II. シテ・カトリックと司教
シテ・カトリック(La Cité catholique)を新しく応援する
チュールと最初のコンタクトを取ることが出来たそれよりも前に、「被選司教」はシテ・カトリック(La Cité catholique)に属する自分の友らに反対してなされた最近のマスメディアの攻撃に注意を払った。
ダカールにいる時から彼はフランスの司教たち、と言うよりはむしろ彼らの指導中核である枢機卿及び大司教の会 (Assemblée des Cardinaux et Archevêques, A.C.A.) が、1960年3月にこのシテ・カトリック運動に対して批判的な文書を作ったと嗅ぎつけた。
シテ・カトリックの主催者であるジャン・ウセー(Jean Ousset)にこの批判文章の抜粋が送られ、彼が裁治権者の司教の外で行動している、また「反革命」を推進している、という理由で非難を浴びせていた。ウセーは二番目の要求を受け入れて、後には告発された語彙の使用を慎んだ。
ところが1961年11月には、メスメディアにこの「司教のみに留保されたメモ」中の他の抜粋が流れ始めた。そこにはさらに重大な批判が書かれていた。すなわち、シテ・カトリックでは「考え方の体系化により、真の考察を殺している」、また「ヴェルブ誌の主題が浸透することにより、カトリック・アクションは実を結ばなくなった」と。
まもなくイエズス会司祭ド・ソラ (de Soras) 神父による批判小冊子は「保留メモ」に関する疑問を提起し、1962年3月2日号のラ・クロワ紙 (La Croix) でイエズス会司祭ヴィラン (Villain) 神父はこの小冊子に賛同をよせた。
ラ・クロワ紙は「それはシテ・カトリックに警戒するように勧告している」と述べた。他方でアルジェリアの日刊紙はその反対に「それは承認を意味している」と論説した。アルジェ (Alger) の大司教であるレオン・エティエン・ドュバル大司教 (Leon-Etienne Duval) はこう答えた。「いや、これは本気に警告だ」と。
そして A.C.A. は自ら発言してそれを説明するように催促され、厳重な正式警告が出されるのは不可避だった。
これを阻むためにルフェーブル大司教は直ちに介入した。ルフェーブル大司教は3月4日ウセーとその協力者たちに次のように手紙を送った。「私が沈黙を守ったら、真理に対して忠実ではないことになる」と。
ルフェーブル大司教の次の書簡は、3月15日ル・モンド紙に既に一部が掲載されて後、3月18日にはロム・ヌーボー紙 (L'Homme Nouveau) に発表され、イエズス会ド・ソラの正反対の立場を取った。
「司教の全承認を受けていなかったとあなたたちは非難されていますね? しかし、固有な意味でカトリック・アクションと言われるものではない活動については、司教許可は必要ではありません。必要なのはただ教会の精神とその規律に完全に一致している活動であるということだけであり、それぞれの司教が自分の司教区でそれを判断するのです。
教皇文書を解釈するあなたの仕方のためにあなたたちは非難されていますね? 願わくは、すべてのカトリック者らがこれら教皇文書をあなたたちと同じ程に正確に知っていますように! いずれにせよ、このイエズス会司祭が提案した規則に従って教皇文書を解釈することは絶対にしてはなりません。この司祭よりも、教皇文書から精神的権威を全て取り除いてしまうことは誰にも出来なかったでしょう。
教会が世俗の事柄と一般社会に対して持っている権能についてあなたたちが抱く概念が間違っていると非難されていますね? しかしあなたたちの雑誌で説明している直接的権能と間接的権能との区別は、ローマの諸大学及び聖座の公文書のなかで言われることそのままです。」
この明快で首尾一貫している弁護おいて、「よかれ悪しかれフランスのカトリック教会の代弁者と考えられている新聞」であり「このおぞましいキャンペーンのために」そのコラムを使うラ・クロワ紙に対して短剣を刺すことも忘れなかっし、最後の長剣もきちんと刺した。あなたは「あなたたちの子供達が物質主義、世俗主義、無神論の雰囲気の中で成長するのを見る」ことを受け入れないために非難されているのです、と。
「この環境が超自然的精神、祈りの精神、自己放棄の精神を破壊し、それによって司祭召命が至る所での誕生を妨げている一方で、あなたたちが社会を再びキリスト教化することができないように彼らによって妨げられている。あなたたちの活動はどうしても必要であり、またそれはカトリック・アクションを強化ことに繋がる」と。
(つづく)
【訳者註】ジャン・ウセーの主催するシテ・カトリック誌は、王たるイエズス・キリストの社会統治のために論説をはっていた。他方でリベラルな司教たちはフランスの非カトリック化・世俗化を推進し、シテ・カトリック誌を妨げようとしていた。
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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード
I. 美しく小さい司教区
今、パブロ・マリア・グスマン神父様(~1967)の生涯が書かれた本をいただいて、読んでいますが、彼は、フェリックス・ルジェ神父様創立の「聖霊宣教会(聖霊会)」の司祭であった、と訳されているのです。
ルフェーブル大司教様の「聖霊修道会」と同じですか?
もし、同一なら、グスマン神父様の晩年(1966~1967)、「聖霊宣教会総長」様が、
彼に「新しい会憲の第1章 会の精神」の執筆を求めたり、
彼を設備の整った病院のあるメキシコ市に転任させたり、彼の臨終の時、「総長」様がかけつけ、「行け、キリスト信者の魂よ」という伝統的な最後の祈りを唱えられた、
などの記述があるのです。
発行は1992年です。「総長」様のお名前は書かれず、なさったことは記されていました。ルフェーブル大司教様かもしれない、と思いつつ読んでいたのですが・・・。
こんにちは!
ご質問をありがとうございました。
パブロ・マリア・グスマン神父様の「聖霊宣教会」は、
Missionaries of the Holy Spirit
Missionarii a Spiritu Sancto
略号 M Sp S
http://www.catholic-hierarchy.org/diocese/dqmsp.html
Misioneros del Espíritu Santo
http://es.wikipedia.org/wiki/Misioneros_del_Esp%C3%ADritu_Santo
ですが、
他方で、ルフェーブル大司教様の「聖霊修道会」は、
Congregation of the Holy Spirit
Congregatio Sancti Spiritus sub tutela Immaculati Cordis Beatissimae Virginis Mariae
略号 C S Sp
http://en.wikipedia.org/wiki/Holy_Ghost_Fathers
です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
こんにちは!追加です。
ルフェーブル大司教様の「聖霊修道会」
Congregation of the Holy Spirit
Congregatio Sancti Spiritus sub tutela Immaculati Cordis Beatissimae Virginis Mariae
については、次もご覧下さい。
http://www.catholic-hierarchy.org/diocese/dqcsp.html
General Information
Type of Jurisdiction: Institute of Consecrated Life
Founded: 1703
Clerical Religious Congregation
Mailing Address: Clivo di Cinna, 195, 00136 Roma, Italia
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
丁寧に、お答えいただき、どうもありがとうございました。
「聖霊宣教会」は、ルフェーブル大司教様の「聖霊修道会」とは、違ったのですね。
「総長」が・・・、という文が多いのに、名前がないので、もしかしたら・・・?と思ったのです。ただ、修道会の新しい「会憲」(公会議後、刷新された・・)第1章の執筆を、グスマン神父様に依頼されるあたりが、・・・違うかな・・・?とも思っていました。
よくわかりました。どうも、ありがとうございました。
聖霊修道会について、
第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)
1.聖霊と聖母の汚れ無き御心とのもとに
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/6c8654f73a5c60542ec11df06ad45c92
でも、簡単に触れられているので、お読み下さい。
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聖霊修道会はある意味で2回創立された 。
ブルターニュの青年クロード・フランスワ・プラール・デ・プラス(Claude-Francois Poullart des Places)... は1703年5月27日の聖霊降臨の日に「聖霊に捧げられ罪無く宿り給うた童貞聖マリアを呼び求める共同体と神学校 」を創立した。
1709年に司祭に叙階され、1709年に30才で帰天。彼はその子らに謙遜、清貧、敬虔、教義の司祭という感動的な模範を残した。
クロード・フランスワ・プラール・デ・プラスは、自分の「貧しい聖職者たちをローマ・カトリック教会の最も健全な教義の原理において高める 」ことを望んだ。若き創立者は自分の好きな標語として喜んでこう繰り返した。「敬虔ではあるが神学知識のない聖職者は、盲目な熱心を持ち、敬虔心のない博学な聖職者は、異端者、教会に反抗するものとなる危険に晒されている 。」
聖霊神学校でこの教義的な敬虔によって養成された司祭たちは、自分の司教区に戻るか或いはグリニョン・ド・モンフォールのマリア会に入会していった。しかし彼らの中にはカナダ(1732年)、コチンシナやセネガル(1770-1790年)などの外国宣教に出発した。
フランス革命(1789年)後、共同体は聖座によって修道会として認可され、9つの植民地特に西インド諸島のアンチル列島とセネガルに優れた聖職者たちを与えた。神学校はローマ的でカトリック的な思索の中心となった。歴史家のロルバシェル(Rohrbacher)、カトリック教会法学者のブイー(Bouix)、教父学のミーニュ(Migne)、古文学のドン・ピトラ(Dom Pitra)などは、この神学校の出身者である。さらにドン・ゲランジェ、モンシニョール・パリジ、グセ枢機卿、ルイ・ヴイヨなどもここに来てローマの教えの光のもとで時代の諸問題を取り扱った 。
1847年、修道会は貧血のように元気がなくなっていた。その時、天主の御摂理はプラール・デ・プラスの古い幹に、リベルマンという接ぎ木の新しい血を輸血したのだった。
ヤコボ・リベルマンは1802年4月11日にサヴェルヌのユダヤ教ラビの息子として生まれ、1826年クリスマス・イブに洗礼の恵みを受けた。洗礼名としてフランスワ・マリ・ポールをもらい、後にこう言う。「聖なる洗礼の水が、ユダヤの私の頭を流れるとその瞬間、私は今まで憎んでいたマリア様を愛していた 。」
パリの、次にはイシーにあるサンスルピスの神学校に入学し、リベルマンは自分の持っていた炎で神学生たちのグループを燃え立たせた。彼は、アフリカに「最も蔑ろにされた黒人たちのもとに」使徒の軍隊を派遣するという計画を抱いていた。
ローマによって激励され、てんかんが奇跡的に治癒し、リベルマンは1841年司祭に叙階された。彼は自分の最初の「マリアの聖なる御心の宣教者たち」をアフリカのセネガルとガボンに派遣した。聖霊修道会の司祭たちが同じ大海の地にいるということが、リベルマン神父をして考えさせた。1848年自分の組織を聖霊修道会に統合させ、その時「聖にして汚れ無きマリアの御心を呼び求める聖霊修道会」という名前を戴いた。
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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.