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聖ピオ十世会 大聖年ローマ巡礼の記念写真(その3 ラテラノ大聖堂にて)

2008年02月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 2000年の大聖年に聖ピオ十世会が行ったローマへの巡礼の記念写真をご紹介します。

聖ピオ十世会のローマ巡礼(2000年大聖年)



ラテラノ大聖堂
聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼

聖ピオ十世会ローマ巡礼


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【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 11.4.1. 「現場の」素晴らしい司教

2008年02月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
IV. 特別な存在


「現場の」素晴らしい司教

 ルフェーブル大司教がその司祭たちと「とても良い関係」を維持していた例を幾つか挙げてみよう。[以下は、1997年4月8日にファブリス・デレストル神父(聖ピオ十世会)が、ブリーヴの元司祭長であったモンシニョール・マルセル・メシニャック(Mgr Marcel MEYSSIGNAC, ancien archipretre de Brive)としたインタビューの内容である]

 二名の信者が疑わしい状況で死亡すると、ブリーヴの小教区司祭が司教館に電話をした。司教はすぐに電話を取りこう言った。

「神父様、あなたは現場にいます。神父様がよく見極め、判断して決めてください。神父様が決めたことはどんな決定でも私は神父様を支持するつもりです。」

 後にその主任司祭はこう言うだろう。
「私は本当に司教様のこの返事に感謝しました。それは現実的であり、司祭が自分の司教から期待する権利がある内容にまさにふさわしいものでした。」

 7月 7日、ルフェーブル大司教はブリーヴの使徒職を自分で見に行く事にした。彼は夕方の約束の時間に到着した。
 主任司祭がルフェーブル大司教に言った。

「モンシニョール、申し訳ありません. アルジェリアから来た難民のための接待と臨時収容所を設立するための会議があるんです。ブリーヴには毎日 2,000名もなる難民が到着しています!」

「そうして下さい! ところで私がこの会議に行っても役に立ちましょうか? そうしたらチュールでも私が同じことをする時のために良い経験となりますから。」

「司教様に来て頂きたかったのですが、そこまでを敢えて申し上げることができませんでした・・・。」

 司教は会議中、熱心に傾聴し、討論の主題に対して適切で控えめながらも現実的で手腕溢れる意見を出した。

 当時、1961年 4月 22日アルジェで起きたクーデターの責任者であった 15人の将軍と高位将校たちが、チュールの刑務所に投獄されていた。

 ルフェーブル大司教は個人的に彼らを面会する事を望み、法務省と内務省に申請した。残念ながら!許可はルフェーブル大司教が司教区を去った後でようやく届いた・・・。という言い方は婉曲的な言い方で、事実は、政府は彼らに会いたい要請した大司教が投獄された将校と面会することはいかなるものでも拒否したのだった。

 ルフェーブル大司教は後にこう書くだろう。
「私が彼らに面会できたら嬉しかっただろう、しかし三人の大臣は私がこれらの英雄と面会するのを拒絶したのです。彼らのいた刑務所は司教館の目の前に見えていたのに。」
[1984年3月15日付のアンドレ・フィグラ(Andre Figueras)への手紙。フィグラは、Les funerailles de l'honneur (1984) という秘密軍事組織を主題とした小説の中で、この司教と将校たちとの会見がもし実現したらどのようなものになったであろうかという想像を描いている。(pp. 137-139)]

 彼の後継者であるドンズ司教(Mgr Donze)は、将校たちと面会できた。しかし会見はうまく行かなかった。何故なら新任司教はほとんど沈黙を守っていたからだった。

 そのときである、マルセル・ルフェーブルは収監者たちのために何かすることができた。チュールにある病院及び刑務所の施設付指導神父はロリ (R. Lory) 神父で、良心的兵役拒否者の軍隊に反対している変わり者の司祭だった。そして 1962年 12月 7日には、サラン (Salan) 及びジュオ (Jouhaud) 将軍たちが到着して、収容されている将校たちの数字が 17人に増えており、これらの将校たちは、実質的に霊的援助を奪われていた。

 ラウル・サラン (Raoul Salan) は、パリにあるサンテ(Sante) 刑務所でイエズス会のジョゼフ・ヴェルネ (Joseph Vernet) 神父が指導した聖イグナチオの霊操を行い「回心」した。[Edmond JOUHAUD, O mon pays perdu, Fayard, 1969, pp. 495 & 513; Helie de SAINT-MARC, Memoires, Les champs de braises, Perrin, 1995 参照]

 サランは、チュールからイエズス会士の友達[Pere Robert-Marie LOUISGRAND] に手紙を書いた。この友人は、この手紙をルフェーブル大司教に転送して伝えた。大司教はドンズ司教を説得して、新任の刑務所付指導神父としてメシニャック (Meyssignac) 神父を任命させた。この司祭は、彼らの残りの収容期間の間、献身的に彼らの面倒を見た。

 メシニャック神父は、ブリーヴの北西部地方(レ・ロジエ Les Rosiers) に新しい教会 (イエズスの聖心教会)を建築する責任を負っていたが、彼は少し難しい立場にあった。何故なら、その町にいる四人の建築家の中には、その誰もそのような建築物を設計する能力が無かったからだ。

 ルフェーブル大司教は、建物を立て替える代替地の現場に視察に来て、十五分の内に、この場所に教会を立てる妥当性の理由を詳細に整理分類した。次に、コルマール (Colmar) の建築家であるジョゼフ・ミュレに頼むことを助言した。ミュレは、既にアフリカの教会を、無料で三十五件も建築デザインしたことのある建築家だった。こうして聖心教会は 1965年に完成し、聖別された。

 公式的なカトリック・アクションに対してあまり乗り気ではなかったにもかかわらず、ルフェーブル大司教は、司教区顧問 (chancelier) であったカノン・ポール・グイグー (Chanoine Paul Gouygou) 神父の説得を受けて、ACGH (男性カトリック・アクション Action catholique generale des hommes) のための教区会議の議長を引き受けることができるように、予定変更を受け入れた。司教は、1962年 6月 24日ユセルで一日中 ACGH の議長を務めた。

 会議の間、彼の講話の主題はもちろん、「祈り、勉強、行動」であり、とりわけ祈ること、教皇たちの回勅を勉強すること、そして何よりも超自然的な行動を薦めた。

 モンシニョール・メシニャックは後にこう言うだろう。
「チュールで私が知り合った八名の司教様たちの中で、本当の司教とは何かという基準に最高に対応していたのが、彼でした。司牧現場では、彼は「素晴らしかった」。たった六ヶ月の間しかチュールの司教でいただけでしたし、司教区にとどまった期間はひっくるめてやっと 31日でした。しかし、彼はチュールにおいて、卓越した現場の司教であり、非凡な存在感をもつ司教でした。---- 私は彼がどうやってそんなに自分の存在感を与えることができたか分かりません ---- そして、自分の司祭たちと非常に親密な司教でした。私はこれが真理だからこう言います。たとえそれが皆を喜ばせることではないとしても、本当のことだから。」

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【関連記事】
第11章 チュール時代の小さなエピソード

I. 美しく小さい司教区

II. シテ・カトリックと司教

III. 信頼回復



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