て、そしてイエズス様の元に近寄って、「何とか治癒して頂きたい」と思ってやって来ました。するとイエズス様は、彼らの信仰を見て、彼らが思っていなかった、更にもっと良い事をされます、「お前の罪は赦された。子よ、心配するな。安心せよ。」

今日この事実を見て、「イエズス様が本当に罪を赦される」、これをカトリックの言葉で、義人とする「義化する」と言いますが、この事について、

⑴一体カトリックは、カトリック教会は何を教えているのだろうか?罪を赦す、「イエズス様は罪を赦す」というのはどうやって?罪を隠すのではないのだろうか?

⑵あるいは、「罪を赦す」というのは、どうやって赦すのだろうか?聖寵を私たちの中に注ぐ事によって、罪を赦されますが、それはどうやって行なわれるのだろうか?

⑶次にそれの結果、一体私たちの心にはどんな変化が起こるのだろうか?

特に今回は3つの変化を黙想して、これほどの素晴らしい事を私たちに行なって下さる、半身不随者だった私たちが罪を赦された、その事が行なわれた、私たちにも行なわれたという事を見て、天主を讃美して、そして聖パウロと一緒に、このような御恵みを、聖寵を下さったイエズス様に、イエズス様において下さった天主に、感謝したいと思っています。


⑴ではまず第1に、「罪が赦される」というのはどういう事なのでしょうか?カトリックの教えによると、罪が赦されるというのは、ただ罪が、私たちが罪人であるというのはそのままで、天主と人間との関係だけが変わって、でも私たちは変わらないという事なのでしょうか?

違います。イエズス様は、天主は、私たちの中に最高の奇跡を起こします。「私たちの罪が赦されて、私たちはもはや悪魔の奴隷ではなくなって、天主の子供となる」という大奇跡が、罪の赦しが行なわれる時に生じます。

ただ単に、私たちのそのまま残って、ピカピカのカバーで隠して、というのではなくて、本当に、私たちの霊魂がピカピカになります。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちが『義化される』というのは、ちょうど例えば、壁が白いというのには、何かの『白さ』があって、これは白い。それと同じように(その「白さ」というのを哲学用語で、「形相」と言いますけれども)、私たちを義とする『形相』が、義とするものが与えられて、私たちは本当に、義となる。本当に聖となる。単なる、単に隠されるのではない。覆われるだけではない。内部から、本当にそうなるのだ」と教えています。

イエズス様は、「私が罪を赦す事ができないと思っているのか。ただ隠すだけだと思っているのか」と言って、この半身不随の人を治します、「起きよ。さぁ、床を取って家に帰れ。」

その時に、「治れ。お前は健康だ」と言って、本当はまだ体が動かないのに、「健康だ」と、名前だけ付いたのでありませんでした。本当に健康が与えられて、本当にシャキッと立って、家に帰ってしまったのです。

それと同じように、私たちの霊魂も、本当に健康になり、本当に聖となります。義とされます。

⑵一体これはどうやって起こるのでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、「聖寵」が、天主の御恵みが、聖なる恩寵が、私たちの霊魂に注入されて、この「聖寵」という超自然の御恵みが、私たちの霊魂を動かして、天主を信じるように、そしてまた罪を忌み憎むように動かして、そして私たちの霊魂は、その聖寵の助けに協力して、そして罪の赦しが行なわれます。罪の赦しが成立します。一瞬の間に。

そしてその私たちが罪を赦されると、聖寵の中でも特別に、「成聖の恩寵」と言われる、私たちが大罪を犯さない限り私たちを離れる事のない、私たちの霊魂に常駐する、いつも留まる聖寵が、恩寵が、私たちに宿ります。私たちに存在し始めます。天主の命への参与です。超自然の御恵みで、私たちを聖とする特別の御恵みです。

これを私たちが受ける事によって、私たちは罪の赦しが完成します。もはや罪人ではなくなります。本当に聖なるものとなります。

⑶では、この結果は何でしょうか?

今日を取り上げたいのは、3点あります。

1つは、まず「この御恵みが、いつも私たちに常駐する、常に存在する御恵みだ」という事です。そこでこのこれは、この私たちがこの聖寵を常に持っているという事は、言い換えると、「特別なやり方によって、天主聖父・聖子・聖霊、三位一体が、私たちの霊魂に住まわれる」という事です。

つまり、私たちの霊魂は、天主の神殿となる。天主がそこにいつも在し給う、御聖櫃になる。天主がそこに住まわれる、天主の王宮になる。公教要理では「神殿」と言います。そして私たちが天主三位一体のまどいの中に入って、そして天主をますますよく知り、天主を愛し、そして天主との親しい、緊密な生活を送る事ができるように変わります。

イエズス様は言いました、「もしも誰かが私を愛するならば、私の聖父は彼を愛するだろう。そして私たちは(つまり聖父とイエズス様は)、彼のところにやって来るだろう。そして彼のところに、私たちの住まいを造るだろう」と、聖ヨハネの福音書にあります。

天主聖父が私たちの、私の霊魂に居て、聖子も私の霊魂に居て、聖霊も私の霊魂に居る。「私はお前に留まり、お前も私に留まる」と言った、そのイエズス様の言葉が実現します。

「天主の神殿になる。」よく私たちは何度も聞きますけれども、しかし「天主の神殿」という事をよく考えれば考えるほど、ものすごい御恵みです。

何という友が、何というお客様が、何という方が、私の霊魂に来られるのでしょうか! 三位一体の、聖父・聖子・聖霊が、常に留まり給う。天主はこれほどまで近くに在す、という事です。

「私たちの霊魂に天主が居る」というのは、たとえ目に見えなかったとしても、そして霊的なものだったとしても、本物です。本当に、実際に、起こっている事です。

「天主が私たちの霊魂に居る」というのは、天主の遍在と言われていて、創造主として、被造物の全てのものを在らしめているが故に居るという、「天主の遍在」とは違うものです。これを更に超える、超自然の御恵みで、知的な人間と天主のみが、霊魂の最も奥深くに、特別なやり方で、その住処を造るという、特別な在り方を、天主様は私たちの霊魂にされるのです。

これは単に、「あぁ、今日は教皇様の為にお祈りをするから、教皇様の事を考えよう」とか、あるいは、「今日は、私はお母さんの為に、お母さんを特に慕っているから、私の心にお母さんがいつも居る」というような、そういうようなやり方ではなくて、本当の本当に、実際に、「天主三位一体が、私たちの心に住まわれる」という現実です。

これが第1の結果です。

第2は更に、天主が私たちの心に住まわれる、私たちの心を住処とするのみならず、「私たちを友として取り扱う」という事です。

イエズス様は既に使徒たちに言いました、「私はお前たちを、しもべではない、友と言う。」

公教要理によるとやはり、「成聖の恩寵によって私たちは、天主の友となる。」

聖トマス・アクィナスは言います、「でも友となる為には、何らかの平等性がなければ、友達とは言えないんじゃないか?また友となるには何か、特別の何か共通、共同に何かを持っていないと、共通に持ってないものがないと、友じゃないんじゃないか?」

「例えば、いくら好きだと言っても、ローソクを友だ、と言う事はできない。しかし天主と人間の間には、人間とローソクとよりも更に、無限の差があるにも関わらず、何で友となるだろうか?あり得ない。」

聖トマス・アクィナスは言います、「いや、天主は聖寵によって、天主の命に私たちを参与させて、私たちを罪人から本当に、天主の聖の高みまで上げて下さるので、ある意味で、確かに天主と人間では無限の差がありながらも、私たちに与えられた御恵みによって、ある平等性が与えられる。天主の命を生きる、『成聖の恩寵にいる』という平等性にまで高められるので、天主は私たちを友とされる。私たちは天主を友とする事ができる。友達とする事ができる。そして同じ天主の命を共通に持つので、本当の友情が成立する」と言います。

天主はどれほど良い御方で、どれほど私たちを高めて下さるのでしょうか。

ですから私たちは、友達の為ならば、一肌二肌、火の中水の中、もしも友達がこれを望むなら、どんな事でもやってやろうと思うではないでしょうか。友達から頼まれたら、拒めないのが日本男児ではないでしょうか。

ですからイエズス様も私たちを友として、私たちもイエズス様を友とするならば、イエズス様の事を、どれほど御望みの事を私の望みとし、イエズス様の嫌なものを私たちも嫌だ、と思うようになるのではないでしょうか。

イエズス様は言います、「もしもお前たちに命じる事をするならば、お前たちは私の友だ。もしも私を愛するならば、彼は私の言葉を守るだろう。」

第3には、「この成聖の恩寵によって、私たちは功徳を積む事ができる」という事です。
成聖の恩寵によって私たちは、功徳を積む事の「原理」を獲得します。これは何かと言うと、「天主の命」であって、「天主との友情」であります。

でもイエズス様も仰ったではないでしょうか?私たちはイエズス様から言われた事を全てやったとしても、当然やるべき事をやったのだから、一体何で功徳とかを、褒美をもらう事ができるだろうか?

聖トマス・アクィナスはこう説明します、「動物や、あるいは命がないものは、天主の法則によって、ただ考えもなく、自由意志もなく、ただそのまま動く。動物も本能によって、自由意志のないまま動く。しかし人間の場合には、理解して、自発的に、自由意志で、愛が故に、それを成すので、そこに私たちの功徳の、報奨を受ける理由が存在するのだ」と。

そして、私たちが持っているその「聖寵」というのは、「御恵み」というのは、「天国での御恵み」、「天国での報いの種」なのです。と言っても、種であったとしても、全く同じものなのです。ちょうどリンゴの木が、リンゴの実がたくさん成っているリンゴの木が青々と茂っていると、種は違うように思えても、でも同じリンゴであると同じように、私たちもその栄光の種を、聖寵として、成聖の恩寵として持っています。いつも持っています。そしてこの種がますます大きくなって、実を結んで、永遠にそれを楽しむ事ができるように、私たちがそれを育つようにとされています。

天主は私たちに本当に、この種を下さいました。

今、今日この黙想を提案するのは、カトリックの教えによると、「イエズス様が私たちを本当に義化する」という事です。

「私たちを聖として、そして三位一体が私たちの霊魂にいつも住まわれている。そして友となるほど高めて下さる。天主の命を私たちが永遠に受ける事ができるようにと、もうその下準備を、もう心の中に下さっている、既に天国が始まっている」という事です。

何という御恵みでしょうか。お祈りをする時に、「天主は私たちの心に居る」という現実を思えば思うほど、どれほどお祈りがしやすくなるでしょうか。「天国が私たちの心で、もう始まっている」と思うと、どれほどそれが近くに感じるでしょうか。

今日はファチマのマリア様の日ですから、最後に現れた日ですから、マリア様は最後に、とても御悲しみの顔で御現れになりました。これほどの愛を、天主が私たちに全人類に与えたにも関わらず、私たちを友として、永遠の命に引き寄せようとしたにも関わらず、聖寵を与えようとするにも関わらず、多くの人はそれを拒んでいます。信じない人、礼拝しない人、希望しない人、愛さない人。そして人類は罪を犯す事によって、天主を侮辱する事によって、ますますその心を悲しませておられます。

ですからこの御恵みが、癒しの御恵みが得る事ができるように、多くの罪人たちをマリア様の元に担架で運ぶ事ができますように、祈りの担架で運ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。

お祈りによって、私たちはこの聖寵を求める事ができます。ぜひ今日はこのマリア様に、私たちの天主の現存の神秘と共に、この御恵みが多くの方に与えられますように、お祈り致しましょう。

「子よ、安心せよ、お前の罪は赦された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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