Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会修道女会の修練院 (ドイツ) を紹介します。

2008年02月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドイツにおける聖ピオ十世会修道女会の修練院をご紹介します。


聖ピオ十世会修道女

聖ピオ十世会修道女

聖ピオ十世会修道女

聖ピオ十世会修道女

聖ピオ十世会修道女


【参考資料】
Liebe Freunde und Wohltäter,

Für alle, die den Schwestern der Bruderschaft St. Pius X. helfen wollen:
Für Deutschland und Österreich:
Noviziat St. Pius X., Biberacher Str. 2/1, 88527

Unsere Liebe Frau vom Mitleiden, bitte für uns!

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【関連記事】


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 11.3.3. 衰退する司教区(その3)

2008年02月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
第11章 チュール時代の小さなエピソード

III. 信頼回復


衰退する司教区(その3)

 それだけではなく、カトリック・アクションには全国レベルの事務局から押し付けられた政策と指導神父たちがあった。カトリック・アクションは超自然的性格のほとんど無い、純然たる社会的手段と社会的実現の道に身を捧げていた。フェルノ・ブラール (Fernaud Boulard) 神父によって組職されたチームの司牧集会も同じな経路に付いていた。実際に、新司教の着任の祭に、この司祭の指導の元で、レデンプトール会、イエズス会、ドミニコ会の約二十名の司祭たちにより、小教区連合黙想会が開かれていた。そこでこの司祭たちは、今まで平和が支配していた工場において労働者を駆り立てて経営者たちを侮辱させ、対立させていたのだった。

 ルフェーブル大司教は、工場主たちの不平を受けて、この黙想会を中止させなければならなかった。フランス宣教会(Mission de France)の司祭チームたちと言えば、地域の必要と司祭の共同生活の必要に答えつつも、社会運動に埋没しており、世俗にいて平信徒のものとして残っていることに没頭していた。彼らの機関誌モネディエール誌(Monedieres)は、敢えて素晴らしい小さなロマネスク様式の教会でいっぱいの地方について、「この地域はかつて一度も福音化されたことがなかった」さえ書いた。

 エコンの神学校でルフェーブル大司教はこう回想した。
「私はまだ今でも、フランス宣教会によって任命された地区長 (Doyen) が、私がチュールを去る直前に私に会いに来て、私の執務室で涙を流してこう言うのを思い浮かべます。『私は、こんな環境の中に身を置くためにフランス宣教会に入会したのではありません! 私の同僚司祭たちと一緒に暮らすことは、もうこれ以上出来ません! 私はもうこの会に留まりたくありません』と。彼は、自分の同僚司祭たちはもはや司祭ではない、もはや司祭として行動していないと感じていたのです。」


 司教区に到着したその時から、ルフェーブル大司教は司祭職を世俗化させる精神の威嚇を見抜き、それを極めてデリケートな表現で告発した。

 既に、司教座大聖堂着座式の講話で、この講話はある人々には「田舎司祭の説教にふさわしい程単純なもの」と断定されたのだが、ルフェーブル大司教は特に自分の司祭たちに語りかけ、彼らにこう求めた。

あなたたちにおいて、キリストが透けて見えるようにしなさい。それは信徒たちが、より天国的なあなたたちの側に近寄ると、天主にもう少し近づいて、この地上のことからもう少し遠ざかり、善をなすためです。それはあなたたちが、彼らを本当に私たちの主イエズス・キリストへと、天国へと導くためです。

 このあまりにもはっきりした言い方において、誰も「間違い、不正確、及び一般論」で満ちていると思ったものもいた。そこで、ルフェーブル大司教は、六月の「司教の言葉」の中で、釘を打ち付けた。

超自然の優位性! 私たちのカトリック・アクションにおいて、私たちは常に祈りと結びつけるように。私たちの主イエズス・キリストとの一致を行動に結びつけるように。そうでなければ私たち行動はカトリックではなくなってしまうからです。」

 続いて、大司教は聖イグナチオの霊操による五日間の黙想会を薦めた。7月にはアルジェの難民の援助をするように信者たちを招きながらこう期待した。

「願わくは、これらの出来事が、正義、 法、愛徳及び人間に対する尊敬心 -- これらはみな自然道徳の概念です -- という観念が、私たちの主イエズス・キリストの聖寵によって改めて教えられたということを私たちに思い出させてくれるように。常にこの原理を思い出すようにしましょう。『人はより少なくキリスト教的であればあるほど、より少なく人間的となる』と。ここから、人々の間の人間関係を回復させるために私たちの第一の義務は、私たちの全ての力を尽くして、私たちの主イエズス・キリストの統治のために働くという義務なのです。」

(続く)

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区

II. シテ・カトリックと司教

III. 信頼回復


ルルドにおける天主の御母聖マリアの御出現150周年記念

2008年02月11日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
ルルドにおける天主の御母聖マリアの御出現150周年記念、おめでとうございます!

1858年2月11日-2008年2月11日


Première apparition, le Jeudi 11 février 1858
1858年2月11日(木曜日)午前11時頃、ベルナデット・スビルー(Bernadette Soubirous)は、妹のマリ・アントワネット(愛称トワネット)と友人のジャンヌ・アバディー(愛称ジャンヌ)と薪を探しにマッサビエル(Massabielle)の洞窟の側にあるガーヴ川(le Gave)の川岸へと向かった。トワネットとジャンヌがベルナデット・スビルーを離れていったが、ベルナデットは凍てつく川の水を渡る前に、お告げの鐘の音を聞き、跪いてお告げの祈りを唱えた。するとベルナデッタは、アンジェルスの時に祈るのを愛するその女性を見た。

 ベルナデット・スビルーはこう言っている。
「私は、靴下を脱ぎ始めていました。すると突然、雷のような大きな音が聞こえました。私は左右を見渡して、川の木々を見たのですが、何も動いていませんでした。錯覚だったと思いました。私は靴下を脱ごうとし続けると、最初に聞こえたのと似た別の音が聞こえました。あぁ!その時です。立つのが怖くなりました。言葉を失い、何を考えて良いか分かりませんでした。頭を洞窟の方に向けると、岩の裂け目に一つの茂みを見ました。たった一つで、大きな風が吹いていたかのような音。ほとんど同時に、洞窟の内部から金色の雲が出てきました。そして少し後に、若く美しい女性が、私がこれ程の美しさをかつて見たことのない程の特に美しい方が、裂け目の入り口の茂みの上に身を置いたのです。すぐにこの方は私を御覧になり、私に微笑み、私に前に進むように合図をされました。あたかもこの方が私の母であったかのようです。恐れはどこかに行ってしまいました。しかし私がどこにいたのか分からなくなってしまっていたかのようです。私は目をこすり、目を閉じたり開いたりしました。それでもこの貴婦人はつねにそこにおられ、私に微笑み続け、私の錯覚ではないと言うことを分からせようとしていました。
 自分が何をしているのか理解しないまま、ポケットからロザリオの数珠を取り出し、跪き始めました。貴婦人は会釈のしるしで私のすることを良しとされました。貴婦人は右腕に持っておられた御自分のロザリオを指に取りました。ロザリオの祈りを始めようと【十字架の印を切るために】手を額に持っていこうとすると、腕は麻痺したようになりました。貴婦人が十字架の印を御自分で切った後にようやく私も彼女のようにすることが出来ました。貴婦人は、私一人に祈りをさせました。この方は御自分のロザリオの玉はつまぐんでおられましたが、何も言いませんでした。一連の終わりに栄唱をグロリア・パトリ・エト・フィリオ・エト・スピリトゥ・サントと唱えるときには私と一緒に唱えていました。私がロザリオの祈りを唱え終わると、貴婦人は近づくように合図をされました。しかし私はそこまではしませんでした。すると彼女は岩の内部に入ってしまい彼女と共に雲も消えました。貴婦人は十六歳から十七歳ぐらいの少女のようで目は青い色をしていました。彼女は白い服を着ており、服に垂らす青い帯を締めておられました。頭には白いベールを被り、髪の毛はほとんど見えませんでした。ベールは後ろで上半身を被すようにたれていました。この方の足は素足で、足先以外は服の襞で隠れていました。足の指には黄色い咲き誇るバラの花がそれぞれついて輝いていました。貴婦人のロザリオの珠は白で、足の二つのバラの花のように輝く金の鎖で出来ていました。私はこのようなものを見たことがありません。金のように金よりも遙かに輝いていました。」

"J'avais commencé à ôter mon premier bas, quand tout à coup j'entendis une grande rumeur pareille à un bruit d'orage. Je regardai à droite, à gauche, sur les arbres de la rivière. Rien ne bougeait; je crus m'être trompée. Je continuai à me déchausser, lorsqu'une nouvelle rumeur, semblable à la première, se fit encore entendre. Oh! alors, j'eus peur et me dressai. Je n'avais plus de parole et ne savais que penser, quand, tournant la tête du côté de la Grotte, je vis à une des ouvertures du rocher un buisson, un seul, remuer, comme s'il avait fait grand vent. Presque en même temps il sortit de l'intérieur de la Grotte un nuage couleur d'or, et peu après une Dame jeune et belle, belle surtout, comme Je n'en avais jamais vu, vint se placer à l'entrée de l'ouverture au-dessus du buisson. Aussitôt elle me regarda, me sourit et me fit signe d'avancer, comme si elle avait été ma mère. La peur m'avait passé, mais il me semblait que je ne savais plus où j'étais. Je me frottais les yeux, je les fermais, je les ouvrais, mais la Dame était toujours là, continuant à me sourire et me faisant comprendre que je ne me trompais pas. Sans me rendre compte de ce que je faisais, je pris mon chapelet dans ma poche et me mis à genoux. La Dame m'approuva par un signe de tête et amena elle-même dans ses doigts un chapelet qu'elle, tenait à son bras droit. Lorsque je voulus commencer le chapelet et porter ma main au front, mon bras demeura comme paralysé, et ce n'est qu'après que la Dame se fut signée que je pus faire comme elle. La Dame me laissa prier toute seule; elle faisait bien passer entre ses doigts les grains de son chapelet, mais elle ne parlait pas; et ce n'est qu'à la fin de chaque dizaine qu'elle disait avec moi: Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto. Quand j'eus fini de réciter mon chapelet, la Dame me fit signe d'approcher. Mais je n'ai pas osé. Alors elle rentra à l'intérieur de la roche et le nuage disparut avec elle. "La Dame avait l'air d'une jeune fille de seize à dix-sept ans, aux yeux bleus. Elle était vêtue d'une robe blanche, serrée à la ceinture par un ruban bleu glissant le long de la robe. Elle portait sur sa tête un voile blanc, laissant à peine apercevoir ses cheveux, retombant ensuite en arrière jusqu'au dessous de la taille. Ses pieds étaient nus, mais couverts par les derniers plis de la robe sauf à la pointe où brillait sur chacun d'eux une rose jaune, épanouie. Les grains de son chapelet étaient blancs et la chaîne d'or brillante comme les deux roses des pieds. Je n'en ai jamais vu de semblable, ça brillait comme de l'or et bien plus encore."

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 ルルドの御出現150周年を記念して、聖ピオ十世会は、聖ピオ十世会の日本における全てを、聖母の汚れ無き御心に再奉献します。

聖ピオ十世司祭兄弟会を童貞マリアとその悲しみに満ちた汚れ無き御心に奉献する祈り


 汚れ無き天主の御母よ、母なる教会を根底から揺り動かさんとする未曾有の嵐の只中、人類の危急存亡の秋(とき)、我ら御身によりすがり奉る。かつて十字架の下(もと)に佇み、御身の天主なる御子の御受難を共にいたく苦しみ給うた御身は、今日、御子の神秘体なる教会の受難を、共に如何ばかり苦しみ忍び給うや。

 外にては共産主義がどこ彼処にもその誤謬を広めしが、今や教会さえもがこれに感染せる程なり。果てには教会の中心にて、誤てる宗教統一主義の菌が無数の霊魂を毒し、真の信仰の一致と唯一の救霊の箱船とから霊魂を遠ざけ、或いはその外に留めしむるなり。

 かくも多くの破壊と背信との只中で、己の無力をよくわきまえつつ、力ある童貞、キリスト信者の助けなる御身に今日(こんにち)向い奉る、この我らが兄弟会を復興者の小さき軍隊となし給い、古(いにしえ)の範に従い、全能の天主がこれを嘉(よみ)し給わんことを。陣立を整えた軍勢の如く恐るべき威光を具えし童貞女よ、我らは我らに委ねられし責務の重大なるを顧み、己に頼らず、むしろ、蛇の頭(こうべ)を踏み砕くべく原初(はじめ)より約束されし御身の母なる力ある保護に、我らの身を委ねんと欲し奉る。我らに迫り来る危険の只中にて、我らをして天主の教会に奉仕させんとかたじけなくも召し出し給いし天主にひれ伏し奉る。願わくは御身によりて、我らの召命を聖なるものとして固め給わんことを、おお、契約の櫃よ。

 それ故、汚れ無き童貞よ、今日御身の聖寵の玉座の前にひれ伏し奉る。おお、いとも甘美なる我らが御母よ、御身の賛美と栄光とをいや増さんと望みつつ、御身の御子キリストが御身を愛し給うたその愛に、我らが拙き愛を加え捧げ奉らんが為、今ここに、我らが聖ピオ十世司祭兄弟会を、その司祭、神学生、修道士、修道女、奉献修道女、第三会会員、及び全ての霊的家族共々、御身に、とりわけ御身の悲しみに満ちた汚れ無き御心の称号に、取り消し得ざるべく、我らは奉献し奉る。

 御身は今や、この我らが兄弟会の元后にてましますが故に、我らが財産と住処を永久に御身に、御身の御手のうちに、捧げかつ委ね奉る。そは我らが財産と住処が真に御身のものとならんが為なり。また、我らが肉体と霊魂、我らが全てを御身に引き渡し、奉献し奉る。そは御身が御身の思いのまま、我らを司り給わんが為なり。我らに委ねられし霊魂をも、御身に委ね奉る。そは御身がこれら霊魂を母なる保護の下(もと)に置き給わんが為なり。更には我らが使徒職をも御身に任せ奉る。そは我らが使徒職が御身の使徒職とならんが為なり、おお、使徒の元后よ。

 しかれば、今後我らが兄弟会は御身の支配に属したり。ダヴィドの塔よ、我らが兄弟会が決して道から外れることの無きよう堅く守り給え。忠実なる童貞よ、会員の一人一人が揺るぎなく堅忍すべく守り給え。いと清き童貞よ、御身は全世界においてあらゆる異端を撲滅すべき権能を受け給いたれば、我らが信仰を無辜の童貞の如く守り給え。聖寵満ち満てる御者よ、教会の為、古(いにしえ)より伝わる、尊ぶべき、聖寵をもたらすローマ典礼に則ったミサの犠牲を守り給い、またその為我ら信者を守り給え。諸聖人の元后よ、司祭、修道者、家庭の聖徳を我らの間に咲き乱れさせ給え。天主の聖寵の御母よ、我らが兄弟会を、聖なるローマ・カトリック教会の実り豊かな常に活ける枝として守り給え。教会の御母よ、より多くの霊魂を救わんが為、我らがより従順でより相応しい、天主の御手の中の道具となるべき聖寵を、我らに得しめ給え。慈愛深き童貞よ、天主なる刈り入れ主が御自分の刈り入れに呼び給う多くの働き手を我らに送り給え。そは御身が我らの祈りを聞き容れ給いしを、我らが知る為なればなり。至高にして永遠なる司祭の御母よ、またカトリック司祭職を復興させ給い、司祭なるキリストの霊魂の輝きをカトリック司祭職に取り戻すべく我らがうち働き奉り、遂にはこの輝ける光によりて、主の堅固なる御国を、各人、家庭、諸民族が受け入れ奉るべき聖寵を我らに与え給え。

 殉教者と証聖者の元后よ、イエズスとマリアの使徒の名を誇りとし、全てをキリストにおいて復興させ、主の御国を広め、また御身の悲しみに満ちた汚れ無き御心の栄えある凱旋を準備し奉らんが為、我ら最後の息の尽くるまでうち働き奉らんことを、ここに約束し奉る、おお、マリアよ。アーメン。

ルフェーブル大司教の伝記 11.3.2. 衰退する司教区(その2)

2008年02月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
第11章 チュール時代の小さなエピソード

III. 信頼回復

衰退する司教区(その2)

 4月 10日と 11日には、ボルドーにて開催された新しい「南西部の使徒職的地域 (Region apostolique du Sud-Ouest)」の司教たちの会合に出席した。この会議の議長はリショー枢機卿(Cardinal Richaud)であった。ルフェーブル大司教はローマから来た神学校時代の同窓生たちと出会った。つまりロジェ・ジョアン (Roger Johan アジャン (Agen)の司教)、ロベール・ベザック (Robert Bezac, ダックス (Dax) の補佐司教) 及びその友、ザヴィエ・モリロ (Xavier Morilleau, ラ・ロシェル (La Rochelle) の司教)だ。12日にはボルドーの道路を経由して自分の司教区に戻った。

 4月 15日、ルフェーブル大司教はチュールで、枝の主日のために枝の祝別を執行した。その後にカルメル会修道院でミサ聖祭を捧げた。

 そらから、チュールの市長兼下院議員であるジャン・モンタラ (Jean Montalat) の列席の元で、チュールとその他の町の戦死者とレジスタンスの殉教者のために戦争記念碑の上に追悼の花輪を置いた。ルフェーブル大司教は、レジスタンスのために国外追放されて世を去った正真正銘のレジスタンス闘士の息子であった。

 午後には、司教座大聖堂で政府関係者らの臨席の元で着座式を執り行った後に、政府関係者と聖職者とらのために、「友情の乾杯リセプション」を開いた。フランスでは珍しいこのようなジェスチャーは、ルフェーブル大司教が前日の夕方にあらかじめ訪問した知事を感動させた。

 ルフェーブル大司教は後にこう言った。「私はいつでも知事に会いに行けたし、道で出会えば私たちは握手しあった。」

 アフリカのキリスト教社会が急速に発展していたダカールから来たルフェーブル大司教は、戦後の急激な人口衰退にあったチュール司教区では、状況があまりにも違っているのをひしひしと感じた。

 聖職者の数は 1940年の 300人から 1962年には 240人 (なかでも 16人は修道者) に減った。 1958年に、神学校は 21人と多くの神学生がいたが、既に閉校した状態であり、その神学生たちはサンフルール (Saint-Flour) とリモージュ (Limoges) から来た他の神学生たちと一緒に、クレルモンフェラン (Clermont-Ferrand) に転校させられていた。

 1961年には 六名の司祭叙階式があったが、1962年には 二名だけだった。その二名の内の一人は 7月 15日、ボリュウ・シュール・ドルゴーニュ (Beaulieu-sur-Dordogne) の大修道院教会で、ルフェーブル大司教によって叙階が挙行されたイーヴ・ピュイジャロン (Yves Puyjalon) 神父だった。

 残念なことに、かつては南部において召命の種苗であったザントリー (Xaintrie) は一体どうなってしまったのか。 北部では、「山岳地方の聖なる町」と呼ばれて来たトレニャック(Treignac)は、どうしたのか? 十九世紀末には二十一個存在していた修道会の中で、残っているのとはわずかラカバン (Lacabane) のマリアの小さな兄弟会 (Petits Freres de Marie)、ポルシウ (Portieux) にある摂理の修道女会 (Soeurs de la Providence、幾つかの小教区において)、ボリュウ (Beaulieu) にある憐れみの修道女会 (Soeurs de la Misericorde、病者看護及び小教区での事業)、ビリーヴ地方にあるヌヴェール (Nevers) の愛徳及びキリスト教教育姉妹会 (Soeurs de la Charite et de l'instruction chretienne), そしてマリアの聖心修道女会 (Soeurs du Saint-Coeur de Marie)という司教区立修道会だけだった。しかしこれら修道会とても、一つまた一つとその修道院と学校を閉鎖していった。

 ルフェーブル大司教はこう言った。
「人々はそれに対して何もすることが出来ない一種の運命的なものを感じていました。それは圧倒的なものでした。」
(続く)

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区

II. シテ・カトリックと司教

III. 信頼回復

聖ピオ十世会(SSPX) フラヴィニー(フランス)の神学校で、スータンの着衣式及び剃髪式

2008年02月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
愛する兄弟姉妹の皆様、

 2008年2月2日、聖ピオ十世会のフラヴィニーの神学校で、スータンの着衣式及び剃髪式があり、14名の神学生が着衣式及び剃髪式を受けました。













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【関連記事】


聖ピオ十世会ツァイツコーフェン神学校で、下級品級の叙階式

2008年02月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
愛する兄弟姉妹の皆様、

 2008年2月2日、聖ピオ十世会のツァイツコーフェン神学校では、デ・ガラレッタ司教司式による下級品級の叙階式も行われました。











払魔師と侍祭






兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

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聖ピオ十世会ツァイツコーフェン神学校で、スータンの着衣式及び剃髪式

2008年02月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2008年2月2日、聖ピオ十世会のツァイツコーフェン神学校で、スータンの着衣式及び剃髪式があり、4名の神学生が着衣式及び剃髪式を受けました。













 新しいこれらの聖職者達のために兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

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【関連記事】

11.3.1. 衰退する司教区 (ルフェーブル大司教の伝記 続き)

2008年02月04日 | ルフェーブル大司教の伝記
第11章 チュール時代の小さなエピソード

III. 信頼回復


衰退する司教区

 1962年 3月 10日頃、ルフェーブル大司教はチュールにしばらく立ち寄った。彼はその教区長代理、聖堂惨事会員 (Vicar Capitulaire) であるモンシニョール・ラヨット(彼はサンタ・キアラの卒業生であった)とともにパリから旅行した。ユゼルシュ (Uzerche) に到着して汽車から降りると、シャセーニュ (Chassaigne) 司教はルフェーブル大司教を出迎えた。
 彼らは車で、栗の森と小さな集落の間の曲がりくねった道を走った。自分の司教区を静かな春期に人知れずに訪れることで、彼はコレーズの歴史と生活に対する数多くの詳細な内容を知り、記憶に止めた。彼が就任する日には、コレーズ県知事はその地域に関するルフェーブル大司教の正確な知識に「目を丸くする」だろう。

 さあ、もうすぐチュールに到着する。チュールは、灰色がかり、古くさく、谷の中に埋まり込んでおり、武器工場とロココ様式の県庁と、そして残念ながら空っぽの神学校の長い灰色の壁がある町だ。

 ようやく司教座聖堂の鐘の塔が見えた。塔はまっすぐ天にそびえて立っている。司教館は建てられたばかりで機能的ではあったが、貧しく、丘と騒がしい通りに間に閉じこめられていた。

 人々の表情は、好意的だ。たとえ彼らの中には「政治をする司教」にあらかじめ反対するものがいたとしてもである、実際、この議論の的になった噂は、ルフェーブル大司教の行動によってすぐにたち消えるだろう。

 翌日、ルフェーブル大司教は、カルメル会修道院でミサを捧げ、修道女たちに祈りを求めた。続いて彼は前任の司教と司教区の状態に対して話し合った。次の日にはパリに戻った。

 3月 16日、シャセーニュ司教はティエ (Thiers) に引退し、そこで 4月 6日に世を去るだろう。前日、ルフェーブル大司教は 4月 8日のミサの時に読まれるように、司教区の教区民たちに対する始めてのメッセージを書いた。彼は「すべてのイニシアティヴ、救霊に本当に役に立つことができるすべて」を励まし、「霊魂を天主から、また私たちの主イエズス・キリストから、天主の御母から、引き離す虞のあるべて、そして偽りの父(サタンのこと)から来る全て」を告発した。

(続く)

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区

II. シテ・カトリックと司教


マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会の中への侵入の略史 (その5)

2008年02月02日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その5)

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて


(続き)

典礼改革

 もっとも重大だったのは、典礼の改革でした。この典礼改革は誰もが知っているようによく知られたある一人の神父によってなされました。ブニーニ(Bugnini)です。ブニーニはこれをずっと前から既に準備していました。既に1955年にはブニーニ神父は、その当時イタリア従軍司祭の総司祭長であったモンシニョール・ピントネッロ(Mgr Pintonello)によってプロテスタントの典礼文を訳を頼んでいました。ブニーニはドイツ語を知らなかったのですが、ピントネッロはイタリアがドイツに占領されていた間、ドイツに長い間滞在していたことがあったからです。私はモンシニョール・ピントネッロ自身の口からこの耳で聞いたのですが、彼がプロテスタントの典礼書をいろいろと、当時ある典礼委員会の単なる一員に過ぎなかったブニーニ神父のために訳したのです。

ブニーニ神父


 ブニーニ神父は、何の地位もありませんでした。その後に彼はラテラン大学の典礼の教授になりました。教皇ヨハネ二十三世はしかしブニーニ神父の近代主義と進歩主義のために教授職から彼を追いやりました。ところが何とブニーニは典礼改革委員会の委員長として舞い戻ってきたのです。これは、嘘のような本当の話です。私はこの目でブニーニ神父の影響力がどれほど大きいものとなったかと言うことを知らされる機会がありました。このようなことがどうしてローマであり得たのか、不思議でなりません。

ブニーニ神父

 私はその当時、つまり第2バチカン公会議の直後、聖霊修道会の総長でローマにはいろいろな修道会の総長たちが集う「総長友好会」という会合がありました。私たち総長らはブニーニ神父に、彼の作った新しいミサとは一体どういうものかを説明してくれるように求めました。と言うのも、何と言っても典礼の改革というのは小さな出来事ではなかったからです。公会議後すぐに「規範ミサ Missa Normativa」とか新しいミサとか新しい式次第 (Novus Ordo) 等という言葉を耳にするようになりました。ですから、これが何のことか確かめたかったのです。このようなことは公会議の時には一切話しもしませんし、耳にしなかったからです。何が起ころうとしていたのか、それを知りたかったのです。ですから、私たちはブニーニ神父に、一堂に会した私たち84名のいろいろな修道会の総長たち(そして私もそのうちの一人でした)に彼自身が説明してくれるように頼んだ訳です。

 ブニーニ神父は気だてよく、私たちに「規範ミサ」とはいったい何なのかを説明してくれました。彼は、これを変えて、あそこを変えて、別の奉献文を付けて、典文(カノン)を選択することが出来るようにして、聖体拝領の祈りを簡略化して、ミサの始めにはいろいろな選択肢を付けて、ミサをいろいろな言葉で立てることが出来るようになる、等とまくし立てました。私たちは顔を見合わせて「まさか、無理な話だ!」と言いあったものです。

 話を聞いていると、まるであたかもブニーニ神父以前には教会にミサというものが存在していなかったかのようでした。ブニーニ神父は自分の作り上げた「規範ミサ」を新しい発明発見であるかのように話していました。

 個人的な話ですが、私は自分と意見を同じくしない人に反対意見を述べるのに普通ならさして困難を感じることはないのですが、この時ばかりは非常に動揺し、何も言葉を口にすることもできませんでした。一言も言葉を出すことが出来なかったのです。今私の前にいるこの男にカトリック典礼、ミサ聖祭、秘蹟、聖務日課、私たちの全ての祈りが全て任せられているなどということは許されないことだ、と思っていたのです。私たちは、どこに行くのか、教会はどこに行こうとしているのか、とばかり思っていました。

 それでも2名の総長様には立ち上がる勇気がありました。このうちの一人はブニーニ神父にこう質問しました。
「積極的なミサへの参加とは、肉体的な参加とは、声に出して祈ることですか、それとも霊的な参与のことですか。それはともかく、神父様は信徒のミサへの参加についてたくさんお話をして下さいましたが、信者の与らないミサというのはこれからはあってはならないかのようです。何故かというと、あなたのミサは全て信者が参加することを前提に作られているからです。私たちベネディクト会士は、信者が参加しないミサを立てています。私たちの私唱ミサに与る信徒がいないのですから、私たちは今後も私唱ミサを立て続けるべきなのでしょうか?」

 私はブニーニ神父が何と答えたかをそのまま繰り返して申し上げましょう。私はその言葉に衝撃を受けたので、それが今でも耳の中に残っています。
「本当のことを言うと、そのことを考えていませんでした。」
ブニーニ神父はこう言ったのです!

 その後で別の総長が立ち上がってこう言いました。
「神父様、神父様はこれを廃止して、あれを廃止して、これをあれと取り替えて、祈りはもっと短くして、等とおっしゃいました。私はあなたの新しいミサは10分かそこら、15分ほどで終わってしまうような感じを受けました。しかし、教会のかくも偉大な行為にとって、そんなに短いものは相応しくありませんし、尊敬に欠くものだと思います。」
 すると、ブニーニ神父はこう答えました。
「ミサにはいつでも何かを付け加えることが出来ます。」
 これは、本当にまじめな話のなのでしょうか?わたしは、この耳で聞いたのです。もし誰かがこのような話を私にしてくれただけでしたら、私は疑ってほとんど信じなかったでしょう。でも、私はこの耳で聞いたのです。

 その後、この「規範ミサ」が実現し始めたとき、私はあまりにもぞっとして、司祭や神学者たちと一緒に勉強会を開きました。そこで「新しいミサの批判的研究」が作られ、それはオッタヴィアーニ枢機卿(Cardinal Ottaviani)の元に提出されたのです。私がこの研究会の座長を務めました。私たちは互いに言い合いました。「枢機卿様たちを探してサインをして貰おう。このようなミサが何らの抵抗もなくなすがままにさせることは出来ない。」と。

オッタヴィアーニ枢機卿

 そこで私自身が出向いて、政務次官であったチコニャーニ枢機卿 (Cardinal Cicognani) と会い、こう申し上げました。

チコニャーニ枢機卿

「枢機卿様、このようなミサをそのまま通過させることは出来ないはずです。それは、あり得ません。この新しいミサとは一体なんですか?こんなのは教会における革命、典礼の革命ではないですか。」

 チコニャーニ枢機卿は、パウロ六世の政務次官でしたが、頭を抱えて私にこう言ったのです。
「オォ!モンシニョール、私はよく知っています。私はあなたと全く同じ意見です。でも、私に一体何が出来るというのでしょうか?ブニーニ神父は教皇様のお部屋に自由に入って自分の望むものを教皇様に署名させることが出来るのです。」

 これを私に言ったのは、政務次官の枢機卿様だったのです!
 良いですか、教皇様の次に高位な役職についておられる枢機卿様が、ブニーニ神父の下にいるです。ブニーニ神父は教皇様の所にいつでも入ることが出来、自分の欲しいままにサインをさせることが出来たのです。

 これを見ると、何故教皇パウロ六世が自分の読みもしなかった文書にサインをしてしまったかというその理由が分かります。教皇様はジュルネ枢機卿(Cardinal Journet) にこう言ったことがあります。ジュルネ枢機卿というのは考え深い方でスイスのフリブール大学の教授であり、偉大な神学者でした。ジュルネ枢機卿様が新しいミサ式次第の前に付いている「総則」の中のミサの定義を見たとき、こう言いました。

From left, monsignor Pierre Mamie, future bishop of Lausanne, Geneva and Freiburg, Cardinal Charles Journet and George Cottier in Rome during the works of Vatican Council II

「こんなミサの定義は受け入れることが出来ない。ローマに行って教皇様と会ってこなければならない。」と。
実際ジュルネ枢機卿様はローマまで足を運んで教皇様にお会いしてこう申し上げました。
「教皇聖下、こんな定義を許してはいけません。これは異端的です。こんな文書の元に聖下の署名を残し続けてはいけません。」

 すると、教皇聖下はジュルネ枢機卿にこう答えたそうです。これはジュルネ枢機卿が私に言ったことではなく、ジュルネ枢機卿がある人に言ったのですが、その人自身が私にこう言いました。
「ええと、実はね、私はそれを読まなかったのです。読まずにサインしたのです。」と。

 もしブニーニ神父が教皇様にそれほどの大きな影響力をふるっていたのなら、勿論そのようなことはあり得る話です。ブニーニ神父が教皇様に「教皇様は、これにサインすることが出来ます」とでも言えば、教皇様は「あなたはよく注意しましたね?」とでも聞かれるでしょう。するとブニーニ神父は「はい、サインすることが出来ます。」とでも答えたのでしょう。そして教皇様がサインをしたのでしょう。

 しかも新しいミサの文書は検邪聖省を通過しませんでした。検邪聖省を飛び越えて世に出たのです。私はこのことを知っています。何故なら、検邪聖省の長官であったセペール枢機卿様が私に、新しいミサの式次第が出た時セペール枢機卿は検邪聖省を留守にしていたこと、そして新しいミサが検邪聖省を通らなかったことを教えてくれたからです。ですから、ブニーニ神父が教皇様のサインを奪い取ってしまったのです。もしかしたらブニーニ神父は教皇様に強制的にサインを要求したのかも知れません。私たちには分かりません。しかし、彼には疑いもなく教皇様に特別な影響力があったのです。

 私自身がその証人に立つ第3の事実は、ブニーニ神父についてです。手による聖体拝領という、恐るべき事が許されようとしつつある時、私はこんなひどいことが実現するのを何もせずに見ているわけにはいかないと思いました。そこで、どうしてもスイス人のグート枢機卿 (Cardinal Gut) に会いに行かなければならない、と考えました。何故ならグート枢機卿こそが「典礼聖省」の長官だったからです。そこで私はローマまで足を運びました。ローマではグート枢機卿は私を非常によく歓迎してくれ私にすぐにこう言いました。

「私はすぐに私の補佐であるモンシニョール・アントニーニ (Mgr Antonini) を呼びます。モンシニョール・アントニーニがあなたの言うことを承ることが出来るようにします。」

 そして、私たちは話し合いました。私はこう言いました。
「良いですか、あなたは典礼聖省の責任者です。手による聖体拝領などと言うことの許可の勅令を公布するのを許してはなりません。手による聖体拝領のために生じるであろう全ての涜聖を考えてもみて下さい。御聖体に対する尊敬の欠如が全世界の教会に広がることを考えても見て下さい。こんな事を許すことは出来ません。そのようなことを放任させておくのですか?既に手に聖体を授けだした司祭たちも何人かいます。ですから、これを今すぐ止めなければなりません。更にこの新しいミサで、司祭はいつも一番短い第二典文を使っています。」
 すると、グート枢機卿はモンシニョール・アントニーニにこう言っていました。「ほらね。私が言っていた通りそうなったでしょう。司祭はさっさとミサを早く終わらせるために一番短い典文を使うだろうって。」

 その後に、グート枢機卿は私にこう言いました。
「モンシニョール、もし誰か私の意見を聞くなら、(グート枢機卿が言っていたこの「誰か」とは教皇様のことを指していました。というのは彼の上には教皇様しか存在していなかったからです。)、しかし私は誰か私に意見を求めるかあまり確信がありませんが、(天主に対する礼拝、典礼に関する全てのことを任されているはずの典礼聖省の長官ともあろう方が、こう言うのです!) モンシニョール、私は教皇様の前に跪き、こう言うことでしょう。『教皇聖下、こんなことをなさらないで下さい。こんな勅令にサインなどしないで下さい』と。モンシニョール、私は跪いて懇願するでしょう。でも、人が私に意見を尋ねるか分かりません。何故なら、ここ典礼聖省で一番偉いのは私ではないからです。」

 これは、私がこの自分の耳で聞いたことです。彼は典礼聖省の第3番目の男であったブニーニ神父のことを暗示させていました。つまり、グート枢機卿がいて、モンシニョール・アントニーニがいてその次に典礼委員会の座長であったブニーニ神父がいたのです。(信じるためには)この言葉を直接聞かなければなりませんでした。ですから、人が私に向かって「おまえは反逆の徒だ、不従順だ、反抗者だ」等と言うときの私の態度も理解して下さらなければなりません。


彼らは教会を破壊するために教会内部に侵入した

 はい、確かに私はこのような人々に、つまりブニーニのような人々に反抗し、反逆の徒となるのです。何故なら、このような人々こそが教会を破壊しようと教会の中に侵入しているからです。それ以外あり得ません。

 では、教会の破壊に協力するとでも言うのですか?教会の敵が教皇聖下の懐まで入り込んで自分の思いのまま、一体どのような圧力の元にかは私たちは知りませんが、教皇様にサインをさせているのにも関わらず、「はい、はい、アーメン」と言うのでしょうか?勿論、私たちの知ることの出来ない隠されたことが多々あります。フリーメーソンの圧力があったという人もいます。それはあり得る話ですが、私には分かりません。ともかく、ある謎が存在します。枢機卿でも司教でもない一司祭が、しかもまだ当時非常に若かった一人の司祭が、ラテラン大学の教授職から追放したヨハネ二十三世教皇の意志に反して、教会の頂点まで上って上って上り詰め、政務次官を見下し、典礼聖省長官を見下し、教皇様の所まで直接行って自分の好きな文書にサインをさせているのです。このようなことは、かつて聖なるカトリック教会で見たこともありません。全ては常に権威当局を順序立てて通過していたものです。委員会の手を通し、書類を検査していました。しかし、この男は全権を握っているのです!

 私たちのミサを変えるためにプロテスタントの牧師たちを招待したのはこのブニーニです。グート枢機卿ではありません。政務次官の枢機卿でもありません。教皇様でもなかったかも知れません。ブニーニでした。このブニーニという男は言った何者なのでしょうか。

新しいミサを作成するにあたって、六人のプロテスタント牧師(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)が協働した

 ある日、典礼委員会の長に立っていた人、つまり「門外の聖パウロ大聖堂」の以前の大修道院長のベネディクト会士が私にこう言いました。
「モンシニョール、ブニーニ神父の話はなさらないで下さい。私は彼についていやと言うほど知りすぎてしまいました。彼が誰かと言うことは私に聞かないで下さい。」
 しかし、私はこう返事をしました。
「さあ、おっしゃって下さい。私たちは本当のことを知らなければなりません。事実が明るみに出なければなりません。」
「私はブニーニについてあなたに話をすることが出来ません。」
しかし、彼はブニーニについて非常によく知っていました。多分に彼がヨハネ二十三世に要請してブニーニをラテラン大学から追放させたのです。

 これらのことを合わせて考えると、聖ピオ十世教皇が言っていた通り、敵は教会の内部に入り込んでいると言うことが分かります。そして、ラサレットの聖母が予告していた通り、そしておそらくファチマの第三の秘密がその内容であるように、教会の敵はそのもっとも高い頂点にいるのです。

 私には教皇パウロ六世がヴィヨ枢機卿(Cardinal Villot)によって非常に大きな影響を受けているという個人的な証拠さえあります。ヴィヨ枢機卿はフリーメーソンの会員だそうです。私には分かりません。ただいろいろな証拠があるのだそうです。ヴィヨ枢機卿宛のフリーメーソンの手紙が何通もあり、それを複写した人もいます。私にはその証拠がありません。いずれにしても、ヴィヨ枢機卿は教皇様にものすごい影響力をふるっていました。ヴィヨ枢機卿はローマの権力をその手に全て握りしめていました。そして彼こそが、教皇様に勝るローマの主人となったのです。全ては彼の手を通さなければなりませんでした。

ヴィヨ枢機卿


 このことを私は知っています。ある日私はカナダの公教要理についてライト枢機卿に会いにローマまで行きました。私は枢機卿に言いました。

ライト枢機卿

「この公教要理をご覧下さい。あなたは『断絶 (Rupture) 』という題の小冊子のことをご存じですか?これは本当にひどいものです。子供たちに断絶することを教えています。家族と、社会と、伝統と手を切り断絶しなければならないと。これがクデルク大司教 (Mgr Couderc) の印刷許可(imprimatur)を得て、カナダで子供たちに教えられている公教要理の本なのです。枢機卿様、教皇様の次にあなたこそが全世界における公教要理に関して責任がある方です。枢機卿様はこの要理の本に賛成しているのですか?」
枢機卿様は私にこう言われました。
「オォ ノー!ノー!この要理の本はカトリックではありません。」

 私は言いました。
「これがカトリックではないのですか?それではそのことをすぐにカナダの司教協議会にそう仰って下さい。彼らにこれを使うのを止めるように、この要理の本を火にくべるように、そして本当の公教要理を広めるようにとおっしゃって下さい。」
 すると枢機卿はこう答えました。
「私が司教協議会にどうやって逆らえとおっしゃるのですか?」

 私はその時こう言いました。
「万事休す。もはや全ては終った。教会の中に権威というものはもはやない。もうおしまいだ。もし司教協議会が子供たちの信仰を崩壊させている最中だというのに、ローマが司教協議会に何も言うことが出来ないとすると、それは教会の終わりを意味する。」

 私たちはそのような状況のど真ん中にいるのです。ローマは司教協議会を恐れています。これらの協議会はひどいものです。フランスでは否認を推進させるキャンペーンが司教たちによってなされています。私はフランスの司教たちが社会党政権によって取り込まれてしまったのだと思います。フランスの社会党政権は今では絶えずテレビでこのスローガンを叫ばせています。
「堕胎を避けるために避妊薬を!」

 フランスの司教団はこれ以上のことを何も見つけださず、避妊薬推進という気が狂った宣伝をしているのです。12歳の年端もいかない女の子が堕胎を避けるために避妊薬を買うとその代金は後で返済されるのです!そして司教たちはこれを認めているのです!私の昔の司教区であるチュール (Tulle) 教区報を私は受け続けているのですが、それにはサン・シュルピス会の総長であったブリュノン司教(Mgr Brunon)によって出された避妊推進のための公式文書が載っていました。彼はフランスの中でもっとも優れた司教の一人なのです。それがこうです!

(続く)

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聖ピオ十世会 ウィリアムソン司教様の講話 「天国に行くには」 (Youtube動画)

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 Youtube にアップされたウィリアムソン司教様の講話の動画をご紹介します。


「天国に行くには」
Conference of Bishop Williamson



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【関連記事】


聖ピオ十世会のウィリアムソン司教様は、旧約時代の預言者のようだ

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 Fra Domenico 神父様のブログ Credidimus Caritati から、ウィリアムソン司教様に関する記事をご紹介します。

From Jeremiah in a land of Pollyannas

... [t]here are the words of wisdom of Cardinal Biffi who recently pointed out that it is the false prophets who are always promising nice things, while the true prophets were the ones who preached "gloom and doom". All the prophets of the Old Testament warned the Jews of the coming wrath of God, and as Our Lord pointed out, these prophets were slain for their trouble, and yet punishment came indeed. We live in an age of Pollyanna Catholics who close their eyes to the wrath to come and trust in the delusions of aged idealists; yet the unstoppable Bishop Williamson continues to warn the people of what is to come.... Kyrie eleison.

Also quoted at "Jeremiah in a land of Pollyannas"

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【関連記事】


聖ピオ十世会 ウィリアムソン司教様のインタビュー(2008年1月 イギリスにて)

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 Ignis ardens に掲載されたウィリアムソン司教様のインタビューをご紹介します。




 このインタビューは、ウィリアムソン司教様が2008年1月にイギリスを訪問されたときのものです。


Ignis Ardens
My Lord, you have presented several conferences in London dealing with themes of Literature, the relationship between nature and grace, and Catholic Culture. Would you care to elaborate why a Bishop of the Roman Catholic Church speaks upon such subjects and does not limit himself to talking on more "spiritual" themes?

His Lordship
Grace builds on nature, and has nothing else to build on. The famous principle, in Latin, is Gratia non tollit naturam, i.e. grace does not take away, suspend or destroy nature, but heals it and perfects it, and lifts it up into the supernatural order, infinitely far above nature, but not against nature, only against sin, sin original and personal.

However, by man's wickedness, nature can be wrecked, and it can be so wrecked as to give grace a more and more difficult time. Of course, God's grace is all-powerful, but God respects the free-will He gave us to choose to go to Heaven. If we choose to block His grace, He will not force it upon us.

Massively, modern man is choosing to wreck his nature, in such a way that God Himself seems to us more and more unnatural. To a youngster stuck in Rock and computers, how do you even begin to preach the Gospel?

If grace pushes us to wish to save his soul, it is grace that may begin by attacking the jungle of natural weeds, so as to plant flowers of grace. But to clear the unhealthy vision of nature, one needs to contrast it and replace it with a healthy vision of nature, in line with, and much more apt to receive, supernatural grace.

Catholic culture, even non-Catholic culture which is not yet anti-natural but which may still be relatively natural, like, say, the music of Bach or the paintings of Rembrandt, provides this healthy vision of nature, most lacking to many people today, especially youngsters, and most useful to start them on the way back to God. Actually, both Bach and Rembrandt were beneficiaries of centuries of Catholic culture, but if one sees them as stairs coming down from the Catholic heights, nothing prevents one from using the same stairs to climb back towards those heights !

Ignis Ardens
You are also well known for raising subjects that the more faint-hearted find controversial. Unanswered questions and incredible inconsistencies surrounding the official 9/11 story might serve as an example. Why is it important that a Bishop of the Roman Catholic Church instructs the faithful about such matters?

His Lordship
In a world that refuses grace and finishes by wrecking nature, which is a just punishment from God for its apostasy, Satan, the Father of Lies, takes over. We live today in a world of lies, governed by lies.

Now, for anybody to say that lies do not matter is extremely short-sighted. Our Lord said, the truth will make us free. Does it not follow that lies will enslave us? Does slavery not matter? Also, Satan is bringing on, and working towards, the Antichrist. If agents of the Antichrist are at work, is it not a religious question?

9/11 was a gigantic fraud, a lie which changed the mentality of people all over the world, making them ready to give up a number of their freedoms, i.e. accept slavery, in exchange for security from the "terrorists". What terrorists? The terrorists of those secret agencies which, working under cover, demolished by explosives from within the Twin Towers and fired a guided missile at the Pentagon?

The perpetrators of the 9/11 inside job succeeded overnight in largely enslaving the world population's minds to their false globalist vision: "terrorism" is a global threat requiring global co-ordination and global government in the New World Order -- to prepare the world for living under the Antichrist.

If Catholics will not see either that 9/11, for instance, was an inside job, or that it is a religious question, it seems to me that they have an inadequate grasp of how much their religion embraces. Bishops have no business involving themselves in politics as such, but when "politics" interfere with the salvation of souls, then "politics" are trespassing outside their proper domain, and they make themselves the business of a bishop.

The problem is that "politics" in a godless society, like ours today, are liable to become a substitute religion, an idolatry, an unnamed but real breaking of the First Commandment. People's idea of the good life is reduced to the puny goods that their "politics" can assure. This assurance is on the brink of undergoing an enormous correction !

Ignis Ardens
There is a certain resistance and antagonism expressed by some Catholics within tradition towards laymen who attempt to rebuild Catholic Civilisation in the Social Order. Connected to this is an avalanche of lies and calumny being spread by a handful of malcontents who have taken it upon themselves to lead the charge. Some of this has been directed at yourself, District Superiors and other priests of FSSPX. The false accusation was even made recently that the Fraternity has an agenda to force the Dialogue Mass upon all of its churches and chapels!

Fortunately, the effect of such discord remains a minor annoyance within FSSPX circles and is limited but, without doubt, is encouraged and fomented by outside forces hostile to the Fraternity. Would you care to comment upon these matters?

His Lordship
Being based in Argentina, I am not up-to-date with all details of the present controversy in the USA and Europe over the re-building of a Catholic Social Order. Suffice it to say that on the one hand, such a re-building is in principle nothing other than the promotion of Archbishop Lefebvre's central doctrine against the Newchurch, namely the Social Reign of Christ the King, while on the other hand a mass of Catholic minds in the Newchurch but also in Tradition are more or less imbued, consciously or unconsciously, with liberal ideals of our time intrinsically opposed to that Social Reign of Christ.

For instance the very name of "Capitalism", taken from a well-head (caput) of money, suggests that it may be liable to put money before people. Thus it was never Capitalism as such that effectively worked against Communism, because as Amintore Fanfani shows, Capitalism as such always worked towards its own blending with Communism, as we see happening in today's Globalism.

Capitalism as such only worked against Communism insofar as it had not yet set out to crush the religious vision of God and man and life as Communism did from its start (because the Communists know that this religious vision is the only real opposition to their own diametrically opposite irreligious vision). But have not today all "Capitalist" nations ended up in the same materialistic atheism as the "Communist" nations?

 この続きは、Ignis Interview with Bishop Williamson をご覧下さい。



【関連記事】

聖ピオ十世会のソウル(韓国)での新しい聖堂の住所

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会は、韓国のソウルにおける聖堂を新しい住所に移しました。これからは、ソウルのより中心地となり、また場所も広くなり、より多くの兄弟姉妹の皆様にとって便利になることを期待いたします。

 新しい聖堂の住所:

 서울특별시 종로구 충신동 60번지 예일빌딩(하나은행) 2층
 성모 무염원죄시잉모태 성당

 Immaculate Conception Chapel
 2nd Floor, Yale Building (Hana Bank), #60, Choonshin-dong,
 Jongro-gu, Seoul, Republic of KOREA

 電話(電話番号は今まで通りです):
 02-2699-1600

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【関連リンク】


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】